このページ『北京の旅2004』は,2004年2月13日~15日パックツアーで北京に旅したときのフォトアルバムです.
北京の旅2004スライド版 を追加しました(2008/8/25).
北京では以下を見物してまわった.
夕刻北京空港に到着し,一旦ホテルに入り,その後夜の北京を少し眺めた.ここは中心部から近い露店が並んだ通り.写真のような調理したヒトデやサソリが並べられていて,一瞬ドキッとする.中国の人は,病気を直すのも食事をするのも,生命を養い健康を保つ本質は同じ,とする「医食同源」の考えがあるので,これらの食べ物にもきっと身体によい成分が含まれるのであろう.
下は,本州上空~天安門広場など夜の北京風景.
首都北京の旧紫禁城(故宮)の城門.以下広辞苑の定義を引用すれば,この門上で毛沢東により中華人民共和国の成立が宣され,以後新中国の象徴となる.1989年6月4日,天安門広場を中心に起きた,当局,人民解放軍による民主化運動の武力弾圧事件.胡耀邦の追悼式をきっかけに学生らの運動は全国に広がったが,同月「反革命暴乱」として鎮圧された.
下は,天安門広場朝の風景
故宮の正面門で,子午の方向にあることから午門と呼ばれているそうだ.1420年の創建で,入口は全部で3つあるが,中央の門は皇帝限定で,皇帝が出入りする時以外は閉められていたそうだ.左右は貴族や役人の通路になっている.現在は誰でも中央から通過できる.午門の前は広場になっており,明代には「てい杖」という「棒打ちの刑」が施行されたそうで,時には死人も出たという.あ~こわ~!門の上には鐘と太鼓が用意され,天壇(帝が都城の南郊で冬至の日に親しく天帝を奉祀した祭壇だという),地壇(皇帝が地祇(ちぎ:地の神,国土の神)を祭るために設けた祭壇),もしくは大廟の祭祀のために皇帝が通るときに鳴らされた.よく覚えてないが,映画「ラストエンペラー」で自転車に乗っている溥儀が止められたのがこの門であるそうだ.
保和殿から下りてくる階段の所,両側の階段に挟まれた中央の部分がこのように彫刻のある坂になっていた.長さ16.6m,幅3.1mもあり,重さは250トンという1枚岩で,北京から50kmも離れた場所から冬に道を凍らせ,2万人で1ヶ月かけて運んできたという.ギザのピラミッドの石運びもすごいが,石のサイズからするとこちらはそれ以上だ.龍や玉やその他,皇帝の権威を示すようなものが彫ってある.皇帝以外は歩く事が出来なかったそうだ.しかし凸凹なので決して歩き易くはなかったであろう,と思う.
紫禁城の中心が太和殿.4書のひとつ『周易』の最初の「乾」の項に「太和を保合する」とあるそうだ.つまり「天皇たるもの天の調和をよく保つならば,天下は自ずと平らかになる」との意から「太和殿」と命名されたと言われているそうだ.太和殿の玉座の上には,方形と円形を組み合わせた装飾天井が見える.「方」は「地」を表し,「円」は「天」を象徴しているそうで,ここが宇宙の中心であることを示しているそうである.そしてそこからはぬっと飛び出た一匹の龍が玉をくわえており,皇帝の証であるそうだ.皇帝であるというのはつまりこの玉座に座ることであったようである.
1771年に彩色瑠璃瓦で作られたそうで,長さ29.4m,高さ3.5mと比較的小型とされるそうであるが色彩が素晴らしい.中国3大九龍壁の一つになっているそうだ.「九」は,最大の陽数(註)であり,皇帝の尊さを表したものであるのだそうだ.左から3匹目の龍の腹部に木片がはめ込まれているそうで,作業中の職人の不注意でこの部分の瑠璃片を壊してしまったため,彫刻した木片に色を塗り代用したのだそうである.
(註)陽数:中国では奇数を陽数として好み,偶数を陰数として嫌う思想が昔からあったそうである.
下は,故宮博物院の写真あれこれ
さらに故宮博物院の写真
景山公園は明,清代の皇帝の庭園となった山で,明代に紫禁城を作ったとき,堀を掘った時の残土で作られた「景山」を民国時代に公園化されたものだそうだ.故宮博物院のすぐ北にあって,山頂の堂(万春亭)からちょうどこのように故宮を展望することができる.我々が訪れたこの日も地元の人が大勢上っていられたが,特に夕刻には地元の高齢者が多く集まり,民謡や歌謡曲を合唱することで知られているそうである.そのため地元の人のために入場定期券が発行されているようである.まあ公園として入場券が要らなくなれば一層いいであろうが....
景山公園を下りた下の道路に停まっているのを見かけた.ピザ宅配の後ろ側を双輪にして,シートと屋根を取り付けた構造.オリーブ色の車体がシックというか,軍用車的というか....前部も赤でなく,同じ色であればもっといいのに.....
下は,景山公園の写真あれこれ
この辺りの長城上部幅は広い.しかし平らではなくアップダウンが結構ある.でもちゃんと舗装されているので歩き易いし,風雨に対する耐久性もあったであろう.長城の起源は春秋時代にまで遡り,戦国時代には長城の言葉が現れたそうである.当時の長城は特にモンゴルなどの北防に限定されたわけではなく,いわゆる中原の地に建国した国々,つまり斉,中山,楚,燕,趙,魏,秦が互いに長城を築いて外敵の侵入に備えたのだそうだ.なお燕などの北辺城壁については文献に記載があったものが,近年内モンゴル自治区で遺址らしきものが見つかったようである.
まあ日本の戦国時代も2の丸,3の丸といった堀や城壁を築いたし,ヨーロッパやアラブ圏辺りでは都市全体の外周を高い城壁で囲ったりしたから同じような狙いであったであろう.....か?いや~待てまて,規模が圧倒的に違うのだ.なにしろ国レベル,しかも中国と云う広大な地のレベルの話であるところが決定的に違うと思う.ただ,月から確認出来る唯一の人工建造物と言われるが,これはちょっと眉唾ものらしいが......
戦国時代の後,紀元前221年,中国を統一した秦の始皇帝は燕や趙の造った北辺の長城を連結し,さらに西方へと延長して北方遊牧民族に対する防衛線としたそうである.前漢時代の長城は,その東部についてはほぼ秦代のままであったが,西方では甘粛の回廊地帯を匈奴の侵攻から守るため,その北に長城を築いたそうだ.後になって,西は玉門関にまで延長されたそうである.後漢時代になると匈奴の勢力は衰え,中国を攻める力を失い,よって長城の補修も要らなくなったようである.
三国から晋代にかけては,いわゆる五胡(匈奴,羯(けつ),鮮卑(せんぴ),テイ,羌(きよう)で,前3つはモンゴル族にツングース系が混じり,後ろ2つはチベット族,の動きが活発となり,しばしば中国に侵入するにいたった.彼らは自由に長城を越えて出入し,内地に定住する者も出現したそうである.漢族の晋は長江(揚子江)流域に南遷し,南北朝時代が始まったそうだ.華北に入った鮮卑は北魏を建てたが急速に中国化し,外モンゴルに興った柔然(6世紀にモンゴル平原に栄え, 中国 (北魏) の北辺を侵略した遊牧民族)の侵攻に対抗するため長城の修築を実施したようである.
隋は中国統一後,長城の補修とともに,南縁に新しい長城を設けたそうだ.唐代になると,北方遊牧民族に対する姿勢が積極的かつ攻撃的となったため,長城の補修,新設が必要なくなり,元はモンゴルと中国を統一的に支配したため,これまた長城を必要としなかったようである.またこの頃になると建設以来数百年を経て破壊されて,長城の姿をとどめていなかったようである.現在の長城はほとんどが明代に築かれたものであるそうだ.明は当初北方民族に対し攻撃的であったが,次第に防御的となり,歴代しばしば修築を行った.地域によってはかなりの部分を新設したようである.こうして今日に残る長城がほぼ完成したのが16世紀末のことであるそうだ.
下は,万里長城の写真あれこれ
北京オリンピックに向けて,北京の街はビジネス街も住宅街もものすごい勢いで変貌しているようだ.住宅のかなりの戸数も集合住宅にまとめられていく方向であろう.
繭から製糸する行程など見せてくれる工場,どちらかと言えば日本人や韓国人相手に絹製品の産地直販を主なターゲットにしている感じの工場を見せてもらった.繭から糸の端を見つけ出すのに,単なる棒のような道具で探し当てるのは見事だ.
北京の夜はネオンサインが賑やかだ.これを見る限り共産主義の国にはとても見えないし,現にレストランやホテルは完全に市場経済に置き換わっているようだ.まあ中国人の性分からすればこちらがどう見ても自然だと思うが.....
街で見かけた光景
幸い天気もよく,こんな風にして簡単な北京の旅を楽しむことができた.
おしまいまで見て頂きありがとうございました.