この瀋陽編では,2018年5月18日瀋陽に到着,翌19日北陵公園,満州事変記念館,瀋陽故宮博物院,大帥府と巡ったときの写真を載せました.
瀋陽市街はこのように道路が走っている.
長春駅を16:00発車した高鉄D22号瀋陽行きは,畑や田の中を走る.
ただしハルビン,長春間と比べて平坦度はいくらか低く,低い丘も通過する.そうした場所には発電風車が多く設置されている.風車はウイグルでは圧倒的に多い.それに比べるとこの辺りも規模は大きくないがそれなりに稼働しているようだ.やはり広大な国土が強みだな~
1時間半ほどして建物の多い街に入ってきた.経過時間からして瀋陽のようである.
瀋陽氏は遼寧省の省都で,人口825万人(うち625万人は都市部)で,東北地方の経済,文化,交通および商業の中心であるそうだ.瀋陽の地位が確立されたのは1625年清国太祖ヌルハチが都に定めてからで,後に北京に遷都はしたが一定の役割を担い続けたようである.
なお遼寧省ガイドSさんはここにお住まいで,また大学も同じ省の大連だったので,とにかく遼寧省のことは任せてくださいという.お願いたします.
定刻に瀋陽北駅に到着し,ここで降りる.ここも乗降客はかなりあり,あまり空席無く運行されているようだ.
瀋陽駅舎を出るととても大きな広場があり,地下鉄駅入り口など設けられている.そして道路先,左斜向いには私達の今夜と明日泊まる瀋陽珀麗酒店が見えている.
今日の瀋陽の文字は沈阳であるが,阳は単純に陽の簡体字だが,瀋と沈は意味は別だが発音が同じshen(またはそれに似ている)なので代用されたようだ.全体ではshenyangのようになるようだ.
ただ個人的には陽が沈むように感じられるな....
なお(偽)満州国時代は奉天市の名で,同国崩壊後瀋陽市に戻ったそうだ.
一旦瀋陽珀麗酒店に立ち寄り,荷物を預け,バスでレストランにやってきた.瀋陽料理ということだ.
ここはSさんの地元で,家族でもよく食事するいいお店ですよ,ということだ.期待しよう.
それと,写真で,行き止まり壁右側のモニターであるが,調理場の様子がそのまま映し出されている.衛生管理状況など客に知らしめ,安全性などアピールしているようだ.調理場の片隅で賄い食を大急ぎで食べているコックさんもそのまま映し出され,信用できそうだ.
殆ど食べ尽くされ残り物だが,これが瀋陽料理.でも中華料理のカテゴリであるし,突拍子のないものは全くない.元々餃子は東北地方でよく食される料理だそうだが,いろいろなタイプがあり,美味しかった.
夕食でお腹いっぱいになり瀋陽珀麗酒店に戻った.部屋は広く設備も十分だ.
ホテルは中国語で酒店,飯店,賓館などあるが,Sさんによると賓館は公営ホテルが多いらしい.ところで普通の酒屋さん(酒の小売店)は何というのでしょう?酒店とは言わないようなのですが....
窓から瀋陽の街を眺めると,車の交通量は少なくなり,夜は更けていく様子だった.
ところで長春では一日500台づつ車両登録が増加していると聞いてきたが,ここ瀋陽ではさらに多く,一日600台増加しているそうだ.そりゃやはり,国内メーカーは当然,日独仏英米韓....諸外国の車メーカーも気合を入れて商売したくなりますね.
瀋陽珀麗酒店で5/19朝が明けた.窓から瀋陽駅方面を眺めると今日もいい天気だ,うれしい.こうして改めて瀋陽北駅前広場を眺めると,まあ随分広々して素晴らしい.
ところで瀋陽北駅は東北地方最大の駅で,一日230本の列車が出入りするそうだ.
瀋陽珀麗酒店のバフェレストランに降り,朝食を頂いた.中華風から洋風各種メニューが揃い,美味しかった.一般に大きなホテルの朝食は間違いなく美味しい.
朝食後バスで北陵公園に行った.北陵とは瀋陽北部にある後金の二代目,清朝初代皇帝ホンタイジと孝文端皇后の陵墓で,昭陵とも呼ばれるそうだ.なお後金国を建国したホンタイジの父ヌルハチ(後金の初代皇帝)の墓は福陵と呼ばれ,同じ瀋陽市だが郊外にあるということだ.
北陵の正式名昭陵の漢字と満州文字が併記された額が架かっていた.
満州文字は見慣れないが,門の造形や色使いは伝統的中国文化そのままのように素人目には見える.多分満州族(女真族)の人々が漢族の文化はできるだけ壊さずに活かそうとしていた証ではなかろうかと思ったりした.
さて北陵公園に入るとかなり広々している.世界遺産清昭陵の看板も架かっている.私達は楽して電気カートで園内奥まで進むことにした.そして少し進むと稜の主ホンタイジの銅像があった.
北陵公園にはこんな大きな池も備えており,ボートを楽しむ人の姿も見える.
年配女性のダンスグループが定時にダンスを楽しんでいるのだそうだ.こうしたグループダンスは中国各地で盛んで,ガイドSさんのお母さんも連日出掛けているそうだ.
中国では男女とも60歳から年金支給され,暇とお金にゆとりがあるのだそうだ.ただし男性は概してこうした集団行動は下手で,女性のように外での行動は控え目らしい.
しかしこの男性のようにモップ(のような水筆)で通りに書を書く人もいる.驚いた.この方はモップのような先に布の着いた棒を,バケツの水に浸すと,それを路面に下ろし,漢字,多分漢詩をスイスイと記し始めた.
ちょうどこのときケータイの受信音がして,左手でケータイを持ち,右手一本で水筆を運んでいたが,その書は見事で,とにかく驚くばかりだ.投げ銭を期待する大道芸ではなく,ダンスと同じように趣味でやっているのだと思われる.
現在市民一般が普通に入る上記池の先に大きな門がある.石牌坊と呼ばれるらしく,この先から昭陵が始まるようである.
段違いの堂々とした門は大層立派である.龍のレリーフ前ではレンタル満州衣装に身を包んだ女性が記念撮影していた.
石牌坊の先の神道両脇には,順次獅子像(左右で雌雄別),カイチ(伝説の動物),麒麟,立馬(皇帝ホンタイジの愛した白馬),駱駝,立象といった石像が並んでいる.
ここが本来の昭陵始まりなのであろうか,3つのアーチ型入り口が設けられている.そしてその両側には皇帝の象徴龍のレリーフが嵌め込まれている.
石像群を過ぎると今度は大碑楼が待っている.三層屋根のどっしりした構造で,高温焼成のレンガやレリーフが美しい.
大碑楼に入ると石製であろうか大亀が鎮座している.亀の甲羅上には写真では切れてしまったがホンタイジの功績が記してあるという巨大な石柱が載せられている.黄色いクロスやターコイズの壺類は皇帝の象徴であろう.
この近く屋外の敷石には所々金色に光る部分がある.当初金箔で覆われていたのだが,長年その上を歩くので削り取られたようだ.
大碑楼の背後に幾つもの建物があるが,これはその中でも主要な隆恩殿の内部,ホンタイジの玉座が据えられた,いわば祭壇ではなかろうか.
隆恩殿の先にはさらに大明楼(写真右多層屋根の建物)があり,その下の回廊を抜けるとアーチ状にカールした焼成レンガ擁壁で囲まれ,半球形盛土のお墓『宝城』およびその内部に玄室が在るとされる.これでようやくホンタイジのお墓にたどり着いたようだ.
なお擁壁がアーチ状になっているのは土木工学的に観れば,土圧を圧縮荷重として受けるようにするためであろう,多分.
アーチ状擁壁の中程に赤い入り口扉のようなものが見えるが,これは別に玄室の入り口というわけではないそうだ.稜建設に関わった人たちは,機密保持のために工事完了後全員殺害されたそうである.工事関係者は,工事が終われば殺されることを,歴史などから予め知っていたそうで,気の毒なことこの上ない.
バスで満州事変記念館にやってきた.入り口には9.18,午後10時頃,つまり満州事変の発端日本軍の柳条湖爆破事件を発端とする......人民の奪還抗争云々(中国語なので推定)と記した巨大な石のモニュメントが置かれている.
とても大きな満州事変記念館の入り口だ.見学者は相当多く,どんどん吸い込まれていく.
入り口から入ると,最初に日本語で『1931年9月18日中国人民が国辱という言葉を永遠に記憶し,血涙をもって胸に刻み込んだ日である.日本の侵略者が凶暴な意図を持って.......中華人民はこの日を未来永劫忘れ得ぬ日として記憶することを誓う』と記されている.
9.18満州事変以前の1928年,ここ奉天(瀋陽)郊外皇姑屯の満鉄線が爆破事件で,ここでは『皇姑屯事件』と記されている.当時南京政府と統合的に日本に対抗した最大軍閥指導者張作霖将軍が暗殺された.
当時真相は明らかではなかったが,日本の敗戦後,東京裁判で関東軍の仕業であったとされるに至ったそうだ
張作霖は元々馬賊の一頭目であったが,満州駐在関東軍に接近し,勢力を伸ばし,1911辛亥革命後は満州を抑えるに至り,一時北京にまで攻め上ったそうだ.そして蒋介石が復帰した国民党と手を組み,北京の南軍(国民革命軍)を攻めるが,形勢不利になり満州に逃れた.
一方日露戦争以降満州の権益を確保していた日本(関東軍)は,張作霖に権益を侵され,またこれを追う国民党,革命軍の戦場となることの恐れから暗殺を企てたのではないかとの説もあるようだ.
この記念館の名にもなっている9.18満州事変の展示だ.上記張作霖爆殺事件から3年後の1931年,毛沢東率いる共産党,蔣介石率いる国民党,軍閥(張作霖の息子張学良など)との三つ巴の内戦は続いていた.
一方関東軍は満州をより強力に支配する狙いを持っており,その手掛かりを探っていた.そして1931年9月18日この柳条湖で爆破事件を起こし,これを国民党に属する(手を組んでいいる)張学良軍の犯行であるとし,これを口実に開戦したということになりそうだ.なおこのとき日本政府は本来不拡大を旨として反対したが,関東軍は参謀石原莞爾らの意見に押し切られた結果になったようだ.
やがて関東軍は清国最後の皇帝愛新覚羅溥儀を皇帝に立て,満州帝国を成立させる.写真中央がその玉座に座る溥儀皇帝で,回りは組閣された初代内閣である.
ただ張作霖爆殺事件や9.18満州事変に関わる関東軍の動きは世界から非難を浴び,満州帝国は承認されず,日本は国際連盟を脱退し,孤立の道を進むことになる.
記念館終盤になると,抗日戦の場面が多くなる.特に中国共産党軍の多大な働きと成果が多く展示されてくる.
終わりに,過去100年間で,前半50年は日本軍国主義が絶えず中国を侵略,後半50年友好関係を発展させてきた(福田赳夫氏と胡耀邦主席の握手,江沢民主席の天皇陛下訪問など友好関係写真展示あり)
ただ,右翼勢力が猛威を奮ってきており,歴史歪曲,靖国参拝....などで,警戒を緩めることはできない.またこうした警戒は中日両国民の責務である,と締めくくっている.
記念館出口の壁には江沢民元主席の『勿忘九・一八』の言が大きく記されている.この記念館は重い内容の展示館であるに拘わらず,随分多くの見学者が訪れている.忘れるなと言われないまでも忘れないであろう.日本人としては辛いが.....
満州事変記念館を見て,次の瀋陽故宮博物院に行く前に,ランチで坊之膳レストランに寄った.もちろん中華料理でなかなか美味しかった.
さて瀋陽故宮博物院の前広場にやってきた.赤い塀の中が故宮博物院であろう.しかし『故宮』と聞くとどうしても北京のそれ(紫禁城)を思い浮かべるが,あの巨大な建物群と比べると,あっけないほど小規模だ.実際北京故宮の1/12の規模だそうだ.
瀋陽故宮は1625年建国された後金の初代皇帝ヌルハチと,2代目皇帝(清の初代皇帝でもある)ホンタイジの皇居で,清朝成立で北京に移った後も引き続き離宮として用いられたそうである.
広場には凧揚げする人の姿があった.さして風がないのに随分と高く揚げており,感心した.
先ずは『大清門』の額の掛かる入場口から入る.そして門の先には庭を挟んで赤い丸柱に黄色い屋根の平屋建て『崇政殿』が建てられている.切妻であるが,左右屋根の張り出しはほとんどなく(雨が心配だ),またカールの少ない直線主体のシンプルデザインだ.ただ屋根頂き両端には龍であろうか,込み入った造形で彩色の鬼瓦(のようなもの)が載せられている.
建物の軒先には崇政殿の漢字とともに満州文字で記された額が架かっている.
この前庭石畳の上では毎日御前会議が催され,諸大臣は石畳の上に座ったそうだ.雨の日も傘なしだったそうで,大変そうだ.なお皇帝はどうだったか訊いてみたら,多分玉座(下写真)に座ったままだったのでは....とのことだ.
『崇政殿』の額の下には扉があり,その先に宝座(玉座)が据えてあった.今は退色しているが往時は相当華やかであったであろう.ただリラックスできるような座り心地ではなかったでしょうね.
また天井には『正大光明』の額が架かっている.これは清朝第5代皇帝雍正帝(在位1722-1735年)が考案した『儲位密建』の法として知られるそうな.帝は後継者となる皇子の名を記した勅書を厳封し,この『正大光明額の裏に置き,自らの死後,皆の立ち会いでこれを開封し,次帝を決めると定めた.これで,皇太子の堕落や,後継者争いを防止したということだ.『正大光明』はまさに正々堂々フェアにということであろう.
写真中央の傾いた石の円盤は清国標準時を指す日時計.この傍には,容量原器のかなり大きい壺もあった.
かの秦の始皇帝が全国バラバラだった度量衡を統一し制定したり,漢字(篆書)を統一したのはよく知られる.つまり度量衡や標準時制定は統一国家の象徴で,皇帝の権威を知らしむもので,現代も変わりないであろう.最近では,北朝鮮が標準時を30分早めたが,最高権力者キム総書記鶴の一声であったであろう.
瀋陽故宮で多分最も有名(入場券に写真印刷されている)なのがこの八角形の大政殿.あいにく写真のようにシートで覆われ,工事中で中に入れず.
初代皇帝ヌルハチ(在位1616-1626年)時代に建てられ,皇帝が式典を行う場であったそうだ.
現在は有名な乾隆帝時代の陶磁器など含めて種々美術品が展示されているようだ.ただ台北の故宮博物館とはもちろん,北京の故宮博物館収容物の数とは比較にならないそうだ.
内廷(後宮)は皇帝一家の生活空間だ.太祖ヌルハチと皇后が暮らしたという清寧楼,その前広場両側に4人の妃の暮らす4つ家が配置されている.面白いことに4人の妃には順位があり,それに応じて家のサイズが異なり,また清寧楼との距離に差が設けられている.
厨房に設置された石臼だ.かなり大きいので相当体力が要りそうだ.
女真族(満州族)伝統の神に,調理した豚を捧げる祭壇だったと思う.これは女真族に比較的近いモンゴル族が現在主に仏教でありながら伝統的にシャーマニズムも引き継いでいるのと似ているのではないか.
上記豚を調理するための大鍋だ.鍋の下に炉があり,それで加熱するのだが,予熱は周囲高床の下の万字炕(こう)と称される煙管を這って,暖房(オンドル)用に供される仕組みだそうだ.冬は厳寒の地なので暖房が重要なことは確かだ.
皇帝や皇族の暮らす内廷に至る門であるそうだ.内廷のいろいろな建物に比べてバカに大きい.
この門には写真のように階段が設けられ,その先が内廷になっている.つまり内廷は一段高い場所に設けられているわけだ.女真族(満州族)の部族首長は防御に有利な高台に城を築く伝統があり,その伝統を本故宮にも採り入れたようである.
なお漢族は城の一番高い部分には政治を行うところ,この故宮の場合上述の崇政殿が相当しよう,が配置されるという.
それにしても立派な門だな~
瀋陽故宮博物院見物を終え,大帥府(張氏帥府)に向かった.同府はここ瀋陽(奉天)を中心とした満州軍閥総帥で統治者だった張作霖,息子の張学良の官邸および私邸だったところだ.
大帥府入口前広場には張学良将軍の銅像が立てられている.凛々しい姿だ.
切符を手に門をくぐると,案内図があり,小学生と思しき若い娘がマイク片手にきれいな中国語で滑らかに説明していた.私は全く理解できないのだが,それでもきれいな音声やニュースアナウンサー並の言葉にはいたく感心した.ツアメンバー14人の中で2人中国語を話す人がおられたが,やはり感心した様子だった.
少なくとも大帥府には複数建物があり,各建物には多くの部屋が含まれているらしい.....
庭に馬車が置かれていた.張家子息専用の通学馬車と説明書きがあった.やはり満州軍閥総帥のご子息となるとすごいですね~
これは二進院と呼ばれ,張作霖が1916-1922年の6年間,私邸兼官邸として使われた建物だそうだ.
入り口にはちょっと低コントラストだが『望重長城』,および鮮明な『桑梓功臣』の額が架けられている.前者は(万里の)長城をもう一度眺める,の意だそうだ.さてこれは満州のみならず長城の聳える北京など中国南方にも手を伸ばしたいという望みを述べたものであろうか?
また後者桑梓は,屋敷の垣根に桑と梓(あずさ)とを植え,養蚕や器具用として子孫に残したという詩経に由来し,転じて故郷のことで,全体では故郷の功労者ということだそうだ.さてこれは張作霖氏自身のことであろうか?
二進院内には用途別に多数の部屋があり,それぞれ張作霖氏や家族に関わる写真や調度品が展示されている.
また二進院の近くには三進院やさらに別棟があり,合わせて4人の奥さんやご子息の部屋など備えているようだ.
次に大青楼に行った.大青楼は洋風建築で,青煉瓦の構造材に因み名付けられたそうだ.上述の二進院で過ごした後,こちらに引っ越したようで,張作霖,張学良がここで政務を執り行い,また私邸として使っていたそうだ.見物してみたところ3階建てでそうした用途に十分な部屋数と広さがあるように思えた.
ここは会議室であったか,孫文の肖像画に中華民国国旗(右),国民党旗(左)が掲げられていた.
上述のように張作霖は関東軍の1928年爆殺事件で倒れ,後継者息子の張学良は国民党に従うに至るが,本拠地満州を日本に奪われ,対抗すべく当時の国民党指導者蒋介石と共同で当たるべく持ちかけるが,蒋介石は共産軍との戦い,いや国共合作に手いっぱいで,一時は同意するも,やがて逆に張作霖を捉え,軟禁し.....台湾に連行され,最終的には2001年ハワイで100歳の生涯を閉じた,ということだ.
この会議室ではそうした張作霖と国民党の会談が行われた場所だったのであろうか.
大青楼の廊下にも多くの写真が展示されている.ただ私の場合背景となる知識の持ち合わせがなく,理解できないのが寂しい.
ここが張学良の執務室だったと思う.床も壁も,天井も板張りで,机など調度品も木製だ.実に落ち着いた部屋だ.
執務室の近くに虎の剥製が2匹いる老虎庁と称される居間があるが,ここでは父張作霖の知恵袋と言われた二人を処刑した事件があったそうだ.現在その部屋は何事もなかったかのようにきれいな様子で残されていた.