このバガン編ではバガンへ行くとき,ニャンウー市場,シュエジーゴンパゴダ,ティーローミンロー寺院,マヌーハ寺院,漆器工房,アーナンダー寺院,エヤーワーディー川クルーズ,人形劇の写真を載せました.
バガン(Bagan)はパガン(Pagan)と称されることもある(モニター上ではパとバの区別が付きにくいが).西暦849年ビルマ族がそれまでのモン族王朝を倒し,最初の統一王朝をここパガンに都に成立させたということだ.パガン王朝は1312年までと長く続き,その間クメール王朝との戦いなどの他に,大乗仏教徒の排除等,宗教的な争いも交えながらたくさんの上座部仏教の建造物が建立されたようである.この時代大小合わせて12,000ものパヤー(Paya:寺院,僧院,仏塔全てを含むビルマ語)が建立されたそうだ.今も2,000余り残っているという.今回はそれらの幾つかを巡ることになる.
下に掲げたミャンマーの歴史年表で日本と対比して見ると,平安時代から~鎌倉中期くらいにかけて多くのパヤーが建立されたようだ.
ミャンマーの歴史年表
11/26(土)朝早起きし,弁当を携えてヤンゴン空港国内線ターミナルに向かった.
出発待合室では早朝に拘わらず大勢の客が待っていた.オレンジ色袈裟のお坊さんの姿がヤンゴンらしい.観光客も多い.ここで弁当を広げるが,これだけはどこの国でもイマイチなのはお約束で,ここも例外ではなかった.
定刻となってエアバガン航空W9-141便,写真のATR 72ターボプロップ双発機に乗り込み,飛び立った.そして上空から朝靄に包まれたヤンゴンの街が望めた.緑豊かな印象だ.
バガンへの航路略図
1時間15分ほどの飛行でバガン上空に達した.陽に輝く大地は全体に茶色っぽいが樹木もそれなりにあり,そこに白や茶色のパゴタが広く点在している.
バガンは乾燥地帯で,ヤンゴンなどが雨季の大雨の時も,ここはあまり影響を受けないそうである.それ故他エリアでは二期作が可能な米も,ここでは米作自体が不可能だそうだ.とは言っても多くの野菜栽培は可能で,大半は自給可能なようだ(尤も人口も多くはないようだが).また飲料水など生活用水は不足気味で,深く掘り下げた地下水や大河エヤーワーディー川から遠路運ぶなど大変苦労しているそうだ.
昔パガン王朝の都まで在ったところなのに不思議だな~と思って訊いてみると,「昔はもっと降雨量があり,樹木も多かった.ところが開発,特に巨大なパゴダを無数に建立したため大量のレンガが必要,それを焼成する燃料の樹が必要,で伐採され,砂漠化された面が大きい」と云うことだ.
8時前バガン空港に到着した.ゲートを出ると狭いホールでバガン王朝時代と思しき装束の一団が歓迎ダンスで出迎えてくれた.更に進み表に出ると着飾った象のダンスもあった.地元商工会議所の計らいであろうか.
周囲隣国タイやインドなど象の国のイメージで,気象環境が類似と見られるビルマにも当然象は棲息しているのであろう.ただ旅行中実在の象を見ることはなかった.
下は,バガンへ行くときの写真
バガン一番という大きな市場(Nyaung Oo Market)は雑然とお店が並んでいる.野菜や魚,乾物など食品は露店で,日用雑貨は屋根付き店舗が多いようだ.露店は誰でも無料で出店できるそうだ(そのスジの方が居るかどうかは聞かなかった)
野菜や果物は私達があまり見かけないものも積まれている.その中で名前は失念したが青菜のような野菜が後に食卓に並び味わう機会があった.美味しかった.
魚も並んでいるが,淡水魚や乾物のようだ.冷凍運送や保管インフラがまだ整っていないため,内陸のここでは新鮮な海産物は難しいようだ.いやそれどころか電気が十分行き渡ってないのが実情のようである.
夫婦であろう,タナカの木を販売単位に両挽き鋸で切断している.奥さんはちゃんと商品見本のように顔にタナカを塗っているが,旦那はんは素顔だ.ガイドTさんによれば,男性も子供の頃はよく塗るようだが,高校生くらいになり,塗っていると『オカマみたい』と評されるようになり,次第に止めるという.
さて化粧品タナカはタナカの木の皮の部分を砥石で削って粉にしてできるそうだ.その粉を水で溶いて塗るそうで,(1)日焼け止め(2)おしゃれの効用があるそうだ.一般に見かける塗り方は輪郭がくっきりした模様状で,このままの形の日焼けができそうに見える.下地に薄く万遍なく塗って,その上に模様を厚く塗っているのかも知れない.
少し前にカネボーがタナカ化粧品の商品化を検討し,原材料調達に関し調査したそうだ.しかしタナカの生産地がごく狭い範囲に限定され,カネボーが量産するには生産量が不十分,と断念した経緯があったそうだ.それならば更に高級化粧品メーカー(シャネルとか?)が将来商品化するかも....
頭に載せて運ぶワザはなかなか見事だ.首が短くならないか?ちょっと心配だが.
ビルマでは女性も男性も伝統衣装ロンジー(巻きスカート)を身に着けている.女性用はやはり多少華やかなデザインが多いようだ.でも一般的には,布を筒状に縫い合わせたシンプルなものでウエストや丈は一種類,男女共用ユニバーサルデザインで,巻き方と止め方調節で誰にも合わすことができるそうだ.男性の場合裾側をたくし上げてショートパンツのようにして履いていることも間々ある.
下は,ニャンウー市場のいろいろな写真
ニャンウー市場の通りで眺めているといろいろ通る. 馬車は結構たくさん走っている. 人力車のシートは横配置のサイドカー方式だ. さっそうと行く若い女性の姿からヘルメット着用に関しては自由なようだ. エンジン換装した乗用トラックはワイルドなデザインでどんな荒地も走りまわれそうだ. お坊さんもエンジン換装には興味がありそうだ.いや修行の一つか?
ところで車一般のほぼ100%が中古車で,日本車がその90%を占めるという.日本車は信頼性が高く,漢字で書かれた社名など消さないどころか,記載がないときはわざわざ書きこむ程だという.最近知人に,日本製中古乗用車を買ったから見に来いと言われたTさんが見たら『日産ディーゼル』と書き加えてあったそうだ.ちょっと違うよ~と言ったが,普通の人は読めないからいいんだよ~と意に介さないそうだ.
ただ中古車と言っても中型乗用車で1000万円(1億チャット),トヨタランドクルーザーだと4000万円以上(4億チャット←中古ですよ!!)もするそうで,とても普通の人が買えるものではないそうだ.でも街には沢山走っており,買える人は居るわけで,現独裁政権下では貧富格差は相当大きいそうだ.統制経済が市場経済に向かえば中古車価格も他国並みになるであろうが,来年辺りから少し緩和の方向に進むものと期待されているそうだ.
市場からシュエジーゴンパゴダ(Shwezigone Pagoda)にやって来た.先ず山門で靴を脱ぎ裸足になる.以降全ての仏教施設では裸足になって参拝した.裸足になると足が汚れるが,やはり他国を訪ねるからにはその国の文化や慣わしを尊重するのが筋であろう.
参道には参拝者向けグッズ,観光客向けおみやげ品が並んでいる.例えば漆塗りはここバガンの特産で,なかなか美しい漆器が見られる.絵葉書売りも付いてくるがそれほど強引ということはなく穏やかだ.ただ僅かな金額だが絵葉書は要らないし,いつも断るのは少し気が咎めるような....
先ずピカピカ金色に輝く50m近くあるという大きな塔に驚く.周囲の添え物も金ピカが多い.バガン朝の開祖アノーヤター王(在位1044-1077年)が1057年モン族を征服.それで入手した仏舎利,及びスリランカキャンディの仏歯寺に伝わる仏歯のレプリカを納めるため1059年から建設を始めたのがこのシュエジーゴンパゴダだそうだ.ただ王の在位中にはまだ工事が終わらず,後のチャンスィッター王(在位1084-1113年)の頃に完成したそうである.
構造は三層の角錐台座(基壇)の上に円錐状本体が載せられた形態で,その後無数に建立されたビルマ様式パゴダのモデルとなったそうだ.レンガ造りで内部はソリッド(レンガか土かは不明),表面は漆で平らにされ,そこに金箔を貼って仕上げられているそうだ.
また名前の頭シュエ(Shwe)は「金」,ズィーゴン(zigone)は「勝利の地」の意だそうで,前述のモン族征服の経緯と構造の通りのようである.シュエ(Shwe)の付く別のパゴダにもこの先も何度か出合うが,皆金色に輝いている.
さてこうした金色に輝く巨大なパゴダは建設費用も膨大で,当時多くいた奴隷2,000人以上の取引き額相当を要したようだ.もちろん奴隷は建設の使役としても働かされたであろうが,当時の王侯支配者が功徳を積むためにと寄進した仏塔は一体何だったのかと,いくばくかの疑問も感ぜずにはいられない.
幸い現在塔の周りやその周辺に配された仏像の前には参拝者がリラックスした様子でお祈りする姿が見られる.そう狂信的とか懸命にとかでなく,実にのんびりした雰囲気が,「あ~お祈りがごく普通の日常生活の一部なのだな~」という風に感じられ,傍観者ながらほっとする.
シュエジーゴンパゴダの一つのお堂の東西南に面して3体の寝釈迦仏が安置されていた.寝釈迦仏は涅槃ではなく生前の横になっている姿だという.北向きは涅槃の方向となるのでここでは無かったと思う.ビルマには涅槃仏は殆どなく,横になった姿の悉くは寝釈迦仏なのだそうだ.私は寝釈迦という言葉自体を初めて聞くくらい知らなかったので,とても驚いた.確かに目は半眼ではなく見開いているので,眠ってはおらず単に横になっている姿に見える.
3体の寝釈迦仏は一つは民衆のために祈っている様子,1つは説法....,1つは本当に身体を休めている姿,だったか?説明を聞いたのだが不確かだ.
これらの像は金箔ではなく金色のペイント(多分黄銅系)で覆われている.金箔の輝きに比べるともちろん劣るが,あちこち大量に色々な品を擁するパゴダも流石に限界はあろう.
下は,シュエジーゴンパゴダの写真
ティーローミンロー寺院(Htilominlo Temple)はレンガ造りでちょっと見でゴシック様式キリスト教会のような印象を受けた.天辺の四角錐はヒンドゥー寺院のような趣きも感じられる.高さが47mもあるそうで相当高い.
山門で裸足になり,参道を進むと両脇にお土産屋さんが並んでいる.シャツの売り込みがあったので買って着用してみた.「なかなか似合うよ」とか言われ喜び,なかなか快適だった.それに安かった.
山門前に掲げられた看板に依れば1218年に建立されたようだ.バガン朝第8代ティーローミンロー王(在位1211-1234年)が,自らが5人兄弟の中から日傘の占い(公平といえば公平かな?)で選ばれ,就任したことを記念して建立したという.
建物の1階部分は四角い回廊となっており,各辺には金ピカの大仏さまが鎮座している.そのフロアは一般信徒がお参りに来るためのスペースで,現在も多くの参拝者が見られた.観光客も多い.
回廊には一部壁画が残り,壁面に設けられた小室(龕)には小型仏像が収められていた.
この寺院には2階があって,このフロアはお坊さんのいる場所だそうだ.現在も常駐し,修行しているのかどうかは確かめなかったが,損傷しているため現在は観光客は立ち入り禁止となっていた.とすると多分お坊さんも居ないのではなかろうか.
なおここを寺院としたが,ビルマ語ではパヤー一つであるが日本語では次の3つに大別できるという.
でここティーローミンロー寺院は2番目に相当する訳だ.
私達が一般に抱いている仏像の顔立ちとの違いにインパクトを受ける.それにしても普通のビルマ人の顔とも違うし...一体誰がモデルかな~?尤も私達が日本で見かける仏像も日本人の顔立ちとは著しく異なりインド系のような感じが多いのだが,仏像のイメージはそれが普通と刷り込まれているのかも知れない.
大仏さま以外にもいろいろな像が並ぶのだが,全て釈迦像で,例えば阿弥陀像,菩薩像,羅漢像,天女,.....と云ったチベット,中国,日本のお寺で並ぶ像は一切ない.もちろんラマ像もない,これにも大変驚かされた.意味合いは殆ど理解していないのだが,とにかくブッダ像だけだという.ただ2600年前のゴータマブッダ以前に悟り,また人に教えた3人のブッダの像は所々に祀られているようだ.また古来からの守護神や精霊(ナッ)信仰の対象はしばしば祀られているようだ.
さて,ブッダ像だけ祀るのが上座部仏教の特徴の一つなのでしょうか?そう言えば伝わってきた元のスリランカでもブッダ像だけだったかな~?なおガイドTさんに依れば,悟りを拓いた人は無数にいるが,それを自分だけでなく人に教えを授けた人は4人に限られ,ブッダと呼ばれるそうだ.なお守護神という帝釈天や八曜日の動物などは見られるが, これらは仏教とはカテゴリーが異なるようだ.
下は,ティーローミンロー寺院の写真
---------- 寺院への道すがら ---------
ティーローミンロー寺院周辺に限った訳ではないがバガンの道を通ると茶色のパゴダが幾らでも目に入る.都のあった頃に比べれば数分の一になったであろうがまだ2000余が残るというからには当然であろうか.で人口は?信徒数は?どのように変わっているのだろうか?まあ,現在バガンの人口は1万人に満たないようだから,往時と比べれば激減しているのは確かであろう.
荷物と人を満載しバガンの通りを進んでいく.パキスタンやネパールでもよく見かける光景だが,中古車価格がべらぼうなだけビルマの方が満載ニーズが大きいかもしれない.でも少なくともこの辺りは平坦な道でパキスタンやネパールの山岳道路と比べれば危険度は少ないであろう.
マヌーハ寺院(Manuha Temple)はシュエジーゴンパゴダの項で記したバガン朝の開祖アノーヤター王(在位1044-1077年)によって捕らえられたモン族の王マヌーハに由来するそうだ.捕らえられたマヌーハは幸い殺されず,幽閉に留められ,さらに後には解放されたということだ.
白い外観は少しカトリック教会のような雰囲気も漂わせているが,入り口には仏教寺院らしく大きな菩提樹が植えられている.
解放されたモン族マヌーハ王は,征服者バガン朝の開祖アノーヤター王の上座部仏教の国教化に従って帰依したのか,或いは元々仏教徒だったのか定かでないが,何れにしてもこのマヌーハ寺院を建立したようだ.
そして寺には寝釈迦仏を含めて3体の大仏像があるが,写真のようにいずれも狭い空間に閉じ込められたように安置されている.頭は殆ど天井につっかえそうである.これは,モン族マヌーハ王がビルマ族アノーヤター王に対する恨みを後世モン族に伝え,モン族国家再興を願って自ら閉じ込められた姿を重ねて表現したものだそうだ.うん,確かに分り易い,全く縁のない遠い異国の,1000年も隔てた後の世のこの私にも痛いほどよく伝わる.さぞかし無念であったでしょうね.
ところでここは寺院,いや僧院か?なのでお坊さんが住んでおられる.本殿礼拝堂のお供え所にはお供えのコメ袋が豪快に積まれていた.お坊さんの食事に供されるという.
庭の鐘を支える男たちの太腿には刺青が見える.ロンジーの裾をたくし上げているのでよく見える.ビルマでは刺青の習慣はかなり一般的だそうだ.王朝時代が終焉するまで宮廷が在った訳だが,女性に化けて大奥に忍び込む不埒者(想像すると可笑しいような)が居たそうだ.そこで王は一計を案じた.宮殿に出入りする者全員の太腿に刺青を施し,大奥入り口にはバーを設け,跨がないと入れないようにしたそうだ.跨いだ時太腿が見えるのでこれで不具合は防げるようになったとか.
まあそうした宮廷とは全然関係ない一般の男たちも,刺青は相当痛いので,これがあるとないとでは男らしさが違う,という証に彫られることが多いという.ガイドTさんも若い頃彫ろうかどうか迷ったが思い留まった経験があるそうだ.やはり現代は必ずしもそうした男らしさの証は必要なくなった,薄くなったということらしい.
下は,マヌーハ寺院の写真
漆と漆器はバガンの特産だそうで,また仏像やパゴダに金箔を貼るときの下地として使われることも聞いてきた.そこで漆器工房(lacquerware workshop)を見せてもらった.写真は薄く削いだ竹に馬の毛を編みこんでカップの芯を組み立てているところだ.出来上がったカップ芯には漆が塗られ,乾いたら凹凸を無くすように削り,この工程を数回繰り返すようである.そして,漆工程最後の数回は塗りと線画状削り取りを組み合わせて絵付けしていた.漆が乾くのに時間を要するので長いものは数週間要するという.出来上がったカップは可撓性があり漆にクラックが入る心配はなさそうだ.
もう一つの作り方は薄く削いだ竹を小田原提灯の芯のようにスパイラル状にして容器を作る.漆工程は前者と同じで,仕上がったものは普通の容器と同じようにリジッドである.出来上がった漆器はなかなか美しいものだ.また漆器にしては手頃な値段で買えるようだった.なお安い漆器の中には紙器に漆を塗ったような粗悪品も売られている,とのアドバイスもされた.中は見えないのであり得るであろう.
下は,漆器工房辺りの写真
---- ランチ,ホテルで一休み ----
漆器工房を見物した後,ビルマの北から南に流れる大河エヤーワーディー川畔のオープンレストランに行った.そしてここでビルマ料理のランチを頂いた.かき揚げのようなものが含まれておりちょっと驚いた.味も日本のそれと似ていると思った.大河を眺めながら食事はピクニックのようで楽しい.
食事後この夜と翌日の宿泊ホテルAmazing Bagan Resort Hotelに行き,一休みした.緑の広大な敷地にあまり部屋数は多くなく建てられ,部屋自体は広々している.まさか有るとは想像もしなかったがプールまで備えてあった.ひと泳ぎした人もいた.
このホテルの土地は軍政府の所有地で,ホテル経営者が長期リース契約で使っているそうだ.なので元は軍将校のリゾートとして使われていたそうで,敷地内にゴルフ場があったり,公道に出るまで2~3kmもあるそうだ.バフェの朝食も美味しいしなかなか良いホテルだ.
アーナンダー寺院(Ananda Temple)はパッと見でヒンドゥー的香りを感じた.特に若干剥がれかかっているように見える四角錐の尖塔部はヒンドゥー寺院のようだ.本堂は一辺53mの正方形で,バガンで最大級広い建坪だそうだ.
11世紀末パガン朝第三代国王チャンスィッターの建立で,アーナンダーはブッダのお弟子さんの名に因むという.
一階内部には二重の回廊が設けられ,内側は王族専用,外側が下々用であったそうだ.今回は私たち底辺の者も特段の計らいで内側回廊に入れてもらえた.
回廊の内側東西南北にはそれぞれ大きな屈があり,金ピカの大仏さまが安置されている.腕の位置,手(指)の形,衣装などそれぞれ異なっている.南北の像は創建時からのもの,東西の像は火災に遭い14,5世紀の再建という.
↓南の大仏さま | ↓西の大仏さま |
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↑北の大仏さま | ↑東の大仏さま |
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内側の回廊から眺めて,私が見る限り東西南北4体の大仏さま全て女性的な顔立ちに見えた.アーナンダーというブッダのお弟子さんの容貌に因むものか,それとも建立のチャンスィッター王の好みか,はたまた彫刻家の創作意図か,.....教えてもらいたいものだ.
また北の大仏さまは内側近くから見ると厳しい顔に,外回廊から見ると優しい表情に見えるそうで,為政者へ正しい政治を促したそうだ.私も距離を変えて眺めて観たが,特に口元が遠くからは微笑み,近くではキリッとした形で,確かに変わることに驚いた.これは誰の意図でこのようになったのでしょうね?これもぜひ訊いてみたい.さて誰が教えてくれるか.
西の大仏さまの足元にはさらに2体の仏像が置かれている.お参りに来る人達がどんどん金箔を貼り付けるので凸凹になってしまっている.こうして功徳を積む訳であるが,やはり貼る人の健康上問題のある部位に貼って回復をお願いするケースも多いそうである.でもここの仏さまは万遍なくあちこちに貼られ,凸凹になっているので必ずしも個人的願いや損得で貼られる訳ではないようだ.
寺やパゴタには寄付を募るお賽銭箱が用意されている.写真の北の大仏さまの前だけでも7種類の箱が用意されているのが見える.同じ場所に複数並んでいるのは,例えば屋根の修復,南大仏さまの修復,建物の修復,壁画の修復,....といった風に用途別に寄付する信者の意向を反映するためだそうである.人気の高い寺,人気の仏像...には自ずとたくさんのお金が集まるそうである.
ところで賽銭ドロボーが居るかTさんに訊いてみた.すると『もちろん市中にドロボーは数多いが,仏教施設での盗みは皆無.これは見つかるとヤバイという理由でなく,ブッダの目の前で,諸に教えに背く行為に走る訳にはいかない』という仏教倫理/自制心を,たとえアウトローの人でも持ち合わせているからとのことだ.なかなか素晴らしい.
回廊の壁には窪み(龕)が掘ってある.窪みの周りは丁度額縁のように装飾されている.さながらアートギャラリーの趣だ.
窪みの殆どには仏像が納められている.どれも仏像なので外側のバラエティに富んだ額縁より寧ろ単調な感じもする.まあ,そういう問題ではないかも知れないがつい....
単調という批判(約一名だが)に応えて,こうした釈迦生誕からの物語に関わる像も収められている.Tさんから詳しい解説があったが,う~なかなかちゃんと思い出せない.....
この像はとても人気があるそうで,皆素手で触るため額や胸の金箔が剥がれてきている.そこで当直が金網ドアを設置したのだが,それでも大目に見てくれており,こうして開けることも可能だった.アート的にもなかなかいいと思う.
お釈迦様の物語は壁画でも詳しく描かれている.カトリック教会の壁に描かれたフレスコ,聖書のストーリーと同じ考えであろう.つまり書を読むより素早く簡単に理解せしめることができるからであろう.またそれが美しければ一層印象深い訳で,今でこそ色褪せているがとても細密で具象的なこれらの壁画は寺院建立当時一層綺麗であったと思われた.
アーチの上で漆喰の剥がれた部分があった.中が見えるように故意に補修せず残してあるようだ.鉄筋はもちろん木材も組み込まれておらず,レンガだけで構成されているようだ.ただそのレンガ組みが単純に平積みされている訳でなく,放射状配置と水平配置を組み合わせた構造で,自重と地震による崩壊に対して強度を高めているようだ.
他と同じように山門で裸足になり両側に門前町が形成された参道を進む.ビルマで著名な写真家(名前は失念)のショップではご当人が自著を前にお店番をしていた.並んだ見本写真はやはり素晴らしかった.
さてこうしてアーナンダ,コウナンダ,ソウナンダと言いながらアーナンダー寺院を後にした.
エヤーワーディー川(Ayeyarwady River)に行った.う~んずいぶん広い,多摩川の何倍もありそうな大きさにびっくりだ.バスを降り,船着場へと歩き始めると早速物売りの女性たちが寄ってきて売り込み攻勢に遭う.売り子の数は相当多く,マンツーマンオフェンスを仕掛けてくる.いや~参りますね.
とりあえず『後でね』とかわして船に乗り込んだ人は,クルーズを終え下船したときちゃんと顔を覚えられていて,再びアタックをかけられ苦笑している.カラスだって一ヶ月くらい顔を覚えているそうだから,ましてや生活が掛かっている人たちなら尚更でしょうけど.
エヤーワーディー川(Ayeyarwady)は1989年までイラワジ川(Irrawaddy)と呼ばれたそうだ.何でも同年連邦政府が古いビルマ語の発音に由来するIrrawaddyから,現代ビルマ語の発音に近いAyeyarwadyに変えたそうな.なおどちらも『象の川』の意に由来するそうだ.それにしても由緒ある呼称をわざわざねえ~
マップのページで,グーグルマップを拡大してみるとよく見えるが,ミヤンマーの最北端ヒマラヤから国土中央を縦断しヤンゴンの西に至っている.これを見ただけで重要な川だと思ってしまう.メコンのように中国に源流を抑えられていることもなく,自国内を2,000km以上流れているというから,貢献度は高かろう.
私たちの乗ったのは小舟であるが,結構大きな船も就航していて,3泊4日程度のクルーズを楽しむ主に欧州系の客で繁盛しているそうだ.
さてそうこうしているうちに陽が落ちてきて川面と空を赤く染めた.若干涼しいかな~という風も心地いい.
下は,エヤーワーディー川でのいろいろな写真
エヤーワーディー川で日が暮れて腹時計は夕食を指していた.ということで人形劇(puppet show)を見ながら夕食というレストランに向かった.ミャンマー風中華料理を前に,正面のステージでショーは始まった.脇にはバンドがいろいろな楽器を奏でている.
ストリーは皆目解らないが,伝説の物語を観光客向けにダイジェストしたものだそうだ.本来夜通し演じてようやく終わるほど長いストーリー展開だという.
という訳で,人や馬の動作が,例えば歌舞伎がそうであると同様,誇張されドラマチックで面白いな~と食べながら不真面目に鑑賞した.興味深かったのは,人形遣いは普段カーテンの背後で見えないのだが,時々カーテンを引き上げて写真のように人形遣いの姿と動きを積極的に見せることだ.日本の文楽(人形浄瑠璃)の人形遣いが黒衣装,マスクで目立たないようにしているのと対比させると面白いと思う.
下は,人形劇の写真
さてこうして夜は更けていく.mazing Bagan Resort Hotelに戻り休み,明日また観光に出かけよう.