先ずカトマンドゥからルクラへ飛び,ここから歩き始め最初にゴーキョリを目指す.先ずはクムジュンまで行く.
今日は第1日目だ.台風20号が太平洋上にあり,羽田の状況が心配されたが,幸いまだいくらか洋上遠くにあり,全日空NH141便:羽田⇒関空便,ロイヤルネパール航空RA412便:関空⇒カトマンドゥともに定刻通り発着した.ロイヤルネパール航空が定刻通り飛ぶのは珍しいとも言われるのでラッキーだ.
RA412便は上海も順調に経由し,カトマンドゥにほぼ定刻の5:30PM頃到着した.契約予定のヒマラヤンシェルパアドベンチャー社(HIMALAYAN SHERPA ADVENTURE LTD:以下HSA社)のラジーブ(Rajeeb Kansakar)さんという人物がトリブヴァン国際空港でピックアップしてくれた.ダッフルバッグを後部席に載せ,早速ハイアットリージェンシーカトマンドゥに向かった.途中,彼に「トレッキングには出かけることはありますか?」と訊ねたら,「いや~私はシティボーイだから山には行かない,専らカトマンドゥで過ごしている」と宣わった.後で聞いた話だが,彼はセールスマネジャーだった.山は行かないが売り込みは上手なようである.途中,社長のプルバ(Phulba Gyaltsen Sherpa)さんを乗せ,間もなくホテルに到着した.ホテルのロビーで契約書を交わし,料金を支払う.
ここハイアットリージェンシーカトマンドゥは市の中心部から離れているが,2000年以降に建設されたホテルなので設備も新しく,カトマンドゥでは珍しくきれいな水道水が出てうれしい.今日はここでゆっくり休む.
今日は第2日目,ルクラまで飛びいよいよ歩き始める.
この日の早朝5:30AMにプルバ社長がホテルでピックアップし,カトマンドゥ空港まで送ってくれた.道すがら高山病に対するアドバイス,「ゆっくり歩くように」とアドバイスしてくれた.
ルクラ行きは数社の便がある.今回用いたのはイエティエアラインOY-111便.しかし出発はカトマンドゥとルクラ双方の気象状況をみて決めるので,一般的に言えば出発時間はいつになるか解らない.カトマンドゥ空港の国内線出発は案内表示機器がなく,案内放送も解り難い.いきなり出発になったり,混んでいるときに他社の機体を借用し,自社機にプラスして同じ便名で複数飛ばしたりする.この日は飛行可能条件が整ったのであろう,予定よりいくらか早く皆が一斉に,かなりがたがたのマイクロバスで小型機の傍まで駆けつけ,乗り込むと直ちに,数分間隔でたくさん飛び立った.OY-111便の便名で4機飛び,筆者の機は6:20AM離陸で,10分ほど定刻より早かった.
ルクラの滑走路はとても短く,坂になっており,着陸時は坂に登ることでブレーキをかけ,離陸時は下り坂で加速して飛び立つ.それでもようやく18人乗りツインオッタークラスの離着陸がやっとのようだ.荷物は15kgまでチェックインできるが,超えそうなときは手で持てばいい.今回はレンタルのシェラフなど手で持ったが,それでも1kgほどオーバした.でもこの程度は見逃してもらえたので助かった.離陸して間もなく左手の窓には地上より一層鮮明,かつ間近にヒマラヤの峰々が次々と現れてくる.これで期待は一層高まる.
35分の飛行でルクラに到着.ルクラの標高は2,800m,ここに来るのは殆どがトレッカーで,カトマンドゥから同行するガイドやポーターもいくらか乗っている.筆者の場合同行せず,ガイドのジェルジェン・シェルパ(Gyaljen Sherpa)がここルクラで出迎えてくれた.プルバ社長から預かったトレッキングスケジュール(元々筆者の作ったもの)などを彼に渡す.空港を出て少し歩いたところでポーターのラジュ・ライ(Raju Rai)と落ち合う.まだほんの子どもだけど,筆者の荷物15kgと自身の僅かな荷物を運ぶのに支障はなさそうだ.なおプロのポーターは30kg,場合によっては40~50kgくらい運ぶそうであるが.
ルクラのロッジ(Khumbu Resort Hotel)でルクラ空港の滑走路を眺めながら朝食をとった.傾斜した滑走路はあまりないと思うが,傾斜の登り方向の左端は山,下り方向の右端は谷だ.離陸時は谷に向かって滑走し,着陸時は山に向かっ着陸する.このようにして何とか短い滑走路で発着できるようにしている.
朝食はごく普通のトースト,オムレツにミルクティー.HSA社とはガイド,ポーターだけでなく全食事,宿泊込み契約なので面倒がない.ルクラから少し歩くと同HSA社プルバ社長の父親という方に道で偶然出会った.もちろん筆者が知る由もなく,ガイドのジェルジェンが教えてくれた.もう少し先でロッジを営んでいるそうだ.やがて道端のそのロッジに行きかかった.そこには奥さん(社長の母親)が居られ,お茶をご馳走になった. なおガイドのジェルジェン自身は,この近く,若干ルクラ寄りの集落に住んでいるそうである.
ルクラから歩き始めると,経典が刻まれたマニ石(mani stone)がいたるところで見られるようになる.小さなものからこのように大きなものまで多様だ.この場合はマニ石を積み上げてあるのでマニ塚(mani stone mound)の範疇であろうか.チベット仏教と深く関わっているのがエベレスト街道の特徴のひとつだ.道の真中にあることが多いが,ちゃんとその左側を通過するように注意して歩く.ここではチベット仏教の白い仏塔,チョルテン(chorten)も前方に見えた.
ここが宿泊したロッジ.パクディン,厳密にはそれより若干上のザンプテ(Zamphute)に正午頃に到着した.ここの標高は2,650mなのでルクラより150mほど下ったことになる.この辺りはトレッカーの数に比べてロッジが多いためであろう,空いていた.筆者の他に,ドイツ人でシェルパ語を話す初老の男性を含めた3人くらいのグループが宿泊していた.クムジュン村辺りを歩き廻ってきて,このときは帰りの行程で,ビールを飲んで盛り上がっていた.庭先にはマリーゴールドなど沢山の花をきれいに咲かせていた.
ここには既にお昼頃到着したので,ミックス焼きそばとツナモモ(チベット風蒸し餃子)の昼食を食べ,後で西の裏山に上ってみた.何軒かの酪農農家やその先には結構大きなゴンパ(寺)が見えた.やがて雨がぱらつきだし,引き上げた.3時頃には本格的な降りに転じた.
このロッジKong De Peak Guest Houseの看板であるが,日本語の呼び込みフレーズが加えられていた.看板中のKong DeはKwangdeとも綴るようである.ネパールでは,地図などで地名表記が一定でなく,いろいろなスペルで書かれるのが悩ましい.このロッジは電気あり,水洗トイレあり,で夜の室温は15℃だった.
下は,第2日目の写真あれこれ
この日からトレッキングスタートであるが,先ずはカトマンドゥ/ルクラ間のフライトが思いがけなく順調であったのはラッキーだった.それにしてもカトマンドゥ/ルクラ間を飛ぶ機体はいつもどれもビンテージ物に見える.新しいのもあるのかな~?ルクラからの行程は起伏もあまりなく標高差から言っても下り行程なので問題なし.途中足をひねって足首が痛いのと,風邪が回復してないのは若干気に掛かるが.....まあ順調な滑り出しだ.
上述の如く,ルクラを出て間もなく,プルバ社長のご実家に立ち寄り,お茶を頂戴した.窓から西方向,谷側の展望が開けていい眺めだ.キッチンを覗くと,壁にたくさんの鍋が掛けてあったのが印象的だった.このシェルパ族の奥さんが,お子さんは娘4人,うち3人は既婚,息子1人でそれがプルバ社長,と話してくれた.なおこのロッジでガイドのジェルジェンとポーターのラジュは自分たちの寝袋を手当てしていた.
ネパールでトレッキングすると早速マニ石と祈願旗タルチョー(dar lcog:Prayer Flags)を目にし,それが継続的に何処でも目にするようになる.ガイドのジェルジェンシェルパがタルチョーの色について教えてくれた.
をそれぞれ表しているそうである.チベット仏教ではこれらが重要な要素なのであろうが,それらの意味合いについては今後調べてみたい.
ザンプテに到着するまで雨が降らなかったのは幸いであったが,午後ザンプテの丘に登ったころには降り出し,3時頃には本格的になり,夜通し降り続いた.こう激しく降ると明日の天気に関しても気に掛かる.
今日は第3日目,ナムチェバザールに進む日だ.
昨夜に引き続き今朝もかなりの雨が降っている.オムレツ載りトーストをミルクティーでゆっくり食べる.ドイツグループに付き添うシェルパの長老風ガイドさんに天気の見通しを尋ねたら,「間もなく上がるでしょう」,と聞いて一安心.その予想通り,やがて雨が上がってきた.ロッジの名Kong De Peak Guest Houseが示すように晴れてきたら西の方角にKong De Peak=コンデリ(=クワンデ)が大きく見えてきた.8時過ぎここを出発し,上に向かう.
パクディンから少し歩き,ここはベンカール(Bengkar)辺りであったであろうか?にさしかかると滝が2,3見えてくる.名前は特に付いていない......ようだ.訪れる人が多い行楽地で,またそれなりの規模の滝なのに名は無い.細かいものまで几帳面に「xxxの滝」とか,必ず名前が付いている国から来ると,文化というか哲学というか,その違いに気付かされる.
ここら辺は緩やかな登り道で,雨も上がり,時々雲の切れ間から青空が見えてきて快適だ.ただまだ全般的に雲が多いため,この辺りで期待されるクスムカングルの展望はまだ開けない.
やがてモンジョ(2,815m)辺りに差し掛かるとシェルパ族信仰の山クーンビラが真北の方向に見えてくる.標高5,761m,この聖なる山は,何人も登ることは許されないそうである.
ところで香川県琴平町に在るという『金毘羅』様は,もともとはサンスクリット語のこの『クーンビラ(Khumbila)』のことだそうだ.へぇ~,たしかに同じ発音だ!またワニを祭るという習慣があるそうであるが,もともとは仏教に由来し,インドのガンジス川に棲息するワニを仏法の守護神としてあがめたことに由来するのだそうである.
日本での金毘羅様は元はと言えば,松尾寺という真言宗の寺の守護神であったのだそうであるが,時代の変遷に連れやがて金毘羅大権現へと変化し,航海安全の神として信仰を集めるに至ったという.さらにそのうち,神道思想を国策とした明治政府による神仏分離令が出され,仏教とは完全に切り離された今日の金刀比羅宮となった,ということである.
モンジョを過ぎ僅かな距離でジョサレに至る.ジョサレには,ここサガルマータ(Sagarmatha:エベレストのネパール名)国立公園管理事務所が置かれる.ここでパスポートを提示してトレッキング許可証を得て,いよいよ公園内に入る.さすが世界に名高いこの地ソルクンブ,いろいろな国のトレッカー,登山家がここを通過する.なおサガルマータ国立公園は1979年世界遺産に登録されており,看板もサガルマータ国立公園世界遺産局(Sagarmatha National Park Wold Heritage Site)と大書きされている.
ルクラから少しするとドゥードコシ(Dudh Koshi)と呼ばれる川に沿って歩くことになる.ドゥード(Dudh)はミルク,コシ(Koshi)は川の意だそうで,その名の如く白っぽい流れだ.上流で氷河が削った鉱物が混じっているのでこのようない色になると聞いている.
道は所々で川の左右に入れ替わる,つまりこの度にこのような吊り橋を渡ることになる.橋はゾッキョやヤク1頭分の幅なので向こうに家畜が見えるときは,連中が通り過ぎるまで手元の端で待つ.トレッキングトレイルはあくまでシェルパの生活道を借りているに過ぎないので,これがここでの掟だ.
ジョサレを過ぎしばらくドゥードコシの川原を歩き進めると間もなく急な登りにさしかかる.ハァハァしながら登り続けるとやがて右手にタムセルク(Thamserku:6,623m)とさらにその奥にカンテガ(Kantega:6,685m)が現れてくる.この2つはゴーキョまで少しづつ姿を変えながら連続的に眺めることができるエベレスト街道の代表的な山の1つだ.
登りつめるとナムチェバザール(3,450m)の街に至り,このショップ街の先にあるロッジ(Hotel Norling)に到着した.12:30PM,ちょうど昼時,チャウメン(焼きそば)にアップルパイを食べてみた.まあまあだった.
ナムチェは毎週土曜日に開かれる,チベットとの交易で長い歴史のあるバザールで知られる.その伝統のナムチェバザールが開催される場所は,トレッキング路で登りきったところから割りと近い所に位置している.敷地としてはあまり広くはない.この伝統のバザールとは別に,その直ぐ下の大広場においても市場が開かれる.こちらは衣類や日用品などがたくさん並び,大半の商品は中国製だ.チベットの商人がキャラバンを組んでネパールに入り,直接商っている露店も多いようだ.いやそちらが寧ろ多いのかも知れない.ちなみにチベット人は商魂に長けた民族として,ネパールの人々にも,また各国から来るトレッカーにも知られている.有り体に言えば,油断ならない.....とも.
下は,3日目の写真あれこれ
ナムチェへの登りではたくさん汗をかいた.ゆっくり歩いたが,さらにゆっくりな方がよかったかも知れない.着いたロッジは(Hotel Norling)水洗トイレがあり,部屋に電気が点き,南西と北東2面窓(カーテンが寸足らずとかであるも)で眺めがいい.ただ階下のキッチンの真上で相当騒がしいのが難点だった.
この宿のダイニングルームでもいろいろな人と会った.一人旅のフランス人,30歳台か?は時々咳き込む.ここエベレスト街道に来る前にはランタン谷に9日間滞在したそうだ.連日雨で,「まあ最悪!」だったそうな.それで風邪を引いてしまったようだ.「で,これからは?」と問えば,「先に進むか引き返すかは明日,あさってくらいの天気を見て決めたい」とかなり弱気になっている.しかし,さすがフランス人,メニューでの料理選びに時間をかけるのにはただ驚くしかない.「フレンチフライ(フライドポテト)はところで当フランスでは何と呼ぶのかね?」などと,無駄話しをしながらも,う~ん,う~んうなりながら,30分も費やしてようやく決まった.そしてスープが来て,スープの食後,再びう~ん,う~んとまたもやメニューを眺めている.先ほどの選択作業はスープだけのためで,メーンデッシュはこれからだったのだ!筆者の場合,こんなとこ(失礼!)の食べ物たかが知れているでしょ,四の五の言わないで.....と云う口なので今もって印象深い.
この後会う機会がなかったが,その後天気は良かったので多分元気を取り戻して上に向かったことと思う.
夕食時,いかにも日本人っぽい筆者の顔を見て,若い(20代後半くらい)日本人女性が声を掛けてくれた.その日は,「ガイドと一緒にゴーキョから戻ったところで,明日ルクラまで歩くつもり.少し雪にも遭ったがゴーキョリでは晴天に恵まれ,いい眺めだった」そうである.「この度のゴーキョコース全日程は10日間の予定だったがどうやら9日間で終わりそうだ」ということだ.ネパールは今回の旅の一部で,タイを皮切りに,バングラデシュを周ってからここネパールに来たそうだ.この後はスペインに行き,そこで東京から直行予定の母親と合流し,少しその辺を案内してから単独でモロッコに渡り,全行程4ヶ月で終わりの予定,だそうだ.友人の中には子どもを持つものをいるし,同じ勤務先に継続して努めているものもいるし,人それぞれやりたい事に向かって一所懸命やれるときに実行するのがいいと思っているそうだ.旅は好きなため暫く勤め,また暫く旅に出る,といったライフスタイルのようである.今はもの書き(ライター)稼業なのかも知れない.なかなかいいんじゃないかと思う.
そんなこんなで今日も暮れゆく.室内13℃,足首の痛みなくなる.悪寒はなくなったが頭痛はまだとれない.
今日は第4日目,かのエドモンドヒラリー卿が愛したというクンデやクムジュンを歩く日だ.
ナムチェの街から北のシャンボチェ方向に向い少し登ると,マニ車の並んだナムチェゴンパ脇を通る.マニ車は必ず上から見て時計回り(CW)に廻す決まりがあり,登るときには道がマニ車の左側であるので廻し易い.下りのときは左手がマニ車側となり,進む方向と逆さ方向になるので少々廻しにくくなる.
ここから,朝の太陽で思いっきりフレアが入る方向のナムチェの街を俯瞰すると,三方が山に囲まれ南側が谷で開放されたすり鉢状である様子が窺える.ロッジやホテルの比較的大きな建物が多い.畑や牧畜用のスペースは東北側斜面に多い.ナムチェでは今も宿泊施設への投資が盛んなようで,朝早くから大きなロッジ建設の槌音が聞こえてくる.これらは農地をつぶして建設されるので,ナムチェの人の第三次産業への依存度はますます高まることであろう.
ナムチェから登ったシャンボチェ(3,800m)で見かけた五色のマニ石.普通チベット文字が白一色で書かれている場合が多いが,この石はタルチョーと同じ色で書かれているようだ.目立つことは目立つが,マニ石はやはりモノクロの方がいい,と筆者は思うが....
ところで肝心の内容であるが,マニ石にはよく6字真言(オン,マ,二,パ,ミ,ホン:阿弥陀仏の意)が刻まれ,また各種仏教経典の文言が刻まれていることが多いという.書体は概して統一的なデザインに見える.多分マニ専用チベット語経典に特化されたフォントといってよいのではないだろうか.
左端にシャンボチェ空港滑走路が見える.向こうの山はタムセルク右斜面とクスムカングル山系の一部か?
この滑走路にヘリが離発着するのは見たことがあったが,飛行機は見たことがない.ジェルジェンに依れば,ここに飛行機を飛ばすとトレッカーがナムチェをパスしてしまうことになり,ナムチェ経済が壊滅的打撃を受る.それでナムチェ住民の猛反対で実現しない....という話もあるそうだ.ただ飛行機でここまで一気に上がる人が多くなると,高山病にかかる人がぐんと増えるのは間違いないであろう.
シャンボチェから北に歩くとクンデ(3,750m)に至る.クンデの集落の前面には数多くの家畜囲いが広がっている.大きなチョルテンも目立つ.ここは集落の境界を示す入り口の仏塔門,カンニ(kani)が置かれている.門の装飾,唐草模様が中国様式のように見えるが,ここはチベット仏教文化圏,そのためであろう.カンニの先には白い大きなチョルテンが見えている.
チョルテンに架かるタルチョーの下からカンテガとタムセルクが見える.このチョルテンは半球の土台に四角柱の顔と四角錐頂付きの本格的様式だ.顔の表情は基本的にどこも同じネパール様式だと思う.
チョルテンの歴史は釈迦が亡くなったときまで遡るという.つまり,お釈迦様の遺灰は八つに分けられ,同時に建立された八大仏塔に収められたそうである.後の世,アショーカ王の時代になり,この遺灰は一旦回収され,新たに八万四千の仏塔が全世界に建立されると共に,そこに遺灰を分骨して納めた,というのが広まりの背景であるようだ.そして当初お釈迦様の遺灰をおさめた仏塔は次第に仏教そのものを象徴するようになったそうだ.またこの辺りのチョルテンでは地元の高僧の遺灰や経典が収められているとも聞く.いずれにしても仏教そのものの象徴としてこのように広く行き渡ったようである.
クンデに来て,雲が流れたときアマダブラムを臨めるようになった.ガイドのジェルジェンは世界一この山が好みと言っている.確かに美しいし,強い個性を印象付ける山だ.
クンデを後にし,緑の屋根で統一されたクムジュン(3,750m)の村に向かう.スイスのツェルマットのように色の制限を設けてあるのがここネパールではとても珍しいことでは....高さも概ね2階建てで統一され,1階は家畜と物置,2階が生活の場とするのが基本のようである.右の雲の多いところに手前からタムセルク,カンテガ,アマダブラムが順に潜んでいる.
そのカンテガの上を覆っている雲が流れてひょっこり全容を見せるときがある.実にすばらしい姿に見とれてしまう.さてこのカンテガであるが,2つのピークから成るので日本では一般的に双耳峰と称されることがあるようだ.
2つのピークの間の鞍部もしくはコル(広辞苑5版によれば,col:フランス語,登山用語で 山稜上の窪んだ所)と呼ばれるのが普通で,さらに鞍部を越える道が「峠」ということになりそうだ.このKangtegaという山名は,北面からこの山を眺めた姿のチベット語に由来し,Kangは雪,tegaは馬の鞍という意味であるそうだ.
この山の初登頂は,1963年6月,エベレストの初登者であるエドモンドヒラリー卿率いる遠征隊によってなされたそうである.このとき頂上までのルートには,北面の急峻な雪稜を避けて,南側のヒンクー谷から回り込むルートが採られたそうである.
クムジュンに到着し,Himalayan Guest Houseというロッジに泊まることになった.部屋からクムジュンの様子が見渡せる.クンデ同様クムジュンも石積み家畜囲いがたくさん広がっている.荷物を入れるドコ(doko)は老若男女問わず吊り紐を額に掛けるのがネパールでの流儀だ.皆一様に大きな荷を負っているところを見ると,肩に掛けて背負うより力が出るのであろうか?
下は,第4日目の写真あれこれ
今朝6:30AMナムチェのロッジ(Hotel Norling)で朝食時隣合わせた男性は42歳,造船関係の仕事,イギリスはプリモスから来たそうでエベレスト街道は初めてだそうだ.以前インドのバラナシからガンガー源流の氷河地帯に行ったことがあり,そのときは高山病になり,頭痛が相当応えたそうである.バラナシは何でもあり,例えば火葬している傍で凧揚げに興じる子供が走り回っていたり.....昔はそういったことは野蛮な後進国次元の話と考えていたが,この旅以来,それに同化することはないにしても,もう1つの別の文化として世界では確実に存在するのだ,という風な考えに自分自身が変わった,またガンガー源流の旅は,次はここエベレスト街道を,と思いつかせ,今回休暇でそれが実現できた,と話していた.「インドへの旅は人を変える」と聞いたことがあったがやはり本当のようだ.「バラナシもガンガー源流も,どちらも行ったことがない」と言うと,「すばらしいからぜひ行ってみたらいい」と薦められた.こりゃ,その気になりそうだ.
今日はシャンボチェ,クンデ,クムジュンと来たのでいくらも歩いていない.室温13℃であるが寒がりの筆者にとってはレンタルの寝袋では寒い,風邪のためか?真夜中就寝後6時間くらい,午前2時頃目が覚めると息苦しい,ただこのときは日中調子がいいしまだ高山病とは気が付いていなかった.