慶州(キョンジュ)  Gyeongju

この慶州(キョンジュ)編では温陽(オニャン)から慶州へ行く途中の風景,慶州良洞民俗村,古墳公園(大陵苑),石窟庵,仏国寺,慶州市内と近郷の写真にキャプションを添えて載せました.

慶州へ  go to Gyeongju

慶州に向かう高速道路脇のお墓へ

慶州に向かう高速道路脇のお墓

温陽(オニャン)から慶州に向かうため雨降りしきる高速道路に入った.高速道路から見える丘の斜面には写真のような土饅頭のお墓が頻繁に見える.韓国では宗教に依らず亡くなった人を,陽当りの良い斜面に墓地を確保し,土葬するのが慣わしだそうである.ところで親が亡くなったとき,子供は三日間夜通しで泣き続けるのだそうだ.兄弟があれば交代で行うが,一人っ子だと大変,三日間不眠はできず,そこで泣き役のアルバイトを雇うのだそうだ,お墓の建設や守りは長男の義務で,そのため遺産の60%は長男が受け取ることが民法で定められているという.しかし墓守はとても大変なため,結婚相手として長男は全く人気がないそうだ.尤も最近は一人っ子が多くなっているため,総長男化しつあるとも言えるそうだ.子供がいない場合や女の子の場合どうなるのか.....?は聞き漏らした.

ところで韓国では結婚披露宴は簡素で,友人のご祝儀は3000円からせいぜい5000円程度だそうだ.一方葬式は重視し,最低でも10,000円包むそうだ.こうした慣わしの背景には儒教で培われた面があるようだ.なお葬式では,一般に勤務のない夜間に弔問に訪れるのが普通で,浮気の口実に『葬式に行く』が多用され,そしてしばしばバレるそうでもある.


慶州に向かう高速道路のサービスエリア

慶州に向かう高速道路のサービスエリア

慶州までは遠い.高速道路のサービスエリアで休憩する.韓国レストランのお品書きを見ると,ビビンバなどは6000W(500円くらい)のようだ.日本より若干安目であろうか.ガソリンは170円/リットルで日本より少し高いが,タクシーやバスはLPGなので乗車運賃は安いのだそうだ.


慶州へ高原を行く

慶州へ高原を行く

黄海側の温陽から日本海(韓国は東海だと言い張るが)側の慶州に至るには内陸の高原地帯を行く.高い山は無く,低い山や丘に囲まれた盆地に展開される畑や果樹園,田んぼ,町や村が延々と展開される.

果樹園には白い花の梨(多分),ピンクの花の杏類が咲き競っている.ビニールハウスはとても多いが,田んぼは気温がまだ上がらないためかまだ何も植えられておらず,茶色のままだ.

慶州良洞民俗村  historic villages of Korea: Hahoe and Yangdong

慶州良洞民俗村

慶州良洞民俗村に到着

長い時間の末慶州(キョンジュ)に到着し,慶州良洞民俗村にやって来た.駐車場からユニークな藁葺き屋根の民家と瓦屋根の大きな家(写真上側)の点在する様子が目に入る.またお寺であろうか,凝った造りの社(写真下側)も備えられている.

良洞村は朝鮮時代(1392~1910)に作られた貴族の村だそうで,家屋は合わせて150棟が保存されているそうだ.


良洞村は今も普通の生活が営まれている

良洞村は今も普通の生活が営まれている

明治村とか,生田緑地民家園とかとは違って,ここ良洞村は今も住民が普通の生活を送る場であるそうだ.例えばこのお宅は農家で,庭先にはトラクターやバイクが置かれている.また,この『現役の村である』ということが,2010年ユネスコ世界遺産(文化遺産)登録の決め手になったそうだ.

ただ世界遺産に登録されたが故に,毎日数百人もの観光客が訪れるようになり,住民は甚だ当惑しているそうだ.それはそうでしょうね~すみません.せめて入場料で徴収してくれれば訪れる方も少し気が易いかも知れないが,只だし.....とガイドキムさんも気にしてます.


慶州良洞民俗村庭先には味噌瓶

庭先には味噌瓶

藁葺き屋根の住宅庭先には瓶が置かれている.味噌などを仕込んであるそうだ.発酵状況や陽の加減で蓋を開け閉めしたり,中をかき混ぜたりするそうだ.野良に出ていて急に雨に変わったときなど大変で,慌てて蓋を閉じに戻るケースもあるそうだ.最近ガラス製の蓋ができ,閉めたまま中を覗けるのと陽を当てることが可能になり,以前より少し蓋の開閉管理が楽になったそうだ.なおキムチは陽の当たらない場所で作るので,ここには並べず,一般に軒下やバルコニーに置くそうだ.キムチは味噌以上に各家庭大量に仕込むので,会社勤めの女性にはキムチ休暇が与えられるそうである.

軒下に並ぶのは暖房(オンドル)用ガスボンベで,暖房は以前の木材より随分簡単になったそうだ.

また写真左下側は塀の上端で,藁と土で屋根が設けられている.たとえ塀であっても,屋根がないと水が入り,それが凍って塀を壊してしまうからだそうである.

なお藁葺き屋根の住宅はかなり小さく,近年は冷蔵庫もテレビも洗濯機も....増え,しかも大型になっていくので,ちょっと狭いのは事実だそうで,今後どのようにしていくかが課題のようだ.


慶州良洞民俗村孫氏邸宅の中庭

孫氏邸宅の中庭

ここは一番上の写真で一番高い所にある瓦屋根の大きな住宅.1500年代初頭,当時大臣だったという孫氏の邸宅中庭.中庭に木を植えないのが韓国の伝統だそうだ.中庭の形は口,この中に木があると『困』になってしまうからだそうだ.なお中庭だけでなく,玄関先などにも木を植えないそうだが.....その理由は失念してしまった.

雨と風は益々ひどくなり,レンズに大きな水滴が着いたみたいだ.この日はとにかくバスから出る度にビショビショになり,冷たい.


慶州良洞民俗村孫氏邸宅の観稼亭

孫氏邸宅の観稼亭

ここから正面を眺めると,下の写真の風景が展開される.『観稼亭』とは孫氏がここに座ってお茶でも啜り,「稼」ぐ人びとを「観」る「亭」なのだそうだ.とは言っても建物全体の造りは華美でなく,質実剛健といった雰囲気だ.

写真右下側の穴はオンドル用の穴だそうだ.ここで火を焚くようだ.なお玄関門脇には召使用の部屋も備えられていた.


慶州良洞民俗村孫氏邸宅の観稼亭から眺めた風景

孫氏邸宅の観稼亭から眺めた風景

韓国で一番いい住宅は,南向きで,正面に川や池のある低地を挟んで向こうに山の見える手前の丘中腹だそうだ.(これは多分多くの北半球の国に当てはまりそうだが)

孫氏は村一番の有力者であったのでそんな最良のロケーションに家を建てた訳だ.池の中洲にある丸い土地は祭礼などで馬術の催しなどに使われる場所らしい.なお孫氏邸宅は現在空き家になっている.

孫氏に次ぐ村で二番目のお金持ちは李さんだったそうで,こちらも立派な李氏邸宅を構えている.石垣は韓国では力の象徴で,李氏邸の石垣も立派だ.ただ孫氏邸の石垣より高くなってはならないし,邸宅の向きも南ではなく東向き(いや西か?)に作られているようだ.これも儒教の礼節に絡むのであろう.なお現在李氏の子孫かどうか不明ながら邸宅は普通に居住されているそうだ.


下は,慶州良洞民俗村のいろいろな写真

慶州良洞民俗村での眺め
慶州良洞民俗村での眺め 慶州良洞民俗村での眺め 慶州良洞民俗村での眺め 慶州良洞民俗村での眺め 慶州良洞民俗村での眺め
慶州良洞民俗村での眺め 慶州良洞民俗村での眺め 慶州良洞民俗村での眺め 慶州良洞民俗村での眺め 慶州良洞民俗村での眺め

古墳公園  Tumulus(Daeneungwon)

古墳公園の大陵苑(デルンウォン)

古墳公園の大陵苑(デルンウォン)

先ずは古墳公園近くのレストラン石焼ビビンバで腹ごしらえした後,古墳公園とも呼ばれる大陵苑(デルンウォン)にやって来た.

慶州(キョンジュ)は三国時代の新羅(59AD~668AD)および統一後の新羅(668~935)通して都が置かれた所だそうだ.このように1000年もの長い間継続した都は多くなく,ローマ帝国のコンスタンティノープル(現イスタンブール),イスラム帝国のバグダッド,唐の長安(現西安)などと肩を並べるという.またこの間に56人が王位に就いたそうである.そしてここ大陵苑の23基を含めての慶州150基余りの古墳はそうした王族の墓であろうとされているようだ.


古墳公園の松やケヤキ林を進む

古墳公園の松やケヤキ林を進む

ひどい雨にも拘わらず結構訪れている人が多い.松やケヤキは文字通り瑞々しい.皐月も盛りだ.キムさんによれば背中を見せて歩いているのは韓国の人たち(おばさん)だそうだ.つまり韓国は陰陽五行説に基づく青,赤,黄,白,黒の5色(この配色の円は見かけることあり)をそれぞれ「東,南,中央,西,北」若しくは「木,火,土,金,水」に対応するそうで,またこの色を用いた洋服は,眼前のグループのように多くの人に愛用されるのだそうだ.日本人はこうした原色の洋服はあまり多く着ないのでグループの識別が可能だそうだ.

見分け方は他にもあって,例えば日本人に多い茶髪は,韓国でも少し前まで同じであったが今は黒染めに回帰し,またその髪は半年パーマと呼ばれる強いカールのおばさんが多いのだそうだ.言われて見れば確かにそのようだ.


双子山型の大きな古墳と記念写真

双子山型の大きな古墳と記念写真

この双子山型の大きな古墳は夫婦合葬された古墳ではないかと見られ,一時発掘が検討されたことがあったそうだ.そしてその発掘に先立って,発掘そのものやり方を技術検討するために,これに隣接するもっと小さな古墳『天馬塚』(この下の写真)を試掘したそうである.『天馬塚』試掘の結果は予想外に素晴らしい出土品で大きな成果があった訳だが,この試掘に関わった研究者がその後皆交通事故に遭ったり,病におかされたり,と不幸が続いたそうだ.ということで,本命双子山型古墳は発掘を躊躇する人ばかりで,誰も関わりたがらず,結局発掘は見送りになったということだ.

悪天候をおして見学に来た家族連れが双子山型古墳を背に記念写真だ.シャッターを押すときは『キムチ~』の合図と発声がいかにも韓国らしい.キムさんが言うには,日本人の『チーズ』はどのタイミングでシャッターを押せばいいのかよく解らないそうである.因みに中国人は『1,2,3(イーリャンサン~)』(いやス~までかな?)と言っているようだが,こちらはもっと分かり難い気がしないでもない.


発掘された『天馬塚』

発掘された『天馬塚』

ここが隣の双子山型古墳のパイロット発掘された古墳.『天馬塚』の『塚』は埋葬された人物が特定されない場合用いられる名称で,もし判ったときは『稜』の呼称になるそうだ.常識なのかな?

で,入ってみると古墳の断面構造や素晴らしい発掘品(レプリカではあるが)が展示されており,驚いてしまう.黄金の冠とか見ると,エジプトなど他国同様先ずは王,圧倒的権力者の埋葬品に違いなかろうと思われる.また天馬が描かれた白樺の皮製馬具が出土したことで『天馬塚』と呼ばれるに至り,またこれらの他に腰帯など1万点以上の副葬品が発掘されたということだ.その一部のレプリカがここに展示されているのだが撮影禁止は残念だ.

後で振り返っても,とにかくここの出土品は凄い,と改めて思う.


下は,古墳公園の写真

古墳公園での眺め
古墳公園での眺め 古墳公園での眺め 古墳公園での眺め 古墳公園での眺め 古墳公園での眺め
古墳公園での眺め 古墳公園での眺め 古墳公園での眺め 古墳公園での眺め 古墳公園での眺め

古墳脇の田んぼはまだ準備中

古墳脇の田んぼはまだ準備中

古墳辺りには田んぼもある.耕され,作付け準備中の段階のようだ.大まかには日本より寒いので田植えも少し遅いようである.

石窟庵  Seokguram

石窟庵入り口の鐘楼

石窟庵入り口の鐘楼

大雨の石窟庵入り口にやって来た.階段脇に大きな鐘楼があった.雨でぼんやりしているが中国風の形に色使いといった雰囲気だ.石窟庵の本殿はこの山門からかなり奥まった所に建てられており,ここからはかなりの距離がありそうだ.鐘が床ぎりぎりの低い位置に吊り下げられており,随分変わった吊り方だと思ったが,韓国ではこれが普通らしい.

なお石窟庵は次に訪れる仏国寺と合わせてユネスコ世界遺産に指定されている.そして石窟庵と仏国寺は歴史書の記述から,8世紀,新羅/景徳王の時代の宰相,金大城により建立されたのではないかと見られているそうだ.


石窟庵まで雨のハイキング

石窟庵まで雨のハイキング

晴れていればさぞかし気持ちいいであろう林の道を行く.風もあって,横からの雨が全身を叩く.今回の旅行はとにかく悪天候に見舞われ,甚だついていない.


阿弥陀如来の祀られた石窟庵に到着

阿弥陀如来の祀られた石窟庵に到着

前述のように新羅の宰相/金大城(700年~774年)の建立とされるが,新羅が衰え,儒教中心の朝鮮王朝が912年頃から始まると,仏教は弾圧され,ここ石窟庵も永らく放置されることになったそうだ.

そして時代は下り,20世紀初頭郵便配達員が偶然洞窟内の仏像を発見,日本統治時代の1913年~1915年に大規模な修復工事が行われたということだ.ところが補修後に雨漏りが見つかり,セメントでシール処理をしたのだが,その工事で周辺の地下水排出構造が破壊され,窟と仏像が湿気に晒されるようになってしまったそうだ.また修復工事はあまり正確には行われず,余ってしまった石材なども生じたようだ.とりあえず現在は窟内部を空調で保護するため,窟に接する廊下部分はガラス窓で密閉された構造になっている.それでも撮影禁止にはなっているが.

石窟内部の構造は近くの案内板に示されていた.ガイドキムさんの解説によれば特に石窟の天井ドームに特徴が認められるそうで,何でも古代ローマの石造建築技術に共通する構造を有するということだ.古代ローマより大分後世の建築であるが,かつてのシルクロード交易とともに伝えられた技術であるのであろうか,興味深い.


下は,石窟庵の写真

石窟庵の写真
石窟庵の写真 石窟庵の写真 石窟庵の写真 石窟庵の写真 石窟庵の写真 石窟庵の写真 石窟庵の写真

仏国寺  Bulguksa temple

楽器を携えた仏国寺山門の守護神

楽器を携えた仏国寺山門の守護神

石窟庵を後に,同じ新羅国宰相金大城建立とされる仏国寺にやって来た.山門には楽器を携えた守護神と思しき像があった.もう一方の一体は刃である.どちらも珍しいと思うが,特に楽器の方には意表を突かれた.あとでいろいろなサイトを見せてもらったところ持国天王と増長天王という神様らしい.

なお山門の反対側には,これらとは異なるさらに二体の像が祀られていた.


仏国寺の紫霞門

仏国寺の紫霞門

かなり大きくしかも堅固な石垣や階段が目を引く.この写真は正面だがこの左手に移動してシャッターを切るのが定番だそうだ.もちろん写真的に決まるアングルであろうが,のみならず,上り階段の横から見た構造とその要因となった仏教世界を具象化したデザインが理解できるという.階段上の極楽世界が....の解説はちょっとはっきりとは思い出せないが...

基礎の石積みにはかなり特徴がある.自然石の上に加工した石材を載せたもので,一見すると脆いように見えるがそうでもないらしい.上部の真四角の加工石材は長くは見えないものの,実際は5m以上内部まで連なる長い梁状で,まあ,これが所謂土台として機能しているようである.実際宰相金大城の建立から1200年経てなおしっかりしているから大したものだと思う.


仏国寺の本殿,大雄殿

仏国寺の本殿,大雄殿

1300年前上述の新羅国宰相により建立されたが,1598年豊臣秀吉の遠征軍によって焼失させられたというキムさんの解説に先ずはビクッとする.そして1765年に再建されたそうだ.

大雄殿の前に立つのは左が釈迦塔,右が多宝塔と称せられるようだ.何にしても左右非対称であるところがあまり例を見ないという.キムさんの解説ではこれが韓国国旗デザインにもなっている陰陽思想を具現化した一例だそうだ.つまり左右同じでなく,別々の二体が互いに補って調和する姿を現しているのだそうだ.表面的にはそう言われればそうかな~と一応思わない訳でもないが,そんなに上辺だけのものではないのでしょうね~きっと.


仏国寺大雄殿前の回廊

仏国寺大雄殿前の回廊

仏国寺大雄殿前の回廊は雨宿りの人で賑わっていた.縁に魚のような,木魚のような....角を付けた魚型のオブジェ...キムさんの説明があったのだが...ん~,思い出せない.でも造形としてなかなか特徴があり,印象深いのだ.


仏国寺極楽殿で最近見つかった豚(イノシシ)

極楽殿で最近見つかった豚(イノシシ)

仏国寺の数ある社の一つに極楽殿と称されるお堂があった.ところで韓国も中国伝来十二支があるそうだが,3年くらい前日本では猪,韓国(や中国)ではブタ年だった際,偶然極楽殿軒下で豚(イノシシ)(写真中央部)が見つかったのだそうだ.でもこの猪年は12年に一回のそれと違って,600年に一度しか巡ってこないという特別の猪年(豚年)だったのだそうだ.そこで寺は金貼りの猪(豚)を作って,庭に据えたということだ.

ガイドキムさんは豚だと言い張っているが,少なくとも庭に据えられたオブジェは牙があるので猪で,そのもとになった極楽殿での彫刻も猪に見える.でも市中で見かけるマスコットや貯金箱は殆ど須らく猪ではなく,豚のようであることには違いない.

まあでも,1200年の歴史を有する古刹の,しかも素人にもくっきりみえる軒下の猪(豚)がつい最近『発見』されたというのはかなり眉唾ものだとは思うが.....そこはまあ,秀吉でもあるまいに別に事を荒立てることも....


美しい仏国寺の遊歩道

美しい仏国寺の遊歩道

一通り見物すると脇道に逸れ,出口に向かった.一帯は林になっており美しい.これで雨さえ無ければ最高だと思う.


下は,仏国寺の写真

仏国寺での眺め
仏国寺での眺め 仏国寺での眺め 仏国寺での眺め 仏国寺での眺め 仏国寺での眺め 仏国寺での眺め 仏国寺での眺め
仏国寺での眺め 仏国寺での眺め 仏国寺での眺め 仏国寺での眺め 仏国寺での眺め 仏国寺での眺め 仏国寺での眺め

慶州と近郷  Gyeongju and the suburbs

慶州郊外のコーロンホテルも温泉あり

郊外のコーロンホテルも温泉あり

仏国寺の観光も終わったので市内のレストランプルコギの夕食を頂戴した.いつものように若干アルコールが薄めのビールもそれなりに美味しいが,隣席の同行の方からマッコリを分けてもらい戴く.初めて飲んでみたがジュースのように口当たりが良く美味しい.

腹もくちくなって,この日宿泊の慶州郊外に位置するコーロンホテルに行った.コーロンは韓国の大きなスポーツクラブを運営する企業グループだそうで,庭には球技コートなど備えている.温泉もあって,入ってみた.サウナは2部屋あって,温度計は無かったが殺人的高温だ.この分では早晩ほんとに犠牲者が出るのではと思った.


慶州の翌朝は晴れた

慶州の翌朝は晴れた

コーロンホテルで一夜が明けると雨が上がっていた.やはり晴れると新緑が映えてぐっと眺めがいい.安いツアーのためであろう,例によって朝食はホテルのダイニングルームではなく近くのレストランまで出かける.


慶州で朝食のレストラン

朝食のレストラン

ハングル表示の韓料理レストランに到着した.ここもまたオンドル床に座る座敷席のレストランだ.私自身は日本でもそうだが,座敷形式のレストランや飲み屋は好きになれない.多分韓国のお客様は座った方が落ち着くのであろう.

ところで,日本人客は座敷でもまああまり問題ないが,最近増えつつある中国の観光客は欧米人同様座敷が全くダメだそうだ.ところが中国観光客は圧倒的にお金持ちで,場合によっては1人の客がお店の商品丸ごと買い上げてしまう程なのだそうだ.なので急遽中国客受け入れのため座敷をテーブル席に改装するレストランが増えているそうだ.そして韓国の旅行ガイドも中国語ガイドは実入りも良く,また幅を利かせているそうだ.そして数年のうちに中国からの年間訪韓者が韓国人口を上回る見込みだそうで,その受け入れ体制整備に懸命だそうだ.まあとにかく使う金の桁が違うそうです,はい.私たちのガイドキムさんご自身は『日本語ガイドではあるが,60代まで続けている人もいるし,まあこれもいいのでは』と話していた.それはそれで堅実だと思いますね,はい.


慶州の朝食は純豆腐チゲ

慶州の朝食は純豆腐チゲ

韓流鍋料理の一種で,やはり唐辛子が効いているのが特徴だと思う.寿の文字が記されたフタ付き容器にご飯,副菜は白菜キムチ,イカのキムチ,ノリ,ちりめんじゃこ,レンコン...など.副菜は朝,昼,晩同じようなものだと思った.


慶州郊外は伝統的住宅が見られる

慶州郊外は伝統的住宅も見られる

朝食後バスはソウル方向,焼き物の利川へと向かった.少なくとも朝のうちは雨が降ってなかったので,車窓の光景はなかなか良い.慶州は古都だけあって,積極的に伝統的古い様式の瓦屋根の住宅や,またたまに写真のような藁葺き屋根の建物も見かけることができる.ところでこうした特徴的住宅を除くと,田んぼや畑,植生など日本のそれに近く,外国では最も日本の風景と似ているところでは,と感じられた.


下は,慶州と近郷辺りの風景

慶州と近郷の写真
慶州と近郷の写真 慶州と近郷の写真 慶州と近郷の写真 慶州と近郷の写真 慶州と近郷の写真 慶州と近郷の写真 慶州と近郷の写真
慶州と近郷の写真 慶州と近郷の写真 慶州と近郷の写真 慶州と近郷の写真 慶州と近郷の写真 慶州と近郷の写真 慶州と近郷の写真


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