このマンダレー編(Mandalay)ではマンダレーへ行くときの様子,ウーベィン橋,マハーガンダーヨン僧院,マハムニ寺院,マンダレー王宮跡,シュエナンドー僧院,クドードォパゴダ,サンダムニパゴダ,マンダレーヒル,マンダレーの街の写真を載せました.
マンダレーはミャンマーでヤンゴンに次ぐ第2の都市(いや人口では最大か?)であり,国土のほぼ中央に位置しており,バガン同様乾燥地帯であるようだ.下の年表のように,英の統治下に入る前,最後の独立王朝(コンパウン王朝/Konbaung Dynasty)の都があった所でもあるそうだ.
ミャンマーの歴史年表
11/28(月)朝,バガンのホテルで昼食を済ませ.バガン空港へ行った.そしてバガン08:05発エアバガン航空W9-143便でマンダレーへ向かった.ミャンマーでは草履は飛行機でも高級ホテルでも...どこでも普通で,草履で乗った.直ぐ裸足になる場面になるのでこの国の観光で靴は不向きだ.マンダレーは近く,羽田/伊丹間より若干近いくらいか?僅か30分程度のフライトである.
マンダレーへの航路略図
自由席のシートに座り,早速搭乗前にバガン空港のインフォメーションカウンタで貰ってきたマップを機内で広げ,この日予定のホテルや観光場所を探してみたがなかなか判らない.そこで隣のシートに乗り合わせた若い女性に訊ねると,親切に該当箇所をペンでマークしてくれた.またホテルはマップより新しく,アマラプラの観光地はマップ外で載っていないとも教えてくれた.私は北部ヒマラヤ方面にも興味があるのでちゃっかりその方面に関しても訊いてみた.すると先ずその地方最寄りの空港まで飛ぶのだが,その辺り一帯はしばしば戦争状態に入るのでかなり危険...と言うので,『えっ,戦争って中国とですか?』と,問い質すと,彼女は人差し指を口に当てて『シーッ』という仕草を見せた.戦争と表現したのはこのエリアの住民と現軍事政権の特にダム建設に関わる反政府抗争を指していたのだが,何より『シーッ』と,声を潜めるよう促したことに現在のミャンマー市民生活の実情を垣間見る思いだった.この北部エリアは部族的にもビルマ族とは反目しがちでキリスト教徒が多いそうだ.同じ部族かどうか判らないが彼女もクリスチャンだと言っていた.その辺に密偵が潜んでいるとも限らない中で,どこの馬の骨とも知れぬ一観光客に,リスクを犯しながらも親切に際どい話をしてくれたことに有りがたく思う.なおエヤーワーディー川上流のダム建設は中国資本で着手される計画であったが,上記反対抗争で当面建設は凍結することになったようだ.
マンダレー空港に到着し,広い,いやばかにガランとした到着ロビーに入る.数年前中国の援助で国際空港として建設されたが,まだ国内便が飛ぶだけで閑散としている状態らしい.
マンダレー空港に到着し,バスに乗り換えてマンダレー手前のアマラプラへと向かった.なかなか立派な道路に見えるが,ガイドTさんが実際運転すると不具合があるそうだ.一つは素人が設計したようで,カーブ部に適切な路面勾配が付けられておらず危険,アスファルトでなくコンクリートで,路面温度が非常に高くなり,タイヤの空気を抜かないとバーストの危険あり,...ということだ.
下は,マンダレーへ行くときの写真
マンダレー空港の港内バスは床の低い専用バスではなく,日本の中古市バスが使われている.内部は『お降りの方はブザーを押して下さい』とか元のままであるが,外側はミャンマービールの広告に塗り替えられている.わりと珍しいと思う.
バスは走りアマラプラ(Amarapura)の街に入ってきた.バスや車の通行量が多い.バガンのニャンウー辺りより混み合っている印象だ.
ビルマ最後のコンパウン王朝(Konbaung Dynasty)がマンダレーに遷都する前,1783年~1823年と1841年~1860年の間首都だったそうである.2度に渡って首都だったことから『不死の町』を意味するアマラプラという名になったらしい.日本でも支配者が変わると遷都されたが,ビルマでは同じ系統の王朝でも王が変わると遷都することがよくあったようだ.
アマラプラにはタウンタマンという湖があって,この対岸に渡る長い木橋が架かっている.160年余り前の1849年,当時のアマラプラ市長ウーベインによって建設されたそうである.つまりその市長さんの名が橋(U Bein Bridge)の名として残った訳だ.
橋は1,200mの長さでチーク材が用いられている,いや渡って眺めたところチーク材以外は使われておらず,総チーク作りと見た.木造橋としては世界でもかなり長い(世界一?)という.橋脚用柱は1,000以上あるそうだ.チーク材は硬く強度が大で,耐久性も高いと思われるが流石野晒しでは長期間持たない.ダメになった部材を個別に新しいのと交換補修して使っているそうだ.渡ってみると激しく侵食され,これでまだ大丈夫なのかな~?と見える柱や床材が多い.ただ隙間を開けてラフに張られたチーク床材の上を歩いてみると殆ど撓む感じはせず,リジッドで,流石チーク材~と思う.
ところでチーク材は高温多雨量地帯でないと良い木材には成長しないそうだ.なのでここマンダレーやバガンは乾燥地帯なので,植えれば一応成長するが良い木材にはならないそうだ.この橋のチーク材も南の多雨地帯から移入されたものであろう.数年前,政府当局に対して,植林に関わるこのような基本的知識を含めて進言した専門家がいたそうだが,直ちに解任され,別の御用学者が登用されるケースがあったらしい.その結果,乾燥地帯あちこちにもチークの樹が植林されているそうである.
下は,ウーベィン橋とその界隈
頭に載せて手放しで運ぶワザはやはり見事だ.
マハーガンダーヨン僧院(Mahagandhayon Monastery)は仏教の学校,修行の寺で,1914年に創設されたそうだ.ビルマで代表的な僧院の一つに数えられるそうで,人気が高く最大1,200人ものお坊さんが修行に励んだ時もあるそうだ.現在もはっきりしないが1,000人近くが学んでいるという.
見物している外国の観光客も非常に多い.ビルマはまだ観光客が少ないのかな~と思っていたが,とんでもない,実際はかなり多いと認識する場所でもある.
お坊さんの食事は朝と昼の2回で,正午迄に完全に食べ終えないとならないそうだ.写真は大釜に入れられた白いご飯と,何もかもごちゃ混ぜにした雑炊状のおかずなどを自分の托鉢用器に分け入れてもらう列である.このような食事は全て信者の寄進に依るもので,寄進は次の3種に大別されるそうだ
この日は2番目の方法で寄進された方がいたそうで,その人の名が写真中央グリーンのボードに掲示されていた.
こうして分け与えられた食べ物は食堂へ運ばれ,席に着き,個々食事にとりかかる.皿が先ほどの大釜で入れて貰った数より多いようだから,別途配られたのであろうか.
夕食がないためかご飯は極めて大量に装われる.テレビで見る日光輪王寺山伏が差し出す強飯式の量くらいある.またごちゃ混ぜおかずを含めて『美味しい』とか『まずい』とか思ってはいけないそうで,寄進された食物は心を無にして全部を平らげ,残してはならないそうだ.なおご飯の鉢はテーブルに置かず床上で左手で支え,食事中は会話してはならず,無言でごく短時間で食べ終えるようだ.こりゃ大変だ!
僧院の庭にはおこぼれにあずかるため,貧しい子や母子の姿があった.そしてその子らに食物やお菓子の袋を分け与えるお坊さんがいた.
ビルマには路上ホームレスの人は居ないという.住居がない人には寺の片隅を提供したり,食物はこのように恵んであげるからだという.貧しいながらいい国だ.
僧院には小学校低学年くらいの白い袈裟の見習い僧も修行している.この子たちの食事風景を見ているとまだ普通の子供と同じで,袋から菓子を口に放り込み,“美味しそうに”食べている.まあ,素直に美味しいと思うのもいいんじゃないの...と同情してしまう.
敷地の一画に大きなキッチンがあり,ここで信徒のボランティアだという人々が翌日の朝食のために仕込み中だった.手前の男性は次から次へと寄進された鶏を大型出刃で骨ごとぶった切っている.肉食はいけないと思っていたが,ビルマの上座部仏教ではそのような制限はないのだそうだ.実に驚いた.
ぶった切られた鶏肉は他の色々な野菜などと共に大釜でごった煮され,この大根は美味しい,チキンはまずいのと言わず食べなければならないのは前述の通りだが,相当修行しないと無理でしょうね~
さて根が食いしん坊なためつい食事のことに偏ってしまった.お坊さんなので食事や托鉢などの修行の他に,当然経典の暗唱や瞑想などある訳で,その会得度を測る試験も定期的に行われるそうだ.試験結果はお堂廊下の掲示板に貼り出され,それを院内の修行僧が寄って眺める光景が見られた.最も高度な段階はブッダの言葉を記した経典を全文諳んじることだそうで,中にはそれを達成するお坊さんも居られるというから凄い.
下は,マハーガンダーヨン僧院の写真
マハーガンダーヨン僧院の後マハムニ寺院(Mahamuni Temple)を訪れた.マハムニとはインド系民族の言葉らしくMaha(マハラジャのマハと同意):大,muni:仏で,そのままマンダレー最大の大仏さまを指すようだ.実はこの大仏さまは非常に古く,お釈迦様自身が,絵で言えば自画像に相当する自分自身を象った像,ん~っやはり自画像か?であるそうだ.そしてそれは2500年前くらいから現バングラデシュのラカイン族(Rakhine)の町(隣接するミャンマーにもラカイン州があるそうだが)に存在していたそうだ.だがやがて後のコンバウン朝第6代ボードーパヤー王時代,この地を支配していたムラウウー王国に攻め入り勝利し,戦利品として奪い取ってきて,ここに安置したという.なお,カイン族の町にも現在なおお釈迦様の作られた仏像があって,奪われたのは偽物,こちらにあるのが本物,と言っているそうだ.なおラカイン族保有のその像は少しサイズが小さいそうである.
長い参道を進むと,本殿の廊下に至り,その先に金色に輝く大仏さまが見えてくる.そしてその手前ではお祈りの男性,さらに離れて女性たちが脚を横に出して座っている.女性は直ぐ近くに行っては行けない掟があるのだそうだ.またお祈りは正座ではなく脚を横に出すのが正しい座り方だそうだ.私も試してみたが身体が斜めになってしまってなかなかうまくいかなかった.
マハムニは一段高い壇上にあり,階段で登りそこを反時計廻りで一周する.廻る方向がチベット仏教とは逆,ボン教と同じなのが興味深い.私たち男どもは,壇上に登ってはいけない同行女性Kさんから託された金箔を一周しながら貼り付けた.Kさんの功徳は認められたことと思う.
なお戦利品として持ち帰った仏像のベースはブロンズだというが,金箔がどんどん貼られるのでマハムニの表面は凸凹になっている.最大凸部は40mmも膨らんでいるそうだ.1901年から30年間隔くらいのマハムニ写真が展示されていたが,当初は殆ど金が貼られてないのに近年急激に厚く貼られてきているのがよく判る.
マハムニは金だけでなく,冠にはたくさんの宝石も散り嵌めてあって,それはそれは凄いものだ.
マハムニ寺院は壁や柱など内装も金箔が貼られている.これまたたまげてしまう.国内外からVIPも多く訪れるようで多くの写真が掲示されている.例えば現軍事政権最高権力者のお参りの写真など掲げられている.
一見表向きは仏教を大切にしているビルマ政府も実情はどうなんだろう?4年前のお坊さんデモ弾圧,取材の長井さん死亡など痛ましい事件のように,ビルマのお坊さんは行動的,先鋭的ななだけに....政府要人参拝はひょっとしてプロパガンダ,実際は....とつい穿った見方に.....偏屈だろうか?
女性はマハムニ正面近くには寄れないが,マハムニの側面方向ではかなり近くまで寄れる.そのためこうして一人静かに座り,お祈りする女性も見られる.この婦人は長時間読経するのであろうか,身支度を整え,経本を手に,水を用意しておられた.
四角錐屋根の下にマハムニが収められ,周囲は広い回廊状になっている.
庭には幾つかの鐘が地面近くに吊り下げられ,鐘つき棒が置かれている.棒は結構太いのだが片手で持ち,棒の腹ではなく端で突くようにして鳴らすのが面白いと思った.
女性像,獅子像,双頭の象像(ややこしい)がマハムニ寺院の一画に置かれていた.これらの像は元々アンコール(現カンボジア)のものであったが,1400年代シャム(現タイ)軍との戦いで陥落,シャムに持ち去られ,さらにその100年後今度はビルマがシャムに攻め入り,勝利し,これを戦利品としてビルマに持ち帰った,ということだ.
不具合のある身体の部分に相当するブロンズ(*註)像の部位を撫でると快癒すると云う言伝えがあると聞き,私はすかさず象の頭を撫でてきた→ただちょっと手遅れだったようで,効果は認められず,ボケ進行は留まることを知らない.
(*註)ブロンズと聞いたが,普通のブロンズ(青銅)にしては赤みが強い.一般的ブロンズ合金とは多少異なる元素含有であろうか.破れた所を覗くとかなり薄くできており,鋳造時湯の流動性はかなり良さそうだ.
このようにビルマがシャムに攻め入ったり,逆に攻められたり,部族間の度重なる内戦,英国の植民地支配を受けたり,日本軍が侵攻したり....いろいろあった.ビルマ自身アユタヤ占領など領土拡張を図り,それが逆に英領インド侵攻のトリガーになったそうだし,いろいろあった.もちろん当時日本軍侵攻の頃影響を受けた年配の方々の記憶が消えるものではないし,戦争はもちろん悪い,だがある意味お互い様,日本だけが特段悪いということはない,という教育がビルマではなされているという.こうした教育のお陰で周辺の国と違って,私たち日本人に対する見方は比較的厳しくはなく,ありがたいと思う.
下は,マハムニ寺院の写真
マンダレーの街はこうした感じで,ヤンゴンと比べてあまり大きな建物は目立たない.人口は700万人(周辺広域含む)に達するというから横浜と川崎を合わせた人口より多いだろう.従って交通量は多いが,信号は少ない.バイクはとても多いが,交通ルールは全く無視され,この街で車を運転するのはとても怖いそうだ.
なおこの街はタクシーが殆ど走っておらず,またホテルも不足気味だそうで旅行社としてはなかなか苦労が多い地だという.まあこれから整備されていくのであろうが.
レストランで地元のマンダレー料理のランチを頂いた.炒めた野菜や,カレー味のヤギ肉,もやしやトマト....なかなか美味しかった.可愛いいヤギの肉なんて,と言って召し上がらない方も居られたが,多分素材を知らされずに食べれば美味しいと思う.
腹がいっぱいになり,マンダレー王宮(Mandalay Palace)にやって来た.王宮は一辺およそ2kmの正方形で周りに写真のような幅70mというお堀が巡らされている.お堀の内側(写真で左側)には高さ8mの城壁が巡らされている.ヨーロッパの城壁のように上部に凹凸有るデザインで,所々には尖塔状の見張り台であろうか?塔が立つ.お堀と城壁で,さぞかし攻め入り難いであろう.
お堀の向こうに見えているのは後で訪れるマンダレーヒルで,水面に逆さヒルもきれいに映っている.
この宮殿は,コンバウン朝(Konbaung Dynasty)のミンドン王が,2度の対英戦争敗戦ですさんだ人心一新を図るため,そして西暦1856年「仏暦2400年」の祝いを兼ね,新都建設を計画し1858年に完成したものだそうだ.そして1885年まで宮殿として機能したが,同年のコンバウン朝滅亡以後は英軍の駐屯地に使われ,また大戦中は日本軍が駐留したため,大戦末期の1945年連合国軍と日本軍の戦闘で焼失してしまったそうである.
ビルマ独立後,焼失で空き地となっていた宮殿跡はビルマ国軍の駐屯地として使われていたが,比較的最近1996年にレプリカとして再建されたそうだ.
ただ再建されたレプリカは元々木造であったものが,コンクリートに変わったり,柱の太さがかなり違う(細くなった)など,あまり忠実には再現されていないそうだ.そのためかあまり市民にも人気はないようで,市民も姿は疎らだった.マハーガンダーヨン僧院などであれ程多かった観光客もここでは殆ど見かけなかった.
とは言っても,一部石造り部分は昔のまま保存され,たくさんの建物の配置や配色などはよく分かるのでこれはこれでいいのではなかろうか.
1885年第3次対英戦争で破れ,ビルマ王朝は消滅,ビルマはイギリスの植民地とされた.当時のティーボー王とその家族は,英により遥か彼方インドはボンベイのさらに南に追放されたそうだ.写真はその最後の王ティーボーミンと王妃スパヤラットの像だそうだ.座り方はお祈りのときと同じ脚を横に投げ出すビルマ流正座だ.
当時王には少なくとも3人の奥さんがいる慣習だったそうで,東,西,南の奥方で,確か南の奥方が実権を握り,このスパヤラット妃がその方だったか?各奥方用にはちゃんと専用の建物があり,復元されていた.ただ若干19歳で即位したティーボー王には若い頃出会った好きな娘がいて,何とか奥さんにしたかったのだが,強権的ではなかった故に,妃にいろいろ妨害され(確か最後は殺害され)一緒になれなかったそうだ.ガイドTさんが詳しく話してくれたが,とても涙無くしては聞けない話だった(若干誇張あり).
ところでこの部屋は家臣の大臣等が王に謁見する部屋だったそうで,その際家臣が,王着用のロンジーと同じ模様のロンジーを履いていると重罪になったそうだ.王が当日どのような色や絵柄のロンジーかは知る由もない.そこで家臣は裏表模様の異なるロンジーを履いて登庁し,柱の影からそ~っと覗いてみて,もし王様のロンジーと同じ柄だった場合,急ぎ柱の影で裏表ひっくり返して履き替えた,ということだ.ロンジーの簡単な構造故,リバーシブルはお手の物,あっと言う間にできるそうだ.単純さが意外な場面で役立つものですね.で,本レプリカの柱(コンクリート)はそこに隠れて履き替えるに十分な太さがなく,実物は木製でもっと太かったとの証言があるそうだ.まあ,それにしてもエラい人もつまらぬ気苦労があったのですね.
他にも丸い塔に登ると,宮殿の全容,マンダレーの街,マンダレーヒルが見えたし,他にも色々聞いたのだが多すぎて記憶容量をオーバーしてしまった.
下は,マンダレー王宮跡の写真
総チーク材造りの僧院(Shwenandaw Monestery)だ.シュエナンドーのシュエ(Shwe)はこれまでいくつかあったように金,ナンドー(nandaw)は宮殿だそうで,元々宮殿として別の場所に建てられ,コンバウン王朝最後のティーボー王の一つ前ミンドン王はこの宮殿内で亡くなられたということだ.その後ティーボー王の時代に入ると,同王が当時のある高僧に寄進を申し出て,一旦元の場所で解体され,現在のこの場所に移され,僧院として再構築されたという.名のように全てが金箔で覆われていたのだが,やはり下地が木材であるため長い年月の風雨で洗い流されたのだそうだ.
ここの建物は木彫りの彫刻で覆われている.ただ外側は大幅に痛んでおり,一部完全に壊れて新しい彫刻(*註)に取り替えられた箇所も見える.また内部の柱等も彫刻が施され,雨には晒されないためまだかなり金箔が残るところもある.精緻な彫刻は見事で何とか劣化を食い止めることができないものかと思う.過去に,ある京都の団体から,僧院を丸ごと包む屋根付きドーム建設(費用は当団体負担で)の提案があったそうだ.だがいろいろ問題があり,この案は実現しなかったそうだ.
(*註)こうして古いものは新しいにの交換する,古いデザインのものは新しいデザインに作り変える,と云ったやり方はビルマ人の好みだそうで,古いものを何とかそのまま残すと云うのは性分に合わないとガイドTさんが話してくれた.保存を旨とするユネスコ世界遺産とは性に合わず,登録されないのはどうやら致し方ないことのようだ.
ところで個々の彫刻のモチーフであるが,ブッダだけでなくよく判らないが神話?ヒンドゥー?的なものが多くあしらわれている点も興味深い.単に装飾のためで有ろうか....?
山門辺りには小鳥を籠に入れ,参拝者に勧めている人がいる.写真中央の頭に鳥かごを載せた女性がそうだ.ペット屋さんではなく,お金を払い,小鳥をリリースすることで功徳を積むのを手伝うそうだ.
さてリリースされた小鳥は鳩のように黙っていても女性の鳥かごに戻ってくるのであろうか?その方が皆のためになると思うが,さてどうだろう?
下は,シュエナンドー僧院とその周辺の写真
道路を挟んでシュエナンドー僧院の真向かいに国立の佛教大学があった.僧院で学んで,さらに学術的に学ぶ人が通うそうだ.
クドードォパゴダ(Kuthodaw Pagoda)はコンバウン王朝時代,スリランカ,タイ,ラオス....等々関係国僧侶が一同に会し,少しずつ仏教の経典が変わっていくのを防ぎ,正しい経典を討議する上座部仏教国際会議が開かれていたそうだ(今も続いているかも知れない).ミンドン王のときミャンマーで第5回サミットが開催されたそうだ.王は経典の改変がされないよう,石版にこれが正しいと決議された経典の全文を刻み,それら石版を収めるようにと1957年建立したのがこのクドードォパゴダということだ.
上座部仏教ではお釈迦様によって直接定められた戒律や教えなどを古代インドのパーリ語で記された三蔵聖典(経,律,論だそうだ)を基本とするそうだ.一方チベットや中国,日本方面の大乗仏教では多くの如来や諸菩薩が活躍する大乗経典が重要な立場を占めるようだ.これだけ聞くとコーランはアラビア語で記されたもののみが正しく,アラビア語で祈るのみが本当だ,とするイスラムの考えと共通,しかも原理主義に通じるものがあるかな?ただ大乗仏教の側は専らこの原理主義的仏教を半ばバカにして小乗仏教と呼んだようで,流石これには我慢できず自ら上座部仏教と大乗以上に立派な呼称にしたようだ.
ついでに,上座部仏教のお坊さんはビルマに限らず出家し,妻帯しないので,日本のお坊さんが妻帯しているのを見ると大変驚くそうだ.ただこれは日本だけのことで,同じ大乗仏教でも中国など他国では妻帯しないそうだ.まあ,多分そうしたこともあろう,中国ではお坊さん志願者は稀と聞いた.空海,最澄,道元,法然....といった昔の日本の僧は生涯独身だったそうだが,そのうち変化していったようだ.
パーリ語で経,律,論合わせて729枚+編纂経緯合わせて730枚の石板,一塔一枚収納なので730塔あるそうだ.展示室に模型があるのだが,中央の金色の大きなパゴダの周りに無数に白い塔が配置されているのがよく判る.パーリ語の石板は単に刻む人が間違えたのか,或いはサミット決議の後で修正されたのか定かでないが,文字を削り落して修正された箇所もあって生々しい.
何れにしても,上座部仏教はお釈迦さまの教えのみを重んじ,後世のいろいろな宗派の開祖の教えなどはちょっと別,なので菩薩像などがビルマでは見られない....そんな基本的なことが知らされたように思う.
下は,クドードォパゴダの写真いろいろ
サンダムニパゴダ(Sanda Muni Pagoda)は上記クドードォパゴダの直ぐ近くにあった.パーリ語の石版経典全てを収めたクドードォパゴダは無事建設できたが,パーリ語は,お坊さんでもない限り普通のビルマ人には読めない.
パーリ語の石板経典はパーリ語の経典の発音を,そのままビルマ文字(例の視力検査のCを組み合わせたような文字)で書き記したものだという.なので,英語のPagodaをカナでパゴダと書いたものに相当するようだ.まあ,パゴダは判るとして,でも初めて聞くような単語はいくらカナで書いても理解できない.日本の墓地,墓石の傍に卒塔婆(そとば)が立て掛けられている.卒塔婆はサンスクリットの漢字音訳だそうであるがまあこんな感じだ.(さらに言えば卒塔婆に記された文字は漢字ではなくサンスクリット文字なので,お坊さん以外先ず読めはしない.文字そのものが未知なためまたちょっと異なる問題だが)
まそんな訳でパーリ語のままでは民衆が読めないので,これをビルマ語に翻訳し,ビルマ文字で書き直そう,ということになったそうだ.その結果できたのがこのサンダムニパゴダだという.翻訳するとどうしても長くなり,確か石板は1000枚以上,同数の白いパゴダが建立されたそうだ.クドードォパゴダと比べて塔は細身のデザインになっている.
参道では可愛い3人の尼僧が本堂に向かっていた.尼僧は必ずピンクの袈裟のようである.またお祈りを終えてフリータイムであろうか2人の小僧さんがデジカメで撮り合いながら構内を散歩していた.普通なら遊び盛りだから,うん,自由に遊んでほしい.
マンダレー市街縁の方にマンダレーヒル(Mandalay Hill)と呼ばれる標高236mの丘があった.麓から頂きに至るトレイルも整備されているそうだが私たちはトラックの荷台を板張りベンチにした車でやって来た.運転はかなりワイルドで,カーブではしばしば振り落とされそうになる.手摺りに掴まった腕にはすごい力,多分100Nくらいが掛かる.f=mαで自分の質量mは一定なので,カーブでの加速度αが膨大なのだな~と改めてニュートン第2法則をリアルに体感させてくれる.
入り口に到着するとここで裸足になって丘の寺院へと昇り始めた.昇りは全て数基のエスカレータを乗り継いで行けるのが意外だった.
マンダレーヒル頂上に至ると当然立派な寺院が建てられていた.ただし寺の名前は聞いていない(多分忘れた).カメラ持ち込みは別途500チャット(50円)払う.寺の外側はガラスのようなピカピカしたものが嵌め込まれ,私には寧ろ安っぽくにしか見えない.同様に何体かの祀られた大仏さまも悉くキラキラ,甚だしきは電飾まで施されている.私ごときが口出しすることではないが,つい『ちょっと~』と小姑根性が現れそうになる.エスカレータと言い,電気光背と言え,電化はこのパヤーのインフラ整備テーマになっているようだ.
この日は中国の高僧と云う方が訪れ,夕景の市街地を望むテラスに座っておられた.どうして中国のお坊さんと判るかは,一つは袈裟の色でビルマは概ねエンジ色,中国は黄色ということだ.言われて見れば確かに黄色だった.
こうしてここにはVIPも,市民も,観光客もたくさん訪れるようだ.
マンダレーヒルは独立峰で周囲が良く見渡せる.南にマンダレーの市街地が,北には広い畑が望める.写真真中辺り,半円状の建物は刑務所だそうで,その大きさからすると大勢収容されていそうだ.
夕刻になるとエヤーワーディー川の向こうに陽が沈む光景が楽しめた.いい天気だった,この分では明日も大丈夫であろう.
下は,マンダレーヒルの写真
マンダレーヒルで夕陽を眺めた後,再びトラックバスで下山し,バスに乗り換えて市街地のホテルHotel Queenへと向かった.マンダレーパレスの前を通りかかると,お堀に城壁が映し出され,なかなかきれいだった.
マンダレーの観光を終えてHotel Queenで一夜を明かした.筑後数年ということで観光地図にまだ載っていないという例のホテルだった.数年なら載っていてよさそうだが,そうでないのがビルマの観光事情であろうか.
部屋の枕元にあったマンダレーの電話帳はかなり分厚い.ビルマで最も人口の多い街というだけあって,いろいろな商売が載っている.背表紙にEverything U Needと,YouがUと書かれている点がススンでいる.
前夜ホテルに到着した時,せっかく街の中だし,安全とも聞くのでちょっと歩いてみようかなとも思った.でも表を見ると暗くて出歩くのはためらわれた.朝になってこうして眺めると比較的街の中心に位置しているにしてはあまり都市化されていない雰囲気だ.ちょっと退屈そうだがのんびりした感じはいいかも.
11/29(水)朝のマンダレー市街を托鉢のお坊さんが行く.二人はまだ少年だが赤い袈裟で,随分若いうちに得度したのであろう.托鉢のときは常に裸足で歩くきまりだそうで,石ころも多い道を行くのは結構大変であろう.
人口の1%がお坊さんというだけあって,朝の托鉢風景はあちこちで頻繁に見られた.
下は,マンダレーの街の写真
さてこうして,次の観光地に行くためマンダレー国際空港へと向かった.