ブハラは中世ブハラハン国の首都で,広大なオアシスの中に位置する.人口21万人.サマルカンドと並ぶ中央アジア観光の中心だがサマルカンドほど観光化されておらず中世の雰囲気が色濃く維持されている.ブハラとはサンスクリット語で「仏経の僧院」を意味するそうだ.8世紀のアラブ族の移住でイスラム化が進み,シルクロードの商業都市として繁栄.1500年のウズベク族によるブハラハン国創設後,首都となった.ブハラにはソビエト化が及ばず,町並みは迷路を思わせる,との解説もあるが,観光バスで通ったところはサマルカンド同様広い通りが多いように見えた.
9世紀末から10世紀,ウズベキスタンからアフガニスタンの1部にかけて勢力を築いたサーマン朝の事実上の創始者イスマイル(名目上は兄のナスル)の墓.900年に建てられたイスラム初期の建築様式.焼き煉瓦の組み合わせで壁面が日光や月光の角度に応じ,様々な模様,色彩,陰影を見せるように工夫されている.
壁の厚さは1.8mもあるが木造のような柔らかい感じを与える.設計に高度な数学を応用した形跡があるという(正多角形の組み合わせなど?).サーマン朝時代,ブハラは黄金時代を迎え,盲目の詩人ルダーキーや,医学,天文学を初め科学の広い分野で第1級の業績を残したイブンシーナらが活躍し,学問,芸術の発達と軍事,経済力が充実した,ということだ.
下は,イスマイールサマニ廟の写真あれこれ
バラハウスとは泉とか池のことで,そこにあるモスクなのでバラハウスモスクと称するという. 構造上大きな特色があり,天井が細くて堅いカラガチという木の柱で支えられている. 壁は他のウズベクの典型的様式,つまりレンガの上にタイルを貼った構造であることが壊れかかった部分から垣間見ることができる.現在も使われ当日の礼拝時刻が入り口に掲げられている.
木の柱の上部や天井には精巧な彫刻がほどこされ,彩色されている.これを見て,「以前どこかで見たような?.....そうだ,日光の東照宮!!」と思った.でも同行者は誰もそんな感想を漏らしたものはいないので,筆者だけの勘違いかな~.....
近所のご隠居さんといった風情のお二人.この場所にはぴったりだ.左の顎ひげの長い方はペルシャ系の顔立ちですね~ちょっとピンぼけになってしまったのが残念.
このような木製のミナレットは初めて見た.ただこれ自体はあまり古くは見えないので,再建だろうか?なお近くに鉄塔が在るが,病気の原因になりがちなハウズの水の飲用が禁止された1922年,旧ソ連の技術者によって建てられた給水塔だということだ.
下は,バラハウスモスクの写真あれこれ
「アルク」は城,砦の意味だという.だからアルク城と言うと「城城」となって本来はおかしいのであろうが,まあ......居城が初めて建設されたのは2000年も前のことで,以来ブラハハン国の王が住み,現在の城塞の基礎ができたのは6世紀頃と,とても古い歴史を有する.その後も破壊と再建,修復が繰り返され18世紀にほぼ今の形になったそうだ.
城門から少し入ったところに牢獄が配置されていた.中にろう人形が置かれていたが...う~ん,暗くて写っていないようだ.歴代のハーンは残虐で,反抗した人は容赦なく投獄し,また惨殺したようだ.
材質が木だとどことなく日本の寺社建築と似た部分があるように見えてくる.天井部分はバラハウスモスク同様に彫刻と彩色が施されている.
下は,アルク城の写真あれこれ
カラーンモスクは1516年建造.1万人が礼拝できたといい,サマルカンドのビビハニムモスクに次ぎ,中央アジアで2番目に大きかったそうだ.現在も金曜礼拝に使われているようだ.ところでミナレットは礼拝時間を告げるアザーンのための通報塔である筈だが,このウズベキスタンでは一度も聴くことができなかった.単にちょうどいい時間に居合わせなかったためか?
この日は木曜日であったが,左の二人は民族服っぽい.この国では普通の日でも概して民族服はよく着用されているようだ.
ミレアラブメドレセ(?)だったか,カラーンモスクに隣接してある.このメドレセとカラーンモスクの間の広場に下の帽子屋さんとかいろいろ出店している.
カラーンとは大きいの意で,砂漠の灯台と言われるそうだ.1127年カラハン王朝のもとで,焼き煉瓦を積み上げて造られた.塔の高さ46.5mは中央アジア第1を誇り,地震多発地帯で土の塔が倒れなかったのは,土中に10mの起訴部分を埋め込んであるのと,壁に良質の煉瓦を使っているからだという.煉瓦を縦,横に積み,太陽の具合で壁の模様が変化するようにできているのが面白い.狭い入り口から暗い(ほんとに暗い)100段余の階段を登り,頂上に到着すると,そこには窓が開けられ下界が一望できる.18~19世紀のブハラハン国時代には罪人をこの塔から落としたと....ああ怖い.
下は,カラーンミナレットの写真あれこれ
ターキとは丸屋根のある市場の意だそうで,アラビア圏だとスークに相当するだろう.ザルガラーンは「宝石商の」という意味らしいからターキザルガラーンは宝石市場になろう.尤も宝石のみならずいろいろ売られているが. ターキはあちこちにあるらしく,こんなターキもくぐってきた.
たしかに丸い屋根が連なっている.
この方は著名な職人さんで,自分で作って,それを並べて売っているのだそうだ.
ターキザルガラーン隣接のメドレセ.今は専ら商店として使われているようだ.カーペット店や, 別のカーペット店,装身具店など,いろいろ並んでいる.
この辺りは広場もお店もあるので格好の暇つぶし場所になっているのであろう,近所の人々と交流し,このような場面も.
リャビハウズとは池のことで,この池は8角形,深さ5mほどのようだ.水の増減に応じて池の縁に降りられるように階段がついているようだ.リャビハウズメドレセはこの池の辺にある神学校なのでこのように通称されるのだろう.
画面中央の女の子,12歳くらいか?小さなパースを売りつけてくるのであるが,英語,仏語,独語が可能で日本語も少しできる.どこの国にもいる馬鹿の1つ覚えのセールス用語でなく,少なくとも英語は普通の対話がとても上手にできる.冗談もうまい,ほらほら,あそこの日本人,「これ買わない?」と持ちかけたら,「全然金がない」と断られたの.それで,「なら私のパンを少し分けてあげるわ!」と,言ってやったわよ!だって.
この辺りは古い時代のブハラの中心だったそうだが,はてこのロバに跨った人は誰だったかな~?
いかにもオアシスの茶屋といった風情.その昔,隊商はこのオアシスにたどり着くとお茶を飲み,湯に浸かり(筆者の想像),宿泊した......であろう.
丸いウズベクスタンダードのパンがあちこちで売られている.なおブハラでは伝統的前庭付き店舗併用住宅や,集合住宅から高層オフィスビルまでいろいろ揃っている.
通りにはあれこれ売っている.女性のベールはイスラム国としては少ないが,この若い女性のようにたまに被った人を見かける.ほかにもこんなお店や,あんなお店が道路に出店している.
看板もないし,陳列棚もないし....全然肉屋の店舗らしくはないのであるが,間違いなく肉屋さん.う~ん,それにしても商品展示が豪快だね~お店によっては軒下に羊が丸ごとぶら下がっていたりする.1600の正札は1600スム(約160円)/100grであろうか?,いや1600スム/1kgか?はたまたこれ全部で1600スムか?ガイドさんに聞いておけばよかった.
ここはレストランの軒先.シャシュリクは羊やビーフの肉片,挽肉のつみれ状のものを金串にさして焼いた料理,他国でシシカバブと呼ぶ料理とほぼ同義語だと思う.ほかに肉団子入りの麺やピラフといった結構高カロリーな料理を多く食べた.またどのレストランも同じようなメニューでバラエティには乏しいように思ったが,これは旅行者向け料理ばかり出されたせいかな~?
宿泊したニューブハラホテルのレストランでのショー.日本の民謡踊り的,つまりあまり激しくない踊り,と言える.このような赤や紺の民族衣装を付けて踊る.演奏は楽器も唄も男たちであった.
空港だから周囲はのどかな場所にある.現在のターミナルビルが狭いためか隣に新ターミナルを建設中のようであった.この空港は国内線なのにパスポートのチェックやらセキュリティコントロールが厳しく,銃を持った兵士が警戒している.
下は,ブハラ市内の写真あれこれ