屋久島の縄文杉(推定縄文時代から生え,同時代の火焔土器文様に似ることに由来)
パッケージツアーで屋久島の縄文杉を見るハイキングに出掛けた.本ページではそのときの旅程,マップ,屋久杉,屋久島へ行くときの写真,縄文杉ハイクの写真,白谷雲水峡散策の写真を載せた.
懸念された雨にはやはり降られたが,往復21.6kmのトレイルは木道などよく整備され歩き易い.しばしば目にする高尾山の杉も実に立派で凛々しいが,一方縄文杉などの屋久杉はそれより圧倒的に古く,山の仙人的趣きが感じられ,また他もいろいろ楽しめた.
以下表のツアー日程で歩いた.
日にち | 地名 | 宿泊 |
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1日目 2015/ 9/25(金) |
7:25羽田集合 羽田発8:15 日本航空JAL643便(B767-300)⇒(105分)10:00鹿児島空港着 | 屋久島 田代別館 ホームページ ブログ |
⇒ドルフィンポートで昼食 | ||
⇒鹿児島港⇒高速船ジェットフォイル(110分)で屋久島着 | ||
⇒益救神社参拝⇒田代別館へ | ||
2日目 2015/ 9/26(土) |
⇒専用バスで荒川登山口へ | 同上 |
⇒太忠沢鉄橋⇒小杉谷小中学校跡⇒楠川分岐⇒大株歩道入口⇒翁杉⇒ウィルソン株⇒大王杉⇒夫婦杉⇒縄文杉⇒往きと同じトレイルを荒川登山口へ戻る | ||
⇒専用バスで田代別館に戻る | ||
3日目 2015/ 9/27(日) |
⇒専用バスで白谷雲水峡へ,散策 | ー |
⇒専用バスでショップ経由屋久島空港へ | ||
屋久島発13:00 日本エアコミューターJAC3746便(DHC8-Q400)⇒(35分)13:35鹿児島空港着,同空港発14:35 日本航空JAL648便(B737-800)⇒(100分)16:15羽田空港着,おしまい |
屋久島全土およびハイキングトレイルのマップは以下の通り.
屋久島の自然は『屋久島』(Yakushima)として1993年世界遺産(自然遺産)に登録されている.その範囲は主に屋久杉の育っている比較的高い標高(1100m....縄文杉の少し手前)から,それ以上のエリア,およびウミガメの産卵地のある西の海岸辺りのようである.
以下クリックで屋久島周辺のGoogleマップが別窓で開きます.マウスのコロコロで拡大/縮小,ドラッグで移動可能です.
別窓で屋久島周辺のGoogleマップを開く屋久島の標高500m以上の高地に生えており,樹齢1000年を越える杉がヤクスギ(屋久杉)と呼ばれるそうだ.ヤクスギは日本の特産種スギの地域名称で,分類的には秋田杉や立山杉などと同類だそうだ.17世紀に薩摩藩によるヤクスギの伐採が本格化したそうだが,幸い樹齢1000年の巨木は年輪がゆがみ,製材が困難(不可能)であったため放置され,現在も残っているのが多いそうだ.
また樹齢1000年以下のものは小杉と呼ばれているそうだ.なお川崎にも小杉の地名があるが,杉林は見えない.豊臣秀吉の大仏殿建立の際,石田三成が屋久杉調査を指示し,実際木材が大阪に運ばれた形跡があるそうな.そして17世紀になるとそこを治める島津藩が抗菌性,耐久性に優れるヤクスギの経済性に着目し,伐採を本格化したそうだ.伐採されたのは小杉で,その中でも若い樹齢500年以下のものが主だったようだ.当時伐採された跡地には現在二次林や三次林が形成されているそうだ.
屋久島で有名な『縄文杉』や『大王杉』といった杉はヤクスギの個体の名前ということになる.私たちは今回これらに加え翁杉(の株),ウィルソン株,夫婦杉なども見て回った.これらのスギの樹齢は放射性炭素年代測定法で長いものは推定樹齢3200年以上と確認されているそうである.場合によっては樹齢4000年~5000年かもしれないとのことだ.
歴史年表で記すと次のようになる.
屋久杉に関わる歴史年表
普通日本のスギの寿命は5百年余りが平均的とされるそうだが,特段ヤクスギが長命なのは不思議だ.例えば日光の杉並木では,360年で直径150cmを越えるものが多数あるそうだ.一方ヤクスギは,水は豊富ながら栄養が乏しい花崗岩の山地で,また陽当たりが悪かったなどの理由で500年で直径40cm程度と,成長が遅かったそうだ.そしてゆっくり育つので材質が緻密で樹脂分が多く,腐りにくいため長命となるのではということだ.
2015/9/25(金)朝,羽田のツアー会社カウンターを訪ね,搭乗券を受け取り搭乗ゲートに行く.そして程なくJAL643便に搭乗する.機材はB767-300で,105分のフライトだった.
定刻に鹿児島空港に到着し,出口に向かった.そこには添乗Nsさんと添乗ガイドHsさんが待っていてくれた.この二人以外に縄文杉ハイクにはあと二人の登山ガイド(後にMbさん,Xさんと判明)が加わるそうだ.豪華キャストだ.
さて私たちのツアーグループメンバー10人は続々と集まり,鹿児島港に行く専用バスに乗り込んだ.鹿児島の空は晴れ渡り少し暑い.車窓から望むヤシ風樹木もいくらか暑さを演出していようか.....気のせいかな.
バスは鹿児島市内に入っていった.島津藩はとてもたくさんの城(外城)を有していたそうだが,バスで通りかかったここは薩摩藩庁が置かれた鹿児島城だということだ.お堀の内側に西郷さんの銅像が見えるが,犬を連れてはいない.添乗ガイドHsさんの説では上野の犬連れは間違いで,特段犬好きではなかったということだ.
バスは鹿児島港に着いた.最近噴火の恐れがあるとされている桜島の上は白いが,これは噴煙か,それとも雲か?多分後者ではないかな....
ここから高速船ジェットフォイルに乗って屋久島に行くのだが,その前にこの辺りをほっつき歩き,随意に昼食をとることになっている.
添乗Nsさんより,港脇のドルフィンポートに行けば色々なレストランがありますよ~と紹介され,ここに行く.うん,いろいろな料理がある.私は空いていそうな写真のレストランに入って食べた.まあ普通に美味しかった.
午後1時過ぎ,ジェットフォイル『トッピー』号に乗り込んだ.トッピーは鹿児島言葉でトビウオのことだそうだ.実際ジェットフォイルはトビウオのように水中翼を出し,超高速で進むそうだ.なおこの会社(種子屋久高速船株式会社)には種子島航路もあってジェットフォイルを少なくとも2隻保有し,もう一つは『ロケット』号と種子島に因むようだ.一層速そうだ.
シルバーウイークも終わり船内は空いていた.乗船率1/3くらいであろうか.殆ど揺れは感じられずいい乗り心地だ.ただシートベルトを締めるよう注意される.Hsさんの話では稀にクジラが現れ,急ブレーキが掛けられることがあるそうだ.な~るほど.で,クジラが現れないかな~と待ったが,ついぞ実現しなかった.
トッピー号は鹿児島港を出てほぼ真南の屋久島を目指した.写真はGoogleマップで,現在地青丸はおよそ7割方進んだ辺りに表示されている.
なお屋久島の北東は種子島で,西の小さな島が最近島民の皆さんが噴火の恐れから避難している口永良部島だ(拡大すると島名表示が現れる)
口永良部島へは,鹿児島から直接向かう航路はないそうで,屋久島経由となるそうだ.そして翌日(9/26(土))には避難している人達の一時帰宅予定が組まれ,私たちが目指す屋久島宮之浦港でそのためのフェリーが待機しているところだそうだ.
鹿児島から110分の航行で屋久島宮之浦港に到着した.上陸してみると雨の屋久島の筈が晴れており,予想外だ.肝心な明日に晴れてくれればいいものを....と思ったが,やはりそうはならなかった.
上陸し見渡すと山がいっぱいだ.何しろ広くない島に九州最高峰宮之浦岳始め,高い山がいくらでもあるのだそうだ.それにしても宮之浦岳は島の中心部で,遠く離れたこの港のある地名と同じなのはどうしてだろう?
専用バスで益救神社に向かった.暫く広がる宮之浦港には小型漁船が多く停泊している.一番捕れるのは海流の関係でサバだということだ.もちろん大洋にあるから他にもいろいろあるそうだ.
また山は海岸線近くまで迫っているので,平地は少ないのかな~と感じられる風景だ.
バスは益救神社に到着した.私たちのツアープログラムには翌日の縄文杉ハイクの安全祈願がセットとして組み込まれていたのだ.まあ参加者は皆ジジババ連なのでそれも納得できよう.
ガイドHsさんのお話では,益救神社の歴史は遣唐使の時代まで遡るそうだ.当時遣唐使は命がけで舟で大洋を渡ったわけだが,まだ唐には程遠いこの屋久島辺りで荒波で難破したり,しかけたり,或いは順調であっても食料や水補給で上陸するケースが間々あったそうだ.益救神社は『救いの宮』の意で,そうした事情を想起させるに十分だ.そして当時,島の各地にはそうした人たちが参拝する神社が屋久島に建立され,確か10くらいあったそうで,その中の一つがここ益救神社なのだそうだ.私たちは単なるレジャーで訪れているに過ぎず,些か畏れ多いが一応ここでお参りした.
戦前当神社はもっと大きな境内に大きな社があったのだが,米軍に通信施設があるとの疑いが掛けられ,空爆され破壊されたそうだ.戦後広い境内の半分(以上か)と参道杉並木の売却で何とか費用を捻出し,現在の姿に蘇ったのだそうだ.
なお島にはこの益救神社の他,反対側にもう一つの神社が残っているそうだ.ただそちらとは所謂主導権争い的主張が双方にあるそうだ.
益救神社で咲いていた.少し遠目では黄色いヒガンバナのように見える.黄色いヒガンバナは初めてだな~と思って近づくと似てはいるがちょっと違うようである.一つの茎に数輪の花を付けているから.
益救神社からは宮之浦へと戻った.途中宮浦小学校前を通過した.ここの信号(いま赤)は島で最初に,たった一箇所建設されたところだという.子供たち第一とされたのであろう.
現在は島中に信号機が設置されたが,この宮浦小学校の児童数はかなり減ってしまっているそうだ.まあここに限った現象ではなく,日本全体の姿を垣間見る感じだ.
バスは宿泊の田代別館に到着した.別館とはまた妙な名であるが,それなりに歴史があるのであろう,詮索はよそう.まあこれで大した行いも無いうちに今日一日の行程が済んでしまった訳だ.まあいいか.
部屋は一階の6帖シングルルームをとってくれた.部屋にお風呂はなく,近くの大浴場を用いる.で,直ぐに大浴場に行った.
そこは空いており,窓からは宮之浦川を見下ろす.ここからの宮之浦川は結構幅が広く,堤防間隔では負けるが,実際の流れの幅では多摩川といい勝負ではないかと思った.湯の温度は普通で,サウナは十分熱く気持ち良かった.
風呂から上がり,夕食会場に行ったらこんな夕食が待っていた.空の皿には後で揚げたての天ぷらか何かがきた筈だ.小さなカニは殆どお飾りで,実際食べようとすると大変だ.他はまあ普通に美味しかった筈だ(←よく覚えていないのか投げやりだ)
さて勝負(?)は明日だ!おやすみなさい.
さて9月26日の朝4時になった.随分早い時間だが起きて田代別館帳場で朝食(手前)と昼食(奥側)を受け取り,先ずは朝食を食べる.屋久島サバが添えられていて嬉しい.
朝食を頂いて4:50AMに来るはずのバスを待つ.しかし時間になっても来ない.暫く待ち,乗り込む.何でもドライバさんが道を間違えたとか.....
バスは荒川登山口に向け真っ暗な道を進む.東京より30分程度時差があるのと雨模様で暗いのだ.なお荒川登山口への上り道は環境保全のため乗用車など一般車両は禁止され,原則バスのみが運行許可されているそうだ.
さてバスは1時間半くらい走ったか,荒川登山口に到着した.ここには綺麗なお手洗いが設備され先ずは用足しだ.
ここでは添乗Nsさん,添乗ガイドHsさんの他,山岳ガイドMbさん,とXさんの2人が加わり合計4人が案内してくれる.私の属する5人組はNsさんとMbさんが担当し,残る4人組(1人は非山コースへ)はガイドHsさんとXさんが付くことになった.どうぞよろしく.
そしてMbさんの音頭で軽く準備運動を行った.バス遅れで出遅れ気味の私たちが準備運動が終わる頃,たくさんいた他グループの皆さんは既に出発し,辺りは静かになっていた.
トロッコ始点の荒川登山口には写真のグリーン機関車とその奥にイエローのもう一台が停車していた.月に2,3回稼働するそうである.ディーゼルエンジンのようである.一見随分可愛らしいが重い木材を牽引できる力持ちに違いない.
荒川登山口には,私たちがこれから上に向かうトラックと,海の安房港へのトラックが集まったターミナルで,そのため複数レールが敷設されている.機関車車庫脇にはターンテーブルも見えた.
トロッコ軌道のトレイルは,枕木やその間の砂利を踏みながら歩くのだが,トロッコ軌道ゆえ傾斜は僅かで足場も優しい.まあとても楽に歩ける.
さて1ヶ月で35日間降るという屋久島の雨は残念ながら当たってしまった.ただ今のところ弱い降りでゴアカッパは上だけにしておく.Tシャツの上に直接着たがそれでもやはり歩くと暑い.
そして私たちのガイドMbさんは皆より十分遅れて出発したが,これは正解だった.トロッコ軌道トレイルはとても歩き易い楽なコースだが,追い抜いたり,抜かれたり,或いはすれ違ったりするにはちょっと厄介な場合がある.とくにこの日のように雨の場合は避けたい気がする.やはり関東より少し暑いかな....
トレイルには太忠沢鉄橋初め幾つかの橋があるが,この写真のように欄干の無いものもある.欄干を設ける場合,トロッコの積み荷と干渉しないように,十分広くする必要があり,工費が嵩むそうだ.それでも以前より欄干は多く設置されているそうだ.
橋の下の川面は概して大石ゴロゴロで深く,覗き込むと怖い.以前欄干無し橋の上で,すれ違いのため横に退避したハイカーが落ちる死亡事故があったそうだ.
暫く歩いて,『これが屋久杉です』とMbさんから案内があった.古木の様相は風格がある.屋久島で1000年を超える杉が「屋久杉」と称され,それより若い屋久杉は「小杉」と呼ばれるそうだ.
日本のスギは一般的に寿命500年くらいと言われるが,屋久杉では,これから見物に行く縄文杉や大王杉のように2千年以上とされる古木がある.
屋久島の地表は栄養が乏しい花崗岩の大地で,日光が少ないこともあり,豊富な水があるに拘わらず著しく成長が遅いのだそうだ.500年で直径40cm,対する日光の杉並木では360年で150cmを越えるものが多くあるそうだ.
トロッコ軌道トレイルを少し歩いた先に左手に軌道が分岐していた.私たちのトレイルは小杉谷線と称され,左手の分岐は石塚線と呼ばれるそうである.この分岐点までは本線とされ,この先石塚線は7.9km,小杉谷線は6.1kmの距離があったそうだ.現在石塚線はこの分岐点少し先で軌道が路盤ごと流されてしまい,破壊されているそうだ.
トロッコ軌道(安房森林軌道)トレイルは安房川やその支流を幾度か跨ぐ.上記軌道分岐点を僅か進むと比較的大きな欄干付きの橋に来た.小杉谷橋と記されている.名称からして小杉谷小,中学校跡地が間近いようだ.
橋の下の安房川は,屋久島最高峰(さらに九州最高峰)宮之浦岳(標高1936m)に源を発し,目指す縄文杉の南側を通り,トロッコ軌道従ってハイキングトレイル脇を通り,安房港に注ぐそうだ.巨大な石がゴロゴロしているが,雨が多いときはそれらを覆うように怒涛の流れになるそうだ.
ガイドMbさんによると安房川は大変水質が良く,また急流であるので川魚は少ないそうだ.ただこうした清流にして急流はサケ科ヤマメの好むところで,鹿児島県養鱒漁協が他研究機関と協力し1971年(昭和46年)から多摩川産稚魚を放流したそうである.
現在漁業的には大きな成果はないようであるが,ヤマメの子孫は渓流釣りの釣り人によって掛かるということだ.
1923年(大正12年)屋久島国有林開発の基地として小杉谷が開設されたそうだ.銘木屋久杉を切り出し,トロッコで運びだしたわけだが,それに携わる人々の集落や学校がここに備えられたということだ.最盛期1960年(昭和35年)には540人の大集落,小杉谷小,中学校生徒数147人に達したそうだ.
小,中学校跡地は結構広い更地が広がり,周囲が殆ど傾斜地なのでちょっと驚いて眺めた.また校跡地の近隣には決して広くはないもののやはり平坦な住宅跡地が点在している.
ガイドMbさんが高校生の頃,この校庭跡地にテント二泊し,縄文杉および宮之浦岳登山を行ったそうだ.因みに当時はまだ世界遺産ではなかったそうだ.
小杉谷小,中学校跡脇には休憩舎があり,ここで一休みする.屋根付きベンチは後にも先にもここだけのようだった.お弁当のときは雨を避けるこうした場所がいいのだが,実際は他にこうした場所はないので傘を用意しておいてくださいという話だった.
この辺りではサルやシカ(屋久鹿)をよく見かけた.シカは本土同様増えているが,山中なので農作物の被害は多くないのかも知れない.またシカは捕らえて食用にしているそうだ.実際翌日の昼食で鹿肉ソーセージを出してくれた.
ここまでのトロッコ軌道トレイルは主に枕木の上を歩いて来たが,小杉谷小,中学校跡から上流は軌道の上に綺麗な板が張り詰められている.つまり木道となる.枕木の上でも楽に歩けるのだが,一層歩き易くなるわけだ.ありがとうございます.
小中学校跡の少し先に古い屋久杉大木切り株上に小杉が生えたような親子スギがあった.なかなか面白い.こうした古い株の上に新しいスギが育つことを『切り株更新』というそうだ.江戸時代に伐採された屋久杉の周りは陽当たりが良くなり,ヤクスギ成長の最適要件を満たし,株の上にこうした小杉が育ったそうである.切り株の上の小スギの根は当初切り株の上であるが,徐々に長くなり地表まで伸びて地面から直接養分を吸い上げるようになるという.
屋久島は強風の多い土地でもあり,大木が倒されることも多いそうだ.倒れた大木も切り株同様,周りの陽当たりが良くなり,『切り株更新』同様新しいスギに世代交代し,『倒木更新』と呼ばれるそうだ.
ところで江戸時代少し前から伐採されだしたヤクスギであるが,樹齢1000年以上の屋久杉は外も中も凸凹や空洞で,材木としては小杉の方が一般的に価値が高かったそうだ.そんな訳で2000年くらいの古いスギは伐採されず今に残されたのも多いということだ.屋久島全島で樹齢1000年以上の屋久杉は1000本くらいあるのではないか,とガイドMbさんの説明があった.
親子スギの少し先に楠川分岐点かあった.ここを右に折れて歩くと,翌日歩く予定の白谷雲水峡に至るそうだ.そしてその手前辺りからトレイルは楠川の谷筋に沿うようになるようだ.
楠川分岐点の少し先にお手洗い小屋があった.私たちには必ずしも要らなかったが数日前のシルバーウィーク中はこの日の10倍くらいのハイカーが押しかけており,トイレの順番待ちで最高1時間も待たされたそうだ.やはり無職者は空いている時来るのが皆のため,自らのためであるみたいだ.
この辺りのスギは真っ直ぐスラーと伸びている.高尾山のスギと同じような感じだ.こうしたスギ林は光が入り込むように植林された場所だという.前述の小杉谷集落ができた頃のことであろう.
手洗い小屋の先に見える大きな杉.
一代目(左側ほぼ空洞部)が1500年前に倒れ,その上の二代目(写真右の内側の木)が倒木更新で育ち,それが350年前(江戸時代)伐採され,その切り株上に三代目(外側の大きな根のある木)が成長している.
元々は抜け落ちそうな枕木間隔であるが,ちゃんと渡り板が這わしてあり安心だ.
現在1本だけ残るが元は2本の屋久杉で,お寺の山門左右の仁王像に見立てたことに由来するそうだ.仁王像は口を開いた『阿形(あぎょう)』と,閉じた『吽形(うんぎょう)』と呼ばれるそうだが,今残っているのは阿形だそうだ.
確かに途中のゴツゴツした辺りは仁王様のようだ.22.8mの高さで,周囲8.3mあるそうだ.
この辺りで『正面に見える山が翁岳です』と写真を添えた標識があったが,雨のため全く望めず,残念.
この橋辺りでトロッコ道が終わりになる.橋の先には立派なお手洗い小屋があり,写真右手から『大株歩道』と呼ばれる縄文杉に至るトレイルが始まる.
ここでは雨脚が強くなり始めたのでカッパパンツも履くことにした.
この標識が大株歩道への入り口.いきなり梯子が架り,これまでの8.1kmの極めて緩やかなトロッコ軌道トレイルが終わり,2.7kmという大株歩道に入る.
ただ大株歩道は急な登り降りはあるが,こうした梯子や階段がかなり整備され,比較的楽に歩けるようだ.雨が問題だが.
屋久島は大まかには花崗岩でできており,その上が薄い土砂で覆われているということだ.そのためかどうか,木の根っこがトレイルの上に張り出しているように見える.それでも強い風が多いという当地では甚だ大変な課題で,樹木は必至に踏ん張らざるを得ないのであろう.
前を行く人のザックカバーは帽子付きだ.これでザックと背中の間に流れ込む雨はかなり防げそうだ.良さそうだ.
トレイルの足元を見ると,花崗岩という岩の中に白い長方形の石が散りばめられている.これは長石の結晶なのだそうだ.
この辺りは特に結晶サイズが大きくなっているが,噴出した溶岩が結晶化の際,所定温度に長い時間留まったためだそうだ.ところで長石はいろいろな岩石に含まれごく一般的な物質だそうだが,アルミニウム,ケイ素,酸素,その他の元素から構成される結晶ということだ.なお長石にはアルカリ長石とさらにその細分,斜長石とその細分....と実に多くの構成があるようだ.
まあ専門的なことは分からないのでそれは置いておいて,日本各地の花崗岩の長石は1mm程度であるが,ここ屋久島花崗岩の長石は写真のように2~30mmくらいあり,『屋久島花崗岩』と名付けられているのだそうだ.
さて屋久島花崗岩を踏みながら歩みを進めると先行のハイカーが一休みしているエリアになった.翁杉と呼ばれる古い屋久杉の倒木跡があるそうだ.
2010年9月に折れて倒れたそうだ.推定樹齢2000年で,高さ12.6m,幹周り12.6m,縄文杉に次ぐ幹周りだったということだ.
幹内部の約90%が腐朽により空洞化していたそうで,まあ老衰で天寿全う,文字通り大往生ということのようだ.
翁杉の直ぐ上に巨大な切り株があった.1914年(大正3年)英植物学者アーネストヘンリーウィルソン (Ernest Henry Wilson) 博士によって発見され(もちろん屋久島の人たちにはとっくに周知のこと),『ウィルソン株』と呼ばれるようになったということだ.最初,博士は雨宿りにちょうどいい洞窟だな~と入ってみたら屋根がなく....それで古木と気付いた....とか
この切り株は1586年(天正14年),豊臣秀吉の命により大坂城築城(或いは京都の方広寺建立)の為に切られたといわれるそうだが,その大きな切り株が残されている.推定樹齢3000年,根廻り32m,胸高直径4.39m,切り株の中は10畳ほどの空洞になっている.
それにしても1586年頃,切り出した屋久杉は関西までどのようにして運んだのでしょう?ウィルソン株の親株は既に空洞で,その上にあった二代目杉を製材し,それを人力や馬力で安房港まで運び,舟に積んだか.....?
ウィルソン株10畳部屋より切り取られた天井を見上げる.屋根部分はやはり空洞で,所定位置から見上げるとハート型の窓から周囲の小杉林を望む.典型的定番写真スポットだ.
入り口も内部壁も既に激しく朽ちているのは確かだが,切り倒されて429年経だつ今も完全には腐らずちゃんとまだ残っている.しかも多量の雨に晒されながら....屋久杉は本土の普通の杉の6倍もの樹脂を含み,それが高耐久性の元になっているのだそうだ.
10畳部屋内部には小さな社が祀られているが木魂神社と呼ばれるそうだ.そしてその脇に延命水が少量流れている.
ウィルソン株から再び上に向かった.花崗岩の上の土砂が深くないというのが関係しているのか屋久杉や小杉の根は荒々しく地表を這う.高尾山の蛸杉があちこちにある感じだ.
浅い根と強風のためかしばしば倒木も見える.雨が多いため倒木には苔が生えている.屋久島の苔は600種類にも達するそうだ.余程の専門家でない限り区別できなさそうな....
倒木の跡は陽当たりが良くなり,苔や堆積物で覆われた倒木は地面より発芽しやすく,育ちやすいのだそうだ.それが『倒木更新』の要因となっているのは前にも触れた.
ウィルソン株先に美味しい水場があり,また木道脇にウッドテラスが設けてあった.幸い雨も少なくなり,私たちはここで腰を下ろし朝早く頂戴したお弁当を広げ,食べた.ガイドMbさんと添乗Nsさんは,濡れたデッキに座れるように小さな銀マットを配ってくれた.ありがたかった.
樹皮がなく赤茶色の肌はサルスベリに似ているがヒメシャラ(姫沙羅)の木だそうで,巨木だ.サルスベリより鮮やかで明るい色に感じる.屋久島の樹木は常緑樹が多いようだが,ヒメシャラはもう少し先の秋で紅葉し,落葉するそうだ.
ヒメシャラはまたツバキ科に属し,6月にサザンカよりも一回り小さい(これがヒメの付く理由)白い花が咲くそうだ.大木なので一面白く染まるのかもしれない.
トレイル脇に聳える樹高24.7m,胸高周囲11.1mの屋久杉で,この後お目にかかる縄文杉よりやや小振りだ.ただ放射性炭素年代測定法による推定樹齢は3200年以上とされ,縄文杉の同法推定値1970年以上より古いと見なされているそうだ.
縄文杉が知られる前はこの杉が最大の屋久杉と言われていたそうだ.現在は根部保護のため傍に立ち入らないようロープが張られている.下側には大きな穴が空き,大樹にしては枝は少なく些か痛ましくも感じられる.
左の奥さん杉に,右の夫杉が手を差し伸べ,一体となっている.奥さん杉は樹高25.5m,胸高周囲5.8m,推定樹齢2,000年で,夫杉は樹高22.9m,胸高周囲10.9m,推定樹齢1,500年だそうだ.
夫婦は斜面に立ち,奥さん杉が低い側にあるが,スレンダーな体型で頭は同じくらいの高さになっているそうだ.こうした天辺を揃えようとする作用は強風地帯に育つ屋久杉の性質の一つであるそうだ.
夫婦杉の直ぐ側で,それに倣ってヒメシャラ(姫沙羅)に絡む木があった.確かブナか何かで,異種の木であるところが面白い.この反対側から見るとキスシーンに見えますとガイドMbさんの案内があったが,果たしてその通りであった.
ところでこの辺りで,ユネスコ世界遺産(自然遺産)に登録されていますよ~との標識があった.
大きな木の表面にいろいろな自然のレリーフが埋め込まれている.一つに,撫でると子宝や孫に恵まれるという....ジジババ私たちグループでは無用だな....の声.
それでは,ほらコアラもいますよ....といろいろサジェストしてくださる親切なMbさん.
木の階段が上に続き,標高1600mになった.間もなく縄文杉に至るそうだ.わくわく!
そして縄文杉が現れた.皆『わ~っ!』とか『やったー!』とか口にし喜び合う.予め吹きこまれたためであろうか縄文火焔土器のような力強さを想わせ,味わい深い.
縄文杉は,1966年屋久町役場の岩川さんにより発見され,広く紹介されたそうだ.当初は大岩杉と呼ばれていたが,途中『縄文杉』の呼称になったそうだ.理由は縄文時代から生えいた,または縄文時代の火焔土器文様に似る,或いはその両者に由来,ということだ.
樹高25.3m,胸高周囲16.4m,推定樹齢最低1970年(実在部位の放射性炭素年代測定),2500年~3000年以上との説が多いらしい.縄文杉の古い部位は空洞になっており,放射性炭素年代測定で測りようがないと云う難しさがあるそうだ.
階段を登り切ったところにウッドテラスが設けられている.ここからは幹の側面を良く眺めることができる.以前は縄文杉の脇に立ち,触れることもできたそうだが,浅い根にダメージあり,このテラスを設け限界としたそうだ.ただこのテラスも乗り越える人があるそうで,今年いっぱいでこれを畳み,来年以降はこの下辺りが見物限界となるそうだ.
テラスで縄文杉をしげしげと眺めさせてもらった.その巨大さとゴツゴツ肌は何と言っても貫禄十分だ.いや~やはり眺めることができて良かったな~
ただMbさんの解説では縄文杉自身の枝は僅か数本残るだけ,また根保護のため下から運び入れた土でウィルスに感染する事故などあって,この先はかなり心配される状況だということだ.
縄文杉テラスにいる頃雨脚が強くなって来た.そして他パーティの皆さんが殆ど下り,新たに登ってくるハイカーもあまりなく,きっとトレイルが空いている筈だ,と云うタイミングで下りにかかった.
下りトレイルは上りとは逆向きで,全く同じである.
大株歩道をどんどん下り,トロッコトレイルに出た.ここには写真のお手洗いが備えられ,用を足す.
トロッコ軌道の木道トレイルをどんどん下り小杉谷休憩舎まで下った.休憩舎脇には子鹿のバンビちゃんが餌を食んでいた.お尻の白毛がかわいい.人気はあまり気にしないようで結構間近に寄っても平気なようだ.
小杉谷休憩舎からひたすらトロッコ軌道トレイルを下り,そのうち荒川登山口に戻った.これでハイキング全行程が終了した.楽しかった.ガイドMbさん,Xさん,添乗Nsさん,添乗ガイドHsさんありがとうございました.
荒川登山口から専用バスで田代別館に戻り,先ずは風呂を浴びた.そして程なく夕食へと案内され,ビールを一杯.夕食には鹿児島名物黒豚のしゃぶしゃぶなどなかなか美味しかった.
さて明日は白谷雲水峡だ.あちこち痛くなってなければいいが.....
明けて9月27日(日)となった.田代別館で窓のカーテンを開け放つと,雨だ.昨日より強そうだ.
田代別館は標高の低いエリアに位置しているためか,縄文杉トレイル辺りとは違う植生なのであろう,庭には棕櫚のような木が目立っている.
朝食後専用バスで白谷雲水峡に向かった.宮之浦からは南の方向で,3~40分要したであろうか.途中山間の道はよく整備されているが,周囲には殆ど民家はなく,こんな長い区間.....と不思議に思った.
そんな訳で人は見かけないが,シカとサルには頻繁に出くわす.畑もないので多分害もないのではなかろうか.逆にシカを捕らえて食するのは普通にあるそうだが.
白谷雲水峡入り口に着き専任ガイドXcさんが紹介された.どうぞよろしく.
私たちは白谷雲水峡のほんの一部だけ,一時間半ほど散策予定だがこの案内板前で案内を聞く.ここは脇の白谷川の峡谷や屋久杉,苔などの植生が見どころだそうだ.
トレイルは白谷川に沿って上っていった.白谷川の流れは極めて急峻で,やはり大岩がごろごろしている.
そのうち大きな花崗岩大岩があった.前日の縄文杉トレイルのように大きくはないがやはり長石結晶がまぶされている.それにしても巨大な岩だ.
土埋木,文字通り『土に埋もれた木』のことであるが,倒木や伐採されたが,廃材とされた部分などが土中たくさんあるそうだ.現在屋久杉では屋久杉や小杉の伐採が禁じられており,こうした土埋木や昔の切り株が工芸品材料などに活用されているそうだ.
上述のように屋久杉は樹脂を多く含むため土埋木であってもなお新鮮で,器などに加工して美しく,完全に機能するという.
落差40mだそうだが,真っ直ぐ平行に深く鋭く抉られた斜めの水路が特徴的だ.あたかも人工的に抉られたチャネルのように見える.
同行した添乗ガイドHsさんによると,こうしたチャネルは,侵食され難い地層にサンドイッチされた侵食され易い層があるため形成されたそうである.こうした層は普通数十kmもの長い距離続くのが普通で,飛竜落としと連続する層の先では温泉が湧いているところもあるそうだ.
大ボケで見難いが倒木更新で古い株の上に新しい二代目の杉が大きく成長している.
樹高32.0m,胸高周囲4.4m,推定樹齢は不明で,ここの標高は730mで,前日縄文トレイルの三代杉のあった標高と同じくらいのようだ.
日本に産する苔は約1600種もあるそうだ.そしてその中の600種はここ屋久島で見えるという.年間雨量8000mmを超え,深い森がそれらを育むのだそうだ.
種類は全く識別できないが,至るところ苔,というのは実感できる.それにしても年間雨量8000mmは多いな~
さつき吊橋を渡り,白谷川対岸のトレイルに来た.そして土砂降りの中駐車場に向かって下った.途中若干小粒の紅玉りんごのような実が下がっていた(写真左下).ヤクシマリンゴツバキ(屋久島林檎椿)の実だそうだ.ヤクシマを冠しているがここの固有種ではないそうだ.それにしても大きな椿の実だ.
なおこんな大きな実ながら,皮が厚いだけで,内部の種子は普通の椿の種と同じくらいなのだそうだ.ちょっとがっかり,この部分は聞かないほうが良かったかな.
雨の白谷雲水峡散策を終えて,専用バスで屋久島観光センターというお土産店レストランにやってきた.お店は海岸通りにあり,防砂林であろうか本州同様の松林が見える.
小さな島ながら店内には様々なお土産が並んでいる.ここ以外で生産されたものもあるのかな....?屋久島で漁獲の多いサバを用いたという,鰹節ならぬサバ節(堅くない)を買ってきて食べてみた.スモークしてあるのかまあ普通に美味しい,かな.
二階がレストランになっており,やはりサバ付きのご飯を頂いた.食器がすべて土埋木製であるところがミソだ.ただこれらはとても高価だ.例えば右下の汁椀は6000円というので私には手が出ない.
昼食後屋久島空港に行った.来るときはフェリーだったが,帰りはエアだ.屋久島空港は1,500m滑走路を備え,ボンバルディアDHC-8-Q400の離着陸が可能だそうだ.
DHC-8-Q400はP&H製ターボプロップエンジンを積み78座席くらいだそうだ.近距離ではターボプロップエンジン機ながらターボファン機に近い性能が出るらしい.
そして私たちは添乗Nsさんとお別れし,添乗ガイドHsさんと共に傘を指してAC3746便(DHC8-Q400)に乗り込んだ.
AC3746便は若干遅れて鹿児島上空に至った.鹿児島は雨がないようだ.同じ県ながらやはり屋久島は降るようだ.
鹿児島空港に降り立ち,次の便の10番ゲートで出発を待った.
鹿児島→羽田便は,JAL648便で機材はB737-800だった.wifi利用可のチラシが入っていたので使おうとしたがネットに繋がらない.通りかかったCAに訊いてみたら,ちょうど今故障しておりまして...ということだった.まあそうした偶然もあろう.なお往きのJAL643便(B767-300)にはwifiはなかったように思う.
まあこうして羽田空港に到着した.皆さんいろいろお世話になりました.
着いた時はまだラッシュアワーの前だったので,京急等ですんなり帰ることができた.雨に降られたがまあ屋久島風情堪能でもあり,楽しかった.おしまい.