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那智山めぐりハイク

この那智山めぐりハイク編では,2020年12月13日那智勝浦温泉で目覚め,朝食後バスで大門坂入り口に行き,ここから上り始め,熊野那智大社,青岸渡寺を経て,那智の滝に至る.そしてバスで大門坂入り口へ戻りランチ.再びバスで補陀洛寺を訪れ,次に桑ノ木の滝ハイクで往復し,急階段の神倉神社「ゴトビキ岩」を参拝し,那智勝浦温泉に戻り夕食を頂いたときの写真を載せました.

那智山めぐりハイク付近のGoogleマップ

 

那智勝浦温泉6→大門坂7→熊野那智大社8→青岸渡寺9→那智の滝10→大門坂入り口に戻りランチ→補陀洛寺11→桑ノ木の滝12→神倉神社「ゴトビキ岩」13→那智勝浦温泉6に戻る

那智勝浦温泉の朝

朝のホテル浦島レストラン

朝のホテル浦島レストラン

2月13日が明けた.早い時間にレストランに行く.冬至近くになり,陽が昇り始めて間もない.しかし窓際のテーブルは既に塞がっていた.

岸壁は完全にシャドウになり真っ暗だが,目を凝らすと洞窟風呂玄武洞の開口部が見えた筈だが.....

で,この朝は蕎麦を食べたに違いないのだが写真はなかった.朝の蕎麦はあまり経験がないので,半ば疑いながらこれもまた乙ではなかろうかと思ったのだ.


今日もいい天気だ

今日もいい天気だ

部屋に戻り窓を眺めると,今日もいい天気だ.ハイキングがあるので特にありがたい.


送迎船で対岸バスまで

送迎船で対岸バスまで

送迎船で対岸に渡り,バスパーキングに歩く.

凪でしかも湾内なので海面は静かだ.この送迎船以外動いている船舶はまだないようだ.いや,漁船などは既に出漁した後なのかな.


大門坂

大門坂入り口駐車場へ

大門坂入り口駐車場へ

朝食後バスで大門坂入り口駐車場へ行った.ここから那智山巡礼路の一部を歩き始める.

那智山は那智勝浦町北東部内陸一帯の山々の総称で,私達がこれから訪れる熊野那智大社や飛瀧神社(ひろうじんじゃ≒那智の滝)などのあるエリアだ.


大門坂の標識

大門坂の標識

さてハイキングの始まりだ.入り口には随分と大きな大門坂の標識があった.大門は大社の大鳥居を指し,坂は実際そこに至る参道が上り坂であるためであろうか.

脇には,世界遺産「紀伊山地の....」と,「熊野参詣道中辺路」(なかへち)の文言も記されている.中辺路の範囲をよく理解していないのだが,少なくとも前日参拝した熊野速玉大社,これから訪れる熊野那智大社,青岸渡寺,那智の滝,補陀洛山寺,神倉神社「ゴトビキ岩」は含まれているようだ.

明後日とその次の日のハイキングには,その名「中辺路」が冠されており,例えば熊野本宮大社などが含まれている.どのみち私達が歩くのはほんの一部分に過ぎない.


最初の小さな鳥居

最初の小さな鳥居

大門坂を少し行くと最初の小さな鳥居があった.この辺りは民家やお店が細やかな門前町を形成している.


平安装束レンタルショップ

平安装束レンタルショップ

鳥居に続いて平安装束レンタルショップが2,3軒あった.実際これで歩いている人は見なかったが,掲げられた見本写真を見ると尤もらしくてなかなかいい.コロナが収まり,外国人観光客が戻れば流行りそうだ.


大門坂の夫婦杉

大門坂の夫婦杉

大門坂参道両側には杉の大木が並んでいる.中でもこの両側ペアは一番大きいそうで,幹周りは9.2m(双方)あり,樹齢800年と推定されるそうだ.

そして大変興味深いのは,石の道の両脇にはこうした大木が生えているのに,数m離れると大きな木は皆無で,かなり小振りの杉だけだ.

これは古来よりこの地方は林業が盛んで,ある程度の大きさになると伐採し,運び出された.ただし参道両脇は歴代政府寺社庁直轄領地で,伐採してはならなかったからという.


多富気王子(たふけおうじ)跡

多富気王子(たふけおうじ)跡

夫婦杉の後,多富気王子(たふけおうじ)跡に出合った.ガイド氏によれば,王子は簡単に言うと小規模神社のようなところで,参拝する場所ではなかろうかということだ.

日本国語大辞典を見ると以下のように述べられている.

熊野権現の末社.京都と熊野間に多く,参拝者の休憩などにあて,地名をかぶせて呼んだ.総称して九十九王子という

どの方向から,どのように数えるのか分からないのだが,ここの立て看板には実際,本多富気王子は99王子ある中で最後の王子と記されている.

なお東京にも王子駅とか八王子とかありますが,これも小さな社が在ったからでしょうか,それともプリンスの意に由来するのでしょうか?


石の階段に杉並木

石の階段に杉並木

大門坂は全て石で舗装されているようで,土の面は見えないし,陥没や剥離が少なくよく整備されてきたようだ.

また両側は杉の大木で,樹齢500年ほどのものが多いそうだ.そして前述のように石道両サイド大木並木から離れると,途端に大きな木はなく,植林して数十年クラスの杉だけになる.多分これで両側並木の陽当りは良くなり,一層成長を助けるであろう.

いや~とにかく美しく見事な眺めだ.


大門坂の十一文関跡

十一文関跡

立て看板に,昔通行税をとったところです,とある.十一文とは半端ですが.あるサイトで教えてもらったのだが,江戸時代の1文はおよそ18円だそうで,十一文は200円くらいになりそうでしょうか.安いですが関所が多ければ総額はかなり増えますね.


大門坂の唐斗石

唐斗石(からといし)

「斗」は体積の単位で,1斗≒18L,「石(こく)」は同じく体積の単位で,1石=10斗≒180L.これは日本の単位だが,「唐(中国)」ではそれぞれ,10L,100Lに相当するようだ.でもこの唐斗石とどういう関係にあるのか.....謎は深まる.

よく解らないが,この石塔頂部に小石を載せて,願掛けするそうだ.山でケルンを積むとか,サンティアゴ巡礼路カミーノ道標上に小石を載せるとか....同じような思想が背景にあるのだろうか.


晴明橋の石材

晴明橋の石材

第65代花山天皇(かざんてんのう/968~1008年/正暦3年頃)が那智山大滝の山中で千日御参籠苦行の際,お供した安倍晴明(あべ の せいめい/陰陽家:921~1005年)がこの近くに庵を建てて,晴明堂と名付け,また近くの橋を晴明橋と呼んでいたという.

ところで陰陽師(おんみょうじ)とは何ぞや.古代律令制日本官職の1つで,占いを行う技官であるが,後には神職の一種のように見られるケースもあるようだ.

また花山天皇は在位2年で退き,出家したということだが,千日御参籠苦行というと3年間余になるが.....出家後のことでしょうね.


熊野那智大社

熊野那智大社門前町になる

熊野那智大社門前町になる

やがて熊野那智大社門前町に入った.鳥居に向けて石段を上る.石段の右側には今は営業を止めた那智山郵便局の建物もあった.やはり人口減でたたまざるを得なかったのであろうか,と思ったが近くの新庁舎に引っ越したということらしい.


ナギ(梛)の苗と那智黒石土産

ナギ(梛)の苗と那智黒石土産

前日熊野速玉大社で見た御神木ナギ(梛)の苗と,「多娥丸」像素材の那智黒石で彫られたお土産品が販売されていた.どちらも熊野古道産らしくていいでしょう.


熊野那智大社鳥居

熊野那智大社鳥居

そして熊野那智大社鳥居に着いた.熊野速玉大社の神門のようにゴージャスタイプではなく,一般的な朱塗りの大鳥居だ.


熊野那智大社御祭神

熊野那智大社御祭神

鳥居脇には3人の御祭神が掲げてあり,他に10神が祀られているようだ.

3御祭神は熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ),御子速玉大神(みこはやたまのおおかみ),家津御子大神(けつみこのおおかみ)と記されている.

そしてこれら御祭神はそれぞれ本地仏(ほんじぶつ)に対応し,熊野夫須美大神→千手観音,御子速玉大神→薬師如来,家津御子大神→阿弥陀如来ということだ.本地仏は仏教が興った時代に盛んになった神仏習合思想の一つで,神道の八百万の神々は仏教の如来,菩薩,天部などの化身であり,日本に現れた権現(ごんげん)であるとする思想だそうだ.ちょっとヒンドゥーの化身に似ていようか.

前日参拝した花の窟神社は背後の大岩がご神体とはっきりしていたが,普通の神社本殿にはこうした具象的御神体は....多分ないのではなかろうか.当初神社はイスラムの偶像崇拝禁止と同じようにして興ったが,一般民衆には難し過ぎて,解りやすくするため仏教の要素を採り入れたのかな....?


熊野那智大社の紅葉

熊野那智大社の紅葉

熊野那智大社では紅葉がきれいだった.

全山紅葉というわけではないが,色の付く木々にとってはいい季節ですね.


熊野那智大社拝殿

熊野那智大社拝殿

まっすぐ進むと入母屋屋根に,唐風円弧状屋根(多分檜皮では),朱の構造材に白壁,大きな拝殿に着いた.ここで参拝する.

拝殿の左側には前述の3主神や他の神々,それに八咫烏(やたがらす)を祀った本殿が建てられている.

初代神武天皇が瀬戸内海,淀川を経て大和(東になる)に攻め入ったが,その地の豪族の迎撃に破れた.しかし二度目はルートを変え,天から遣わされた八咫烏の道案内によりここ熊野や吉野の山中を行軍し,見事東征を果たしたという.そして八咫烏は熊野の神々の使いとして祀られることになったという.

また八咫烏が日本サッカー協会のシンボルになったのは,日本にサッカーを広めた那智勝浦町出身の中村覚之助氏が,前記神武天皇東征伝説や,平安時代のサッカー蹴鞠(けまり)の奉納例など,諸事配慮し決めたとのことだ.


熊野那智大社樟(クスノキ)の御神木

"熊野那智大社樟(クスノキ)の御神木

"拝殿横に樟(クスノキ)の大木があった.樹齢850年という.平重盛(1138~1179年)が造営奉行をしていた頃,自ら植えたそうである.

内部は枯れて空洞になっているそうで,有料でくぐり抜けできるそうだが,ちゃんと功徳があるそうだ.


青岸渡寺

青岸渡寺に出る

青岸渡寺に出る

熊野那智大社拝殿と樟の間を下るとすぐさま青岸渡寺(せいがんとじ)前に出た.艶やかな朱塗りの熊野那智大社とは対象的にモノトーンの外観でいかにも仏教寺院だ.

青岸渡寺は,上記花山天皇(法皇になられてから)が千日(3年間)御参籠苦行(滝篭り)をされ(988年),以来西国三十三ヶ所第一番札所に定めたそうである.

なおこの本堂は,1590年(天正18年)に豊臣秀吉が再建したもので,桃山時代の特徴を残しているとのことだ.さてどの辺のことだ....


青岸渡寺本堂

青岸渡寺本堂

青岸渡寺本堂には那智山の山号が掲げられていた.上に記したが那智山はこの辺り一帯の山々の総称だ.もともと那智の滝を中心にした神仏習合の修験場で,花山天皇もが滝篭りされたことは上でも記した.それが明治初期の神仏分離政策で青岸渡寺と那智大社に分かれたということだ.

そして現在は天台宗に属し,仁徳天皇の時代(4世紀),インドから那智に渡来したという裸形上人(らぎょうしょうにん)の開基で,御本尊として同上人が那智滝の滝壺で見つけた如意輪観世音菩薩を祀るということだ.4世紀にインドから....とは圧倒的だ,たまげる他ない.

なお,水底から仏像を引き上げる話ではブータンでも聞いたことがある.つまりかの有名なパドマサンバヴァ(Padmasambhava:750年ころ)が後世の人のために,宝典や仏像など仏教の宝物をある場所に隠した,という言い伝えがあり,後の世ペマリンパ師が,それがメンバルツォ湖底であると解明し,湖に潜り引き上げたというストーリーだ.でも青岸渡寺はそれより相当古いですね.


青岸渡寺三重の塔

青岸渡寺三重の塔

青岸渡寺本堂より少し下った場所に三重の塔が建っている.そしてその右奥には那智の滝が見えている.

三重の塔は本堂とは違って朱塗りに銅板屋根葺で,熊野那智大社社務所などの配色に近い.

三重の塔は一旦1581年(天正9年)戦乱で焼失し,随分最近の1972年(昭和47年),鉄筋コンクリートで再建された建物だそうだ.道理で新しく見える訳だ.本尊として飛滝権現本地千手観音を祀っているとのことだ.

またこの近くには立派な信徒会館も建てられている.


那智の滝

ミツマタの蕾

ミツマタの蕾

三重の塔からさらに下ると道端にミツマタの木がたくさんの蕾を付けていた.春になると黄色い花を咲かすでしょう.


熊野那智大社別宮飛瀧神社(ひろうじんじゃ)鳥居

熊野那智大社別宮飛瀧神社(ひろうじんじゃ)鳥居

さてこの辺りから熊野那智大社別宮飛瀧神社(ひろうじんじゃ)という長い名の神社参道になる.飛瀧神社と簡略化してもいいようだ.大きな杉の続く石段に白い鳥居が建てられている.森の中,弱い木漏れ日の中の白もいいもんだ.


那智の滝

那智の滝

那智の滝(=熊野那智大社)に到着した.滝は熊野那智大社別宮飛瀧神社のご神体ということだ.

滝は落差133m,幅13m,上述インドより渡来の裸形上人が如意輪観世音菩薩を見つけた滝壺は深さ10mで,落差,水量ともに日本一という.訪れたときの水量は時節柄少な目とのことだったが,結構迫力がある.

滝の手前には売店が並ぶが,左奥に飛瀧神社の社務所があるようだ(私は行かなかった)


見返り那智の滝

見返り那智の滝

参拝を終え元の道を戻った.途中振り返ると,滝の落ちる岩盤は結構な幅がある.雨季に,ここまでいっぱいに広がって落ちれば大迫力だが,まさかそんなには降らないでしょうね.

この参道では毎年7月14日有名な「那智の火祭」が催されるそうだ.参道を清めるため,白装束の男たちが燃えさかる大松明を抱え,大声をかけ合いながら那智の滝前まで石段を下ったり,上ったりする神事だそうだ.

ガイドMさんは現在大阪住まいだが,熊野那智エリア育ちで,当時この祭りが大きな楽しみだったそうな.松明が道脇の石垣隙間に差し込まれ,その燃え残りや炭を拾うことができれば吉祥とされ,懸命に探したそうだ.なおガイド業は定年後に始め,今はこうして仕事のあるときに戻るという.


大門坂入り口でランチ

黄葉の広場

黄葉の広場

参道からバスの待つ広場に戻った.行きは大門坂入り口から歩いたが,戻りは大門坂入り口までバスで楽チンするそうだ.

駐車スペース脇は黄に色づいた木々が茂っていた.なかなか映える.


大門坂入り口でランチ

大門坂入り口でランチ

大門坂入り口までバスで降り,レストランに入り,写真のランチを頂いた.釜飯がメインのようですね.


補陀洛寺(ふだらくさんじ)

補陀洛寺本堂

補陀洛寺本堂

バスで補陀洛寺(ふだらくさんじ)に到着した.写真はその本堂で方形瓦屋根葺きで比較的小型だ.構造材や壁,屋根が自然な色合いで美しい.

本堂に入れてもらい,ご住職の法話を聴く.要点は,本補陀洛寺は平安時代から江戸時代にかけての補陀洛渡海(南方にあると信じられた補陀洛浄土を目指し渡海すること)上人達の出発点(だった)という.

また普段は閉じられているご本尊の千手観音像を開帳してくだされた.


補陀洛渡海に出た舟(復元)

補陀洛渡海に出た舟(復元)

この舟に30日分の食料を積み,(複数の?)上人が乗り込み,蓋を釘で打ち付け塞ぎ,出航したという補陀洛渡海舟(復元).屋形周囲に4つの赤い鳥居が付いているのも興味深い.一つは「涅槃門」で死出の航海を物語っているそうだ.

これで補陀洛浄土を目指した上人は多く居り,二十数回の渡海が記録に残されているそうだ.もちろん浄土を目指すので,一般的な死は覚悟の上であるが,実際その行方は知れす....一種の入水往生ということだ.


熊野三所大神社(くまのさんしょおおみわしゃ)

熊野三所大神社(くまのさんしょおおみわしゃ)

補陀洛寺の脇に神社があった.マップを参照すると熊野三所大神社(くまのさんしょおおみわしゃ)ではなかろうか.

熊野三所大神社の祭神は家津美御子大神(けつみこのおおかみ),夫須美大神(ふすみのおおかみ),速玉大神(はやたまのおおかみ)の熊野三所権現という.補陀洛寺のすぐ脇にあるのは,これまで見てきたところ同様,熊野は神仏習合の聖地で,熊野信仰は神道と仏教が混然一体となった修験道だったからだ.明治の神仏分離で別々になり,また場所によっては廃仏毀釈により多くの仏教寺院が排された.補陀洛寺は免れたが.


那智勝浦町郊外の眺め

那智勝浦町郊外の眺め

補陀洛寺は海に近いが那智勝浦町郊外に位置する.主に農業地帯を眺めると,低いがやはり那智山のカテゴリに含まれるのであろうか,青い峰々に取り囲まれ,盆地となっている.


桑ノ木の滝

桑ノ木の滝トレイル入り口に来る

桑ノ木の滝トレイル入り口に来る

補陀洛寺からバスで桑ノ木の滝トレイル入り口に来た.看板には日本の滝100選と記されている.那智の滝はもちろん含まれようから,和歌山県には少なくとも2つはあるようだ.さてどんな滝かな~

看板の下に15分とあるから,この入口から近いようだ.


トレイル入口近くの社

トレイル入口近くの社

トレイル入口近くには小さな社があった.さすが熊野那智信仰の地だけあってあちこちにこうした社が祀られているのであろう.マップを見ると相賀(おうが)八幡宮のようだ.同名の神社は和歌山県だけでも無数にあるようで,言わば村の鎮守様的存在ではなかろうか.

背後の岩がご神体かな?


桑ノ木の滝

桑ノ木の滝トレイルは滑りやすい

桑ノ木の滝は高田川支流の桑ノ木谷にあり,トレイルはその谷沿いだ.歩く人が少ないようでトレイルには朽ちた倒木など所々見られる.それが滑りやすいので要注意だ.

歩くに支障ないが,川にも近年の台風で倒れた木が結構散らばっていた.


桑ノ木の滝に到着

桑ノ木の滝に到着

桑ノ木の滝に到着した.全容を眺めたいと岩を渡り中程に行くのだが,今度は木が邪魔になったり....

滝は落差21mで,昔はこの周囲に桑の木が多く生えていたことが名の由来という.


熊野川の流れ

熊野川の流れ

滝見物から戻ると先ず桑ノ木谷の流れ込む高田川に沿う街道を東に進む.そして程なく今度は熊野川に合流する.熊野川は広く悠々と流れる.私達はこの流れに沿う街道を下り,次の神倉神社「ゴトビキ岩」に向かった.


神倉神社「ゴトビキ岩」

神倉神社「ゴトビキ岩」に上り始める

神倉神社「ゴトビキ岩」に上り始める

バスは神倉神社前に到着した.太鼓橋を渡り,社務所などある境内を一通り眺め,神倉神社本殿に至る参道入口朱塗り鳥居を潜る.参道階段は538段あるそうで,熊野古道中の古道と称されるくらい古いという.

鳥居直後からの石階段が異常に急だ.上りはまだいいが,下りは大変だ.急勾配はちょうど中程まで,いや1/3くらいか,その後は並みの勾配になる.手摺とかロープ,チェーンがあるといいのだが,ここは世界遺産『紀伊山地の...』に含まれるので,変更を加えることはできないであろう.特に『参詣道』が主題となっているだけになおさらだ.


神倉神社に至り参拝

神倉神社に至り参拝

さて階段が終わり,神倉神社に到着し,参拝する.

右背後から社に寄り掛かる大岩が「ゴトビキ岩」で,熊野大神が最初に降臨した聖地が正にこの岩だという.その後,前日訪れた熊野速玉大社にまだ社殿のない原始信仰,自然信仰時代のこの神倉山から,麓に新しい社殿を建て,降臨した神々を祀ったということだ.そのため本神倉神社に対して「新宮社」と呼ばれるそうだ.ということは本神倉神社は「旧宮社」なのであろうが,建設自体は「新宮社」より新しいのでしょう.


神倉神社の「ゴトビキ岩」

「ゴトビキ岩」

正面から眺めた「ゴトビキ岩」は巨大で迫力がある.ゴトビキとは,この地方の言葉で「ガマガエル」を意味するそうである.何でも見る方向で蛙の姿に似ているようだ.「ゴトビキ岩」は神倉神社のご神体であるが,ここに熊野大神が降臨したのではなく,ゴトビキに対する自然信仰,巨岩信仰時代が先にあり,後に熊野大神の降臨が付加されたのではないかとの説もあるようだ.多分そうでしょうね.


神倉神社から眺めた新宮市

神倉神社から眺めた新宮市

神倉神社から眺めると新宮市の町がよく見える.その先は太平洋だ.

熊野速玉大社は新宮で,それがそのまま市の名前になった訳だ(←でもさらに歴史の長い旧宮もありますね).


神倉神社「ゴトビキ岩」から戻る

神倉神社「ゴトビキ岩」から戻る

参拝を終え,また階段を伝わって下山した.例の階段下側は急勾配だ.私より少し後に降りてきた女性一人がちょっとそこで転んだそうで,添乗Yさんの判断で新宮市にサポートをお願いしたそうだ.

少ししてレスキュー隊が駆けつけ,そり状担架に載せ,降ろし,救急車で病院に搬送して下さった.診断結果,顔の傷や打撲程度で済んだそうで幸いであった.

ところでレスキュー隊の皆さんは急階段をトットトットと駆け上り降りしたが,神倉神社には1800年の歴史があるというお燈祭り(おとうまつり)と称される勇壮な火祭りが毎年2月6日に催されるそうだ.

白装束に荒縄を締めた約2000人の「上り子(のぼりこ)」と称する男衆が御神火を移した松明を手に,神倉山山頂から538段の急石段を駆け下りるという.いや~想像しただけで大迫力だが,ビビりそうでもある.


那智勝浦温泉に戻り夕食

那智勝浦温泉に戻り夕食

那智勝浦温泉に戻り夕食

ゴトビキ岩からバスで那智勝浦温泉に戻った.

そして先ずは洞窟温泉に行く.この日は本館にある忘帰洞にしてみた.帰るのを忘れてしまう洞窟の意と解して,そんなすごい温泉,と思ったのだ.私は温泉に(も)疎いので,前日の玄武洞同様洞窟と云うある種の物珍しさを味わいながらも,まあこんなものか~と思いながら普通通りさっさと切り上げた.多分客観的に評価すれば優れた湯なのでしょう.

そしてレストランに行き夕食を頂く.二泊目なのでお造りに小さな鍋が予め用意されていた.こうして改めて眺めると食べ過ぎだったようだ.多分ビールも追加したと思うし...