この大連編では,2018年5月20日本渓から大連へバスで移動しここで宿泊,翌21日大連で朝を迎え,緑山展望台,旧日本人街,中山広場,旧ヤマトホテルを訪れ,大江戸レストランでランチ,その後旧満鉄本社,北大橋,老虎灘を眺め,路面電車に乗り,お茶屋を覗き,夕食を頂いたときの写真を載せました.
大連中心部は遼東半島のこの辺りに位置している.北は渤海,南は黄海だ.
本渓の鍾乳洞見物の後,バスは瀋大高速道路に入り,大連へと向かった.
比較的緩やかな傾斜地は緑豊かで清々しい.
煙突が立ち並ぶ工業地帯も通過した.この辺りはやはり金属精錬とかかな.....いやわかりません.
瀋大高速道路の甘泉SAになり,ここで休憩だ.甘泉はこの辺りの地名のようだが,甘い水が湧き出ていたのでしょうか.
甘泉SAの一画には抜かりなく中国共産党のスローガンが掲げてあった.大体日本語で解釈してもよさそうだ.右下2つ目『和諧』は調和の意味で,高速鉄路の車両名になっているのは以前も述べた.
12の中で右上『民主』は,そうなんだ~,という印象.
甘泉SAからまた走り出した.途中から片側4車線で広くなってきた.大連に近づいてきたかな.
甘泉からしばらく走り,次のSAに着き,休憩した.
露店があり,覗いてみるとバスケットに大きな玉子があった.鶏卵の2倍はあろうか.日本ではお店(スーパー)でガチョウの玉子が売られている場面を見たことがないので,さすが中国,と感心した.尤も日本でも専門店(あるか?)に行けば買えると思うが.
建物が建て込んできた.大連のエリアに入ったようだ.ただ樹木も多く,なだらかだが凹凸があり,緑豊かな街のように見える.
さて大連は上マップのように遼東半島南端に位置している.黄海と渤海に面した港町で,海を挟んで南側には山東半島がある.19世紀末に帝政ロシアの租借地となり,1904年日露戦争で勝利してから日本の支配地となった.そして帝政ロシアが統治する時期に建設され始められていた中山広場(明日見物予定),ヤマトホテル,またそこから放射線状に伸びる道路が一層推進されたようだ.
現在人口613万人(うち市区部390万人)というから,横浜市辺りより相当多い.
無事大連に到着した.バスはそのまま大地食府レストランまで私達を運んでくれた.お店の前で眺めると5階建てで,随分大きなレストランだ.
私達は個室に案内してもらい円卓で当然中華料理を頂戴した.その中に東北地方特有という春餅と呼ばれる料理があった.小麦粉を水で溶き,捏ねて,薄く延ばし,焼いたものだ.クレープを厚くしたもの,或いはまだ巻いてない餃子の皮のような感じだ.元々は立春の日の食べ物で,日本のお正月のお餅的行事料理が始まりらしい.
春餅はそのまま食べるのではなく,他の皿の料理を包み,一緒に食べる.手巻き寿司の要領でいいかな....でも,不器用なので包んだ中身がこぼれ落ち易い.そこで正統マナーではないと知りながら,別々に交互に口に入れてみた.味は変わりないようだ.でも良い子は真似してはいけません.
大地食府で春餅を頂戴し,バスで宿泊の大連日航飯店に行き,チェックインした.
外壁も曲面が採り入れられているが,広いロビーも曲面や円柱が組み合わさり,グランドピアノが配され,私達がこれまで泊まった中では一番豪華なホテルだ.
部屋のキーを受け取り,エレベータで昇り,部屋に入る.部屋もバスルームも広いし,椅子やテーブル,TV,wifi(googleなどXだが)など備え,とてもいい.
なおここには3泊するので特にありがたい感じだ.
日航飯店18階の部屋で,5/21(月)の朝が明けた.窓を見ると,集合住宅の向こうに赤いクレーンの並ぶ港が見える.あいにく天気はイマイチかな.
部屋を出て,レストランに降りた.入り口で部屋のキーを見せると,係員がバフェの中を案内し,席を確保し予約札を置いてくれる.驚いた.
そしてお皿を手にトレイの料理を眺めながら,盛っていった.小サイズだが朝からビーフもあったので,焼いてもらった.
そしてお皿を手に,先程予約してもらった席に着き,食べる.ビーフは焼き過ぎで硬くなっていた.多分中国ではウエルダンが標準なのかもしれない.
他はフルーツを含めてもちろん問題なく,大変美味しかった.
ところで,昼や夕の食事ではこれまであまりフルーツデザートがなかった.ガイドSさんのお話では,中国の他地方では一般的だが,東北地方ではその習慣がないのだという.ふ~む,なるほど.
朝食後,ホテル前の長江路を西に歩いてみた.この通りは少し行くと交差点に至り,また通りには路面電車(トラム)が走ってる.路面電車は観光プログラムに組み込まれているので,後で実際乗ることになる.
次にホテル裏に回り,そこの通りも歩いてみる.大きな集合住宅や,一階には小さな雑貨屋や,食品店など並んでいる.アカシアの木も植えられ,白い花を付けている.
私は読んでないが,『アカシヤの大連』の名前だけ聞いたことがある.作家清岡卓行氏の小説で,20世紀前半に日本の租借地であったここ大連で,青年期に過ごした生活を綴った私小説的作品だそうだ.
大連の市花はアカシアで,ガイドSさんのお話では来週アカシア祭りが開かれるそうだ.サクラなどとと比べて派手ではないが,緑の葉に白い花の対比が爽やかだと感じる.
散歩の後,バスで出掛け,順次あちこち回る予定だ.
最初に目指すのは緑山展望台で,坂道を昇りながら進んでいった.
緑山展望台に行くと聞いていたが,そのような標識は見当たらない.代わりに写真のような労働公園と彫られた大石がある.いかにも社会主義国らしい名称ですね.花壇がたくさんの花が植えられ,とてもきれいだ.
背後にはさらに高いテレビ塔の立つ山,緑山が見えるので,ここは緑山中腹展望台なのではなかろうか.
ここは高台なので大連市街をよく見渡すことができる.
左側が確か大連一高い383m,2番目はどれだったか...ここからは見えないか....が370mのようだ.中国では上海の632mビルはじめ,高層ビルがやたら多いが,四川省とかを除けば地震の心配はあまりないのでしょうか.
ちなみに日本では大阪あべのハルカスが300mで一番高いそうだ.
ここが旧日本人街です,と案内された街.日本の租借地だった時代,満鉄や関東軍の幹部などが多く住む,日本人街が形成されていたそうだ.当時和風建築の要素を織り込むなど,かなり特徴があったそうだ.
ただ近年,それらは完全に取り壊され,リニューアルし,超高級住宅街として売り出されたのだそうだ.東京で言えば田園調布とか成城の感じか.ということで,昔の面影は一切なく,大連富裕層住宅や他の非臨海都市富裕層の別荘として販売されているそうだ.ただし,そうした富裕層にとっても超高価なため,売れ残っている区画も多いのだそうだ.
当初住宅地として売り出していたが,あまりにも高価なため,事業用として,例えばこのワインクラブのように店舗用に購入するのが増えたそうだ.
庭の看板には,大連市文博芸術館,ドイツ領事館跡,大連大学美術学院実践教学基地など掛かり,壁に源氏物語斉藤薫版画作品展の案内が架かっている.これが多少なりとも旧日本人街を偲ばせるものであろうか?
旧日本人街の並びに,現在の幼稚園があった.Sさんの説明では,当然一般の幼稚園とは違って,送り迎えが必要(普通のところもかなりそうらしいが)で,学費は高額ということだ.
とう云うことで,日本人街を偲ぶところは殆ど,いや全くないが,逆に日本人が関わったところは気が重くなるところばかりなので,ここは気楽で,何も考えることなくいいかも知れない.
名ばかりの旧日本人街を後に,バスで中山広場に向かった.
中山は孫文の別名(号),孫中山のことで,もちろんあの1911年辛亥革命の立役者だ.これまで長春のページで触れたように,ラストエンペラー愛新覚羅溥儀が過去中国で2000年以上存在した皇帝の地位を去ったわけだが,現在共産党政権が完全に形成された以降もず~っと引き続き尊敬されているという.そして広場にその名を残している訳だ.
中山広場に着いた.芝生の茂る向こう正面,目立つ赤い壁は大連警察署で,元々日本統治下の大連で最初に建てられた大連民政署で,ゴシック様式の建物だそうだ.
他にも旧英国領事館や,後に載せる大連ヤマトホテルなど,歴史的建築がいろいろ見られる.
中山広場で親子が遊んでいる.どこの国でも同じ光景が見られる.
公園の親子は世界共通だが,一方結婚前に写真を撮り,披露宴で披露するのは中国(や台湾)独特の光景だと思う.カップルにはメークや衣装,演出担当者,それにカメラマンが付属し,いろいろポーズを取りながら撮影している.
現在大連賓館の看板が架かっている.今眺めてもなかなか気品ある建物だ.逆にヨーロッパの建物が古くても,いやそれだからこそ風格を維持している場合も多いのと似ていよう.
満鉄が日露戦争によって獲得した鉄道経営権をベースに,満鉄が設立した高級ホテルで,東京で言えば帝国ホテルのような感じか.
表の壁には『大連中山広場近代建築群ー大和旅館旧址』のプレートが嵌め込まれている.日本支配時代の建物の多くは屈辱であるので,破壊されたりしたそうだが,一部は歴史の証拠として保全されているそうである.
旧ヤマトホテルは現在大連賓館として使われているそうだが,現時点では補修工事か何かで一部を除き殆ど営業停止しているそうだ.
ということで入り口付近など一部を見せてもらったがなかなか立派なものである.
上の階で『大和喫茶店&CLUB』が営業していた.看板からして当地駐在の会社員や,私達のような日本人観光客を主な対象にしているのであろう.
入ってみると,壁の棚には日本のバーや飲み屋のように各種ボトルが並んでいるので,やはり夜は駐在員の皆さんがよく集うのであろう.
壁には日本統治時代の古いモノクロ写真が架けられている.現在当地に駐在している人は年齢からしてその頃のことは直接知る由もなかろうが,こうした写真でいろいろ考えたり,思ったりできることでしょう.
旧ヤマトホテルは中山広場に面して建てられているので,大和喫茶店バルコニー真正面は中山広場である.まあ広々して一等地ということになる.
大和喫茶店でコーヒーを飲んだ後,バスでレストランに行った.この辺りも緑豊かでなかなかいいところだ.
行った先は大江戸という和食レストランだった.とんかつや茶碗蒸しだった.高々一週間程度の旅行で和食より中華の方が....と思うが,まあこれは当初からそうしたプランのツアーなのだ.
これが旧満鉄本社ビルだそうだ.西欧風デザインのなかなか堂々とした建物だ.
満鉄(南満州鉄道)は日露戦争の勝利後1906年に設立され,1945年敗戦まで続いた半官半民の鉄道会社だ.当初ここ大連に本社が置かれ,後(偽)満州国が成立し,首都が新京(長春)に置かれると,本社もそこに移ったようだ.
初代総裁は台湾総督府元民政長官の後藤新平で,単なる鉄道会社に留まらず,炭坑や製鉄所,農地,商事部門など経営し,さらに大学などの教育機関,研究所まで擁するに至ったという.
上記写真のビルは,満鉄ビル群の一つで,実は隣の前庭付き建物,さらに左の建物も満鉄の所有であったようだ.
現在は庭前の『大連車務段』,大連の鉄道事務所....的な意味合いかな....とにかく,日系の満鉄的ニュアンスは一つも含まれないであろう,もちろん.
旧満鉄本社ビル内部もなかなか重厚な造りで,撮影可能な通路の両側に展示室がある.ただしたくさんの写真など展示されたそうした部屋は撮影不許可である.
展示入り口には中国語の前言が掲げられていた.中国語が解らないのだが,幾つかの漢字からすると,1907年満鉄が現大連に開業し....以来38年間営業し,中国の富を野蛮に略奪し,人民の血と汗を搾取し.....本館は満鉄時代の実物図など展示し.....満鉄の実効的植民地統治を....中華民族の大復興を実現した,というようなことか.
ということで,ここも日本人としてはある程度覚悟して見ることになる.
バスは洋館の並ぶ市街地を抜け,北大橋に向かった.北大橋は市街地から南にあり,そちらに進む.
バスは北大橋に到着した.たまたま橋の一番高いところに上っている3人の作業者が見える.点検か保守作業でしょうか.
北大橋は沿海道路である長さ230mの吊橋で,1979年結んだ北九州市との友好都市5周年を記念して建設されたそうである.でも友好都市5周年がどのように橋建設と結びつくのか....解らない.
ということでググってみたら,『北』九州市+『大』連+橋,とのことだ.なるほど.普通中国では日中ではなく中日のように,中国側が頭になるが,ここはそうなってないのも珍しい.
それはそれとして私達は北大橋を渡る.橋から海岸線を見下ろすとなかなかいい眺めだ.海岸の崖は急峻であるがその間際まで樹木が豊かに茂っているのが印象的だ.
ここは中山広場で見たような結婚準備写真スポットの一つで,またリゾート地で,その関連施設も整っているということだ.
北大橋を渡り切ると,釣り人が深い海面まで釣り糸を垂れていた.しばらく見ていたが,その時間内ではあまり釣れないようであった.素人目にはちょっと海面まで距離がありすぎて,餌を取られ,新しいのを付けるのが大変なように見えるのだが....大きなお世話か.
北大橋の後,老虎灘を訪れた.広場の一画に大きな虎6頭の彫像がある.そしてその背後が凶暴な虎をやっつけた石槽という青年の名を冠した石槽山ということだ.ガイドSさんはしきりに虎より山がポイントですよ~と強調していた.
さてここは灘と付くから,海岸に接している筈だが広場からは見えない.ただ石槽山背後は急峻な崖で,海に落ちているらしく,近づけば見えるのであろう.
さて巨大な虎像に近づいてみた.中国を代表する彫刻家韓美林氏の作品で,群虎彫塑と呼ばれるそうだ.6頭の虎は35mもあるそうだが,素地はコンクリートか,それとも石か?
伝説によると,昔,近くの漁村に黒色の凶暴な虎がやってきて,村人大半がやられてしまった.青年石槽が何とかしなくてはと思いながら海辺に来ると,若い女性の助けを求める叫び声が聞こえた.石槽は急ぎ弓を放ち,黒虎は倒れた.助かった女性は石槽に感謝し,東海龍宮の龍女だと述べた.またこの虎は今一時的に倒れているが,南海龍宮の鎮妖宝剣でしか最終的に仕留めることができないという.そこでその宝剣を東海宮龍女に取ってきてもらい,黒虎にとどめを刺したという.ただ激しい戦いで,石槽も血を吐き,亡くなったそうだ.そして海岸は老虎灘,山は石槽山と名付けられたそうな.
老虎灘の山側に大きなネットが張られた『鳥語林 Bird Singing Woods』があった.テレビで見た佐渡のトキ保護センターのようなものだ.自然林の中でとても良さそうだ.
なおここら一帯は老虎灘海洋公園として5A観光地に指定され,ほかにも珊瑚館や極地海洋動物館,遊園地,海洋動物ショーなど揃っているそうだ.
これがその一つで,海辺のレジャー施設.大連市民だけでなく,海のない内陸都市の皆さんにも人気が高いそうだ.
路面電車に乗るために市街地に戻ってきた.写真の鈍いグリーンが一般的な路面電車で,数多く走っている.結構レトロなデザインに見えるが,ちゃんと最新車両だと聞く.
こちらは木材内装仕上げで,レトロっぽさを前面に打ち出した車両.日本で言えば戦前の....と云った形容ができそう(ただし私自身はほんとの戦前は知りません)
お孫さんを連れた祖父母,私達観光客が,時間を遡った時代を微かながらも体験し,楽しむ.
サンフランシスコのケーブルカーが古いデザインのまま運行し,観光客がこれを楽しんでいるのと同じような感覚であろう.
レトロ路面電車は3,4駅通過したであろうか,終点に至り降りる.レトロ車両は外側もチョコレート色で,乗る前に見分けることができるようになっている.まあ,なかなか粋な運行ではなかろうか.
中国ツアーでよくあることだが,お茶屋さんに寄った.いろいろなお茶を入れてくれて,味わった.大体飲んだことがあるが,一葉茶というのは私には初めてで,とても苦い.気に入ったので,1筒買い求めた.一枚の茶葉を巻き,棒状に乾燥し,仕上げてあるが,それを1/3,1/4程度に折ったものを茶碗に入れただけで十分苦い.
お茶屋さんから大した距離ではないが,中心部に戻った.いつも思うが大連は緑豊かだ.長春のガイドKさんが,同市の緑化率は46%で中国第2位,と説明されたが,大連も相当緑化率が大きいように見える.
巴蜀人家との看板の架かるレストランに着いた.巴の意味合いを置いておけば,蜀人家,即ち四川省辺り,四川料理レストランであろう.個室なので静かにゆっくり食べることができる.
四川料理なので辛いものもあり,そうでないものも出された.美味しかった.
夕食後大連日航飯店に戻った.繋がるメールはチェックしてみなくては.
大連日航飯店ロビーに大連池坊同好会の生け花が展示されていた.難しいことは解らないが,単純にきれいだ.同会のサイトを開くと,中日友好を旨とする行事など催し,メンバーは23人で,名前からすると多くは中国の女性で,男性や日本人女性も少しいるようだ.
さて明日は旅順だ.残念ながら天気予報は雨のようだが.