サマルカンドSamarkand

青の都サマルカンドは,約2500年前にソグド人が築いたオアシス都が始まりという.アレキサンダー大王,ペルシャ,蒙古などの攻撃の度に興亡を繰り返した.現在の街はティムールが築いたもので,ティムールの好んだ青色のタイルを基調にした霊廟,モスクで美しい.ティムール以前の都市の痕跡は,チンギスハンに悉く破壊され,今は殆ど残っていないようだ.尤もそれが次の発展を助けたのではあろうが.

グリアミール廟Gur Emir mausoleum

グリアミール廟前景

グリアミール廟前景

グリアミールとは「支配者の墓」の意で,ティムールとその一族の墓9つがあるそうだ.ティムールは1404年孫のムハンマドスルタンの死を悼んでこの廟の建設を命じた.ところが翌年1月,ティムール自身が病死,孫と共に葬られることになったそうだ.1941年ソ連のアカデミー考古学者ミハイル・ゲラシモフらによって本殿内の墓が開けられ,ティムールがシルスタンの戦いで手足を失ったことや,ウルグベクが首をはねられて死亡したことが確かめられたのだという.


グリアミール廟入り口

廟入り口

中庭をはさんで中央ドームを臨める.なお少し離れた場所,例えば宿泊したアフラシャブホテルから眺めると,廟の背景に雪山が見えて美しい.


グリアミール廟ドームの屋根

ドームの屋根

サマルカンドブルーのタイルが美しい.ドームの内側玄室となっており,美しい装飾が施されている.ここには息子のシャールフ,前述の天文学者としても有名な孫ウルグベクの棺が納められている.


グリアミール廟ミナレット

ミナレット

ミナレットの形状としては凝っており,アラビア文字等を刻んだ色タイルが青空に映える.


グリアミール廟のタイル

タイル

色タイルは漆喰で貼り付けられているようだ.個々のタイルは精巧な印象は受けず,寧ろ結構ラフだと思った.


凧揚げの子供たち

凧揚げの子供たち

近所の子達が凧揚げに興じていた.ウズベキスタンは多民族国家で,実にいろいろな人々がいるが,この子たちはウズベク人だろうか?多分このての顔はウズベク人だと思うが.....この子たちの傍らにはも少し大きい子の一団もいて,凧揚げを見守っていた.


下は,グリアミール廟の写真あれこれ

グリアミール廟の写真
グリアミール廟の写真 グリアミール廟の写真 グリアミール廟の写真 グリアミール廟の写真 グリアミール廟の写真 グリアミール廟の写真 グリアミール廟の写真
グリアミール廟の写真 グリアミール廟の写真 グリアミール廟の写真 グリアミール廟の写真 グリアミール廟の写真 グリアミール廟の写真 グリアミール廟の写真

レギスタン広場Registan Complex

レギスタン広場の3つのメドレセ

レギスタン広場の3つのメドレセ

レギスタンはウズベク語で「砂の広場」,メドレセと「イスラム新学校」のことだそうで,ここレギスタン広場には3つのメドレセが並んでいる.左側がウルグベクメドレセ,中央がティラカリメドレセ,右がシェルドルメドレセという名前だそうだ.この中でウルグベクメドレセは1420年ティムールの孫ウルグベクが建てたそうだ.当初イスラム神学の講堂として建てられたが,後に天文学,哲学,数学などの研究の場,大学の役目も果たした.50の寄宿舎があり,100人の学生が住み,その中にはタジクの有名な詩人ジャミもいた.ウルグベク自身も数学を教えていたそうだ.


中央のティラカリメドレセ

中央のティラカリメドレセ

入り口にティラカリメドレセの案内標識が掲げられている.ウズベク語とロシア語(多分),と英語で「メドレセはサマルカンドにおける時の権力者ヤラングトシュ・バハドゥルの命によって1660年に建立された」と記されているようだ.1階建て2階建ての建物がある.たしか1階建ての部分は先生の部屋があり,2階建ての上は教室で,下は学生の宿舎......だったかな?現在1階部分はお土産物屋さんになっている.


ティラカリメドレセの礼拝堂

ティラカリメドレセの礼拝堂

ティラカリとは「金箔で飾られた」の意だそうで,その名のとおりの礼拝堂の壁や天井は金ぴかである.メドレセとされているが,実際はモスクとして使われたという.また後述のライオンと人面をかざしたシェルドルメドレセが,敬虔なイスラム教徒の反発に合ったために建てられたとも言われる


シェルドルメドレセ

シェルドルメドレセ

入り口の案内標識を比べると中央のティラカリメドレセより少しふるいようだ.17年かけて1636完成.当時のサマルカンドの支配者ヤラングトシュバハドゥルの命によるものだそうだ.ここのドームがまたグリーンがかったブルーで美しい. 入り口の木製ドアが年月を物語っているようだ.しかし何よりも,正面入り口のライオンと人面が,偶像崇拝をタブーとするイスラム教の建物に描かれていることに驚く.なおシェルドルは「襲いかかるライオン」の意だそうである.またこの模様はそのままウズベキスタン通貨「200スム紙幣」の絵柄にもなっている.


シェルドルメドレセ中庭で説明するガイドさん

シェルドルメドレセ中庭で説明するガイドさん

女性はサマルカンド専門のガイドさん,男性はスルーの日本語ガイド,サイちゃん.女性がウズベク語(多分)で説明すると,サイちゃんが日本語にしてくれる.


地元(?)の観光客

地元(?)の観光客

多民族国家なので,右から2番目の男性なんか日本人の風貌に少し近い.メドレセ前の停車中のバスを見ると,埃で汚れており,タシケントとか遠いところからきた観光客....女性の黒いスカーフを見ると,あるいはイラン辺りからの観光客か?,などと勝手に想像してしまう.それにしてもこのバス,ガスボンベを背負っていたり,エンジンルームのカバーが開いていたり....と何となく旧ソ連っぽい.....ような気がしたり....


下は,レギスタン広場の写真あれこれ

レギスタン広場の写真
レギスタン広場の写真 レギスタン広場の写真 レギスタン広場の写真 レギスタン広場の写真 レギスタン広場の写真 レギスタン広場の写真 レギスタン広場の写真
レギスタン広場の写真 レギスタン広場の写真 レギスタン広場の写真 レギスタン広場の写真 レギスタン広場の写真 レギスタン広場の写真 レギスタン広場の写真

ウルグベク天文台跡Ulugbek Observatory

ウルグベク天文台跡の六分儀の入り口

ウルグベク天文台跡の六分儀の入り口

1428年帝王ティムールの孫で科学者,天文学者としても著名なウルグベクによって建造された.彼の死後破壊され,1908年ロシアの考古学者ビャトキンが発掘.六分儀は大理石でできていて,高さ40.2m,弧の長さ63m幅2mの規模だった.これはその六分儀入り口.


天文台跡門番兼みやげ物屋さん

門番兼みやげ物屋さん

ここで撮影料を徴収される.ただ他国と違って,ウズベクでは撮影料を支払ってもレシートのようなものは一切発行しない.ここは空いているからいいが,他の込み合った場所,たとえばビビハニムモスクとかでは,徴収する人がほんとにその係りなのか?(身分証とか下げてない)と思うし,向こうも誰が払って,誰がまだ払ってないのか区別がつくのだろうか?


六分儀の内部

六分儀の内部

かなり巨大なものだ.子午線に沿って東向きに設置されているようだ.暗くてブレてしまった(ってゆーか,ウデのせいか).インドでもこのような巨大な六分儀を見たが,インドのそれはここより後世の建造で,ウズベクの技術屋さんが出向いて作ったものらしい.


資料館の天井

資料館の天井

この頃のウズベキスタンの天文学は世界の最先端で,1018個の星の座標を求めた「ウルグベクの天文表」が残っているそうである.また1年の長さが365日6時間10分8秒と,現在の計測値365日6時間9分9.6秒と比べ,1分以内の誤差で既に求められていた.確かメキシコのマヤ文明でも天文学の精度は高かったように聞いているが,いずれにしてもすごいものだね.


天文台のロケーションは高台にあり,サマルカンドが山で囲まれた盆地にあることがよく解る

天文台のロケーション

高台にあり,サマルカンドが山で囲まれた盆地にあることがよく解る.周りの山は精々1000m少しのようであるが,雪をいだきいい眺めだ.

ヒャーヒズィンダ廟Shahizinda Mousleum

ヒャーヒズィンダ廟群の中央通路

ヒャーヒズィンダ廟群の中央通路

ヒャーヒズィンダ廟とは生きている王」の意味,ティムール一族や縁者の墓のある廟群で,通路の両側にモザイクタイルの廟が並んでいる.建設は11~15世紀に渡り,最も新しい入口の門には「この壮麗な建物はヘジラ883年(西暦1434年)ウルグベク(ティムールの孫)の子アブドラジズハンによって建てられた」と記されているそうだ.ティムール家の末裔だろうか?ネクタイ姿の一団も見えた.


ブルーのドーム

ブルーのドーム

サマルカンドはやはりこの青が決め手.しかし一部タイルが剥がれたためであろうか,てっ辺に草が生えてきたね.


ヒャーヒズィンダ廟玄室入り口

玄室入り口

イスラム教の創始者マホメッドの従兄弟のクサムイブンアッバスが異教徒に首をはねられたが,彼は自分の首を抱えて深い井戸の底に降り,永遠の命を得たという伝説があるそうだ.


ヒャーヒズィンダ廟玄室

玄室

内部はイスラム様式で装飾されている.クサムイブンアッバスが埋葬されているため,地元の人達の尊崇厚く,礼拝の人が絶えなく,イスラム教徒にとって第2のメッカとも言われるそうだ.


ヒャーヒズィンダ廟はレンガ構造にタイルを貼った造り

構造

壊れた部分を覗くと,レンガ構造にタイルを貼った造りであることがよく解る.


タイルは青系に加え,黄色やオレンジ系のタイル

タイルの色

この頃から青系に加え,黄色やオレンジ系のタイルが作られ始めたのだそうだ.

ビビハニムモスクBibihanum Mosque

ビビハニムモスク前景

ビビハニムモスク前景

ティムール大帝が愛妻ビビハニムに贈ったというモスク.ティムールの死後3年目,1404完成の中央アジア最大級のモスク.1399年,インド遠征で勝利を納めたティムールは,最大のモスクを造ろうと,インドやペルシャ等から建築家,技師,職人を集めた.石工だけでも200人,ペンジケント郊外の山からの石の切り出しには500人が当たったという.ただ短時間で造るため検証不十分な設計若しくは安普請のため頻繁に壊れ,長年にわたって修復が続けられているようだ.


本立てあるいは説教台

本立てあるいは説教台

写真では人影で若干見難いが,白いコートの女性の左側.かつて大理石の板が敷き詰められていた中庭中央にティムールの孫のウルグベクが造った石の説教台が残る.これにコーランを載せて開いたようで相当の大きさがある.


ビビハニムモスクのミナレット

ミナレット

ミナレットはかつて80mあったが,崩れ落ちて今では50mだそうだ.オレンジ色の地に白いアラビア文字がデザインされている.多分今の殆どのウズベク人はアラビア語を読めないとは思うが.....(例えば,イスラム圏でアラビア文字を廃し,アルファベット1本にしたトルコでは,現在アラビア語を読める国民は殆どいない,と聞いた)


隣のシャブバザールから眺めたビビハニムモスク

隣のシャブバザールから眺めたモスク

かつては街の人々は礼拝に来て,その後バザールに出かけたのであろうか?

シャプバザールSiab Bazaar

シャブバザール

シャブバザール

シャブバザールはサマルカンド最大のバザール.マフラー下のヘアーバンド(?)がファッション的にも,サマルカンドブルーの色あいからしてもウズベキスタンらしいと思う.


ソーセージ

ソーセージ

たくさんのソーセージもウズベキスタンらしいと思う.そう言えばソーセージは元々羊の腸に詰める食品だった.何しろこの辺は羊料理が盛んだ.


下は,シャプバザールの写真

シャブバザール
サマルカンドのシャブバザール サマルカンドのシャブバザール サマルカンドのシャブバザール サマルカンドのシャブバザール サマルカンドのシャブバザール サマルカンドのシャブバザール サマルカンドのシャブバザール


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