旅順Lushun

この旅順編では,2018年5月22日大連日航飯店を出て旅順駅,旅順博物館,旅順ヤマトホテルを見物し,旅順料理を食べ,水師営会見所,203高地,東鶏冠山を見て,星海湾大橋を経て,大連市街に戻り天天漁港で夕食を頂き再び日航飯店に戻り休む.そして翌23日ホテルから大連周水子国際空港へ行き,成田空港へと飛んだときの写真を載せました.


旅順付近のGoogleマップ

中国東北の旅順は,行政的には大連7の一部で,マーカー8の辺りに位置している.

旅順駅Lushun Station

旅順に向け出発

旅順に向け出発

大連日航飯店で5/22(火)朝が明けた.天気予報通り雨になったのは残念だ.ホテルレストランで美味しい朝食を頂き,そしてバスで旅順に向かった.

旅順は現在行政的には大連市の一部に含まれている.上マップのように遼東半島の最西部にあり,同マップで西港と記される天然の良港があり,何よりも日露戦争の攻防戦舞台となったところだ.


旅順方面と大連市街を結ぶ鉄道

旅順方面と大連市街を結ぶ鉄道

大連を出てしばらく走ると,高架鉄道と並行して走る区間になった.そしてさらに進むと鉄道は地上を走るようになり,写真のような電車が運行していた.

旅順と大連は双方役所や企業,大学等が多く,通勤,通学に公共交通機関の需要が大きいそうである.


黄海に面した漁港

黄海に面した漁港

バスは短い区間黄海に沿って走った.そしてこの辺りの港には比較的小型の船舶が多く停泊している.漁港であろう.


トンネルを抜ける

トンネルを抜ける

旅順エリアも山がち,いや遼東半島の少なくとも大連以南は山がちな地形のようだ.そしてショートカットするためこのようなトンネルが掘られるのであろう.


旅順駅に到着

旅順駅に到着

そして旅順駅に到着した,と言っても列車で着いたのではないが.

さて旅順駅の歴史であるが,ロシアの租借地であったこの地方で,1898年から鉄道敷設を開始.当旅順駅を含め順次建設が進み,1903年から営業運転開始.だがその後1904年日露戦争で休止し,日露戦争の日本勝利で軌道を広軌から狭軌に変更,さらに満鉄に移管し,1907年標準軌に再変更し,営業.

1945年日本の敗戦で,ソ連が当旅順駅接収,中ソ共同で運営開始.1952年中国政府に移管.後に歴史的価値ある建造物として大連市文化財保護単位となり,2005年分解修復される.

ということで,今見ているロシア風デザイン駅舎は一番初め1900年頃,いやそれとも1945年日本敗戦後にソ連が建設したもの,の復元であろうか.ちょっとはっきりしない.

なおここを通る路線の営業運転は2014年に終了しており,今は線路も錆びつつあるようだ.JRのローカル線と同じような感じかな~


旅順博物館Lushun Museum

旅順博物館

旅順博物館

旅順駅の次は旅順博物館に行った.1915年に物産陳列所として開館し,1945年日本敗戦でソ連に接収され旅順東方文化博物館となり,1952年旅順歴史文化博物館に改称され,文化大革命中一時閉鎖される,その後再開され,現在の姿があるそうだ.

旅順博物館の名からすると地方都市に特産物展示館のようなものか....と思ったら大違い.入ってみると中国4000年の歴史的品々や,仏像,大谷探検隊がウイグルから運んだミイラなどが収めてあり,多いに鑑賞させてもらった.


西周(1046ー771BC)時代の青銅食物容器

西周(1046ー771BC)時代の青銅食物容器

非常に多くの青銅器,例えば鼎,器,鏃,楽器....など数多く展示されている.その中の一つにこのような青銅食物容器が展示されていた.ありがたいことにfood vesselの訳注が付いている.

外側周上に描かれた凹凸レリーフは金文の飾り文字でしょうか.多分そうだと思うが....

内側には彫って記された金文の拓本と,その楷書体(のゴシック)で説明されている.ただこれも中国語で私には難しい,製作者の名前に,容器,その用途とかかな~?


三色彩色ラクダとラクダ騎兵

三色彩色ラクダとラクダ騎兵

唐代(AD618ー907)の三色彩色陶器ラクダとラクダ騎兵(Tri-colored pottery camel and cameleer)と記されている.

中国語で解説されているが読めないのが残念.ただペルシャなど西アジアとの交流を物語るものではなかろうか.


金代の黒い花模様が描かれた白地の花瓶

金代の黒い花模様が描かれた白地の花瓶

金代(AD1115ー1234)の黒い花模様が描かれた白地の花瓶だそうだ.

上2つと違って,これはこの辺りを本拠地とする女真族の打ち立てた金朝のものであるところが興味深い.金は北宋を滅ぼし,中国に拡大したが,やがて南宋と対峙し,そしてモンゴル帝国(元)に滅ぼされたそうだ.

なお後の世,同じ女真族ヌルハチが出現し,後金を建国,そして清を築いた歴史は瀋陽故宮博物院や,北陵(昭陵)で少しばかり見てきたところだ.


中国古代仏教造像展の四天王

中国古代仏教造像展の四天王

中国古代仏教造像展と称する展示会場には幾つもの仏像が並んでいた.

この写真はその形相からしてよく守護神として祀られる四天王ではなかろうか.なかなかの迫力だ.


清代(AD1644ー1911)の金メッキ金剛像

清代(AD1644ー1911)の金メッキ金剛像

ちょっと写りが不鮮明だが,清代(AD1644ー1911)の金メッキ何とか金剛像と記されている.チベット仏教の歓喜天であろう.足元では二体の邪気が踏みつけられている.

なお上述ウイグルのミイラなど一部撮影禁止である.


旅順ヤマトホテルLushun Yamato Hotel

旅順ヤマトホテル

旅順ヤマトホテル

一応旅順ヤマトホテル跡も訪れた.招待所の看板が架かっているのでホテルとして営業していたのであろうが,半ば壊れたのか現在は使用されず,周囲が立入禁止シートで覆われている.

この外見からすると,大連ヤマトホテルのように豪華ではなかったようだ.


旅順料理Lushun Cuisine

旅順料理レストラン

旅順料理レストラン

旅順料理レストランに入った.漁港を備え,新鮮な魚介類が手に入るので,店頭にそうした素材が並べてある.私達の場合,手回し良く,予めガイドSさんが指定し選ばれている筈だ.


旅順料理

旅順料理

ということで,料理は直ぐに出してくれた.ただ魚料理は少な目で,一昨夜大地食府レストランで頂いたことのある春餅(写真左)を出してくれた.今度はこぼさないで巻けるかな~


水師営会見所Shuishiying

水師営会見所

水師営会見所

レストラン近くの水師営会見所に行った.水師営(すいしえい)とは,元は清朝水軍駐屯地の意味らしいが,ここでは地名と解釈して構わないようだ.

そして水師営会見所は,日露戦争中の1905年1月5日,日本代表乃木希典大将と,ロシア代表アナトーリイステッセリ中将が会見し,旅順軍港攻防戦の停戦条約が締結された,ということだ.


水師営会見所の建物

水師営会見所の建物

これが水師営会見所の建物で,元々農家で,復元したものらしい.質素な造りだ.


水師営会見所の展示写真と学芸員

水師営会見所の展示写真と学芸員

水師営会見所の壁には,日露戦争の様子や,旅順軍港の写真が展示され,学芸員の女性が日本語で説明してくれた.ただ日本人には厳しい写真もあるのだが,それらは好意的に説明をすっ飛ばしてくれた.


1905年1月5日水師営会見所合同写真

1905年1月5日水師営会見所合同写真

先ず左上に,日露戦争で我が国旅順の民は多大な被害を被った.即ち肥沃な耕作地が破壊され,数知れぬ農家が吹っ飛ばされ,多くのホームレスを生じた,と記している.

左上写真が1905年1月5日水師営会見所合同写真で,中央左が乃木将軍,その右隣がアナトーリイステッセリ中将ということだ.日露戦争は1904年8月19日から始まり,1905年1月1日ここ旅順港陥落で終結なので,その4日後の会見ということになる.

乃木希典将軍は陸軍大将で,ここ旅順攻囲戦の指揮を執り,後に明治天皇の後を慕って殉死,東京では乃木神社や乃木坂46,いや単に乃木坂に名前を残し,少なくとも老いも若きも日本人には著しく有名.

アナトーリイステッセリはロシア帝国陸軍中将で,日露戦争においてはここ旅順要塞司令官,ロシア関東軍司令官で,乃木将軍軍と戦った.ところで後の逸話として,旅順の要塞(後で訪れる)でヴェーラ夫人の弾いたピアノがステッセル中将から乃木将軍に贈呈され,乃木将軍は配下で最大犠牲者を出した金沢第九師団に譲り与えたということがあったそうだ.

左下写真は水師営会見所に入るロシア軍代表,右下写真はロシア軍の日本軍に対する攻撃シーンのように見える.


水師営会見所の肖像写真

水師営会見所の肖像写真

別の部屋には愛新覚羅溥儀と婉容,川島芳子など一部を除き,私には殆どわからない.

この部屋では満鉄縁の遺品など販売していた.中国にとっては屈辱の品々だが,日本人には純粋に骨董的価値がある筈.....ということで売り込んでいた.

なおそうした満鉄や関東軍縁の品物や,写真,書籍は水師営会見所先の専用ショップでも販売されていた.


203高地203 Hill

203高地案内図

203高地案内図

水師営会見所を後に,バスで203高地入り口駐車場に来た.写真で下側中央だ.さて203高地は標高203mであることから名付けられた高台で,その下にある旅順港を巡る日露争奪戦の激戦地となったところだ.

現在写真で下側中央だ.ここから当初ハイキング予定だったが,雨のため電動カートで白い太い道を右端上のPまで行くことになった.そして帰りも下りカートを使う.

そして,右上Pからは,左上に進む白い細い下側の道を歩き,塔の絵の『日露戦争遺跡』に行くことになった.

さて203高地に関わる要点を整理しておきたい.日露戦争における旅順攻囲戦は上述のように1904年8月19日ー1905年1月1日であるが,当初旅順は要塞や港を含めロシア軍が立て籠もり,陸軍児玉源太郎参謀総長らは要塞攻略を,また海軍は旅順艦隊の無力化を最重要としていたそうだ.ということで現地の乃木将軍率いる第三軍(旅順攻略部隊)は当初203高地は然程重視せず,先ずは要塞攻略の方針を維持したという.そして203高地は確かに港湾部を望む弾着観測点としては優れているが,後でバスで訪れる東鶏冠山保塁などの後方にある『望台』の方がより標高があり,港湾のみならず要塞全体も一望できるので,第三軍は総攻撃前に最終的にはこの望台を占領すべく東北方面を主攻撃目標とする旨決断した.そして児玉参謀総長ら満州軍総司令部もこれを支持したという.

しかし第三軍の二度に渡る攻撃は失敗し,また海軍はバルチック艦隊出撃の報を受け,旅順艦隊殲滅を優先すべく動き出し,海軍や大本営からは203高地攻撃要請が来るようになったという.さらに御前会議で203高地攻略が決定され,ついに第三軍は屈し,1904年11月28日203高地攻撃を開始するに至ったそうだ.

一旦始まると一進一退の激戦で,1904年12月5日203高地を陥落.そしてここに観測点を設置し,港湾への砲撃を開始した.ロシア艦艇は黄海海戦での損傷が治っておらず,要塞防衛戦の方面に搭載火砲や乗員を送り出しており,無力に近く,大きな反撃無く陥落したようだ.日本軍の手に渡るのを避けるためであろうか,多くの艦はキングストン弁(船底の水弁))を開き,自沈したようだ.またその後第三軍は東鶏冠山保塁など攻め,上述のように1905年1月1日ロシア軍は降伏した.


203高地電気カートで上る

電気カートで上る

この日は生憎の天気のためか,203高地下駐車場の観光バスも疎らで,そこから中間地点に向かう電気カートも直ぐさま手配され,直ぐに乗り込んで上に向かう.深く霧が立ち込めて視界が悪いが,晴れていれば歩くにいい道だ.


203高地目掛け緩やかな坂道を上る

緩やかな坂道を上る

カートを降り,次は203高地目掛け緩やかな坂道を上った.舗装されたいい道で,林の中を行く.何分にも雨なので冴えないが,晴れていれば快適なハイキングだ.

現在は樹木が豊かで,林の中を歩く人影は見つけにくい.しかし203高地奪還作戦の時代はほぼ禿山状態で,極めて攻撃を受けやすかったという.


203高地の忠魂碑に到着

203高地の忠魂碑に到着

しばし歩き203高地頂上に到着した.中露日3カ国語で記された標識には,203高地は日露戦争主要戦場の一つで,ロシア側5,000名余,日本側10,000名余の死傷者を出し,後に乃木将軍は砲弾の残片でこの10.3mの砲弾状慰霊碑を建て,爾霊山の3文字を揮毫した,と記され.加えて,今はこの爾霊山はすでに日本軍国主義による対外侵略の罪の証拠と恥の柱になった,とまで書かれ,甚だ残念だ.

このように本戦いでは多くの戦死者を出したが,例えば旭川の第7師団は,15,000人ほどの兵力が5日間で約3,000人にまで減じたという.上記人数よりさらに多い.ロシア側の被害も大きく,海軍から陸軍へ移された水兵までも,ここで戦死したという.また乃木将軍の次男,保典氏もここで戦死し,将軍は自作の漢詩で,203に上述の爾霊山(にれいさん/お前の霊の山の意)の当て字を当てて詠んだそうだ.なお別の戦場南山の戦いで長男勝典氏も戦死している.お気の毒だ.


203高地ロシア式150mmカノン砲

ロシア式150mmカノン砲

ロシア軍は203高地に,この150mmカノン砲2台と,76mm速射野戦砲2台を持ち,散兵塹壕,歩兵塹壕で日本軍を粘り強く阻止した,と説明書きがあった.


203高地28サンチ(cm)榴弾砲

28サンチ(cm)榴弾砲

帝国陸軍が開発し,主にここ日露戦争に実戦投入され,勝利の立役者として活躍したという.外径28cmと相当大きい砲弾だが,爆発によって弾丸の破片が広範囲に飛散する榴弾なのだそうだ.


晴れていれば203高地から見えた筈の旅順港

晴れていれば203高地から見えた筈の旅順港

雨で全く見通しが利かなかったが,晴れていれば203高地から見えた筈の旅順港の様子をガイドSさんが写真で説明してくれた.これであれば弾着観測点としての利点を読んでいたことも納得できよう.

さてこの絵で見えるように旅順港は狭い入り口で囲まれた広い湾で,いい軍港だった.一方その入口は狭いだけでなく浅かったそうだ.そこで海軍は先ずこの狭く浅い湾入り口を封鎖する旅順港閉塞作戦を立てた.古い廃船など海底に沈め,湾を閉塞するというものだ.作戦は三次に渡り実行されたが,入口手前で撃沈されるなどして,港を完全に封鎖するに至らなかったそうだ.ただ航行を幾らか妨害することはできたそうだ.

そしてそのうち世界最強とされたバルチック艦隊出撃の報が入り,これがロシア旅順艦隊と一緒になられては勝ち目がなくなりそうだ.そこで海軍から上述のように陸軍第三軍への応援依頼となった訳だ.


東鶏冠山East Jiguanshan

東鶏冠山に来る

東鶏冠山に来る

バスで東鶏冠山に来た.海抜119mの東鶏冠山には帝政ロシアが日本軍防御に建設した大きな堡塁であり,日露戦争の激戦地となった.入り口には旅順口日俄(日露)战争遺址の案内が立てられている.


東鶏冠山堡塁の外側

東鶏冠山堡塁の外側

堡塁は帝政ロシアが旅順を1898年租借した後,1900年に旅順の東側の半永久的な防御線として堡塁を中国人労働者を使役して建設したという.

1904年8月,日本軍第11師団(四国兵団)による堡塁の攻略が始り,鉄条網は突破するも近接攻撃により大損害を受けたそうだ.その後坑道を掘り,堡塁爆破を試み,また上述の28サンチ(cm)榴弾砲を放ち,さらに堡塁正面のダイナマイト爆破で,日本軍が堡塁を占領したそうだ.ただし約8,000人もの戦死者を出したということだ.

なお残されている堡塁外壁には無数の砲弾跡や爆破で崩れた跡が残されている.


東鶏冠山堡塁の内部

東鶏冠山堡塁の内部

これを見ると堡塁はかなり天井の高い構造に見えるが,元々二階建てで,二階部分の木の床が抜け落ちてしまったためだ.そして堡塁は単に長い一棟ではなく,5つの辺(棟)が連なり,5角形を形作っていたそうだ.

また堡塁の外側は堡塁床と同じ位置まで掘り下げられ,堀が形成されている.堀の断面壁は急峻で日本兵が一旦ここに落ちると上に這い登るのは困難で,そして堡塁の銃眼から銃撃される構造だ.


東鶏冠山堡塁の建設材料

堡塁の建設材料

建設材料は天然の岩に,コンクリートと石で固め,泥土で目張りされたとされるが,ガイドSさんの説ではこの写真のように,コンクリートはセメントの代わりにもち米が代用され,それで石と砂利を固めたという.たしかにご飯粒で紙を貼ることはありますね.


東鶏冠山堡塁の記念碑

東鶏冠山堡塁の記念碑

東鶏冠山堡塁の跡地には,大正5年(1916年),満州戦跡保存会建立の『東鶏冠山北堡塁』と記した記念碑があった.また下に第11師団が攻撃し占領し,この碑文は陸軍大将男爵鮫島重雄が書したなど記されている.鮫島重雄氏は第11師団長だったそうである.


東鶏冠山ロシア砲陣地

ロシア砲陣地

入り口近くに戻った.ここには大砲が数基並べられ中英日説明書きがあった.それによれば,1898年ロシアが強制的に旅順大連を租借した後,ここに重砲陣地を築き,旅順西北方向に対する火力網となった.1904年10月,日本軍の二個師団が東鶏冠山北堡塁に向かって猛烈な攻撃を行い,19日間の内,重砲と爆発によってトーチカを落とした,と述べている.


星海湾大橋Tin Tin Seafood Harbour

旅順市街地を抜ける

旅順市街地を抜ける

東鶏冠山を見た後,私達のバスはまた一旦海沿いに出て,軍港脇を通過した.軍港には中国艦船が停泊し,肉眼で見る分には何も問題ないが,写真を撮らぬように注意される.最近日本人はスパイ容疑でガンガン捕まっているし,もちろん撮りません.

そして写真の旅順市街地走り,後は東に向け走り続けた.


星海湾大橋を渡る

星海湾大橋を渡る

そしてそのうち星海湾大橋に至り,これを渡る.星海湾は黄海に面した緩やかな湾で,その岸辺は大きな星海公園で,またその内側は往来が激しく渋滞しがちだという.

ということで,この星海湾に大橋を架けることになったそうで,2015年に竣工したそうだ.橋は全長6.8km,2階建て構造で上下合わせて8車線の車道があるそうだ.

これでラッシュ時の旅順,大連間は,2,30分短縮されるという.


星海湾内は雲海

星海湾内は雲海

星海湾大橋から内陸を眺めると,高い辺りは雲海が覆っていた.山のような感じだ.なかなかいい.


2層の星海湾大橋は2平行トンネルに入る

2層橋は2平行トンネルに入る

2層の星海湾大橋はその先上下別々の2つ平行するトンネルに入った.これで正面衝突とかは完全に避けられるでしょう.


天天漁港で夕食go to Dalian Zhoushuizi International Airport

大連市街地に戻る

大連市街地に戻る

大連市街地に戻ってきた.雨は殆ど上がったようだ.ここは確か緑山の麓辺りだったと思うが,道端の花がよく手入れされている.


天天漁港レストランに入る

天天漁港レストランに入る

さて最後の夕食ということでSさん肝入りの天天漁港に連れてきてもらった.部屋は個室で静かでゆっくりできる.


天天漁港の食材見本

食材見本

レストランの一画には魚や水槽が並べてあった.いろいろ美味しそうだな~

左下はヒラメの頭のようであるが,多分胴体部分は私達のお刺身用に切り取られたのだと,後で思った.


天天漁港ヒラメの刺し身

ヒラメの刺し身

まさかヒラメの刺し身を中国で食べることができるなんて....感激だ.中国でこうしたお刺身を食べるのはこの地方に限定されるということであるが.そう言えば,ハルビンの金谷大厦ホテル朝食でマグロ刺身はあったな~

もちろん,他の一般的大連料理(中華料理)も含めて,大変美味しく頂きました.

夕食の後,バスで大連日航飯店に行き,3晩目の夜を過ごした.


大連周水子国際空港へfly to Narita

翌日大連周水子国際空港へ

翌日大連周水子国際空港へ

大連日航飯店で5/23(水)が明け,バスで大連周水子国際空港へ向かった.今日は晴れてる.

郊外は通勤通学の時間帯に入ったのか,結構交通量がある.


大連周水子国際空港に到着

大連周水子国際空港に到着

バスは大連周水子国際空港に到着した.ガイドSさん,バスドライバーさん長いことありがとうございました.


大連周水子国際空港成田行きゲートで待つ

成田行きゲートで待つ

中国南方航空でCZ629便のチェックインし,成田行きゲートで待つ.


成田へfly to Narita

中国南方航空CZ629便機材はA321

中国南方航空CZ629便機材はA321

CZ629便機材はA321だった.成田ーハルビン間と同じナローボディ機だ.


聴診器のようなイヤホン

聴診器のようなイヤホン

これは最高に驚いた.な,何と,その昔あった例の聴診器のようなイヤホンなのだ.これは振動ダイヤフラムが肘掛け差込口の辺りにある筈で,パイプで疎密波を耳に伝搬するのだ.使い心地が非常に悪く,未だに存在することにとにかくびっくりした.この飛行機大丈夫かな?


CZ629便の食事

CZ629便の食事

CZ629便は一般的な食事を出してくれた.ビールも出してくれた.ごちそうさまでした.


定刻に成田に到着

定刻に成田に到着

CZ629便は定刻に成田に到着した.成田のタキシングはとても長い.しかしパスポートコントロールはあっという間に終わり,早い.

コンベアで荷物を待ち,皆さんの荷物はどんどん出てきて,お礼を言いながらお別れする.ただなぜか私のものだけは出てこない.一緒にチェックインしたのに....でもそのうちやっと出てきた.良かった.

Hさん,皆さんありがとうございました.おしまい.



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