洋服はもちろん,靴もストッキングも何もかも赤くて,はっきり言ってセンスを疑ってしまうユニフォームのオーストリア航空は比較的空いていたのがよかった.
ダペストに行くためにウィーン国際空港のこのロビーで待つ. カフェのメニュー表紙が楽譜のデザインであるのがウィーンらしい,かも.(ちょっと写真が小さ過ぎたか....)
この小さなプロペラ機でブダペストに到着した.チロリアン航空のユニフォームはご覧のとおり落ち着いた色でほっとする. ウィーンからブダペストの間は田園というか,田舎というか,そんな風景だ.ブダペストはハンガリー共和国 (Republic of Hungary)の首都であるが,上空から眺めると,特に住宅街はとても緑が多く感心してしまう.ちなみにハンガリーの人口は約1000万人,宗教はカトリック67.8%カルビン派20.9%ルター派4.2%などほとんどキリスト教,国土は9303平方km(日本の面積の約1/4,四国と九州を合わせた面積よりやや大きいくらい),通貨はフォリントで,旅行時の為替レートは100フォリント=60円くらいであった.
多分ハンガリーでは一番大きいのであろうがブダペスト空港は比較的小ぢんまりした空港で,まあどこもそう変わりがあるわけではないが,たまたまこのように愛想のいい娘さんがいたり,カラフルな小型タクシーが少し目についた.
ここ,ゲレルト丘と呼ばれる高台から街が一望できる.ブダペストは”ドナウ川の真珠”と呼ばれるそうで,なかなか美しい中世的な街がドナウの両岸に広がる.その昔,左岸のブダと右岸のペストはドナウを挟んで別々の自治体であったが,合併で1つの町になったようだ.中央にくさり橋が見え,左岸には王宮や次節の漁夫の砦,マーチャーシュ教会がある.右岸には国会議事堂や大聖堂が見える.ちょうどリラ(ライラック)の花が咲き乱れる季節だった.でも平年と比べてバカ陽気とかで,たしかに暑かった.
1905年に建築され,そもそも王宮を守る聖なる任務に当たっていたのが漁夫達であったためこのような名がついたようだ.ただ,砦とは称しても実際には外敵との戦争の舞台として戦火にさらされることはなく,実際は展望台程度の役割であったようだ.また,かつてここに猟師組合があって宮の丘の「市場」を守っていたことに由来する,と云う説もあるようで,こちらがより正しいかも.
漁夫の砦はブダ側にあり,橋や,中州のマルギット島を浮かべたドナウの対岸がよく見える.やはり砦ではなく展望台が正解であろう.
アルミサッシでなく木の窓枠,頑丈な鉄製格子.....中世的な佇まいに赤いゼラニウムが似合う.
下は,漁夫の砦の写真あれこれ.大きな銅像はハンガリーの初代国王イシュトバーンの像だそうだ.
下は,漁夫の砦近くの通りの写真.
聖母教会あるいはマリア教会が正式名だそうで,最初13世紀にゴシック様式の教会として建てられたそうだ. その後,15世紀,ハンガリー王マーチャーシュ(在位 1458 - 1490年)がこの教会を再建し,そのマーチャーシュ王は,この教会で二度も結婚式を挙げているそうで,それがマーチャーシュ教会と呼ばれている所以であるようだ.
マーチャーシュ王の時代,ハンガリー王国はボヘミア王国領モラヴィアを占領し,シュレジェンをも支配下に入れ,国内ではルネサンス文化が花開いた.そんな中世ハンガリー王国の黄金時代を象徴するマーチャーシュ王と縁の深いマーチャーシュ教会だが,その後はいろいろあったようだ.
まず1538年,ハンガリーに侵入したオスマントルコは1541年にはブダペストを含む地域を直轄領とした.イスラム教徒の支配する時代,このマーチャーシュ教会もモスクとして使われていたそうだ.破壊されなくてよかったと思う. やがて1683年にはハプスブルク軍がオスマントルコ軍をハンガリーの主要部分から駆逐した.そして新しい支配者ハプスブルク家によってマーチャーシュ教会はバロック式の教会に改装された,という.
1866年オーストリアとプロイセン・イタリア同盟軍戦争(普墺戦争)においてプロイセンに敗れたオーストリアは自治独立を求めるハンガリーと妥協し,オーストリア・ハンガリー帝国が成立.1867年にはハプスブルク家のフランツヨーゼフがマーチャーシュ教会においてハンガリー王として戴冠.
19世紀末マーチャーシュ教会に手が加えられ,ゴシック様式の教会に改装された,という.バロック様式,ゴシック様式,ロマネスク様式.....これらの違いがよく判らない点は今後の課題....としたい.
正面にはマリア像が掲げられていた.今日,前述のごとくハンガリーの人はキリスト教徒が多いが,共産主義の時代は信仰にとって厳しい時代だったようだ.しかし,今回のツアーのバス会社はたまたまハンガリーの会社,ハンガリー人のドライバー(ラスローさん)で,彼によると「いや~割と信仰は自由だったよ,ほら現ローマ法王パウロだって旧共産圏ポーランドの出身だし....」と話していた.ちなみに彼の一家はカソリックで,共産主義時代父は教職,母は教会の仕事に携わっていたそうである.
下は,マーチャーシュ教会の写真あれこれ
合併でブダペストになったのが1873年で,その少し前の1849年にはじめてブダ側とペスト側が「くさり橋」によって結ばれた.なお合併後,ブダペストは飛躍的な発展を遂げ,今では人口が210万人を数え,ウィーンより多いそうだ.
三越のライオンを真似て作った,というライオン像(うそ).でも三越のとこれとではどっちが先にできたのか?
「このライオンには舌がない」と指摘された彫刻家は,「犬じゃないから舌は引っ込めているんだよ~」と一旦は反論したものの,結局ドナウ川に身を投じたと伝えられている.なにもそこまでしなくてよかったのでは......
源をドイツに発し(多分),オーストリア,スロバキアを通過し,ここハンガリーに至る.次はユーゴスラビア,ルーマニア,ブルガリアと流れ,黒海に注ぐ.と云うわけで川伝えの不法入国とか密輸とか.....の管理も結構重要で,また長い川だけあって各地での汚染問題も深刻なようである.しかも長くて勾配は緩いようなので治水対策も重要であろう.
ハンガリー国民はフィンランドと同様に,他のヨーロッパの国の人種とは異なってアジア系であると聞く.しかし顔立ちは少なくとも普通のアジア系には見えない,ヨーロッパ系にしか見えない.言語(これがメチャ難しいのがハンガリー語らしい)的特徴や蒙古斑点から特徴付けられるそうであるが....街並みは西ヨーロッパの街と同様,つまり石造り建築が多く,落ち着いた色使い,少ない看板,清潔な感じ......に見える.
これはゴムタイヤだからバスの範疇だと思う.トロリーバスとか路面電車とかを比較的多く見かけるのもヨーロッパだ.なおブダペストはヨーロッパ大陸では最初に地下鉄を導入した街で,ロンドンに次いで歴史があるそうだ.な~るほど!
われわれが昼食をとったレストランではこのように入り口近くの歩道に少しだけテーブルを並べていた.
下は,さらにブダペスト郊外や市街の風景
下は,ブダペスト市街の写真