次に海に浮かぶベネチアを訪れた.
サンマルコ寺院に隣接する白い宮殿.ベネチアの最高権力者である「ドージェ」が執務を行い,また住居として使用した建物だそうだ.ゴージャスな柱や壁の装飾,彫像で囲まれている.円柱上部のイチジク文様はローマ帝国の遺跡でよく見られる様式によく似ているようだ.
下は,ドゥカーレ宮殿の写真あれこれ
密集した円柱,アーチの組み合わせ,金をふんだんに用いたフレスコの正面玄関.この寺院は,9世紀初め二人の商人がアレキサンドリアから持ち帰った聖マルコの遺体を収めるために建てられたという.聖マルコは新訳聖書の4つの福音の一つを書いた聖人としても位の高い人で,聖マルコの遺体を得たことでベネチアはビザンチン帝国に依存しない独立した国家としての精神的な基盤を確立することができたそうだ.最初の建物は火災で焼け落ち,今残るのは11世紀半ばに建設されたものだという.それでももう1000年くらい経つわけだ.
右側面もアーチと尖塔,その聖人,聖マルコであろうか屋根の彫像も特徴的だ.中心の大きなドームを4つのドームで囲むギリシャ十字の構造はビザンチン様式だそうである.上の写真で,テラスの中央には4頭の馬の像が見える.13世紀初めに第4次十字軍の戦利品としてコンスタンチノープルから持ち帰ったもので,18世紀末にナポレオンによって一時パリに持ち去られ,ルーヴル宮殿前のカルーゼルの凱旋門の上に飾られていたことがあるそうだ.ベルリンのブランデンブルク門上の馬も似たようなストーリーがあったような.
奥行き77m,幅52mと大聖堂としてはそれほど大きくはないが,床や壁面に色鮮やかなモザイク模様が施され,荘厳にして美しい.壁や天井部分に使われているモザイクはガラスに金箔を貼り付けたものだそうだ.床は複数色大理石のモザイクだ.地盤沈下のために一部波打っているところがあるそうだ.中央祭壇には聖マルコの聖体が収められていた大理石の棺が安置されている.
寺院前の広場には市民が集う.広場の形は,サンマルコ寺院に向かって広がる台形の形をしているようだ.寺院側から眺めると実際以上の奥行きを感じさせる視覚効果を生むようだ.またこの広場は海抜0.7mに位置し,ベネチアで一番低いところにあるそうだ.そのためアクアアルタと呼ばれる高潮の時,しばしば冠水するようだ.アクアアルタは10月~4月にかけてよく起こるこの地方独特の現象で,このアクアアルタと地盤沈下による建物への影響は今のベネチアが抱える大きな問題となっているそうである.
下は,サンマルコ寺院の写真あれこれ
1588年~1592年にかけて架けられた大理石の橋.それより以前ここの場所には13世紀に架けられた木の橋があったが,1444年フェラーラ総督という方の行進があった際に見物人の重みで落ちてしまい,その後コンクールで選ばれたアントニオダポンテ設計の現在の橋が架けられた,ということである.長さ48m,幅22.1mらしいが,そんなに幅が広かったかな~?下を船が通れるようにアーチ状になっている.橋の上には土産物屋が軒を連ねている.このような屋根付きの橋はイタリアではこの後訪れるフィレンツェのヴェッキオ橋とともにとても珍しいそうである.
ベネチア本島はイタリア本土から4km離れ,本土とはリベルタ橋でつながっている.118の島が400の橋で結ばれ,160の運河が網の目のように張り巡らされている.人々の交通手段は水上バス,水上タクシー,ゴンドラなどで荷物を運ぶ手押し車と乳母車の他,車の付いた乗り物は中世の頃から禁止されているそうである.子供の乗る自転車も一部の地域で許可されているだけだそうだからきつく伝統を守っているわけだ.尤も,実際道は狭く,仮に車両が乗り入れたら大変な事態になってしまうことは容易に想像がつくが.人口は約31万人くらいであるが,ベネチア本島の家賃は上がり続けているために島を出て本土に移り住む人が増えているそうだ.そのため島の住人は高齢化し,平均年齢が46歳をこえているそうである.
下は,リアルト橋辺りの写真.
主な運搬,交通手段はボートと徒歩のため狭く曲がりくねった路地が多い,いや,狭く曲がりくねった路地と,替わりに豊富な運河のため,車両でなく徒歩と船になったわけだが.....
下は,ベネチアの街の眺め.
下は,さらにベネチアの街の写真.
親方が同乗し,指導を受けながら漕いでくれた男前の船頭さん.水路は地上の道と同様に狭く,カーブ,すれ違い,橋を抜けるときは大変だ.見習い中なので2~3回脇を擦っただけで済んだのは上出来ではなかろうか.
下は,ゴンドラクルーズの写真あれこれ
ミラノからベネチアに至るバスから,サービスエリアから眺めた風景.