夕刻フンザの中心,カリマバードの宿に到着した.翌日早朝先ずはドゥイカルに出掛ける.
ドゥイカルは標高3,000mくらいだということだ.真っ暗な山道をジープで登り,集落に着いた後少し歩いて展望の開ける場所に登った.
下は,ドゥイカルの写真あれこれ
カリマバードはフンザ川が流れ灌漑用水に恵まれた畑が広がり,ポプラが繁っている.四方共に山に囲まれ眺めがいい.冬は雪に閉ざされて大変だと思うが,昔から長寿の里としてよく知られているようだ.
下は,カリマバードの写真あれこれ
カリマバードのホテルでフンザ料理を戴きながらフンザ舞踊を楽しむディナーショーと相成った.ただフンザでは女性は一切家の外では働かないので,ホテルにはメイドもウェートレスも全く居ない.全て男が受付し,掃除し,ベッドメイキングし,料理を作り,給仕し,ダンスを披露し,.....となる訳だ.先ほどまで庭掃除していたおじさんのダンスはありがたいが,正直,ちょっと味気ないような....
ところでそのカリマバードのホテルはちょっと山小屋風,て言うか,例えばお風呂にはバケツが置いてある.シャーワーのお湯は直ぐ止まるので,一旦お湯を溜めて置けば少し安全,ということのようだ.ちょくちょく停電するが,夜間は3時間ほど完全に電気が止まったままだ.なので夜半に,外を眺めたら満天の星空で,翌朝(3日目朝)は山がきれいに見えるに違いない!と読んで早起きしたら,予想通り山がくっきり見えたのだった.
さてその3日目朝,早起きして屋上に上って待機した.ほどなくディラン(Diran:7,257m)が赤く染まった.ディランはラカポシの少し東に位置し,ここカリマバードからは南の方向に見える.1968年3人のオーストリア隊によって初登頂されたそうである.
同じ頃ラカポシ(Rakaposhi:7,788m)が赤く染まった.カラコルム山脈西端近くにあるラカポシ山脈の主峰.フンザ川東岸に位置しており,ここカリマバードからだと南西の方向に見える.本格的な登山は1938年頃から北西稜を登路として始められたが容易には成功せず,ようやく1958年6月になってイギリスとパキスタンの合同登山隊が初登頂に成功した,ということである.
背後のレデイフィンガー(LadyfingerまたはBublimotin:6,000m)とフンザピーク(Hunza Peak:6,270m)は気付いたときには完全に陽光を浴びていた.レデイフィンガーはカラコルム山脈西端近く,ウルタルサール山塊(Ultar Sar)の南西に位置し,雪はなく鋭く切り立った山容から直ぐ見分けることができる.ロッククライミングでよく知られるそうで,最初に成功したのは1982年だそうだから,それほど古いことではない.
レデイフィンガーの右(東側)に位置する雪山がフンザピーク.レデイフィンガーとは対照的に塊的な形が特徴といえば特徴か.
近所の山(右下写真)も真っ青な青空の下輝いている.今日はいい天気になりそうだ.
やがてフンザの里にも陽が当たり,ホテルの前を珍しく馬で通学する子が通り過ぎていった.
カリマバードの外れ辺りであろうか,ラカポシの眺めの良い場所に行った(写真左上).ここで暫し山を仰いでいると,少女や少年が家畜を連れて通り過ぎて行った.ここの子どもたちは働き者だ.
長谷川記念学校(Hasegawa Memorial Public School)は登山家長谷川恒男氏の遺志,夫人(Masami氏)と友人たちの厚意でカリマバードに設けられた学校だそうである.遭難の際の村人の多大な協力への恩返し,の意が込められているようだ.長谷川恒男氏は1947年12月8日神奈川県愛甲町生まれ,15歳から登山を始める.会社勤務を経て,登山ガイドとして活動をはじめる,1973年エベレスト登山隊隊員として初の海外登山を経験し,標高8,300mに到達.1975年谷川岳一ノ倉沢に残された最後の冬期未踏ルートの初登攣を単独で行ったという.1977年~79年,ヨーロッパアルプス3大北壁の冬期単独登攣,1981年アコンカグア南壁の冬期単独登攣に成功.後チョモランマ(エベレスト)などヒマラヤで登撃に挑む.1991年10月10日,ここカリマバードに程近いウルタルⅡ峰登山中雪崩により遭難.享年43歳.ウルタルⅡ峰はこの長谷川記念学校の校庭から望むことができるがこの日は雲の流れが速くうまく撮影できなかった.左写真は翌日別の場所で撮ったもので,左が第Ⅰ峰,右が第Ⅱ峰(UltarⅡ:7,388m)
下は,長谷川記念学校の写真あれこれ
旧藩主(ミール)の居城だったバルティット城.山の中腹にあり,フンザの里を見下ろし,背後が山という城には持ってこいの位置にある.この城は760年程前に築かれたフンザ藩主(ミール)の居城で1845年までは実用に供されていたそうだ.土と石で外回りを固めた城の中の部屋はジェニパルという名の木材が多用され,この地方では一般的な住居構造だそうである.明かりは天井の穴からとるようになっている部屋もあり,厳寒の冬と暑い夏に対処できる工夫のようである.ただ概して暗い感は否めない.またお城だけあって,普通のガラス窓や,ステンドグラスの嵌め込まれた部屋も設けてある. ところで,フンザはフンザ渓谷の北部一帯を領域とする地域のことで1974年まではフンザステートとして内政の一切がミールに任されていてパキスタン領内の自治国であったそうである.しかしてフンザの人々は今も旧ミールに対しては大きな敬意を払っているそうで,新しい立派な宮殿に住まうミールは村人の種々相談事にも気軽に応じているということだ,
下は,バルティット城と近くの写真.
下は,さらにバルティット城と近くの写真.
カリマバードの一画に市場(と言っても常設のお店が並んだところ)がある.スカーフ下の模様の付いた帽子,というフンザファッションで身を包んだ女性に出会うこともしばしばあり,なかなか興味深い.日用品から,食料品,観光客は少ないながらお土産品のお店.....といろいろ並んでいる.黄色人種は珍しいのであろうか,30歳近くに見える男性から声を掛けられ,四方山話をしていたら,まだ21歳のイスラマバードの大学生で,休暇でここに戻っているという.いや~パキスタンの人って立派なひげも生やしているし老けて見えるのには驚いた.同国の核保有を,どう思うか?と訊いてみたら,「誇りに思う」と応えた.やはりそうであるか....