ヤンゴン

このヤンゴン編(Yangon)では成田からハノイ経由でヤンゴンに行くまで,夜ライトアプされたシュエダゴンパゴダ,一旦バガン等を見物して戻ってから改めてインヤー湖とヤンゴン市内,チャウターヂーパゴダ,ビルマダンス,朝のヤンゴン,シュエダゴンパゴダ,ボージョーアウンサンマーケット,スーレーパゴダを見物し,ホーチミンシティ経由で帰国したときの写真を載せました.

ハノイ経由でヤンゴンに行く

京成アクセス特急に乗る

京成アクセス特急に乗る

2011/11/25(金)成田から10:00ベトナム航空VN311便で飛び立つが,ツアー会社からはなぜかとても早い時間に来るよう指示されていた.リムジンバスか京成スカイライナー或いはJR成田エクスプレスしかないかな~?と思ってYahoo路線で調べたら,押上で京成アクセス特急(特急料金なし)に乗り換えれば間に合うことが判った.乗り換え時間は5分間で,半蔵門線が遅れたり,ホーム移動にまごまごすると乗り遅れるリスクがあるが,特急料金不要が魅力的だ.

さて大急ぎで何とか無事乗り換えると,早朝なのに車内は結構乗客で満たされていた.アクセス特急という電車の名前自体は以前から成田空港での表示で見たことがあったが,実際乗ってみたのは初めてだ.そして通過する駅を眺めて,線路が普通の京成線と異なることを初めて知った(遅れてる~).少し従来の北側を通るルートで,新しいスカイライナー(こちらも最近乗ってない)の線路であるようだ.そしてこれが滅法速い,押上―成田空港間がたった51分と目を疑う程だ.これは以前のスカイライナーの所要時間くらいではなかろうか?乗客としてはありがたいが,スカイライナーの客が流れてこないか些か心配になる.

ベトナム航空VN311便は青いA330-200機

ベトナム航空VN311便は青いA330-200機

第1ターミナルのツアー会社カウンタで受付をし,添乗Sさんから案内を受ける.ハノイ(Hanoi)で同行の皆さんと一緒になるそうだ.よろしく願います.

ベトナム航空カウンタで荷物を預け席を確保し,出国審査を済ませ,VN311便出発ゲートに向かった.鮮やかな青い機体でベトナム航空と容易に判る.

機は2/3くらいの搭乗率であろうか,定刻にハノイへと向けて飛び立った.


ヤンゴンへの航路略図

ヤンゴンへの航路略図


暫く飛行するとお昼の時間になり飲み物やランチのニューが配られた.旧宗主国のエアフランス並だ.魚とチキン2種類から選択で,わざわざメニューが要るようなシロモノでない(もちろん美味しいが)のも同様だ.

で,お隣りの席の方にはアテンダントから『イスラム食です』との言葉を添えて配膳された.お話ししてみると,たまたま行き先は同じヤンゴンで,同国の医学部を卒業後,広島大学で病理学を研究中のドクターだそうで,既に在日2年半になるという.今回は休暇で一時帰国だそうだ.ミャンマーの国民の87%は仏教徒だが,イスラムも4%程いるそうだ.魚は普通問題ないがチキンは駄目だそうだ.豚を食さないのはよく知られているが,チキンも?と訊いてみると,『イスラムの作法に則った(ハラール)食肉にされていない』と云うことだ.な~るほど.もちろんビールやワインは飲まないし実に禁欲的な方だ.

なお氏はミャンマーで多数派のビルマ族(多くは仏教徒)で,両親はお医者さんではなく,ビジネスマンでイスラムという.ミャンマーで各部族は特有の言語を用いているが,若い世代には部族語を話せなくなった子も増えつつあるそうだ.民族融和と文化伝承の両立の難しさであろうか.

機はオンデマンドの映画があり,ハリーポッターⅡとか観たが,単純そうなストーリー展開なのに頭の回転が追いつかず,さらなる加齢が自覚された.


ハノイで乗り継ぎ

ハノイで乗り継ぎ

VN311便は順調に飛び,午後3時(ベトナム時間/東京の2時間遅れ)頃どんよりしたハノイに到着した.機を降りた先で今回のツアー客の皆さんが集まった.客が10人+添乗員Sさんということだ.一週間よろしくお願いいたします.

写真は乗り継ぎ待合室の宝石店.アルファベットに各種記号が付加されたベトナム文字が目に付く.一つの文字の上や下に1~2個の記号が付いている.記号は発音補助のためであろうか?何やら難しそうだが,これから行くミャンマーのアルファベットとは全くかけ離れたビルマ文字のように,取り付く島がない,と云った雰囲気ではない.例えばVET NAMのEの上下に記号が付くが,英語標記とはかけ離れている訳ではなさそうだ.ベトナムも日本同様漢字が使われていたが,戦後(太平洋戦争の)頃から全面的廃止し,ラテン文字に切り替えたようだ.昔米で知り合ったベトナム戦争後生れの女性が「私たちは全く漢字が読めない」と言っていたのを思い出した.さてこれは文化面でどんな影響を与えたか?日本でも明治維新の後で漢字を廃したらどうか?と云う意見があったそうだが,なかなか興味深い.


ハノイからヤンゴンに飛ぶ

ハノイからヤンゴンに飛ぶ

ハノイからはVN0957便で,機体はシート配列3-3と小型のA321に変わった.乗り込むと歌謡曲のようなメロディーが印象的だった.ベトナムも,日本とか或いは台湾,韓国など同様にこうした曲が好まれるのだろうか?

飛び立って少しすると赤いアオザイのアテンダントがメニューに続いてカレー風味の夕食を配ってくれた.シートにLCDは備えられないが,ヤンゴンまでは大した時間でなく退屈しないうちに到着した.


ヤンゴンに到着

ヤンゴンに到着

夕刻ヤンゴンに到着した.既に陽は落ちて暗くなっている.入国審査の列に加わると『ロンジー』と呼ばれる巻きスカート状民族服の人(写真中央)を見かけ,『ビルマに来たな~』と実感する.

空港ビルは新しいように見えるが,実際3年程前にできたばかりで,日本のODAもかなり貢献しているようだ.今のところ広々とし,ゆとりがある.経済発展に連れ混雑していくであろう.


ヤンゴンで改めてビルマ料理の夕食

ヤンゴンで改めてビルマ料理の夕食

空港ビルを出ると少し暖かい感じで,暑いというほどではない.バスと全区間案内して下さる日本語ガイドTさんが待っていてくれた.よろしく願います.Tさんの日本語は日本人並みに流暢だ.今回の客は殆ど関東だが,関西から迎える場合大阪弁も話すそうである.

さてVN0957便で既に夕食は食べていたのだが,それはそれとしてROYAL THAZINというレストランでビルマカレーの夕食を改めて頂戴することになった.盆と正月が一緒に来たようで嬉しい.入り口では頬にビルマ特有の『タナカ』と云う化粧品を付けた写真の女性が出迎えてくれた.『ロンジー』と『タナカ』は代表的ビルマ名物で,早速お目にかかれて嬉しい.

ビルマカレーはポークや魚のカレーで,パサパサのインディカ米ご飯に掛けて食べた.辛さが抑えられ,いや和風カレー以上に辛味が少なく美味しかった.魚のカレーは珍しかったが,これもなかなかいける味だった.

さてこれで腹ごしらえができたので観光に向かう.と言っても,もう夜なのでライトアップされたシュエダゴンパゴダを見物するだけだが.


下は,ヤンゴンに行くまでの写真いろいろ

ヤンゴンに行くまでの眺め
ヤンゴンに行くまでの眺め ヤンゴンに行くまでの眺め ヤンゴンに行くまでの眺め ヤンゴンに行くまでの眺め ヤンゴンに行くまでの眺め ヤンゴンに行くまでの眺め

夜のシュエダゴンパゴダ

夜のシュエダゴンパゴダ

ライトアップされたシュエダゴンパゴダ

ヤンゴン一番のシュエダゴンパゴダ(Shwedagon Pagoda)はライトアップされ黄金色に輝いていた.後日昼間にもう一度訪れるのだが実際眩いばかりの金で覆われ,実にゴージャスなもので,ライトで照らし出されたこれには歓声を上げざるを得ない.

伝説によればシュエダゴンパゴダの歴史は2500年前に遡るそうだ.ある兄弟がお釈迦様から貰い受けた8本の髪の毛を携えてヤンゴンにやって来て,この地の王がそれを受け取り,安置するため建立したのがこのシュエダゴンパゴダの始まりとのことだ.また考古学的に見ると,6世紀~10世紀にモン族の手で幾度か建て替えられたそうだ.日本の歴史を並べると下の年表のようになるが,モン族の改築は奈良~平安時代辺りに相当しよう.なおシュエダゴンパゴダは昼間もう一度訪れるので再度とり上げる予定.

ミャンマーの歴史年表

ミャンマーの歴史年表


夜のシュエダゴンパゴダ周辺の焼き鳥屋さん

パゴダ周辺の焼き鳥屋さん

シュエダゴンパゴダ周辺には雑貨,スナック,果物,ジュース,麺類や焼き鳥の屋台など様々な出店が展開されている.日本の縁日,いや一昔前の新橋駅ガード下光景から酒を無くした(無理か?)雰囲気で,パゴダお参りの後に立ち寄る人たちでいっぱいだ.

南アジアの温かい地方では一般に外食の習慣が盛んなように思えるが,多分ここヤンゴンでも外食,特に路上での食事は普通で,繁盛している.写真は焼き鳥屋さんで食事中の若い女性たちであるが,ビールなどは飲んでいない.男どももあまり飲んでいるようには見えない.ガイドTさんの話では,あまり酒を呑んだくれるのは良くないと云う仏教的に培われた規範があるからだそうだ.まして女性の場合こうした場所で飲むのは特定分野の女性に限られるという見方があるからだとも.

こうした夜店ではお坊さんもしばしば見かける.場所と場合によって一般人と同じような生活を営んでいるのであろう.仏教徒は誰しも若い時に2度,一時的に仏門に入り,国民の1%は生涯お坊さんとして過ごすそうで,お坊さんはどこにでも居るのだ.


下は,夜のシュエダゴンパゴダ辺りの写真いろいろ

夜のシュエダゴンパゴダ辺りでの眺め
ヤンゴン夜のシュエダゴンパゴダ辺りでの眺め ヤンゴン夜のシュエダゴンパゴダ辺りでの眺め ヤンゴン夜のシュエダゴンパゴダ辺りでの眺め ヤンゴン夜のシュエダゴンパゴダ辺りでの眺め ヤンゴン夜のシュエダゴンパゴダ辺りでの眺め ヤンゴン夜のシュエダゴンパゴダ辺りでの眺め

ヤンゴンのSedona Hotelで休む

夜のシュエダゴンパゴダ観光を終え,この日はSedona Hotelに向かい休むことになった.休む前にガイドTさんにいくらかUS$をミャンマー通貨チャット(Kyat)に替えてもらった.レートはUS$1=700チャットだった.なお公定為替レートUS$1=6.5チャットというのがあるそうだが,実際(ヤミ)レートとは100倍以上,あまりにも著しい乖離で誰もがヤミレートで取引しているようだ.また円からの両替は実質不可能なようだった.

広々したいい部屋で,熱いお湯も出ていいホテルだった.旅行エイジェントから絵葉書と切手を貰ったので,直ちに宛先を書いて,ロビーに下りて投函するようお願いした.でもそれから既に4週間以上経つ現在,まだ届いてない.ウイグル(切手狙いと聞く)など他所でもそうした未達経験はあるし,まあ,そんなもんであろううか?

ヤンゴンのSedona HotelヤンゴンのSedona HotelヤンゴンのSedona Hotel

さてこれで2011/11/25は終わった.明日から一旦バガンなどに飛び,そちらの観光を済ませてから11/30(木)またここヤンゴンに戻り,観光を継続する予定だ.

-------- ここまで11月25日 --------

この間は5日間離れている

-------- ここから11月30日 --------

インヤー湖と市内

インヤー湖

インヤー湖

バスでバゴーから戻った11/30(木)の夕方,市内中心部のインヤー湖(Inya lake)に行った.都心としては広々した湖だ.ヤンゴン大学に隣接し,ガイドTさんが学生だった頃よく散歩したそうだ.またデートもと.

インヤー湖畔のヤキトリの屋台では若者が集っていた.でもやはりお酒は飲んでいない.日本と違って,上でも書いたが,お酒そのものをガンガンやるのは宗教的にちょっと憚れるのと,特に女性がこうした場所でいっぱい,と云うのは奇異な目で見られるという.節度が保たれているのはいいかな?それともちょっと寂しいかな?(やはり後者ですね)


アウンサンスーチー氏宅前

アウンサンスーチー氏宅前

バスドライバーさんがアウンサンスーチーさんのお宅の前を通過してくれた.ミーハー的に『お~っ,ここがスーチーさん宅か~』くらいで,別に何でも無いのだが,昨年までは通過することも不可能だったと聞くと,僅かにでも人々の自由度が増したようで嬉しい.なおスーチーさん宅はバゴーにあった騎馬像アウンサン将軍一家が暮らしたところで,ヤンゴン随一の住宅/ショップ街に位置していた.屋敷はとても広く,徒歩で一周すると10分以上掛かるという.


下は,インヤー湖と市内のいろいろな写真

インヤー湖と市内での眺め
ヤンゴンのインヤー湖と市内での眺め ヤンゴンのインヤー湖と市内での眺め ヤンゴンのインヤー湖と市内での眺め ヤンゴンのインヤー湖と市内での眺め ヤンゴンのインヤー湖と市内での眺め ヤンゴンのインヤー湖と市内での眺め

チャウターヂーパゴダ

チャウターヂーパゴダ寝釈迦像

チャウターヂーパゴダ寝釈迦像

シュエダゴンパゴダ(Chauk Htat Gyi Pagoda)の寝釈迦像は全長(身長)70mというから,この日見てきたバゴーのシュエタリャウン寝釈迦仏の55mよりさらに大きい.またシュエタリャウン寝釈迦仏の枕は箱枕であるが,ここのチャウターヂーパゴダ寝釈迦仏は肘枕で,間違っても涅槃ではないことが知れる.

顔は優しい女性のような印象で,日本で見る仏像の印象とは丸で違う感じだ.

涅槃ではなく,寝転がっている寝釈迦なので足の裏には仏教世界の全てを表現すると云う文様が描かれている.指紋も描かれているが綺麗に揃っていて,並の人の指紋はこうはいかないそうだ.


チャウターヂーパゴダでお参りの人たち

チャウターヂーパゴダでお参りの人たち

殆ど夜の帳が降りた頃であるが,熱心な人々が来てお祈りしている.最も驚いたのはこの寝釈迦像と,数十年前撮影された寝釈迦像写真を見比べたときだ.昔は枕もなく,上半身がほぼ直立するくらい立っているが,現在の姿は普通の肘枕だ.まあ,本尊を別の形に作り替えるなど,日本の寺ではちょっと想像できないが,ビルマの人々はどんどん寄進して,より立派なものに作り変えていくのが幸せ,という思想であることを改めて認識した.

お参りを済ませ表のバスに向かうと,母子のお貰いさんが寄ってきて,何かを,という仕草で手を出してきた.バスにせんべい袋があったので,差し出したら黙って受け取って立ち去った.ホームレスこそ居ないそうだがやはり楽ではない人たちは暮らしている.


下は,チャウターヂーパゴダの写真

チャウターヂーパゴダでの眺め
ヤンゴンのチャウターヂーパゴダでの眺め ヤンゴンのチャウターヂーパゴダでの眺め ヤンゴンのチャウターヂーパゴダでの眺め ヤンゴンのチャウターヂーパゴダでの眺め

ビルマダンス

バフェのレストラン

バフェのレストラン

この日の夕食はデイナーショー付きバフェだった.一風変わった取り合わせだと思う.外観は豪華絢爛,あちこちに無駄なライブのマネキンが配され,ここは中国の高級レストランか?と思えるほどビルマ離れしている.食べ物は高がバフェだから知れていようが,好みのものを選んで食べれるので大変良かった,文句なし.


ビルマダンス

これがビルマダンス

ビルマダンス(Burmese Dance)そのものはさて置いて左の男性がオカマっぽく見えて仕方がない(←先ずはもっと肝腎なダンスそのものに言及したら~)

民謡踊りとかでなく,昔の物語とかに基づく踊りなのかな~といった印象のダンスが多いような気がした.まだ衣装の一部はタイなどのものと似ているものもあるようだ.ただしあくまで超素人目で.

腹がくちくなると,表に出てインヤー湖面に映るこのレストランと,シュエダゴンパゴダを眺め,初日とは異なるPark Royal Hotelにチェックインし,眠りに就いた.


下は,ビルマダンスの写真

ビルマダンスの写真
ビルマダンスの写真 ビルマダンスの写真 ビルマダンスの写真 ビルマダンスの写真 ビルマダンスの写真 ビルマダンスの写真
ビルマダンスの写真 ビルマダンスの写真 ビルマダンスの写真 ビルマダンスの写真 ビルマダンスの写真 ビルマダンスの写真

朝のヤンゴン

ヤンゴン朝の大通り

ヤンゴン朝の大通り

ホテルの前で通りを眺めているとどんどんバスが通勤客を乗せて走っていく.後ろのバスのように車体には「べにはな観光」などと元のペイントのままである.

でも確かバイク走行禁止(若しくは制限),車の警笛禁止で,他の南アジアの街とは一線を画しており,運転マナーもちゃんとしているようだし,実に静かだ.他国でも上海など大都市のバイク禁止の例はあるが,電動式なら可とか少し制限は緩いかも知れない.ただマンダレーはめちゃくちゃだとTさんが言っていたし,ヤンゴン以外はかなりひどいようだ.

この辺りは新しい建物が多いが,道路の反対側,バスの向こうのようにかなり老朽化した建物(アパートのようだ)も見える.ベランダなど殆どいつ落下してもおかしくない感じだ.


ヤンゴンの朝,若い尼僧が托鉢に行く

ヤンゴンの朝,尼僧が托鉢に行く

ホテル前を尼さんたちが托鉢に歩いていった.尼さんはいつもピンクの袈裟と決まっているようで,この色以外見ない.それとオレンジ色の,ショールというのか,肩に架けている.でも足元をよく見るとちゃんと草履を履いている.托鉢のときは裸足と聞いているので,托鉢ではなく単に歩いているだけか?それとも尼さんは裸足でなくともよいのかな?


ヤンゴンのキリスト教会

ヤンゴンのキリスト教会

Park Royal Hotelのロビーにはクリスマスツリーが飾ってあったが,ホテルからバスで少し行った所にキリスト教会が建っていた.ピカピカなパゴダが林立するヤンゴンだけにかなり目立つ立派な建物だ.


下は,朝のヤンゴンの様子

朝のヤンゴンの様子
朝のヤンゴンの様子 朝のヤンゴンの様子 朝のヤンゴンの様子 朝のヤンゴンの様子 朝のヤンゴンの様子 朝のヤンゴンの様子 朝のヤンゴンの様子

左端の一枚はPark Royal Hotelの中庭.プールがあって驚いた.

シュエダゴンパゴダ

シュエダゴンパゴダ正面

シュエダゴンパゴダ正面

12/1(金)朝Park Royal Hotelを発ち,バスで高さ51mという二度目のシングッダヤの丘(Singuttara Hill)にやって来た.シュエダゴンパゴダ(Shwedagon Pagoda)は丘に建つのでヤンゴンのどこからも望めるランドマークでもある.丘の麓に4つの山門があり,山門両脇の巨大な狛犬(獅子?)が目に付く.ここからは階段やエレベータ,エスカレータで登るそうだ.だがバスの場合,上の駐車場まで行ける.駐車場から入った入口で履物を預け,裸足になる.なおここには足洗い場が備えられ,帰るとき使えた.

入り口は何時もより若干物々しいようだが,前日11/30クリントン米国務長官がミャンマーに到着(米国務長官としては57年ぶりだそうだ)し,この日(12/1)午前首都ネピドーでテインセイン大統領と会談し,午後ここヤンゴンに飛び,当シュエダゴンパゴダを参拝したそうだ.その警戒(ほんのちょっと何時もと違う程度らしい)だそうである.私たちは露払いだった訳だ(←大仰ですね).なお翌12/2,クリントン長官はアウンサンスーチー氏と会談したそうである.

さて前置きが長くなったが,境内に入ると,晴天の下,ピカピカに輝くこの高さ99.4mの巨大な金色の塔が圧倒的な迫力で立ちはだかっている.言葉では表現し難いがとにかく美しく,迫力あるヒマラヤの白い峰を仰ぐときに抱く感情に少し似たものがある.

言い伝えに依ればシュエダゴンパゴダの歴史は紀元前588年まで遡るという.あるビルマ一地方の商人兄弟がお釈迦様(ゴータマブッダ)に会い,世界最初の仏教徒となったそうだ.そしてお釈迦様から8本の髪の毛を譲り受け,ビルマに持ち帰り(このルートがビルマへの仏教の道),モン族の王(Okkalapa)に渡したそうだ.モン族の王はそれ以前既にゴータマブッダ以前三人のブッダの遺品を本シングッダヤの丘に祀るなどした信心深い人物で,紀元前588年に兄弟から受け取ったお釈迦様(ゴータマブッダ)の聖髪を合わせて祀ったのがシュエダゴンパゴダの始まり,ということだ.お釈迦様が亡くなったのは紀元前543年とされるので,それより古いのは,上述のように直接生前のお釈迦様から聖髪を受け取ったからで,パゴダはビルマでも世界でも最も古いものになるという.

なお釈迦様の聖髪を祀ったのは,前日バゴーで見物したビルマで一番高い(114m)シュエモードパゴダも同様だ.ただそちらは聖髪2本だった.整髪の運んだ人物,商人兄弟は同一人物だと思われる.なので兄弟は少なくともお釈迦様から10本の髪の毛を受け取ったものと思われる.

ただこうした話は所謂伝説で,ある程度根拠有る考古学的知見によれば,本パゴダはモン族の手で6世紀~10世紀間に何度か再建されたと見られるようだ.これでも相当古いが,日本で言えば奈良~平安時代くらいに相当し,釈迦の地への近さを含めて考えれば決して早すぎることはなさそうだ.


シュエダゴンパゴダの参拝者

シュエダゴンパゴダの参拝者

シュエ(Shwe)はこれまで何度も登場したように金,ダゴン(Dagon)はヤンゴンの古い呼び名だそうだ.ちなみにヤンゴン(Yangon)は『戦いの終わり』の意で,1755年にビルマ族の王アラウンパヤーがこの地を占領したときに名命したそうだ.

綺麗に磨きこまれた大理石や翡翠の床には大勢の人がゆっくり歩き,またかなりの人が腰を下ろしてお祈りしている.私たちは塔の周りを時計回りで廻ったが,中には反時計廻り(チベット仏教の廻り方/コルラとは逆)に歩く人もいる.Tさんに訊くと,上座部仏教ではどちら廻りでも差し支えないそうだ.シュエダゴンパゴダはミャンマー一番の聖地で,全国から参拝者が集まるそうだ.それと,お彼岸とお盆だけと云うのでなく,一年中ごく日常的に,人によっては毎日,頻繁にお参りするのが慣わしのようで,勤めを終えて夜に来る人も多いようだ.さらにお坊さんや尼さんの姿もよく見かける.広い境内に数多くの建物があるが,僧坊は一つもなく,お坊さんや尼さんが居住して修行する場(僧院)ではないそうだ.ではお坊さんはどこで生活しているのか?? 聞き漏らした.


シュエダゴンパゴダ八曜日のお守り

八曜日のお守り

シュエダゴンパゴダの主塔の周長433mという周りには,無数の小さな塔や仏像と共に小さな守り神の動物(架空のものも含めて)概ね等間隔で8種類が配置されている.守り神の動物の周囲には守護神だという帝釈天と水桶に柄杓,花立てなどが置かれる.

ところでミャンマーで人の名前は,生まれた曜日,但し水曜日だけは午前/午後に分けられ,八曜日に基づく名前が付けられるという(シェルパ族やチベット族と似ている).また普通苗字はないそうだ(この点シェルパ族など,後ろにシェルパと付くが,全員付いているのでやはり実質無きに等しい).そのため同じ名前の人はワンサカいるそうで,IDとしては甚だ不便.そこで父親の名を併記し,何とか識別することが多いのだそうだ.(そう言えば,ビザ申請書式で『父親の名』の項目があった)

で,生まれた曜日別(=名前別)の守護神は月/虎,火/獅子,水午前/牙のある象,水午後/牙のない象,木/鼠,金/もぐら,土/龍,日/ガルーダだそうだ.私たちツアー仲間10人は,Tさん所有の生まれた生年月日から曜日を調べる表で曜日を割り出した.私は土曜日/龍だったので,龍の守護神のところで水を掛けてお祈りしてきた.金/もぐらだった人の中には,どうも『もぐらでは...』ということで尻込みする人もいた.Tさんがビルマ語から日本語にするとき「もぐら」としたが,実際生物分類学的にはある種のねずみとする説もあるようだ.

なお詳しく言うと,曜日ごとにお供えの花の種類も違うそうで,各守護神の前では花売り娘が曜日毎に適した花を勧めているようだった.


シュエダゴンパゴダの頂部

シュエダゴンパゴダの頂部

パゴダ入り口に大きな望遠鏡1台が備えられ,覗くとこの程度の大きさに見える.でも個々の宝石まではとても識別できない.そこで境内の資料館を覗かせて貰った(但し館内は撮影禁止).

頂部先端には76カラット(そら豆くらいとか?)のダイヤモンドを始め,5451個のダイヤモンド,1383個のルビー,翡翠....等々嵌め込まれ,嵌め込む場所が足りなくなって,まるで夜店のアクセサリーの如く束になって吊り下げられている.これには苦笑させられた.もちろん全て人々の寄進に依るものだ.

またパゴダ上部は金箔ではなく,金の延べ板(プレート)8000枚余りがネジ止めで貼られている.金の総量は10トン,いや30トン?に達するとか.これにはもう米FRBも真っ青という感じだ.私はただ驚嘆する以外なかった.もちろんこれも皆寄進に依るものだそうだ.


下は,シュエダゴンパゴダの写真

シュエダゴンパゴダの写真
ヤンゴンのシュエダゴンパゴダの写真 ヤンゴンのシュエダゴンパゴダの写真 ヤンゴンのシュエダゴンパゴダの写真 ヤンゴンのシュエダゴンパゴダの写真 ヤンゴンのシュエダゴンパゴダの写真 ヤンゴンのシュエダゴンパゴダの写真
ヤンゴンのシュエダゴンパゴダの写真 ヤンゴンのシュエダゴンパゴダの写真 ヤンゴンのシュエダゴンパゴダの写真 ヤンゴンのシュエダゴンパゴダの写真 ヤンゴンのシュエダゴンパゴダの写真 ヤンゴンのシュエダゴンパゴダの写真

シュエダゴンパゴダ周りの色々なお堂

シュエダゴンパゴダ周りの色々なお堂

パゴダ主塔の周りにはいろいろなお堂が建てられている.合計数十棟あろう.この写真の中だけでも白,グリーン,ゴールド,茶色,青....といろいろある.右側の青い四角錐の塔は殆どヒンドゥー様式に見える気がする.

資料館の写真を参照すると,これらはどんどん建て増しされた結果で,以前はもっと境内は空いていたのがよく解る.


シュエダゴンパゴダお堂の大仏さま

お堂の大仏さま

お堂には概ねこうした大仏さまが,しかも複数体納められている.そしてその前は礼拝スペースとなっており,人々が座り礼拝している.

お堂や仏像もまた金箔が貼られ,眩いばかりに輝いている.これで十分だと思いきやさにあらず,中央の仏像背後の後光には電飾が付け加えられている.『やり過ぎだ~』と思うが,私が口の挟むことではなかろう.


シュエダゴンパゴダ改修工事竹の足場

改修工事竹の足場

シュエダゴンパゴダ主塔東側やお堂では改修工事の足場が組まれ,工事中であった.足場の部材は竹で,ヤシの繊維で編んだ縄で結いられている.その竹であるが孟宗竹とかと比べるととても細い.しかし厚肉,いや殆どソリッドで,孔は微小だ.かくしてこれほど細くても強度的には大丈夫ということだ.

改修だけでなく,上述のように増築も頻繁,さらにエスカレータやエレベータの新規設置など,常に変化しているそうだ.改修,増築資金はこれまた全て寄進されたお金で賄われるそうだ.

加えて夜間のライトアップ電力,日々の清掃作業...等々,全て寄進や奉仕で賄われるという.普通に見るとミャンマー庶民の所得水準はアジアでもかなり低い方であるが,それでも進んで寄進する行為で心の平穏を招くという.


下は,もっとシュエダゴンパゴダの写真

シュエダゴンパゴダの写真
ヤンゴンのシュエダゴンパゴダの写真 ヤンゴンのシュエダゴンパゴダの写真 ヤンゴンのシュエダゴンパゴダの写真 ヤンゴンのシュエダゴンパゴダの写真 ヤンゴンのシュエダゴンパゴダの写真 ヤンゴンのシュエダゴンパゴダの写真
ヤンゴンのシュエダゴンパゴダの写真 ヤンゴンのシュエダゴンパゴダの写真 ヤンゴンのシュエダゴンパゴダの写真 ヤンゴンのシュエダゴンパゴダの写真 ヤンゴンのシュエダゴンパゴダの写真 ヤンゴンのシュエダゴンパゴダの写真

内側にいっぱい落書きされているマハガンダの鐘(Maha Gandha Bell)は,インド系パーリ語で『大鐘』の意で,1779年シング王(Singu:1776~1781)によって寄進されたものだそうだ.砲身に加工せんと,戦利品として1825年英に持ち帰ろうとしたが,舟が嵐で煽られ,川底に沈没し不明に.後になってビルマ側が回収し,今ここに在るということだ.でもこの写真,落書きしか判らない....

その隣は頭上に団扇のある大仏さま.団扇の下側には紐が結ばれ,途中プーリーを介して左側に紐の端が垂れ下がっている.参拝者がそれを引いて,扇いであげる.実際仰ぐ光景はとても優しいです.

ボージョーアウンサンマーケット

ボージョーアウンサンマーケット中央通り

ボージョーアウンサンマーケット中央通り

ボージョー(Bogyoke)とは将軍のことだそうだ,即ちバゴーで眺めた騎馬像アウンサン将軍にちなむ名の市場(Bogyoke Aung San Market)だ.元々は1926年英支配下当時,役人スコットの名を冠したスコットマーケットとして開設されたそうだ.市場と言っても生鮮食料品は扱っておらず(他に専用の市場があるそうだ),ここではそれ以外,宝石,日用品,衣類,履物,食器,菓子類....概ね全て商われているそうだ.また基本的には大きな建物内部に店舗が設けられている.

写真は特に固定資産価値大の中央エリアで,なっ,なんと一区画の権利金が日本円で5,000万円(=5億チャット)とべらぼうに高額な値を聞いて驚く.高くとも,他所では代替できない暖簾価値があり,またそれだけの金はあるところにはあるのだそうだ.なので中央部には必然的に利幅の大きい宝石店が集まっている.また客として中国人が一番の上得意様だそうだ.解る気がする.また当然中国語の看板は目立っている.


ボージョーアウンサンマーケットのタナカショップ

タナカショップ

ボージョーアウンサンマーケット外周回廊にあったタナカを売るいかにもビルマらしい素朴なショップ.タナカでお化粧した売り子の女性がタナカの皮部分を砥石で削り,粉にしている.皮の部分しかタナカ粉がないので,量的にはあまり採れないようだ.

なお,ボージョーアウンサンマーケットは地代が高いので,商品の値段は一般に高いという.しかし,品質に関しては安心できるそうで,まあ高かろう,良かろうということだった.


下は,ボージョーアウンサンマーケットの写真

ボージョーアウンサンマーケットでの眺め
ヤンゴンのボージョーアウンサンマーケットでの眺め ヤンゴンのボージョーアウンサンマーケットでの眺め ヤンゴンのボージョーアウンサンマーケットでの眺め ヤンゴンのボージョーアウンサンマーケットでの眺め ヤンゴンのボージョーアウンサンマーケットでの眺め ヤンゴンのボージョーアウンサンマーケットでの眺め ヤンゴンのボージョーアウンサンマーケットでの眺め

スーレーパゴダ

ロータリー交差点の中のスーレーパゴダ

スーレーパゴダはロータリー交差点の中

スーレーパゴダ(Sule Pagoda)は英国式ロータリー交差点の中心にある.変な所にあるように思えるが,2000年も昔から,シュエダゴンパゴダと同じようにお釈迦様の聖髪を納めるために存在したそうだ.これまたシュエダゴンパゴダ同様八曜日の守護神がパゴダの周りに祀られている.

ロータリー式交差点は車の運転が大変なように見えるが,信号がないので歩行者もかなり大変そうだ.

なお2007年の大規模デモはこの辺り(他でもあったであろうが)で行われたようだ.

スーレーパゴダ界隈

スーレーパゴダの周りは所謂ダウンタウンで,ヤンゴン市庁舎や最高裁判所が集まっているようだ.また大きなお店なども目立つようだ.少し離れているが独立記念塔や数少ないキリスト教会の一つも見える.

ロータリー交差点もそうだが,これらの建物も英国風で,かつての植民地時代を思い起こさせる.

↓ヤンゴン市庁舎↓市庁舎東南側のキリスト教会
ヤンゴン市庁舎市庁舎東南側のキリスト教会
最高裁判所独立記念塔
↑最高裁判所↑独立記念塔

ミャンマー最後の食事

全部の観光を終えて湖畔のレストランでミャンマー最後の飲茶ランチとなった.ここでは生ビールがあった.ヤンゴンではどこもそうらしいが,ラガーより生が安く,日本の居酒屋とは反対なようだ.生も大ビンミャンマービールと同じように美味しかった.

ヤンゴンの通りヤンゴンの飲茶レストランヤンゴンの飲茶レストラン脇の湖

ホーチミンシティ経由で帰国

ヤンゴン国際空港を発つ

ランチの後,ヤンゴン国際空港へと向かった.途中沿道では,中国の寺院保有の仏歯が特別巡回展示されるというお寺の前で,参拝に向かう人の群れに出会った.やはり滅多にない仏歯だけに,信心深いミャンマーの人たちは大勢押し寄せるようだ.

この辺りの道路はよく整備されている.緑も豊かでなかなか素晴らしい.

そしてヤンゴン国際空港に到着した.ガイドTさん,最高の案内ありがとうございました.

出国審査を済ませ,出発ゲートの前まで進む.残った少しのミャンマー通貨で雑貨を買ったらちょうどよかった.水は毎日2本づつホテルの部屋に入れてくれたし,ビールや僅かなお土産,お手洗いのチップ....程度であまり消費することもなかった.

ヤンゴンの寺で仏歯参拝に集う人たちヤンゴン国際空港への道ヤンゴン国際空港

ヤンゴンからのルートは以下の通りで,来た時より幾分遠回りのようだ.でも寝ているし,実質差はなかろう.

ヤンゴンからの航路略図

ヤンゴンからの航路略図


ホーチミンシティで乗り継ぎ

ヤンゴンからのFokker F-70機は予定通りホーチミンシティ(Ho Chminh city)空港に到着した.ちょうど陽が沈む時刻で,直ぐに暗くなった.ホーチミンシティの港内バスは,ヤンゴン空港の日本の中古市内バスと違って,れっきとした底床多ドア港内専用バスだ.やはりベトナムの方が,ドイモイで経済が進んでいるようだ.

さて乗り継ぐベトナム航空VN300便は真夜中の00:05発.5時間くらい待ち時間がある.長い待ち時間のためベトナム航空が夕食のクーポンをくれたので,レストランでビーフン料理を食べる.昔ホーチミンシティで食べた料理が原因と思われる下痢で,到着した関空でひどい目に遭った経験があり,少なくとも生野菜等含まれるものは避けようと思った.ところで,今回のツアーで10人誰もお腹を壊した人はなく幸いだった.

Fokker F-70機ホーチミンシティの港内バスホーチミンシティ空港の待合室

待ち時間は長い.幸いレストランは空いていたので,一杯のコーヒーで粘り,バカ話で過ごす.何とかやり過ごすと,搭乗が始まった.ただ急に機材が変更になったようで,A330-200機のシートが変更になった搭乗券が渡され,それに従った.入り口に読売新聞があり,読もうとしたらランプが切れていて暗い.アテンダントは直ぐ別の場所に案内してくれた.新聞にはクリントン長官ミャンマー到着までは載っていたが,つい当日のシュエダゴンパゴダ訪問までは当然載っていなかった.少しして機内は暗くなった.

フライトは順調で,12/2(土)朝方となって,朝食が配られ,やがて成田に到着した.楽しかった.同行の皆さん,添乗Sさんありがとうございました.おしまい.



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