ウィーンVienna

ナッシュマルクトNaschmarkt

ウィーンの朝

ウィーンの朝

ウィーンでの宿泊はホテルアナナスで地下鉄4号線(U4)フィルグラムガッセ(Pilgramgasse)駅のすぐ近くにあった.ナッシュマルクトという市場が近くにあると聞いて早朝(8時ころ)4号線に乗って出かけてみた.地下鉄と路面電車共通1日券は5ユーロなので1日何回か乗るときは安くて簡単である.でも自動券売機はドイツ語だけの表示で,どの切符がどのボタンかよく判らない.駅員は見当たらないし,たまたまそばに通りかかった,英語を話しそ~だな~と見える若い人に聞いたら丁寧に教えてくれたので助かった.


ナッシュマルクト

ナッシュマルクト

ナッシュマルクトは1つ隣のケッテンブリュッケンガッセ(Kettenbruekkengasse)駅からオペラ座のあるカールスプラッツ(Karlsplatz)駅近くまで続いている.朝早くだったので開店前のお店が多かったが八百屋さんと果物屋さんが多く,肉屋さん,魚屋さん,菓子屋さん,雑貨屋さん.....とまあ典型的な市場のショップが並んでいるようだ.


八百屋さん

八百屋さん

この辺りにすれば長ねぎは珍しいのではないだろうか? ねぎ以外は,きゅうりが若干大きかったりするが,まあ日本でも他国でもわりと一般的な野菜だ.


駅売店

駅売店

ここは前述のケッテンブリュッケンガッセ駅の売店.独語,英語の新聞/雑誌に混じって,中国語の新聞が幅を効かせている,しかも3種も.やはり中国人は世界のどこへでも進出し,根を張っていることを実感する.


下は,ナッシュマルクト辺りの写真

ナッシュマルクト界隈
ウィーンのナッシュマルクト界隈 ウィーンのナッシュマルクト界隈 ウィーンのナッシュマルクト界隈 ウィーンのナッシュマルクト界隈 ウィーンのナッシュマルクト界隈 ウィーンのナッシュマルクト界隈 ウィーンのナッシュマルクト界隈
ウィーンのナッシュマルクト界隈 ウィーンのナッシュマルクト界隈 ウィーンのナッシュマルクト界隈 ウィーンのナッシュマルクト界隈 ウィーンのナッシュマルクト界隈 ウィーンのナッシュマルクト界隈 ウィーンのナッシュマルクト界隈

シェーンブルン宮殿Schloss Schonbrunn

シェーンブルン宮殿正面入り口

シェーンブルン宮殿正面入り口

17世紀から歴代のハプスブルク家の支配者たちが増改築を繰り返して1713年に完成した同家夏の宮殿.ベルサイユ宮殿に対抗して建てられたそうで,この壮麗な宮殿は,外観がバロック様式,内部がロココ様式というが,この違いが分からないのがちょっと寂しい.何にしても豪華絢爛,ゴテゴテ....と云う訳で必ずしも筆者のティストにマッチするとは言い難い(端から相手にされないであろうが,一応).1815年のウィーン会議では舞踏会場になった.1400室(すごい!!)もある部屋のうち,現在は40室を公開しているというが,撮影禁止なのが残念.


シェーンブルン宮殿裏庭

裏庭

宮殿の裏はばかに広い庭になっており,遥か遠くにグロリエッテと呼ばれる門とネプチューンの泉が見える.

ところで,この宮殿はハプスブルク家の宮殿だけど,特に縁の深い人物といえば,なんといってもマリアテレジアだという.マリアテレジアにはしばしば頭に「女帝....」と付くが,正式には「皇帝」に即位したことはないそうだ.ただ実際にはそのように呼ばれるだけの権力,信頼....はあったとものの本には書かれている.

彼女は1717年に生まれ,1740年23歳のとき,父の皇帝カール6世が亡くなり,ハプスブルク帝国の支配者となったという.ちなみに1717年の日本は,徳川家8代将軍吉宗の支配下にあり,大岡越前が江戸町奉行,まあ東京都知事のようなもの,に登用された年のようだ.

即位直後からマリアテレジアは苦労したようだ.即位の年にはフリードリヒ大王2世に率いられたプロシア軍がシレジア地方に攻め込み,オーストリア継承戦争が起こった.結局,シレジア地方はプロシア王国に奪われたがマリアテレジアの夫であるフランツシュテファンに神聖ローマ帝国の皇帝位が与えられたことでひとまず決着した.

ところが1756年,再びプロシアとオーストリアとの間に戦争(7年戦争)が起こった.前の戦争でプロシアに奪われたシレジアを奪還することは出来なかったものの結構善戦し,フリードリヒ大王を窮地に追い込む結果になったようだ.

これも宿敵フランスとオーストリアが同盟し,マリアテレジアの娘マリーアントワネットをルイ16世に嫁がせたのが効を奏した結果のようだ.後にマリーアントワネットとルイ16世はフランス革命で処刑されたが.....

1778年,今度はバイエルン継承戦争でプロシアとオーストリアの軍が戦いを交えた.しかし1780年にマリアテレジアが亡くなり,フリードリヒ大王との長年の戦いは幕を閉じ,そして彼女の後を追うようにフリードリヒ大王も1786年に死亡した.マリアテレジアが亡くなった後もシェーンブルン宮殿は歴史の舞台であり続けたそうで,1805年と1809年にはナポレオンがシェーンブルン宮殿に司令部を置き,1814年からはここでウィーン会議が開かれ,かの「会議は踊る」の言葉が生まれたようである.ナポレオンとオーストリア皇女マリールイーズとの間にライヒシュタット公ナポレオン2世が生まれたが,1832年にこのシェーンブルン宮殿で亡くなっているそうだ.


下は,外側だけであるがシェーンブルン宮殿の写真

シェーンブルン宮殿
ウィーンのシェーンブルン宮殿 ウィーンのシェーンブルン宮殿 ウィーンのシェーンブルン宮殿 ウィーンのシェーンブルン宮殿 ウィーンのシェーンブルン宮殿 ウィーンのシェーンブルン宮殿 ウィーンのシェーンブルン宮殿
ウィーンのシェーンブルン宮殿 ウィーンのシェーンブルン宮殿 ウィーンのシェーンブルン宮殿 ウィーンのシェーンブルン宮殿 ウィーンのシェーンブルン宮殿 ウィーンのシェーンブルン宮殿 ウィーンのシェーンブルン宮殿

ベルベデーレ宮殿Schloss Belvedere

ベルベデーレ宮殿前景

ベルベデーレ宮殿前景

ベルベデーレとはラテン語で「美しい景色」という意味で,300年位前のオスマントルコとの戦いで有名な将軍「オイゲン公」の夏の離宮として造られたそうだ.シンメトリーな外観はバロック建築の代表作の1つとされる.宮殿内部は現在美術館になっているようだ.


ベルベデーレ庭園

ベルベデーレ庭園

裏の斜面に広がるこのバロック庭園の眺めの美しさが有名で世界10大美景と言われるとある資料に書いてあったが,オーストリア10大....でなく,世界....となると,う~ん.....


下は,ベルベデーレ宮殿の写真あれこれ

ベルベデーレ宮殿
ウィーンのベルベデーレ宮殿 ウィーンのベルベデーレ宮殿 ウィーンのベルベデーレ宮殿 ウィーンのベルベデーレ宮殿 ウィーンのベルベデーレ宮殿 ウィーンのベルベデーレ宮殿 ウィーンのベルベデーレ宮殿
ウィーンのベルベデーレ宮殿 ウィーンのベルベデーレ宮殿 ウィーンのベルベデーレ宮殿 ウィーンのベルベデーレ宮殿 ウィーンのベルベデーレ宮殿 ウィーンのベルベデーレ宮殿 ウィーンのベルベデーレ宮殿

ホーフブルク王宮Hofburg

ホーフブルク王宮前景

ホーフブルク王宮前景

ホーフブルク王宮は13世紀に築かれ,ハプスブルク家が滅亡する1918年までの640年間,ハプスブルク皇帝の居城であったそうだ.旧王宮,新王宮,スイス宮と2つの庭園などを含む敷地の総面積は240,000平方kmにも及ぶそうだ.新王宮が完成する20世紀までに歴代の王が修築/拡張を進めたため,いろいろな時代の建築様式の特徴がミックスされているそうである.


ホーフブルク王宮の庭園

ホーフブルク王宮の庭園

現在は公園になっているので多くの市民が,あるものはスポーツで,あるものは裸で寝そべって,思いおもいにくつろいでいる.


マリアテレジア像

マリアテレジア像

1888年に造られた前述のマリアテレジア像.16人の子どもを産んだハプスブルク家唯一人の実質的女帝の像だけあって,下に居る馬上の人物とかいろいろな人のサイズや配置の対比がおもしろい.


下は,ホーフブルク王宮の写真あれこれ

ホーフブルク王宮界隈
ウィーンのホーフブルク王宮界隈 ウィーンのホーフブルク王宮界隈 ウィーンのホーフブルク王宮界隈 ウィーンのホーフブルク王宮界隈 ウィーンのホーフブルク王宮界隈 ウィーンのホーフブルク王宮界隈 ウィーンのホーフブルク王宮界隈
ウィーンのホーフブルク王宮界隈 ウィーンのホーフブルク王宮界隈 ウィーンのホーフブルク王宮界隈 ウィーンのホーフブルク王宮界隈 ウィーンのホーフブルク王宮界隈 ウィーンのホーフブルク王宮界隈 ウィーンのホーフブルク王宮界隈

ケルントナー通りKarntner Street

ウィーン国立オペラ座

国立オペラ座

正式にはウィーン国立歌劇場だろうか,ケルントナー通りの南端近く,カールスプラッツ(Karlsplatz)駅近くにある.小澤征爾氏がここの音楽監督に就任し,オペラがよく分からない私でもその存在は知っていたりする.まあ建物の外側を眺める分には猫でも杓子でも許されるであろう.


ケルントナー通り (Kaerntnerstrasse)

ケルントナー通り (Kaerntnerstrasse)

ここはウィーン一番の目抜き通り.上述の国立オペラ座からシュテファン大寺院に向かって延びるケルントナー通りの両側は,ホテルやレストラン,カフェ,様々なブティックやショップで埋め尽くされ,終日大勢の人々で賑わう.とは言っても,東京,いや日本のあちこちの繁華街の圧倒的な人出には比するべくもなかろうが.周りに広場や教会などもあり,ケルントナー通りの終点にあるシュトックイムアイゼン広場,いかにもドイツ語の響き,しかして単位を取るのが大変だったことを思い起こさせるようなこの名は,鉄釘が打たれた木株という意味で,かつてウィーンを訪れた旅人が帰路の無事を祈り,木株に鉄釘を打ちつけた習慣が名前の由来ということである.ふむふむ.


ケルントナー通り夕刻

夕刻

ほらほらこんな風に自転車でショーウィンドウを巡るくらいだからそんな人ごみである訳がない.それに総じてお店は早く閉まってしまうようだ.


下は,ケルントナー通りの写真

ケルントナー通り
ウィーンのケルントナー通り ウィーンのケルントナー通り ウィーンのケルントナー通り ウィーンのケルントナー通り ウィーンのケルントナー通り ウィーンのケルントナー通り ウィーンのケルントナー通り
ウィーンのケルントナー通り ウィーンのケルントナー通り ウィーンのケルントナー通り ウィーンのケルントナー通り ウィーンのケルントナー通り ウィーンのケルントナー通り ウィーンのケルントナー通り

市立公園などStadtpark

ヨハンシュトラウス像

ヨハンシュトラウス像

市立公園にこのヨハンシュトラウス像があり,金色だけに目立つね~20年前までは金色ではなかったそうで,あちこちに銅像の多いウィーンにとっても,やはりヨハンシュトラウスは別格なのでしょう.ところでヨハンシュトラウスはワルツをいっぱい書いたけどワルツは踊れなかった......と聞いた.


「第三の男」の観覧車

ウィーンの例の観覧車

映画「第三の男」でよく知られるようになった,と言っても我々じぃばぁ年代だけかも知れないが,ウィーンの観覧車がこれ.資料を見ると,最高点:地上64.75m,車輪の直径:61m,重量:16.3トン,車輪中心の位置:地上34.2m,総重量:430.05トン,回転速度:毎秒0.75mとある.


ウィーンのドナウ川

ウィーンのドナウ川

ドナウ川は長く,多くの都市を通過するが,ヨハンシュトラウスが美しく青きドナウを書き上げたドナウはこの辺りのドナウだったようだ.つまり,1866年,オーストリア帝国軍がプロシャに大敗し,ウィーンは暗い雰囲気につつまれていたそうで,これを元気づけようとヨハンシュトラウスはウィーンの街はずれを流れるドナウ川,つまりこの辺りを題材に「美しく青きドナウ」を作曲した.当初,この曲は男声合唱用としてつくられたが歌詞が悪かったのか,評判は今ひとつだったようである.しかしヨハンの妻アデーレがひそかにこの曲の素晴らしさを見抜き,乗り気でない彼の楽譜カバンにこっそり楽譜を入れて,そのままヨハンを演奏会に送り出した.演奏終盤で聴衆にアンコールを要求され,たまたま楽譜のあった「美しく青きドナウ」をオーケストラのみで演奏したら聴衆は大喜びして大ヒット曲となったとさ.今では「オーストリアの非公式国歌」とまでいわれるようになったそうな.


下は,市立公園などの写真

ウィーンの光景
ウィーンの光景 ウィーンの光景 ウィーンの光景 ウィーンの光景 ウィーンの光景 ウィーンの光景 ウィーンの光景
ウィーンの光景 ウィーンの光景 ウィーンの光景 ウィーンの光景 ウィーンの光景 ウィーンの光景 ウィーンの光景


Cannergy'sホームへ