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中辺路ハイク1

この中辺路ハイク1編では,2020年12月15日那智勝浦で目覚め,バスで橋杭岩,三段壁洞窟と巡り,とれとれ市場に来てランチ.再びバスに乗り道の駅中辺路に行き,ここからハイク開始.牛馬童子像,近露王子,近野の町,野中の清水と順次めぐりハイク終わり.そしてバスで川湯温泉みどりやに行き,チェックインしたときの写真を載せました.

中辺路ハイク1周辺のGoogleマップ

 

那智勝浦6,バスで橋杭岩16,三段壁洞窟17,とれとれ市場.道の駅中辺路18(ハイク開始).牛馬童子像19,近露王子20,近野の町,野中の清水21(ハイク終わり).川湯温泉みどりや22と巡った.

那智勝浦の朝

ホテル浦島で朝食

ホテル浦島で朝食

ホテル浦島で三度目の朝を迎えた.ニ階のレストランに行き,ロール2個,ヨーグルト,トマト,炒り卵....などたっぷり頂戴した.


送迎船で対岸へ

送迎船で対岸へ

朝食後いつものように送迎船で対岸に渡る.振り返るとホテル浦島に陽の当たり始める頃であった.同ホテルの所有地であろう狼煙山の影になっているのだ.

少なくともこの辺りは天気がいいが,向かう中辺路(なかへち)地方はどうであろう.雨や雪が降らないで欲しいものだが....(ほんの僅かに雪がぱらついた)


橋杭岩(はしぐいいわ)

浦神漁港辺りか

浦神漁港辺りか

バスに乗り,西南へとどんどん進んだ.街道は基本的に太平洋沿岸に沿い,またほぼ紀勢本線と並行して走っている.山が海岸線まで迫っており,僅かな平坦地を鉄道と道路がシェアしている様子だ.

写真は漁船が多く停泊しているが,神漁港辺りであろうか?


橋杭岩に到着

橋杭岩に到着

紀伊半島の南端串本町に来た.

街道脇の海岸から,沖の紀伊大島方向に向けてあたかも橋脚のように岩の杭が突き出ている.なるほどこれが橋杭岩か~名の通りだ.こうした岩杭は,大小40余りあり,850mほど列を成しているようだ.

昔むかし弘法大師と天の邪鬼とが一晩で大島まで橋を架ける競争をした.負けそうになった天邪鬼が鶏の鳴きまねをして夜が明けたと思わせ,弘法大師はそこで作業を打ち切った.見込んでいた工事時間が短縮されたため橋が完成せず,杭だけで終わったということだ.天邪鬼も着工していたと思うが,未完の天邪鬼橋はどこだ...?


橋杭岩の成り立ち

橋杭岩の成り立ち

橋杭岩は,砂や泥が海底に堆積してできた堆積岩中の割れ目にマグマが貫入して冷え固まった火成岩だそうだ.マグマが貫入時は全体が海面下にあったのだが,後に全体が隆起し,柔らかい堆積岩は波で侵食され,硬い火成岩の部分が橋杭状に断続的に取り残され,現形態になったそうだ.


道の駅「くしもと橋杭岩」

道の駅「くしもと橋杭岩」

橋杭岩には道の駅「くしもと橋杭岩」も設けられていた.場所柄菓子などお土産品が多いようだった.


三段壁洞窟

紀伊水道沿いを進む

紀伊水道沿いを進む

紀伊半島南端の橋杭岩を過ぎると街道は紀伊水道(の入り口)沿いになる.ただ砂浜は少なく,岩の多いきれいな波打ち際の眺めはこれまでと大きく違わない.素人目には全く解らないが,潮の流れは大きく違うのかも知れません.


三段壁洞窟のある海岸

三段壁洞窟のある海岸

やがてバスは白浜町に至り,街道を逸れ南の海岸通りに向かった.少ししてパンダでよくその名を耳にするアドベンチャーワールド近く(見てはいない)を通り,南紀白浜空港滑走路下を通るトンネルを抜け,再び紀伊水道沿いになる.

そして三段壁洞窟のある海岸に到着した.岸壁に打ち寄せる波は心なしか荒いようだ.


熊野水軍と舟の模型

熊野水軍と舟の模型

三段壁洞窟へ降りるエレベータで洞窟に行く.最初に兜を被って記念撮影の場があった.背景が熊野水軍兵と舟になっている.

上写真のように熊野は山がちの地形で,山からいきなり海になるような所が多い(見てきた).そのため陸上の物資運搬は容易でなく,代わりに山で豊富な造船材,それに良港に恵まれたので海上交通が発達した.それに伴い水上兵力も増強され,やがて「熊野水軍」(若しくは熊野海賊)が力を得て,紀伊水道や瀬戸内海に勢力を伸ばしたという.

熊野水軍は平安時代末期,源平合戦が大詰めに入った頃,熊野別当(9~13世紀,熊野三山,つまり熊野本宮大社,熊野速玉大社,熊野那智大社の統括にあたった役職)である湛増(たんぞう:武蔵坊弁慶の父であるそうだ)の闘鶏占い結果,源氏に味方する旨決めたという.湛増は元々平家側であったが,迷って闘鶏占いで参戦を決めたこと,また我が子弁慶は元より源氏に仕える身なのに....と,なかなか一筋縄にはいかない疑問が生じるが...

湛増は兵力2000名余,200余艘の熊野水軍を率いて壇の浦へ出陣(1185年),平氏を壇の浦に沈め,源氏を勝利に導いた,とのことだ.


三段壁洞窟

三段壁洞窟

地表から36m下にあるという海蝕洞だ.強烈な波が入ったり出たりしている.打ち寄せる波の侵食作用で抉られ,できた洞窟というから,元より波は強いのであろう.

熊野水軍の舟隠し場の伝承が残るそうだが,上記記念撮影の模型船(木造小舟)ではあっという間に岩に打ち付けられ,木っ端微塵になるような波だ.またもっと大型船となると洞窟に入ることはできない.

思うに,舟は洞窟外に係留し,兵や将校がこの洞窟内(水の来ないところ)に潜んでいたのではなかろうか.実際別の場所に番所小屋が再現されていたことだし.


たくさんの灯明

たくさんの灯明

下掲載弁天様の祭壇前には多数の灯明(シーリングライト)が灯されている.献燈,社名が記されているので奉納されたものだ.なかなかきれいだ.


牟婁大辯才天(むろだいべんざいてん)

牟婁大辯才天(むろだいべんざいてん)

大黒天,毘沙門天,それに十六童子を従えた牟婁大辯才天(むろだいべんざいてん)が祀られている.辯才天は元々ヒンドゥの女神で,仏教に,また神仏習合によって神道にも採り込まれたそうだ.以来日本では財福の神とされることが多いそうだ.七福神の一人でもある.

ここの牟婁大辯才天は刀を持ち,一見男性のように見えるが,どのような願いも叶え,また水の神,寺社仏閣の守護神であるそうだ.ところで牟婁大は固有名詞でしょうか?


とれとれ市場でランチ

南紀白浜の海岸

南紀白浜の海岸

南紀白浜の海岸沿いを少し北に進んだ.きれいな海で,向こうの丘には発電風車が並んでいる.海も若干波が高いが,多分風車を回す風も常時得られるのでしょうね.


とれとれ市場

とれとれ市場

そしてランチを頂くに頃合いもよく,「とれとれ市場」に着いた.とても広大な道の駅的市場で,大きな駐車場を備えた屋内市場だ.


とれとれ市場の鮮魚売り場

とれとれ市場の鮮魚売り場

鮮魚売り場があった.この付近だけでなく,他県から取り寄せたお刺身用鮮魚がたくさん並んでいる.おいしそ~

もちろん野菜や,乾物,お土産品....等々幅広く扱われている.


とれとれ市場で美味しいランチ

とれとれ市場で美味しいランチ

ニ階に上がるとレストランになっている.ここではちらしに茶碗蒸し,ブリしゃぶのランチを頂戴した.これまで頂いた中で一番美味しい食事だった.ごちそうさまでした.


道の駅中辺路(なかへち)

紀勢本線と交わる

紀勢本線と交わる

とれとれ市場を過ぎ,内陸の東に曲がった.しばらく紀勢本線と並行し,また交差する区間がある.ここはちょうど踏切を越えた箇所だ.

既に樹木がよく茂ってます.熊野水軍や熊野海賊はこの辺りの木を伐採し,舟を建造したのでしょうか.


山間の町通過

山間の町通過

山間の町を通過した.住宅や小工場や,学校....の周囲を田んぼが囲み,さらにそれらを山々が囲っている.千切られた雲が青空に漂っている.ここもいい天気だ.


道の駅「中辺路」に到着

道の駅「中辺路」に到着

バスは道の駅「中辺路」に到着した.ハイク出発点だ.

道の駅というにはとても小さな,小型コンビニクラスの店舗(写真の丸い建物)が一つあるだけだ.しかし駐車場は結構広いし,バス停もあるようなので,ここから歩き始める人達には便利かと思う.

そしてここでガイドAさんにお会いする.今日から三日間担当して下さるそうだ.よろしくお願いいたします.


熊野古道私達の開始点

熊野古道私達の開始点

道の駅「中辺路」の道の反対側に来て,ここが私達の古道歩き開始点だ.

ガイドAさんから一通りガイダンスレクチャーを受ける.それでなくとも初めて聞く地名などでこんがらがるので,まあボチボチ見て歩こう.


牛馬童子像(ぎゅうばどうじ)

牛馬童子へ800m

牛馬童子へ800m

トレイルに入ると直ぐに熊野古道案内板が立っていた.これによれば牛馬童子へ800mとある.少し行けば出合う距離だ.

トレイル脇の木は殆どが杉のようである.春先は花粉症で大変でしょうとガイドさんに訊くと,やはりアレルギーのある人には問題ありとのことだった.


中辺路の500m間隔ポスト

中辺路の500m間隔ポスト

中辺路には500m間隔毎に番号を振られたポストがある.四国遍路の丁石のようなものである.ただ丁石は間隔不揃い(さらに実際は移動され,不正確)現在のロケーションが判り難い.一方この番号ポストは近年立てれたもので間隔はきっと正確で,番号からロケーションも知れる.

ここは24番ですね.電車の路線ごとに連番を振り,例えば丸ノ内線東京駅はM17などと表記し,外国人も含めて解りやすくしたのと同じ考えですね.


中辺路はいいトレイルだ

中辺路はいいトレイルだ

中辺路は歩き易いいいトレイルだ.今のところ天気も良く,木漏れ日が快適だ.

近年関東では台風で甚大な被害を被ったが,中辺路でも倒された木が残っていた.


一里塚跡

一里塚跡

これは古くから在った一里塚の跡だそうだ.オリジナルの一里塚は多分雨や風雪で摩滅したので新しく立て替えたようだ.上の500m間隔ポストと同じような機能であろうが,間隔は一里≒4kmと言われるので,500m間隔ポストの8倍くらい疎らということになろう.


牛馬童子の丘(箸折峠)

牛馬童子の丘(箸折峠)

トレイル脇に丘があった.石の牛馬童子や仏像,それに灯籠や墓石が据えてあり,近寄ってみる.

丘は箸折峠と称され,922年(延喜22年)に熊野行幸を行った花山法皇(千日御参籠苦行(滝篭り)をされた方ですね)が食事のためここで休憩をした際,近くの萱を折って箸代わりにしたからということだ.


牛馬童子像

牛馬童子像

牛馬童子は名のように牛と馬に跨っている.どちらもずんぐりむっくりしており,パット見では判別不能だ.でもよく見るとやはり左が牛,右が馬であろう.

実はこれが上記花山法皇の旅姿であったそうな.それにしても牛馬2頭に跨るとはロデオ並み,いやそれ以上ですね.これも修行の一部なのでしょうか.また法皇が童子(弁財天に仕える16童子の一人とされるそうだ)の姿になっているのは,これまたどうしてでしょう.

この石像は花山法皇の時代からはるか下り,明治時代に作られたそうだ.近年首が取れる事故があったが,人為的事故ではなく,首と胴体はボルトで繋がれていたが,その隙間に入った水が凍り,膨張して離れたことが判明したそうだ.能動的場面では,大きな岩の切り出しに用いられる技ですね.


近露王子(ちかつゆおうじ)

近野の町を望む

近野の町を望む

牛馬童子像からしばし進むと盆地状近野の町がよく見えてきた.盆地状ではあるが,斜面に多く建物が張り付いている.斜面の方向がちょうど良く,快適な陽当りに恵まれている.


日置川

日置川

山を下り,大きな通りに出て,結構長い橋を渡った.下を流れるは日置川という.雨が少ないのか流れはチョボチョボだ.

マップで見ると,この川はものすごく蛇行を繰り返し,白浜市で大洋に注いでいる.蛇行具合には圧倒される.


皇太子殿下行啓の地

皇太子殿下行啓の地

近露王子近くに皇太子殿下行啓の地碑が立っていた.現天皇陛下が皇太子時代にお出でになられたようですね.

比較的珍しい隷書体の文字が目立ちますね.


近露王子(ちかつゆおうじ)

近露王子(ちかつゆおうじ)

近露王子(神社)は九十九王子のひとつということだ.ただ九十九の中では最も早い時期にドキュメントに記され,1081年(永保元年)には近露と若干異なる漢字ながら同意の「近湯」の地名が見られるという.今と同じ近露の表記は1174年に現れているそうだ.

近露王子は田辺と本宮のほぼ中間に位置し,中辺路の要衝であり,旅籠が軒を連ねる宿場として栄えたようだ.

また,近露の水は現世の不浄を祓うとあり,参詣に備えて身を清浄にする霊場にもなっていたという.

なお今ここに残っているのは石碑のみであるが,明治末期まで社殿もあり,その後近野神社に合祀されているという.


近野の町

近野の町に入ってきた

近野の町に入ってきた

近野は熊野古道沿い町で結構古い住宅も見える.最近都会人が移り住んだケースもあるそうだ.ただ全体的には人口減,特に子供の数が少なくなって,学校の統合や,分校の廃止などあるそうだ.

近年(今年は別だが)とみに外国人の古道歩きが増え,民宿を始めるお宅も結構あるそうだ.外国人はネットで素早く宿を抑えるので,日本人参拝者はなかなか宿の確保が大変だという.


道中みゅーじあむ山形屋

道中みゅーじあむ山形屋

風鈴や焼き物を並べた古い店舗.ご年配の方が経営されているのでしょう(そうでないと似合わないような)


馬の乗り継ぎ場(伝馬所)

馬の乗り継ぎ場(伝馬所)

こちらの大きなお宅は馬の乗り継ぎ場で,旅籠も兼ねており,常に数頭の馬が庭先にいたという.建物の様子やガイドAさんのお話では,江戸時代のことではなく,昭和(初期?)の頃まで続いていた様子だった.「奥」の暖簾を見るに今は旅籠の続き,旅館あるいはゲストハウスを経営されているのでしょうか.

江戸時代までであれば,eメールよりは遥かに遅いものの,早馬システムで一人の伝令が殆ど命がけでメールを運んだのだ.渡した途端役目を果たした安堵から落命することもしばしばだったと,昔習った.


この辺で山道に折れる

この辺で山道に折れる

舗装道から非舗装に分岐する三叉路があった.山道と云うほどではないが,少し山らしいトレイルになるようだ.


林に入る

林に入る

三叉路で左に入るとまた杉林のトレイルだった.杉は植えられてから数十年程度のあまり太くはないものが多い.この点,二日前に歩いた道脇に大杉の連なる大門坂とは異なり,まあ普通の山道だ.


舗装道に入り集落あり

舗装道に入り集落あり

杉林のトレイルを抜け,舗装道に入った.そして再び集落を通る.集落が近野の一部なのかどうか...ガイドさんの説明があったのだが,思い出せない.

写真の辺りは斜面の果樹園になっているようだ.柑橘類かな?


月待(つきまち)供養塔

月待(つきまち)供養塔

月待供養塔と記された小さな社があった.月待とは,はて何ぞや. これは民間信仰的講の集会で,十五夜待,十九夜待,二十三夜待....などの特定の月齢の夜に集まり飲食を共にし,経を唱え,安産祈願,病気平癒祈願など行ったという.一般に毎月ではなく,特定の月,男女別,年齢別,職業別....と別々に講が作られていたそうだ.そして月待はかなり全国的に展開されていたようだ.

さてその供養塔であるが,少し難しい.供養塔にはこの写真のように文字の刻まれた文字塔,それに仏像(如来,菩薩,明王など)が刻まれた刻像塔があるそうだ.

ということで,供養塔の供養は月待の日に,仏(如来,菩薩,明王など)に香,華,燈明,飲食などの供物を捧げる行為を意味しているのであろう.

写真で塔横の小さな社は神社っぽい形なので,神仏習合で神様も一緒に祀り,そして供養したのではなかろうかと思った.


乙女の寝顔

乙女の寝顔

トレイルから山並みが望める.右端辺りに通ってきた近露王子があるようだ.そしてちょっと不鮮明だが山と山の間に,横から眺めた乙女の寝顔が見えていたのだが.....写真失敗,殆ど見えない.


比曽原王子跡

比曽原王子(ひそはらおうじ)跡

舗装トレイルを行くと,脇の斜面に「比曽原王子」と刻まれた石碑があった.比曽原王子の碑だという.

前述のように王子は一種の神社だが,社殿のない小規模なもので,この比曽原王子は江戸中期に建てられたという.王子名は後鳥羽院御幸記ではヒソ原,鎌倉末期の熊野縁起では比曽原で現在の地名に一致するそうだ.すると比曽原が近野の下位ディレクトリということであろう.


花咲く集落は続く

花咲く集落は続く

舗装されたトレイルは,両側の山茶花やすすきが色を添えてくれる.集落は比曽原なのでしょうね....


野中の清水

継桜王子(つぎざくらおうじ)

継桜王子(つぎざくらおうじ)

次に「継桜王子」と刻まれた石塔があった.「秀衡桜」の伝承から継桜王子の名が付いたそうだ.秀衡(ひでひら)とは平安末期奥州の武将,藤原秀衡(1122~1187年)のことで,奥方と一緒に熊野参りをした際,奥方が滝尻の岩屋で出産し,子の無事を願い桜木の杖を地面に挿したことに由来するという.現在桜は5代目になるという.

しかしこれだけでは,「秀衡桜」ではなくなぜ「継桜」なのか解らないですね.実は桜木杖の桜は不思議なことに根本は檜,上部が桜の接ぎ木のようだったそうだ.そこから「継桜」となったようだ.ただ現在5代目という桜は檜の桜ではないでしょうね....多分.

私達は行かなかったが,石の階段上に立派な社殿があるらしい.この王子は若一王子権現ともいわれ,野中(ここの地名)の氏神になっているそうだ.明治時代,一旦近野神社に合祀されたが,社殿はそのまま残されていたため,戦後ご神体を戻し,復社したという.


野中の一方杉

野中の一方杉

ここは継桜王子(神社)の境内に属するのでしょうか,杉の大木が複数生えておりなかなかインパクトがある.樹齢800年で,最大のものは幹周り8mあるという.また老木なので内部に空洞が広がり,20人くらい入れるほどのものもあるそうだ.

ただ不思議なことに,これら10本ほどの大木が皆一様に南側に枝を張っている,と云うことだ.南にある熊野那智大社を慕い続けた結果だとか....とにかく一方にだけ枝を伸ばすことから「一方杉」の名が付いた訳だ.


とがのき茶屋

とがのき茶屋

一方杉の隣には藁葺き屋根の「とがのき茶屋」があった.昔話の絵本にそのまま出てくるような建築で,懐かしさを覚える.昔のカフェはなかなか趣き深い.

このときは開いてなかったが,現在は観光案内所になっているようだ.


民宿「つぎ桜」

民宿「つぎ桜」

野中の集落に民宿「つぎ桜」があった.今は殆ど歩く人のいない熊野古道だが,パンデミックがなければ世界から押し寄せてくれるそうで,宿がなかなか探せないそうだ.そんな中こちらの「つぎ桜」さんのように多分新築したり,改築或いは増築して民宿やゲストハウスを開店する人も結構おられるそうだ.

こちらのお宿は,ちょっとしたことだが提灯を下げたり,店名にアルファベット併記し,外国人にも受けやすく,解りやすくする工夫をこらしてますね.


野中の清水に到着

野中の清水に到着

今日のハイク終点野中の清水に到着した.写真では大したことないが,実際は紅葉がとても美しかった.

さて肝腎の清水であるが,赤い欄干下に湧き出た池がある.そしてそれは「野中の清水」と称され,「日本名水百選」若しくは「近畿の名水百選」に選定されているそうだ(後者の限定が狭いね...).選定はワインのソムリエのような方が利き水を行うのでしょうか.多分そうでしょうね.名滝百選とかであれば,落差や幅,水量などと各所定比重との積を加算すればある程度客観的にできそうだが,水となると大変だ.多分ワインや日本酒の比ではなかろう.

しかし何にしても日本の水で,しかも名水百選ともなれば大した水であろう.これが仮にインドなどだと様相はコペルニクス的転回となる.つまりガンガーの水であればたとえ泥や何やらで大濁りしていても飛び抜けて一番,他の水は一絡げにetc.カテゴリに分類される.簡単と言えば簡単無比で,これもまたいいかも,但しインドであれば.

ただ「野中の清水」水面は舞い落ちた葉っぱが覆っており,見るととたんに印象が悪くなる(で写真も載せない).また現在どうかははっきりしないが,日照りが続いてもここだけは水が絶え間なく湧き出ていて,付近に住む住民の飲料水や生活用水として利用されてきたそうだ.また熊野詣の人々の喉を潤したという.さらに斎藤茂吉といった方々が歌や句を詠んだという(碑が残されている)


川湯温泉

川湯温泉みどりや

川湯温泉みどりや

野中の清水見物を終え,バスで川湯温泉に向かった.今夜から三日間みどりやさんに泊まることになっている.

そしてみどりやさんに到着した.ここまでしなくていいのにと思いながらも,お店の方が玄関先で出迎えて下さる.


みどりやの客室

みどりやの客室

チェックイン後キーをもらい客室に入る.ホテル浦島ほどではないがそれでも十分広い.和室ではシングルとかツイン専用とか少ないので広めになるのであろう.


大塔川と露天風呂

大塔川と露天風呂

みどりやの部屋の窓からは大塔川の流れと,ホテルの露天風呂が見えた.大塔川の対岸は林の茂る山だ.

ホテル地階には普通の大浴場があり,そこの出口から数段下に歩くと露天風呂に入ることができる.その連絡口タオル置き場にはミャンマー辺りの巻きスカート(ロンジー)(右の男性)と同じような筒状衣類が用意されており,それを着用して入る.でも写真のように丸見えなので暗くなってからにしよう.

また私は行かなかったが,近くに川湯温泉共用の仙人風呂という露天風呂があるそうだ.行った人からは,更衣室とかない(工事中のためか?)のでちょっと大変と聞いた.


お茶請けはからすせんべい

お茶請けはからすせんべい

テーブルにはお茶セットが用意されていた.お茶請けはからすせんべいだった.からすはもちろん熊野の八咫烏だ.普通に美味しい.

で,思い浮かべたのが,東京都が石原知事の時代,からす退治し,カラスのミートパイを東京名物にしよう....とかの話がありました.生ゴミとカラスは減ったようだが,パイはジョークなのでさすが....


この日の夕食

この日の夕食

みどりやレストランでは間隔を疎にして部屋番号が振られていた.寄せ鍋か何かの鍋物,ビールにワイン,鮎,ミニトマト....

このレストランではこれを皮切りに幾度か食事を頂くが,概して美味しかった.