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中辺路ハイク2

この中辺路ハイク2編では,2020年12月16日川湯温泉で朝を迎え,バスで発心門王子に行き,ここから中辺路を歩き,河野翁彰徳碑,水呑王子跡,伏拝王子跡,三軒茶屋跡と九鬼ヶ口関所,祓殿石塚と祓殿王子跡を越えて,熊野本宮大社に至る.その後大斎原でお参りし,川湯温泉に戻った,これらの写真を載せました.

中辺路ハイク2付近のGoogleマップ

川湯温泉22からバスで168号線を北上し,発心門王子23に至る.そしてここから伏拝王子跡24,三軒茶屋跡と九鬼ヶ口関所25を経由し熊野本宮大社26に至る.次いで熊野川河原に降り大斎原を参拝し,宿の川湯温泉22に戻った.

川湯温泉の朝

川湯温泉朝のレストラン

川湯温泉朝のレストラン

12月16日川湯温泉で朝が明けた.みどりや(山水館)レストランにでかける.消毒や手袋着用は他と変わりないが,ビニール手袋が他より優れていて,着けやすい.普通ポリエチレン製だが,ここのはそれにウレタンのようなものがコーティングされているような感触だ.

それと空いているのがいい(経営は大変だろうが).密にならず,ゆっくり装うことができる.


川湯温泉のこの日の朝食

この日の朝食

ロール2個(白と麦色)),塩鮭,ソーセージ,ミニトマト,コールスロー,ヨーグルト,コーヒーあたりかな.美味しかった.


入り口ホールに集まり検温

入り口ホールに集まり検温

食事が終わり指定の入り口ホールに集まる.そして添乗Yさんの放射温度計で測ってもらう.平熱でOKだ.

そして皆さん集合したところで,Kさんの赤いバスに乗り込み,今日の熊野古道ハイク開始点発心門王子に向かう.


最初は四村川沿いを北へ

最初は四村川沿いを北へ

最初バスは,上掲載ログを見ると川湯温泉の少し北を流れる四村川沿いの道を北へ進む.う~ん,こうして眺めると天気悪そうだな~でもそれはやむを得ない.

少し行くと四村川は大曲りし,大塔川に合流する.一方道はそのまま進み熊野川にぶつかり,バスは北側に折れる.なお熊野川は3日前桑の木ハイクの行き来で通った街道脇の大きな川だ.


発心門王子(ほっしんもんおうじ)

発心門王子駐車場に到着

発心門王子駐車場に到着

バスは雪のパラつく発心門王子駐車場に到着した.この辺りは標高360m程度と少し気温が低目なのと,山と谷が絡み合う地形の関係か,少し雪が降りやすいようだ.

木の枝には溶けずに雪が残り,ちょっと緋寒桜の雰囲気でこれもいいですね.


駐車場から発心門王子に歩く

駐車場から発心門王子に歩く

広い車道を発心門王子に向け歩く.駐車場も,この道も車や,人の姿を見ない.やはりパンデミックが関係しているであろう.

少し雪がパラつくのでカッパのフードを被った人が多いようだ.


発心門王子に到着した

発心門王子に到着した

石の鳥居に赤い社の発心門王子に到着した.これまで見てきた王子は石碑のみで,社殿を備えているのは初めてかな.当神社は一時他所と合祀され,また移設されていたが,比較的最近,1990年この赤い社殿のように復元されたという.

では発心門とは何か.発心は仏道に入り,修行を始める志を固めることで,門はその入口ということでしょうか.また「仏道」は神仏習合で一体,修行には共通だったからでしょうか.


藤原定家の歌碑と皇太子殿下行啓の地碑

藤原定家の歌碑と皇太子殿下行啓の地碑

小倉百人一首の選者でもあったそうな歌人藤原定家(1164~1241年)の詠んだ歌一首がこの石碑に刻まれている.

定家は後鳥羽上皇(1180~1239年)の熊野御幸に随行し,当人にとって相当辛いものであった当時の様子を書き残しているそうだ.

ただこの熊野詣は,猫も杓子も的熊野歩きブームのトリガーになったとのことだ.(私もその杓子の一つです)

左側には皇太子殿下(現天皇陛下)行啓の地碑が立てられていた(先日他所でもあった).皇族や貴族の熊野詣は平安時代中期から鎌倉にかけて特に盛んであったが,殿下の行啓は鎌倉時代以来とのことらしい.


河野翁彰徳碑

雪を被った枯れ草も趣き深い

雪を被った枯れ草も趣き深い

雪を被った枯れ草も趣き深い.道には積もらないで,草だけ選択的に....ありがとう.


河野翁彰徳碑

河野翁彰徳碑

左が河野翁彰徳碑で,漢文でよく解らないのだが,河野蔵人翁は旧新宮藩士で,慶應年間に藩主の要請を受け荒廃した当地の開墾や灌漑を推進し......といったことが書かれているのかな~?

ガイドAさんのお話では,とにかくこうした農地開発に多大な貢献のあった方だという.

右側は何らかの仏像(地蔵菩薩とかの)だが,河野翁と直接関係するのかは不明だ.


河野翁の建設した水路

河野翁の建設した水路

灌漑用水路で,河野翁の建設したものか,或いは古くなり復旧したもののようだ.河野翁の残した成果はこうしたものを含めて,現代も大いに活用されているそうだ.

古代ローマでもこうした水道橋は規模は大きいが先ず第一に建設されましたね.


子安地蔵

子安地蔵

木の向こうの小さな祠に小さなお地蔵さんが収まっていた.手前立て札には,祈願事として,安産,心願成就,子授かり,子孫繁栄,家内安全と記されている.小さなお地蔵さんだが,たくさんのお願いを聴いて下さるようですね.


水呑王子跡

舗装道路に入る

舗装道路に入る

子安地蔵を過ぎると舗装道路に入った.集落があり,その生活道であるためだ.


常設個展ブース

常設個展ブース

道端に小さな丸太小屋があり,羅漢像のようなものや,鳥や動物の彫刻が展示されていた.きっと近所のアーティストが展示しているのでしょう.半ば野ざらしのようで,羅漢などはそれなりに味が出てくるかな.....


八咫烏(やたがらす)の道標

八咫烏(やたがらす)の道標

熊野はやはり八咫烏だ.インパクトがある.威厳がありながら愛嬌ある顔とポーズだ.


杉林に入っていく

杉林に入っていく

集落を抜けるとまた杉林に入ってきた.杉の木は下枝が払われ良く手入れされている.また直ぐ側で見ると,間伐されて残された切り株も点在する.関東と同じように人手が減ってなかなか大変であろうが,頑張っている様子が窺える.


歯痛の地蔵さん

歯痛の地蔵さん

道端に歯痛の地蔵さんがあった.表札右の四角い祠に安置されている.上述の子安地蔵は診療科目が多く総合病院的であった.一方この地蔵さんは歯科に限定したクリニックだ.


一見木に落書き

一見木に落書き

竹やぶのある杉林があった.杉の木(写真中央)に落書きされているように見える.林は私有地で,所有者の方が定期的山林管理のため,このようにマーキングしながら巡回するのだそうだ.


水呑王子

水呑王子

少しして水呑王子に着いた.水呑の名は単純にここに湧き水があってそれが飲めたからでしょうか....?

平安時代末期のには既に「水呑王子」の言葉が現れた歴史があるそうだ.以来鎌倉初期まで幾つか書き記されたものが残るが,そのうちに熊野詣自体が廃れていき,この水呑王子も荒れていったようだ.しかし1723年(享保8年)紀州藩主徳川宗直が水呑王子を後世に伝えたいと,緑泥片岩の碑を寄進したのが現在の姿だそうだ.

王子石碑の脇にはニ体のお地蔵さんも並んでいる.こちらは整形外科腰痛専門で,良く効くと地元では評判という.


廃校になった小学校

廃校になった小学校

水呑王子跡の前には廃校になった小学校があった.建物自体は然程傷んではいないが,やはり生徒数減少で他と統合されたようだ.

校舎前の黄色に染まった大きな木は何というのでしょうか,見事だ.


伏拝王子(ふしおがみおうじ)跡

切り通しを下る

切り通しを下る

水呑王子を離れるとシダの壁に挟まれた切り通しのトレイルになった.路面は土留の石でステップ状に整地されたとても快適な通りだ.

周囲の杉林も下枝がきれいに断ち落され,採光が十分だ.よく育つであろう.


井戸とお地蔵さん

井戸とお地蔵さん

井戸は電動ポンプで汲み上げるようだ.お茶や調理用に用いられるのであろう.

お地蔵さんは寒くなったので赤いエプロンに藁カッパを着けている.

この風景,水呑王子と言っても通りそうな....


雪が多くなってきた

雪が多くなってきた

井戸の後,集落に入り,舗装道になった.積もるほどではないが,雪が多く降ってきた.


伏拝王子跡

茶畑

この集落には茶畑が多い,昼夜の寒暖差が大きく,また適度な傾斜地で陽射しの具合がいいのでしょうか.また送風ファンが見えないので,絶えず自然の微風も得られるのでしょう.


>階段の上に伏拝王子

階段の上に伏拝王子

茶畑から進むと脇に上る階段があった.階段上が伏拝王子(ふしおがみおうじ)ということだ.

伏拝王子の位置から熊野本宮大社が見える,というわけでは本宮(私達も後で訪れる旧社地大斎原)の森が見えるということだ.そして本宮の森をひれ伏して拝んだというわけだ...そう言っては何だが,大げさなような....

でもこれはサンティアゴコンポステーラ巡礼でモンテドゴソの丘に着き,初めてカテドラルを目にし歓喜するモンテドゴソの丘とかと同様で,信心深ければ自然な行為なのでしょう.(私は信心足りずここから本宮の森も,カミーノでモンテドゴソの丘からカテドラルも見えなかった)


伏拝王子の碑

伏拝王子の碑

これが伏拝王子の碑だ.あまり古い記録はなく,1730年(享保15年)の「九十九王子記」にようやく登場するという.

石碑は多分さらに新しいものではないでしょうか.


和泉式部供養塔

和泉式部供養塔

伏拝王子碑の隣に和泉式部(976~1030年)供養塔が立てられていた.上記「九十九王子記」の1730年より圧倒的に昔ですね.....それはそれとして.

和泉式部が熊野参拝にやってきた.そしてようやくここで熊野本宮大社(現大斎原でしょう)が望め,伏し拝んだようだ.しかし月の障りとなったため,参詣できなくなったと悲しみ,歌を詠んだという.


伏拝王子跡和泉式部の歌

和泉式部の歌

和泉式部が悲しみ詠んだ一首が脇に立っていた.

“晴れやらぬ身のうき雲のたなびきて月のさわりとなるぞかなしき”

ということだ.だが,その夜式部の夢の中に熊野権現が現れて

“もろともに塵にまじはる神なれば月のさわりもなにかくるしき”

と返してくれたそうだ.そして無事参拝することができたそうな.


伏拝王子の休憩所

伏拝王子の休憩所

伏拝王子にはお手洗いなど整備された休憩所があった.雨や雪の日は湿ってない座り場所を確保するのが大変なので,格好のお弁当場として座った.

私達は大斎原の後,熊野三山の奥宮,バスで玉置神社を訪れることになっている.しかしその方面は雪の影響が大きく,添乗Yさん,ガイドAさん,ドライバKさんが協議し,路面凍結もあるし,神社側も参拝は歓迎しない,とのことだ.ということで訪問中止と告げられた.


伏拝王子で食べたお弁当

伏拝王子で食べたお弁当

これが伏拝王子で食べたお弁当.中身はまあ普通の弁当だったと思うが,平安時代の(大げさに言ってみました)熊野詣の際携えたようなバスケットがなかなか素敵ですね.


三軒茶屋跡と九鬼ヶ口関所(くきがくちせきしょ)

再びシダのトレイルを下る

再びシダのトレイルを下る

再びシダのトレイルを下った.土留付き土の道は快適ですね.所々色づいた木々も目を和ませてくれる.


吊橋を渡る

吊橋を渡る

小さな谷川の吊橋を渡った.昔は橋がなく,一旦川べりまで降り,小さな橋か飛び石で渡ったのでしょうね.今は楽だ.昔は修行で今はレジャーだ.


三軒茶屋跡

三軒茶屋跡

なかなかシックな建物だ.東急三軒茶屋も今は全くイメージが異なるが,昔はこんなだったのかな~

つまり,東急三軒茶屋周辺もここと少し似て,大山詣の大山街道(現国道246号線)お休み処として賑わっていた筈で....でも多少の起伏はあるもここのように山がないので違うかな....


三軒茶屋跡と九鬼ヶ口関所

九鬼ヶ口(くきがくち)関所

三軒茶屋には九鬼ヶ口関所と呼ばれるパスポートコントロールがあった.通過するには通行料を添えて通行手形を提示する必要があったそうだ.通行料は江戸時代の文久年間(1861年ころ)で十文(現在の200円くらい)という.意外と安いが,他ページでも書いたが関所がたくさんあれば総額は大きくなる.

ところで自国,藩民,さらにオフィシャル手形はフリーパスとか,あったのでしょうね.それと,検疫とかビザなしは止めるとか....いろいろあったでしょうね.コンピュータなしの時代はやっかいだった.ネパールなど現代も一部ローカルエリアのチェックポストはそんな感じですね.


祓殿(はらいど)石塚と祓殿王子跡

三叉路の道標

三叉路の道標

道の分岐点があった.左きみい寺三十一,右かうや十九と記されているような.終わりがはっきりしないが.

左:紀三井寺まで31里,右:高野(山)まで19里,いうことらしい.高野山まで意外と近いようだが,現在は簡単なトレイルがないようだ.


鬼滅の刃で切られた石

鬼滅の刃で切られた石

ひらがな道標を過ぎると,「鬼滅の刃で切られた石」(と私は思った)があった.下1/3部分がスパッと切られている.これほどきれいに切れるのは鬼滅の刃以外なかろう.


ちょっとよりみち展望台

ちょっとよりみち展望台

「ちょっとよりみち展望台」に寄った.玉置神社参拝が取り止めになったので時間もあった.


よりみち展望台から眺めた大斎原大鳥居

よりみち展望台から眺めた大斎原大鳥居

全体にモヤが架かっているが,熊野川と大斎原(おおゆのはら)大鳥居がよく見える.

和泉式部が伏拝王子で眺めた光景も,若干遠いものの,多分このような光景だったのでしょうね.


石畳の整備されたトレイル

石畳の整備されたトレイル

よりみち展望台を過ぎ,とてもきれいに石を並べたトレイルが続いた.ガイドAさんによれば,施工されたのは相当昔だが,しっかりした工事で傷みが少ないということだ.

手前の斜め溝(ところどころにある)は排水溝で,斜面から流れ込む雨水を路面に流さず,反対側の斜面に落とすためだそうだ.路面に大量の水を流すと傷みが加速されるので,予め手を打っているとのことだ.


祓殿(はらいど)石塚

祓殿(はらいど)石塚

最近,平成29年の熊野古道沿い発掘調査で見つかった江戸時代後半(18~19世紀)に築かれたと推定される石塚.だが石塚遺跡が築かれる以前の石列や集石遺構,宝篋印塔(ほうきょういんとう:供養塔など仏塔の一種)の一部分なども出土し,鎌倉から室町時代には既に何らかの信仰遺跡がこの地に存ったのでないかと見られているそうだ.

石塚は参拝者が穢れを清め,道中の安全を祈念するため積み上げたのではないかと考えられているそうだ.

こうした積石は,チベット仏教のラプツェや,モンゴルシャーマニズムのオボとかと似たような意図で築かれるように思えた.


祓殿(はらいど)王子跡

祓殿(はらいど)王子跡

祓殿(はらいど)王子は本宮大社の旧社地(大斎原)まで僅か数百メートルで,他の王子と異なり,本宮大社参拝の直前に身を清める潔斎所としての役割を担っていたのではないかと推定されるそうだ.

ところで「はらいど」で検索すると先ずハライド(halide:ハロゲン化物)が出てくる.面白いですね.


熊野本宮大社

熊野本宮大社境内に入る

熊野本宮大社境内に入る

いよいよ熊野本宮大社境内に入ってきた.大きな木で陽射しが少ないためか地面は苔むしている.なかなかいい雰囲気だ.


黒い八咫烏ポスト

黒い八咫烏ポスト

大社横入り口に黒い八咫烏ポストがあった.ポストは赤いもの,と刷り込まれているので,黒いポストは正に意表を突くものだ.上に八咫烏も載っており,しめ縄も巻かれているので,あながちウケ狙いだけではなかろう.


熊野本宮大社神門

熊野本宮大社神門

門前で宮司の方(または学芸員の方)より一通りレクチャーを受け,神門に向かう.ここで基本的なニ礼ニ拍手一礼の作法でくぐる.

神門は切妻檜皮屋根造りだと思われる.木の自然な色合い美しい建物に,大きなしめ縄と暖簾がかかり力強く格好いい.


熊野本宮大社4つの社殿

4つの社殿

最初写真不可であったが,ガイド(語り部)Aさんの交渉で可になったので撮った.全ての建物が統一的デザインで落ち着いた色合いに揃えてある.概して朱塗りの熊野速玉大社や熊野那智大社と比べてぐっと落ち着いた感じだ.すばらしい.

左は第一社殿と第二社殿が一緒になった社殿(ただし入り口は2つあり),中央が第三社殿,右が第四社殿である.お参りの順は1,2,3,4ではなく,3,2,1,4の順と指導を受けている.お参りの仕方は神門同様ニ礼ニ拍手一礼である.


熊野本宮大社一,二社殿

第一,二社殿

一番左側の一,二社殿が一緒になった社殿だ.第一社殿は夫須美大神(ふすみのおおかみ)を祀り,本地仏は現在を司る千手観音という.

第二社殿は速玉大神(はやたまのおおかみ)を祀り,本地仏は過去を司る薬師如来という.

内部を覗くことは叶わぬが,千手観音像や薬師如来像があるのでしょうか.


中央に建つ第三社殿

中央に建つ第三社殿

真っ先に参拝するのが,並び中央に建つ第三社殿.入母屋破風のある面が正面となっている.

第三社殿は家津美御子大神(けつみみこのおおかみ)を祀り,本地仏は未来を司る阿弥陀如来という.


熊野本宮大社右側の第四社殿

右側の第四社殿

第四社殿は第三社殿同様入母屋破風のある面が正面となっている.第三社殿より若干大きいであろうか.

第四社殿は天照大神(あまてらすおおかみ)を祀り,本地仏は未来を司る十一面観音という.

以上4つの社殿を見たが,どれも重厚で美しい外観だ.


熊野本宮大社拝殿

拝殿

拝殿は神門の外側にあり,上記神門や本殿と違って瓦屋根葺き構造だ.入り口には円弧状唐屋根風突き出しが設けられている.


熊野本宮大社を離れる

熊野本宮大社を離れる

私達は熊野本宮大社参拝が済んだので,ここを離れることにした.そしてのぼり旗で縁取られた長い階段を下る.普通の揃った段差の階段で安心して下れる.現在は空いている.ただ多分普通の年の初詣とかであれば,相当混み合うのでしょうね.


大斎原(おおゆのはら)

本宮大社境内から出る

本宮大社境内から出る

熊野本宮大社南側出入り口,木の鳥居から表通りに出た.振り返ると階段と両側ののぼり旗がこれでもかとばかりに続いている.


ギャラリーは閉館中

ギャラリーは閉館中

奥宮行きが中止になったので,この博物館/ギャラリーに行ってみることになった.だがあいにく収蔵品整理のため休館という.ガイドAさんもこのようなことは初めてだと....残念.


大斎原に向かう

大斎原に向かう

大斎原は熊野川の畔,水田地帯にあるようだ.途中住宅が建てられている.こちらのお宅ではバラでしょうか,咲き乱れています.

通路は中央がきれいな石畳,両側は普通の舗装だ.真ん中の石畳は神様専用で,人は歩いてはいけないそうだ.以前四国遍路で泊まった安楽寺宿坊勤行用小川に架かる橋は,ご住職より,橋の真ん中を通りなさい,仏教の教える中道です,ということだった.

神仏習合はあってもやはり違うところもあるのですね.


大斎原(おおゆのはら)の大鳥居

大斎原(おおゆのはら)の大鳥居

2000年に建てられたという大鳥居が聳える.高さ33.9m,横幅42mで,日本一ということだ.

かつて,この場所ではなく,熊野川,音無川,岩田川の3河川の合流点に「大斎原(おおゆのはら)」と呼ばれる中洲があり,そこに52もの社殿があり,他に楼門がそびえ,複数の摂末社(本宮管理下の小規模神社),神楽殿や能舞台,文庫,宝蔵,社務所,神馬舎などもあり,現在の本宮大社の8倍もの規模だったそうだ.ただし中洲にあるため,参拝するのは大変で,普通草履で渡渉したようだ.

それが1889年(明治22年)夏の大水害で尽く押し流されてしまったのだそうだ.そして現在の本宮境内に規模を小さくして再建したのであろう.また本大鳥居の位置も中洲時代とは異なるのでしょうか....聞いた筈だが思い出せない.


大斎原の石祠

大斎原の石祠

鳥居をくぐり中に入ると,簡易な白いテントで覆われだ2つの石祠が鎮座していた.他にそれらしきは見えないので多分これが大斎原の御神体になるのでしょうか....

テントは普段ないのだが,何らかの神事を行うので,関係者が集まるためと言っていたかな....下の一遍上人月例会かも知れないですね.


一遍上人月例会

一遍上人月例会

一遍上人(1239~1289年)は鎌倉中期から室町時代にかけて日本全土に広まった浄土系仏教,時宗の開祖という.現在総本山は藤沢にある清浄光寺で,全国に時宗寺院は広がっているそうだ.そして時宗はここ熊野を聖地としており,一遍上人の生誕日23日に合わせ毎月月例祭を行っているそうだ.

後ろの石碑は,私には達筆過ぎてよく読めないのだが,時宗の念仏「南無阿弥陀仏」でしょうか....


石垣に刻まれた全国各都市の時宗寺院

石垣に刻まれた全国各都市の時宗寺院

石碑の石垣にはあちこち都市の時宗寺院や,個人信徒名が刻まれている.全国で時宗寺院は400余りあるということだ.


川湯温泉に戻る

1889年(明治22年)水害時の水位

1889年(明治22年)水害時の水位

私達はホテルに戻るため,土手を上り,駐車場へと歩いた.

土手の階段には中洲にあった本宮大社に壊滅的ダメージを与えた1889年水害時に上った水の水位を示す石碑に出合った.ここに示された水位線は近くの民家屋根を越えている.これでは大社がひとたまりもなかったことは明らかだ.

なお1889年ほどではないものの,最近の平成23年紀伊半島大水害や,昭和28年大水害の水位を示す石碑も据えられていた.


熊野川沿いを下る

熊野川沿いを下る

私達のバスは熊野川沿い,168号線を下った.熊野川はとうとうと流れ,熊野の社を破壊し尽くしたという激流は微塵にも感じさせない.ただほんの稀ではあろうが,実際には起こるのですね.


川湯温泉の夕食

川湯温泉の夕食

川湯温泉山水館みどりやに戻り,地階の大浴場に行った.また巻きスカートを着けて河原の露天風呂にも入った.河原なので石ころがゴロゴロしており面白い.

そして時間になり,レストランに行く.この日は寄せ鍋にお刺身,ミニトマト....ワインにビール.これ,若しくはこの小アレンジが川湯温泉に於ける私の定番のようだ.美味しかった.