このマラッカ編では列車でタンピンまで行き,ここからバスでマラッカ川に行き,同川遊覧クルーズを楽しみ,青雲亭に参拝し,オランダ広場のキリスト教会,セントポール教会跡,サンチャゴ砦を観光し,帰路に着いたときの写真を掲載した.
マレーシアのタンピン駅は右側風船辺りに,マラッカは左側風船辺りに位置している.
クアラルンプールを定刻で出発した列車は順調に進み,2時間足らずでタンピン駅に到着した.遅れなしは稀有なことだそうだ.先週Wさんが案内した同じパッケージツアーでは出発が3時間遅れ,当然到着も同じ時間遅れてしまったそうである.バスは既にマラッカに向け空荷で出発してしまっており,ひたすら列車の出発を待つ以外打つ手がなかったそうだ.
列車はゆったりしているし,窓から移り行く光景が眺められるし,なかなか良かった.
タンピンからは先に到着し,待っていてくれたバスに乗り,マラッカへと向かった.途中レストランに寄って,ニョニャ料理(若しくはババニョニャ料理)と呼ばれる典型的マレーシア料理を頂戴した.なお,ババは男性,ニョニャは女性を指すそうだ.
中国人移民(男性)と現地のマレー人(女性)が結婚し,生まれた混血の子孫がババニョニャと呼ばれるそうだ.従ってババニョニャ料理は双方の食文化を取り入れミックスした伝統的マレーシア料理ということになろう.実際食してみると,若干辛目の中華料理+カレーのような感じで,馴染みないスパイスはあまり使われておらず,普通に美味しいと思う.逆に各地で『XX料理ですよ』として出された料理は押し並べてニョニャ料理,若しくはその亜種ではないか......とも思えた.
食事の後,近くのお土産屋さんに立ち寄った.商品の特製化粧品常用で歳より著しく若いとの触れ込みの奥さんが販売担当,インド人も真っ青な売り込み攻勢にたじろぎ,辟易した.化粧品はどうやらこうしたセールスパワーも増強するようだ.
バスはマラッカの街に入ってきた.華人(中国系)小学校の前を通りかかったら小さい子が丁度終業の時間らしく,出迎え家族の車が行列を成していた.多分いいとこの子であろうが,随分大事にされているのか,甘やかされているのか....そんな風に感じられた.やっかみかな?
下は,タンピンとそこからマラッカまでの写真
マラッカに着き,先ずマラッカ川遊覧クルーズ船に乗り込んだ.マラッカ川はあまりきれいとは言えないが,周囲の眺めはなかなか風情に満ちた光景が次々に展開され,楽しめる.
案内放送はよく聴き取れなかったが,ポルトガル風の歴史的建物やマレー系高床住宅,また近年のモノレール,いろいろな橋,樹の枝の大トカゲ,停泊する船舶....等々見応えがある.
下は,マラッカ川遊覧クルーズの写真あれこれ
さらにマラッカ川遊覧写真
マラッカの街に入り,お正月の飾り付けで賑やかな中華街の様相を呈するエリアにやって来た.その一画に青雲亭と呼ばれる寺があった.名称に「寺」と付かないのは,元々,明の大遠征を指揮した海軍大将,鄭和の功績を讃え建立された,儒教,仏教,他がミックスされた寺院だからであろうか.
山門は元よりカラフルな上,めでたい赤布や提灯で一層賑やかになっている.建立は1646年だそうで,日本では江戸天宝年間,基本的には鎖国,オランダなど一部国と長崎で限定的に交易していた頃と思う.一方鄭和将軍に率いられた中国軍はマレーシアなどに大々的に遠征し,平定したのであろう.果たしていいことかどうかは別として.
本堂中央に金ピカの観音菩薩,左側に髭を生やした横浜中華街と同じ関羽将軍,そして左側にこの写真の漁業と航海の守護神「媽祖(まそ)」の像が祀られている.
媽祖神は,やさしい顔立ちや装束から一見して女性と判る.中国系の港のある所ではこの海の女神が祀られているケースが多いそうである.資料をめくると,本来福建省,広東省など中国本土で媽祖信仰が盛んだったのだが文化大革命でほぼ破壊され,ここマレーシアや台湾,香港などで主に受け継がれているようだ.また日本でも,例えば関羽将軍と同じく横浜中華街など各地に媽祖神を祀る神社があるそうだ.ふ~ん.
像の前には陰陽2枚の札が置いてあり,床に投げて吉兆を占う.札の裏表別々なら大吉,同じなら並み(いや逆だったか?),と誰が投げても凶が出ないように配慮されたWさんの心温まる事前レクチャーがあった.皆で投げてみると,概ね偏りのない2枚の札の場合の統計学的比率でちゃんと現れた.
屋根は波をモチーフにしているようで,多少ジャンルは違えど北斎の冨嶽三十六景「神奈川沖浪裏」辺りの大波を彷彿させるデザインだ.なお北斎は青雲亭建立より2世紀ほど遅い時代に活躍した人のようである.屋根瓦や豪傑(?),天女{?}の像は陶器であろうか?いや磁器か,細密で鮮やかな彩色が施されている.見事だ.当時既に世界に名を轟かせていた中国本土の焼き物技術で仕上げられ,ここに運ばれたのかな~と想像する.
下は,マラッカの青雲亭のいろいろな写真
オランダが強かった頃ここら一帯にいろいろ建設したそうだ.一つはこのキリスト教会で,正面にChrist Church Melaka 1753と書かれており,1753年建立のようだ,Melakaはマラッカのマレーシア語(それと蘭語もか?)だそうだ.オランダがポルトガルに打ち勝って,マラッカを占領した100周年の記念事業として建設が始められ,10年余を経て完成したそうだ.つまり1650年頃には既にオランダが支配していた訳だ.
この教会(プロテスタント)は現在も使われており,曜日と時間を分け,英語,中華語,タミール語のお祈りが行われるということだ.マレーシアはイスラム国であるが,今混乱の最中にあるイスラムオンリーのチュニジアやイスラム以外肩身の狭いエジプトなどとはかなり異なって,信教の自由があるようである.
下は,オランダ広場キリスト教会の写真あれこれ
オランダ広場から少し登った丘の上にセントポール教会跡と,その庭にフランシスザビエル像があった.マラッカ王朝を駆逐し,占領したポルトガル軍が1521年に建立したカトリック教会だったそうだ.当時ヨーロッパではプロテスタント運動が起こり,それまでのカトリックと対立.また丁度大航海時代も始まり,カトリックはアジアに活路を求めた頃だそうで,その布教組織がイエズス会,アジア担当CEOが(聖)フランシスザビエル氏だったということだ.
フランシスザビエル氏は日本に来て布教活動したことから私たちには馴染み深い人物だ.また当時この地にやって来て,ザビエル氏と一緒に布教活動を行った日本人もいたそうである.1552年に亡くなったザビエルの遺体が一時安置されたと云う穴蔵がこの教会の床にあり,金網の覆いが掛けられている.賽銭入れの小穴が開いており,残ったコインを投げ入れる.安置された期間は9ヶ月に及ぶそうだが,他に移すため引き出したとき遺体にメスを入れるとまだ赤い血がほとばしったという.にわかには信じ難いが,カトリックでは奇跡がしばしば起こることだし.....
つまりカトリックのセントポール教会→オランダ(従ってプロテスタント)→英国支配→独立し,イスラムに,と支配者の変遷に伴い放置され,朽ちるに至った訳だ.しかし偶像崇拝を禁ずるイスラム社会になった現在,聖フランシスザビエル像を撤去せず,そのまま許容しているのはなかなか寛容だと思う.ただやはりいろいろある.礼拝堂だった一画に墓標が並んでいたが,これは英から独立し,イスラムに変わったとき,丘の知事公邸から目障りに見えたオランダキリスト教会(プロテスタント)墓地の墓標をセントポール教会に移させたためなのだそうだ.なのでここに並ぶ墓標はある意味異教徒のものと言えよう.
セントポールの丘からマラッカ海峡の方向を望むと遠くまでよく見渡せる.建設工事も盛んなようだ.経済成長率はさすが2009年はマイナスに落ち込んだようだが,2010年は6.7%程度に回復したようである.
下は,マラッカのセントポール教会跡辺りの写真
上のセントポール教会と同じ頃やはりポルトガルによって建造された要塞がサンチャゴ砦だそうだ.当時セントポールの丘に置かれた司令部はマラッカ海峡から攻め入る外敵を防御するため,周りにぐるりと城壁を築き,4ヶ所のゲートを設け,その1つが写真のものだという.
セントポールの丘は定型的山城の適地であろう.後にポルトガルから奪い取ったオランダもここを利用したそうであるし,さらに上述のように後々独立後の知事公邸もここに置かれたそうだし.
下は,マラッカのサンチャゴ砦の写真
なお以上眺めた辺りは,ユネスコ世界遺産(文化遺産)ムラカとジョージタウン,マラッカ海峡の歴史都市群(Melaka and George Town, Historic Cities of the Straits of Malacca)として2008年に登録されている.
マラッカの観光を終えてバスでクアラルンプール空港へと向かった.途中で果物屋さんに立ち寄り,念願のドリアンを頂戴することになった.お店に近づくと既に食べているテーブルから匂ってくる.今は旬でなく,出回っている品種は少ないが味は最高,と言われ期待が高まり,数個を皆でシェアして食べた.あ~美味しかった.
こうしてクアラルンプール空港に到着した.ガイドWさんと運転手の方にTerima kasihありがとうを言い,パスポートコントロールに向かった.構内をめぐる拳銃を携えた女性のお巡りさんを見かける.華人系は普通の婦人警官の装束であるが,イスラム女性の場合写真のようにスカーフの上から帽子を被っており,いろいろ大変ですね~と思ってしまう.
荷物検査で,見失っていて意図せず手荷物バッグに入り込んでいたナイフが見事に見つかり,没収されてしまった.ナイフや栓抜きなどのビクトリノックスナイフだが,畳んだ状態,金属が重なった状態でよく判るものだと感心する.帰国後,没収されたものよりツール数の少ない同じシリーズのナイフをアマゾンで注文したら,直ぐに届いたのでよかった.
こうしてJL724便に乗り込むと,機は順調に飛び,定刻より若干早く早朝の成田に到着した.早朝なので京成と東急の比較的ラッシュを避け得るルートで帰宅した.
下は,帰路途中での写真
ガイドWさん,運転手さん,同行の皆さんお世話になりました.ありがとうございました.