このリーロンへ編では成都を出発し,石綿を経て折多山峠を越え,新都橋で一泊.翌日丹巴経由でリーロンに到着したときの写真を載せました.
四川賓館は都心近くにあるが結構静かなところだ.それでもお向かいはなかなか重厚な造りの銀行があったりする.台湾は銀行が著しく多いと感じるが,ここ中国も銀行が多いのかも知れない.それでも足りないと見えて,最近日本の新聞でも非正規バンク,影の銀行とかを通じた膨大な投機マネーの話題がよく載っているが.
通りの先には大きなビルが建設中だ.成都市の総人口は1400万人,区部が760万人くらいというから実に大規模だ.高層住宅は主に,幾つか同心状に展開される環状線の外側へそとがわへと新たに建設されているようだ.しかし都心部でも高級住宅や,商用ビルはなおもどんどん建設されているようだ.新しい高架高速道路も随所に見掛ける.
ところで高架高速道路と言えば,それらの橋脚など含めて街の中に落書きが少ない.ヨーロッパは特に多いが,日本を含めてアジアの国でも相当多いが成都では目立たないように感じる.以前成都イトーヨーカドー店は反日暴動で破壊されたことがあったが,落書きは少ない.やはり反日運動は別扱いかな....
ホテルで朝食をとり,バスに乗った.バスは一人2シート占めてちょうどいっぱいくらいの小型車だった.予め配られていた予定表では,臥龍からぶん川を通る北回りルートが予定されていたが,前述のようにこのルート(リーロンまで一日)が決壊し,南の遠回りルートで行くことになった.途中一泊を要し,2日間かかるそうだ.バスドライバはCさん,Bさん二人が交代で頑張るそうだ.
バスは先ず南に向かう雨の高速道路に入っていった.この高速は雅安市を通り,石綿(雅安市石綿県)まで続いているそうだ.どうやらその辺りまでは盆地状成都平原か少し高いくらいの標高に位置し,その先は山岳部に入っていくようだ.
下は,成都を出発したときの写真
さて高速道路SAで2度の休憩の後,石綿で降りた.かなり山の中に入ってきた雰囲気が感じられる.高速を降りる少し前から所々で現れ始めたのだが,土色の大きな流れが目に入ってきた.大渡河(Dadu River)と呼ばれるそうで,岷江の支流,長江水系に属するそうである.石綿から暫く先,翌日通過予定の丹巴(Rongbrag)辺りまではこの河の流れに沿う(と言っても離れていて見えないところもあるが)道を行くそうである.流れは普段から濁っていそうだが,今回の豪雨で一層その度合を深めているようだ.
石綿の終端からはいかにも田舎道風の通りを暫く進んだ.ちょうどお昼ご飯の頃合いで,道端のこのレストランに入った.歓迎光臨老子号と書かれているように見えるから老子号が店名かな?
とりあえず席に座る.昨夜遅い成都到着,今朝の早い出発で忙しかった中でようやく時間ができたということで,皆で簡単な自己紹介をしながらお茶を頂いた.今回は埼玉の人たちが多かったが,北は秋田,南は福岡までの方が居られた.
暫くすると,日本人10人ほどの他グループも到着した.A社さんのツアーで,やはりスークーニャン山(四姑娘山)ハイクに向かうそうだ.この辺りは災害で道路が壊れていなければ,観光客,特に外国人観光客が通過することはあまりないそうで,こうしたレストランも,普段観光客はあまりないという.
急な団体客で大忙しだ.横の小屋(上写真で,左のブルーの小屋)のキッチンでは家族総出で調理に取り掛かってくれた.看板には『大渡河野生魚』『大蒜鯰魚』などと書かれているので,ナマズでも出してくれるのかと期待したが,それらは予約した場合に限られるそうだ.予約があれば,朝魚市場で仕入れておくのであろう.で,出された料理はごく質素な四川野菜料理といった雰囲気のもので,たった1つの器でご飯も,おかずも,スープも...ごっちゃ混ぜで食するという中華様式で頂いた.
レストランの反対側には幾つかの露店が並んでいた.どれも果物屋さんのようである.ガイドSさんと添乗Nさんが桃を仕入れ,バス内で皆にデザートとして振舞ってくれた.桃にしては随分固く杏のような...?でもそれなりに果実の香りが楽しめた.
ところで石綿県(県は日本の市相当)は文字通り,石綿を産するアスベスト鉱山がある(あった)のであるが,肺がんや中皮腫の発がん性があるということで,他国同様現在は採掘されなくなったそうだ.
下は,石綿まで行くときの写真
石綿でランチの後,私たちは折多山峠を目指して進んだ.途中大渡河には既に幾つかの水力発電所が設けられているようだが,さらに新しいダムの工事も進んでいる.写真はダムで水没する谷沿いの道の上方を通る橋と道の建設風景で,高い橋脚と,これに載るT字型橋梁が谷の両側から進められている.迫力だ.
こんな山道で,しかも工事があれば渋滞箇所も当然ある.その隙間のない渋滞箇所で追い越ししたり,走っている場所では,さらに先に行こうと追い越しを図るドライバは数知れない.反対車線に対向車が来ているのに,そこを突っ走る.勇敢と言うか,無謀というか,暴挙というか.....実際カーブでそんなワザを仕掛け,失敗し大破した大型トラックの残骸にも出合った.もっと普通に走った方がいいでしょう.
途中工事や渋滞区間があったが,大渡河沿いの道をどんどん進み,瀘定(Luding:標高1,310m)辺りまでやってきた.瀘定はカンゼチベット族自治州に属し,チベットの地理区分ではカム地方東部に相当するそうである.現在この地方は漢族住民が多く住まうようであるが,伝統衣装を纏うチベット系の人はもち論見掛ける.
ガイドSさんの話では,瀘定の西側60kmにはミニヤコンカ(標高7,556m)が聳えているそうだが,残念ながら直ぐ脇の山に阻まれ見ることはできない.訪れるには11月~4月くらいが晴れの確率が高く,特に2,3月は雨が殆ど降らないそうだ.相当寒いそうだが.
この辺りは四川省成都とチベットラサを結ぶ川蔵公路の一部をなしているそうだ.また古来からの茶馬古道の一部でもあるという.お茶は雲南も有名だが,四川もまた大産地という.そう言えばここ蜀の国が舞台の三国志でも劉備元徳が老いた親のためにお茶を求める件があったな~
この川蔵公路を辿り,成都からラサまで行くのがブームだそうだ.確かに夥しい数のサイクリストが坂道を登って行く.中高年より若者,女性より男性,が圧倒的に多い.自転車でなく歩くトレッカーも見かけるが,サイクリスト1,000人に対して1,2人程度で,自転車が圧倒的に多い.現在大学が夏休みなので,全国から集まるそうだ.何れにしても急坂が多く,しかも空気の薄い高所を,2,043kmという長い距離を漕ぐ姿を見ると驚く.行程の途中ではこうした若者がよく利用し,ホテルより安く済むという宿泊施設(民宿?)も見える.ただ非常にハードコースなので,中にはギブアップする人もいるそうではある.
なおこの写真を撮った場所は瓦斯溝と称するガソリンスタンドであったが,ガソリンの瓦斯ではなく,実際その昔天然ガスが出ていたため名付けられた地名だそうだ.どうかな~と思い,Sさんに確認してみた.
さて瓦斯溝を過ぎて暫く行くと,今度は康定(Kangding:標高2,500m)という比較的大きな街を通過した.この辺りもまたカンゼチベット族自治州に属し,街の名はカム(康)地方を平定(定)すると云う意味合いだそうだ.大きなチベット仏教寺院があるが,チベット族のみならず,漢族,羌族,回族,イ族など多民族が暮らすそうである.ただ街の中に見掛ける看板に,チベット文字は少なく,圧倒的に漢字が多い.
康定を越えるとさらに高度を上げていった.樹木はなくなり,草原が広がっていく.やがて緑の中にヤクの姿が見えるようになった.馬も少し混じっている.その近くにはヤクの毛で織った黒いテントが張られている.チベット族であろう.
つづら折りの道を登っていくとやがて折多山峠(Zheduo mountain pass:4,298m)に至った.チョルテンが祀られ,大量のタルチョーが結ばれている.傍らにはチベット族の人がもう牛(ヤク)肉を販売する露店を開いていた.高度が上がり,ガスっているのでTシャツでは肌寒く,そそくさとバスに戻った.
下は,折多山峠を越えるまでの写真
折多山峠からは新都橋目掛けてどんどん下った.時々青空も覗き,起伏ある草原の眺めは実に雄大だ.交通量も然程多くはないし,道も良い.
この辺りは随分立派な家が多い.カンゼチベット族の住まいだという.外側は石で,内部には木材が使われているそうだ.ガイドSさんの説明では,一階は家畜や倉庫,二階に居間や寝室,三階は仏間になっていることが多いそうだ.この辺りのチベット族は,畑作,ヤクなどの放牧,薬草採取などで高収入,それで立派な家が建つという.
ただ冬虫夏草など非常に高価な薬草は,場所によっては採り尽くされ,絶滅の恐れもあるらしい.
やがて新都橋(XinduBridge:3,450m)に到着した.今夜(7/13)はここで一泊だ.汽車酒店とあるが,これがホテル名かな...?汽車は自動車のことなので,モーテルと,一般名のような気もするが...部屋は新しく,造りは普通だと思う.
翌朝汽車酒店で目を覚まし,朝食時ホテル前を歩いてみた.直ぐ近くにチベット仏教寺院があり,とても大きなチョルテンが建てられていた.またその周りには小型のチョルテンが多数配されている.
雲が無ければこの辺りからミニヤコンカが望めるのだというが,残念ながらその方向は雲が厚く見えなかった.
下は,新都橋で一泊のときの写真
新都橋で一泊し次の7/14朝,汽車酒店で朝食の後バスで北に向けて出発した.
暫く行くと,川があり,磨崖仏が描かれ,タルチョーが掛かり,川中や川畔の無数の岩にはチベット文字,多分オンマニぺメフムであろうマニがペイントされていた.チベット文化圏の様相が一層濃くなった.
やがて街に入った.広い丹巴(Danba:1,780m)エリアの中の一つの街であろうか.通りに見える女性のヘアースタイルや装束,男の子の装束は完全にチベッタンスタイルだ.
この街の外れにはチベット仏教のゴンパ(寺)があった.背後の山肌には五色のタルチョーが無数に掲げられている.こうした夥しい数のタルチョー貼り付けは新都橋を出てから数箇所で出合った.これまでチベットや,インド,ネパールのチベット文化圏でも目にしたことがなく,ちょっと驚く.
街を抜けるとまた高原風景が広がっていた.麦などに加え,菜の花畑も所々に見えて,とても綺麗だ.いや,もしかしたら菜の花(菜種)ではなくからし菜かな....?
やがて道はまた流れに沿うようになった.土色の大渡河と違って,この川の水は実にきれいだ.数多い大渡河支流の一つであるようだ.
バスは丹巴の一つの小さな村のレストランに停まった.ここでランチだ.屋外の席には中国のツアー客の皆さんが食事を始めていた.私たちもそうであるが,一つの器にご飯も,おかずも全てぶっかけて食べている.まあ,後片付けは簡単であろう.
下は,丹巴まで行くときの写真
下は,上述の街を抜けた所で道路工事の時間区切り一方通行帯で暫く待たされた.このとき花を眺めて過ごした.
上のお花畑の地元の皆さんのピクニックで,お坊さんも一人(右端)加わっていた.
ランチの後,一路リーロンへと向かった.この辺りの家の壁にはチベット柄,例えばこの写真の場合無限大(∞)を意味するというアイコンが描かれている.他に卍とか,仏教に関わる模様が目立つ.他に屋根の四隅には白い角が設けられている.この角は羌族の家であると以前聞いたことがあったが,どうなんだろう?サブガイドCさんに訊ねてみたがイマイチはっきりとはしなかった.まあ,ここでは壁の模様とかからするとチベット仏教徒(=チベット族)であろう.尤も独自宗教の羌族の一部はチベット族と混じって生活し,仏教徒である場合もあるそうだ.
ここはリーロンの少し手前,小金であったか.高い塔が見える.住宅同様屋根の四隅に白い角がある.ちょう楼 と呼ばれ,トーチカのような防御陣地なのだそうだ.内部には兵糧が蓄えられ,専ら専守防衛用であるとか....多分今は要らないであろう.
ちょう楼の右横にはまたお寺のようなものが見える.チベット仏教のゴンパにしてはデザインが妙だし,色使いもシックで.....これは聞き漏らしたが,はて何でしょう?
夕方リーロンの日月山荘に到着した.バスから荷物を下ろし,部屋に運び入れた.山荘の名の如く山小屋とホテルの間くらいの感じか.
レセプションルームにはホテルオーナーのAさんが居られ,モニターには花の写真がスライドで映しだされていた.Aさんは花に詳しく,明日からのトレッキングにガイドの一人として同行してくれるそうだ.ホテル運営の方は大丈夫....なんでしょうね.
シャワーを浴び,ホテルのレストランに行った.ちょっと薄目(アルコール濃度)だがビールがあった.一日遅くなったが,明日から歩き始める.楽しみだ.
下は,リーロン到着までの写真