ベルリンBerlin

ドイツ最大の都市.壁が崩壊して11年,東西ドイツ統一から11年.首都再開発に向けて様々なプロジェクトが進められているそうで,たしかにあちこちでクレーンが見えた.現在人口は約350万人,面積は890,77 平方kmで東京23区の約1.5倍の広さくらい,市民の多くはキリスト教徒だという.

ブランデンブルグ門Brandenburger Tor

ブランデンブルグ門

ブランデンブルグ門

ベルリンの象徴であるこの門は1961年8月以降,壁崩壊の1989年11月9日までの28年間,2枚の壁の間に挟まれたこの門を誰もくぐることはできなかったそうだ.元々ブランデンブルク門はプロイセン王国の凱旋門として,フリードリッヒヴィルヘルム2世の命によって建てられ,1791年に完成したそうである.

ギリシャのアクアポリスの神殿入り口を形どって造られたという門の上の馬車には,勝利の女神ビクトリアが乗っている.この馬車は1806年,プロイセンに勝ったナポレオンによりパリに持ち去られたが,1814年には再びベルリンに戻されたそうである.


下は,ブランデンブルグ門の写真

ブランデンブルグ門辺り ブランデンブルグ門辺り ブランデンブルグ門辺り ブランデンブルグ門辺り ブランデンブルグ門辺り ブランデンブルグ門辺り ブランデンブルグ門辺り ブランデンブルグ門辺り

ベルリン大聖堂Berliner Dom

正面から望むベルリン大聖堂

正面から望むベルリン大聖堂

長いなが~い歴史があるようだ.まず13世紀に作られたゴシック様式の豪華な教会があり,1747年にフリードリッヒ2世はそれをバロック様式の教会に建て替えさせたらしい.1817~1822年にこの建物は大改修が行われたそうだ.さらに1905年に,以前からあった大聖堂が建て替えられ,現在のような形になった.当時ここはホーレンツォーレン王家の教会なので,内部にはホーレンツォーレン王家ゆかりの人々の石棺や墓碑などがあるのだという.


ベルリン大聖堂前の広場でくつろぐ人々

広場

ポカポカ陽気で大聖堂前の広場でくつろぐ人々が多く見られた.


下は,ベルリン大聖堂とその周りの写真

ベルリン大聖堂辺り
ベルリン大聖堂辺り ベルリン大聖堂辺り ベルリン大聖堂辺り ベルリン大聖堂辺り ベルリン大聖堂辺り ベルリン大聖堂辺り ベルリン大聖堂辺り
ベルリン大聖堂辺り ベルリン大聖堂辺り ベルリン大聖堂辺り ベルリン大聖堂辺り ベルリン大聖堂辺り ベルリン大聖堂辺り ベルリン大聖堂辺り

ペルガモン博物館Pergamon Museum

ペルガモン博物館正面入り口

ペルガモン博物館正面入り口

ペルガモンで発掘された大理石製の「ゼウスの大祭壇」や,バビロンの「イシュタール門」が展示してある.博物館の名前になっている「ペルガモン」は,現在のトルコのベルガマ(Bergama)地方で紀元前2世紀頃ヘレニズム期に小アジアで栄えたギリシャの植民地国家.その都市国家内にあった神殿の正面部分と壁画が原形どおりに復元されたことから博物館の名前としても付けられることになったそうである.


ペルガモン博物館出土エリア

出土エリア

エーゲ海に面し現トルコのベルガマやメソポタミアのものである.ヨーロッパ列強の植民地支配に続き,19世紀に成立したばかりのドイツ帝国も強力な軍事力を背景にした帝国主義のもと世界中に候補地を求めて進出していった.これら遺跡の発掘にあったドイツ人たちは,成立したばかりのドイツ帝国の威信をかけて取り組み,今日では考えられない強引な方法で運び出し,ドイツの財産にしてしまったようである.そう言えばトロイを掘り当てたのもドイツ人のシュリーマン.彼はヨーロッパでは英雄級であってもトルコでは泥棒以外の何者でもないとされているというのは当然であろう.

ところでシュリーマンはトロイの財宝を祖国ドイツ,ベルリンに寄贈した.しかし,第二次世界大戦の混乱の中トロイの財宝は忽然と姿を消してしまい,戦後,多くの研究者がその行方を追った.半世紀に渡って行方がわからなくなっていたが,最近の調査で,戦後の混乱時にソ連軍の秘密部隊によってロシアに密かに持ち出されロシアのプーシキン美術館に秘匿されていることが判明したそうである.


ペルガモン遺跡

ペルガモン遺跡

この写真の左上が「ゼウスの大祭壇」,中央の扇型部分が円形劇場であろう.ペルガモン遺跡の一部はまだトルコのベルガマに残っており,2002年3月訪れたときは天気が良く,ゼウスの大祭壇の中心に位置したであろう大理石のギリシャ様式神殿が白く輝き美しかった. また円形劇場は上から見ると予想以上に急峻で,ちょっと足がすくんだことを思い出す.


バビロンのイシュタール門

バビロンのイシュタール門

紀元前6世紀(BC580年)のものでバビロンの市壁の北東部にあったこの門は正式名は「イシュタール.サーキパト.テビシャ(イシュタールは敵を制服する女神)」という意味の名前だそうである.深い青が美しい.高さは14.73m,幅15.70mで,壁面には(には見えないが,どうもそうらしい),雄牛のレリーフで飾られていた.


ライオンのレリーフ

ライオンのレリーフ

イシュタール門に向かう通りの両側にはライオンのレリーフタイルがはめ込まれている.3年前の2000年初秋,世田谷美術館で「メソポタミア展」が開催されたとき,この中の数枚が公開され興味深く眺めたことを思い出す.ここではずら~と並んでいるのでより壮観である.


ミレトウスの市場

ミレトウスの市場

ミレトウスの市場はBC2世紀のローマ遺跡で,元の建物はBC165年に建てられたものという.


下は,ペルガモン博物館の写真あれこれ

ペルガモン博物館 ペルガモン博物館 ペルガモン博物館 ペルガモン博物館 ペルガモン博物館 ペルガモン博物館 ペルガモン博物館 ペルガモン博物館
ペルガモン博物館 ペルガモン博物館 ペルガモン博物館 ペルガモン博物館 ペルガモン博物館 ペルガモン博物館 ペルガモン博物館

アレクサンダープラッツAlexanderplatz

アレクサンダープラッツ駅

アレクサンダープラッツ駅

これは地上列車の駅舎.アレクサンダープラッツには地下鉄,市電も集まり交通の要衝のようだ.かまぼこ形の駅舎は何となくノスタルジアを感じさせる.どうして日本の鉄道ではあまり見かけず,ヨーロッパの駅で多いのだろうか?かまぼこ形駅舎にはやはり長距離列車が似合うように思えるが,近距離電車も,というかそちらの方がかなりの頻度で発着していた.


ベルリンテレビ塔

ベルリンテレビ塔

高さ365m,途中に球形の展望台のついたテレビ塔.東ドイツ建国20周年を記念するために1965年から4年の歳月をかけて建てられたそうだ.東ドイツの権威にかけて作られたこの塔は,壁のあった当時も,西ベルリンから異様なほどよく見え,まあ狙い通りだったようだ.たしか6~7ユーロと結構高い入場料を払いエレベータで展望台に登るとベルリンの街360°が一望できる.あいにくカメラのバッテリが切れ写真が撮れなかったが,茶色系の建物,ブランデンブルグ門近くの広々とした緑,数多くの水路.....が目立った.


パークイン

パークイン

宿泊したホテル,正式にはPark Inn Berlin Alexanderplatzと長い.アレクサンダープラッツ駅から間近で1000室余の高層(37階)ホテル.ロビーのある1階は広くきれいであるが,部屋は何となく旧共産圏時代の.....といった感じ. 上の部屋からは眼下にバカ広い通りが広がる.それにしてもお向かいの建物,何となく共産圏様式の味気なさ...,と漂わせている(それとも勘ぐり過ぎか?)


アレクサンダー広場

アレクサンダー広場

アレクサンダープラッツのPlatzは英語のplazaに相当するからアレクサンダー広場となろう.ここはパークインとアレクサンダープラッツ駅の間の広場で,この界隈は公園や広場が多い.


落書き

落書き

ポルトガルやイタリアには若干負けるかも知れないがここも落書きは多い.ここにもあそこにもそしてまた,あっちにもといったところである.


ベルリンベアー

ベルリンベアー

熊はベルリンのシンボルだそうで,熊のぷーさんのようにたった1つのデザインでなく,もうありとあらるるデザイン,色,サイズ....の熊が適材適所置かれているのがおもしろい.これは駅入り口にあったが,例えばショーウィンドウとか,街角とか....あちこちに見かける.


下は,アレクサンダープラッツの写真あれこれ

アレクサンダープラッツ周辺
アレクサンダープラッツ周辺 アレクサンダープラッツ周辺 アレクサンダープラッツ周辺 アレクサンダープラッツ周辺 アレクサンダープラッツ周辺 アレクサンダープラッツ周辺 アレクサンダープラッツ周辺
アレクサンダープラッツ周辺 アレクサンダープラッツ周辺 アレクサンダープラッツ周辺 アレクサンダープラッツ周辺 アレクサンダープラッツ周辺 アレクサンダープラッツ周辺 アレクサンダープラッツ周辺

Others

ベルリンの壁

ベルリンの壁

ベルリンは第二次世界大戦後,反ヒットラー連合であった勝利国ロシア,フランス,イギリス,アメリカの4ヶ国によって4占領地区に分割統治された. その後,ドイツ連邦共和国(西ドイツ)とドイツ民主共和国(DDR)に国が二分されることになり,ベルリンのフランス,イギリス,アメリカの占領区域は東ドイツ領域にすっぽりと囲まれる形になった.

1940-50年代はベルリンをめぐる緊張が続き1961年8月6日,ワルシャワ条約加盟国の指導者たちがモスクワで協議をし,「西ベルリンの情勢整備」が決定されました,平たく言えば「西ベルリンとの境界線で,有効なチェック体制を設ける」という内容であったか公表されることはなかったという.

そして8月12日から13日にかけての深夜,国家人民軍が召集され,13日20時ごろには東ドイツと西ベルリンの境界線の封鎖が始まり,翌14日から1989年11月9日までの28年間,このベルリンは壁によって閉ざされることになった.まさに電光石火とはこのようなことを言うのだろう.

コンクリート壁の全長は155km,高さは4m,西側で把握していた限り国境にて逮捕された者5221人,死者80人(うち射殺60人).....となっているが実際数はこれとは比較にならないくらい多かったようだ.

壁は基本的に落書きで覆われているが,なかんずくこのブレジネフとホーネッカー(だったと思う)のキスは有名なのだそうだ.全長155kmの殆どは破壊され,あと少し有刺鉄線で保護された壁が残っているだけだそうだ.このようにでもしないと,皆「記念に....」と壊して持っていってしまうのだそうだ.


戦勝記念塔(Siegessaeule)

戦勝記念塔(Siegessaeule)

1864年の対デンマーク戦争,1866年の対オーストリア戦争,1870-1871年にかけてのフランス戦争の勝利を記念して建てられたという.塔の周りには大砲が付けられ,すべて金箔で上から,フランス,オーストリア,デンマークの大砲状にデザインされてそうだ.以前連邦議事堂前にあったころは金の大砲が3段/60.5mだったが現在地に移設するにあたり一番下にさらに一段追加され67mになったそうだ.塔の頂部には勝利の女神ヴィクトリアが置かれ,それは身長8.32m体重40t,眩い金箔で覆われている.


カイザー・ヴィルヘルム記念教会

カイザー・ヴィルヘルム記念教会

この教会はドイツ皇帝ヴィルヘルムⅠ世とビスマルクによって成立したドイツ帝国を記念して1891年-1895年の4年の歳月をかけて造られたネオロマネスク様式の教会でKaiser-Wilhelm-Gedaechtniskircheと呼ばれるようだ.1943年の空襲で破壊され,現在の部分だけが戦争の傷跡として残され,その内部は当時の教会の様子や戦争の様子を伝える写真などが展示されているそうだ.ヒロシマの原爆ドームと同様であろう.礼拝自体は隣接して建てられた新教会(右側の四角いビル)のほうで行われているそうだ.


アウトバーン

アウトバーン

ドイツと言えば歴史あるこのアウトバーン.現在はベルリンから近いところでさえ発電用風車が設置され環境保全に積極的なお国柄を感じさせられる.ごみの不法輸出などの問題も引き起こしてはいるが.....


ベルリンテゲル空港

ベルリンテゲル空港

比較的小さなテゲル空港であるが都心から近いのがいい.ここから一旦ウィーンに行き,乗り換えて成田に向かう.


下は,ベルリンの街あちこち

ベルリンの街あちこち
ベルリンの街あちこち ベルリンの街あちこち ベルリンの街あちこち ベルリンの街あちこち ベルリンの街あちこち ベルリンの街あちこち ベルリンの街あちこち
ベルリンの街あちこち ベルリンの街あちこち ベルリンの街あちこち ベルリンの街あちこち ベルリンの街あちこち ベルリンの街あちこち ベルリンの街あちこち


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