ゴーキョリへ(2/3)Gokyo Ri

クムジュンまで上がった.ここからドゥドコシの西側に沿って登る計画だ.

第5日目:2005年10月23日(日)

今日は第5日目,クムジュンを発ちドーレに向かう.

クムジュン  Khumjung

朝のクワンデ(コンデリ)

朝のクワンデ(コンデリ)

この日の朝,クムジュン一帯の西南の空は晴れ上がりクワンデ(コンデリ)はその全貌を見せてくれた.日は徐々に高くなりクムジュンの村に行き渡る.こうして普通の家々を眺めてみると,切りつま屋根の両端から伸びた竿の先に橋渡されたタルチョー(祈願旗)や家の前の大きな縦型のタルチョーが統一的に設置されている様子がよく判る.クムジュンはこう云ったところまでルールがあるようだ.

モンラに向けて登る

モンラに向けて登る

クムジュンを発ちしばらく歩くと,ドゥードコシを右手に見つつ,北方向に巻きながら坂を登る行程に入る.先方にはアマダブラムが見えている.ところでドゥードコシはシェルパ族にとって聖なる川で,前述のように,ドゥードはミルク,コシは川の意で,乳白色の川の色からこの名前が付いたようだが,間近に見るとたしかにそんな色だ.どういった成分がこのような色にさせるのか分からないが上流から流れ来るときは既に含まれていることは間違いなさそうだ.

モンラ手前の急登

モンラ手前の急登

この辺りではプロのポーターも一休みしながら登っていく.ありがたいことにとても天気が良くいい眺めだ.この辺は登り降りが何回かあり,登った上で何が見えるようになるかな~?と思いながら歩く.ハァハァしながらもなかなか楽しみだ.

モンラ  Mong La

モンラのチョルテン

モンラのチョルテン

モンラまではきつい登りが続く.急坂を登りつめたところがモン(Mong)村のラ(La)=峠,だ.茶屋やロッジが数軒あり,大きなチョルテンがある.ここの登りは結構きついから昔から地元の人が利用した峠の茶屋として在ったのではなかろうか.またそんな人の集う場であるから,祈りや願いごとの対象として大きなチョルテンが築かれていたのではなかろうか....いずれも想像に過ぎないが.お茶を飲んだ茶屋の看板に依ればモンラの標高は3,973mのようだ.

タルチョーの合間に見えるのはタワチェ(Tawachee:6,542m)のようだ.タワチェ(だけと云う訳ではないのだが)を見るのは初めてだし特定するのは容易ではない.タワチェはこれから歩く予定のドゥードコシ,イムジャコーラ,クーンブコーラ沿いトレイルの内側にあるので,絶えず形が変わるであろう.またその奥のチョラツェも同様であろう.場所によって見る方向が変わり,それに連れ山容が著しく変わるのは,名前を聞いて,エッ,あれがxxx!とたまげることがある.変化する山に対しては,どこからの眺めが一番いいか?といった楽しみもある.例えば,この後あちこちで眺めることになるチョラツェのケースでは,マッツェルモから眺めたヒマラヤ襞の豊かなチョラツェと,ゴーキョ辺りから見た切り立ったチョラツェは秀逸で筆者の好みだ.

一方,例えばカンテガやタムセルクの場合,イムジャコーラの南に位置しているが故に,トレッキング路のどこの位置から眺めても,大雑把に言えば北面を見ている訳だ.しかして変容は少なく,あれはカンテガだ,とすぐに判る.このタイプの山はいつも安心して歩ける利点(?)があろう.

モンラの先でタワチェが大きく現れる

モンラの先でタワチェが大きく現れる

モンラを越えると北側が開け,眼前にタワチェが大きく出現する.地図を見ると近くにタボツェの記載にあるものがあるが,タボツェ=タウツェ,タボツェはタウツェの旧名という情報もあり,いろいろ混乱する.とりあえずここから眺める形はきわめて特徴的で覚え易い.つまり頂部が面取りされ,面取り部がヒマラヤ襞で包まれている,とでも描写できるくらい単純で判り易い形だからだ.

この写真の時刻はここに到達した朝9時頃であるが,右から光線が当たり襞がなかなか美しい.さらに早い時間帯なら一層良かったかも知れない.いずれにしても秀峰という言葉が当てはまると思う.


アマダブラムも全容を現す

アマダブラムも全容を現す

モンラでは北,東,南方面の山々を望むことができる.東にはアマダブラム(Ama Dablam:6,812m)がでんと座っている.この日アマダブラムには雲がなく見事に全貌を現してくれた.
イムジャコーラ右岸に聳え,アマダブラムは「母の首飾り」の意だそうである.首は豪快ながらそのようにも見えるが,ネックレスに相当するのはどこにあるのだ?と思ってしまうのだが......今となっては質問できないし,後の祭りとはこのことだ.

ある公募登山の案内を見ると以下のような主旨が述べられている.シェルパの故郷であるクーンブ谷にひときわそびえ立つこの山は,世界で最も美しい山の一つに数えられる名峰でもある.アマダブラムは1961年,英/米/ニュージーランドの混成隊によって南西稜から初登頂された.現在では何本かの登山ルートが開かれているが,どのルートから登るにしても非常に急峻で,それなりにかなりの登山技術が要求される.モンスーンの後の天候は安定するがポストモンスーン特有の厳しい寒気に加え,標高6,000mを超える希薄な空気という条件の中での登山となる.頂上からは,間近にエベレスト山群をはじめマカルー,チョーオユー等々360度の大パノラマが展開される,と述べられている.

さらに,アマダブラム南西稜から頂上に登るのは特に難しい技術はいらない.ある程度の日本国内での冬山経験と基本的な登山技術(簡単なアイスクライミング,4級程度のロッククライミング,簡単な雪壁,雪上歩行技術,懸垂下降,ユマール1個を使ってのユマーリング技術)があれば大丈夫.問題はむしろそれよりも6,000mを越える高度にある.アマダブラムは他のヒマラヤ高峰登山に比べると,標高もさほど高いものではないが,それでも高度の影響を全く受けずに登ることは不可能.高所の適応能力には個人差があり一概には言えないが,事前にネパールヒマラヤの簡単な6,000m峰か,アンデスのアコンカグアなどの山に登り,高所経験が必要,とまあこのように述べられている.まあ,筆者とは別世界の話ではあるが,すごいな~と思って主旨を転載させてもらった.ちなみに総日数は30日間,参加費用は120万円とあった.

ポルツェタンガ  Phortse Thanga

ドーレとポルツェの分岐点

ドーレとポルツェの分岐点

モンラの峠を過ぎ,しばらく急坂を下るとるとドーレとポルツェへの分かれ道に差し掛かる.今回はドーレの方向に進む.ポルツェはドゥードコシの対岸にある集落だ.案内板の上にはちゃっかり茶屋の広告が設置されている,というか茶屋が案内板を設置したのだろうか?WEL-COME....と始まっているが,歓迎のWelcomeをこのようにWelとcomeに2分割して書いてあるのが目立つ.どうやらエベレスト街道流儀であるようだ.

ポルツェタンガのロッジにて

ポルツェタンガのロッジにて

しばらく林の中を進むとポルツェタンガ(3,680m)の集落に達する.ここのバッティで昼食だ.ここでタンガ(Thanga)は「下」という意味だそうで,このケースでは「ポルツェの下の村」ということになる.たしかにここを越えた丘に出たとき,(↓下の写真参照)対岸のポルツェの集落はここよりかなり高い場所にあることが判明する.

ポルツェタンガの谷を抜ける

ポルツェタンガの谷を抜ける

モポルツェタンガを越え上に出ると対岸にいくらかの傾斜のある半島状大地に載ったポルツェの集落が良く見えてくる.この傾斜した半島は手前のドゥドコシと向こう側のイムジャコーラの合流地点の内側に形成されている.そしてイムジャコーラ谷の向こうにはカンテガとタムセルクがど~んと立ち,いい眺めだ.この先ゴーキョからカラパタールに行くときに,そのポルツェには一泊する予定だ.

ドーレ  Dole

聳えるカンテガ

山の中腹を歩く

ポルツェタンガを過ぎしばらく林を歩き高いところに出ると,以降見通しのよい道が長く続く.尾根ではないが中腹といったところか.そこをドーレまでトラバースする.振り返るとカンテガが聳える.同じようにタムセルクもカンテガの横に立ちはだかっている.この時間帯は光線の方向がよく明暗のコントラストがとてもきれいだ.


ドーレに到着し寛ぐトレッカー

ドーレに到着し寛ぐトレッカー

ドーレ(4,040m)の集落は最初に到着する写真のこの地区と,この裏の家畜囲いとその先のドゥードコシの支流を渡った対岸の少し低い地域とに分かれている.先ほどの流儀で名付ければドーレタンガと云うことになろうか.

筆者は対岸の向こうのその地域にこれから2泊滞在することとなる.ロッジの名はCho Oyu Lodge Doleだ.ただしチョオユーをロッジから直接見ることはできず,見るには裏の丘を登る必要がある.仮に直接見えたとすればCho Oyu View Lodgeとかにしたであろうな~


下は,5日目の写真あれこれ

第5日目の写真
クムジュン~ドーレの眺め
モンラに向けクムジュンを発つ 朝一番餌場まで連れ行くためにヤク(?)の群れを追う青年 面を振り向くと今歩いて来た道の上にはクワンデが朝日をいっぱいに浴び白く輝いている. 急坂はなおも続く.ジェルジェン.シェルパとラジュ.ライは何ともないが筆者のみはハァハァしながら上る 川が交差し,ドゥードコシの対岸部辺りに モンラのチョルテンから望むアマダブラム モンラのチョルテンを少し越えたところからタワチェ
ハイコントラストのタワツェ カンテガとタムセルク 再びカンテガとタムセルク ドゥードコシに沿ってなおも登ると進行方向にチョオユーがチラリと頭を覗かせるようになるが.....この写真ではちょっと判別不能. カンテガ ドーレ手前から振り返って見るカンテガ ドーレ手前から振り返って見るカンテガの東峰.ジェルジェンシェルパの話ではカンターリと呼ぶそうだ.
ドゥードコシ沿いの道も,ドーレ近くになると大きな木がなくなり,潅木になり,尾根に出る. ドーレの集落 ドーレの牧場をヤクが行く ドーレから眺めたドゥードコシ下流 'ドーレから眺めたタムセルク ドーレの丘から眺めたドーレの集落 ドーレの丘から眺めたチョオユー

第5日目のメモ

今日は快晴のクムジュンの朝でスタートした.クムジュンのロッジ(Himalayan Guest House)の部屋は南と西に窓が在り,クワンデがきれいに見えた.朝方は気温が下がり,室内で7℃.6:30AM朝食をとり,7:15AMクムジュンをスタートした.

間もなくヤク追いの青年二人に出会った.十数頭は連れていただろうか,綱を付けている訳ではないので全部が従順に揃って道に沿って歩くことにはならず,かなり苦労している.あるものは左の山側斜面に,あるものは右の谷川斜面に入っていく.掛け声と共に小枝の切れ端を振り,時に小石を投じて元の道に引き戻す.ここエベレスト街道ではあまり見かけないが,一般的に羊の場合であれば,30頭くらい引き連れていても臆病な性格が幸いして結構まとまっている.ヤクの場合図体が大きく野生の血をまだ温存しているのかなかなか大変そうだ.山道を引き連れて歩くには牧童の技が相当要りようである.

やがて少しづつ登り道に入る.振り返るとクムジュンを真下に従えたクワンデ(コンデリ)が見事に聳えるのが見える.クワンデ連峰はその中ほどの,刺のある丸い峰がパターン認識的特徴となろう.坂が急になる頃にはドゥードコシの向こうにタムセルク,カンテガ,アマダブラムが見えてくる.エベレストに関しては,今回は見えなかったものの,雲が切れていればナムチェ直前,シャンボチェ辺りで見えた筈である.それより上のこのゴーキョリルート上からは,タワチェ,チョラツェ山系に阻まれるため,どうやらゴーキョリに着くまでエベレストの見える場所は無さそうである.

息せき切って登り,モンラに着くと,谷の奥深くにドゥードコシとイムジャコーラが合流し,交わる先に数日後には訪れるであろうポルツェとパンボチェの集落が見えてくる.イムジャコーラの対岸にタンボチェ僧院も見えたように思うがちょっと記憶があいまいになってしまった.

モンラを越えるとヒマラヤ襞の美しいタワチェ(もしくはタボチェピークか?)が見えてきて大きな下り道に入る.この辺りになると総じて周囲は木立に囲まれ,林の雰囲気に変わる.どんどん進むとポルツェタンガの小さな集落に至り,ここで昼食の予定である.だがポーターのラジュがどうやら先に行き過ぎたようで,見当たらない.少し手前で,ドーレとポルツェへの分岐点があったが,ここでも再び分岐点が現れた.ガイドのジェルジェンが,はてさてどっちを探しに行こうか?と思案した末,やはりドーレ方向だろうと見当をつけ探しに行き,ラジュを引き戻してきた.11:00AM前くらいだったか?早めであるがここでジャガイモ,卵,高山病に効くといわれるガーリックスープ,お茶の昼食とした.

ポルツェタンガを11:40AM頃出て木立の中を進み振り返ると,タムセルクとカンテガが見事に立ちはだかっている.さらに歩みを進めると,やがて前方に視界が開け始めた頃,白い大きな山が見えてきた.しばし一緒に歩いていたオーストリア人夫妻が立ち止まり,「あれがチョオユー」と教えてくれた.なおも進むに連れ,道はドゥードコシの谷を離れた高いところをトラバースするようになり,眺めが格別になった.4,000m級になってきたためか植物は潅木のみとなり,視界を遮る大きな木が生えてないのも眺望を助ける一因となった.

ドゥードコシの谷を眺めて進み,やがてドーレには1:30PM到着する.ロッジ(Cho Oyu Lodge Dole)はドゥードコシの小さな支流の対岸脇にある.来た方向の見通しは良く,雲が切れるとカンテガ,タムセルクがよく見える.だが夕方に近づくに連れ視界は悪くなってくる.概して朝は雲が少なく,午後に雲が出て時間と共に多くなる傾向が窺える.これはネパール山岳領域に共通する傾向ではなかろうか.

ところで,せっかくロッジの前を小川が流れているので洗濯をした.洗濯物を放り込んで,スイッチぽんであれば何も感じないが,ここでは手がしびれるくらいの冷たさを実感した.それでも時間はまだまだたっぷりあるので進行方向に立ちはだかる丘に登ることにした.登ってみるとチョオユーが麓から大きく見え,ドゥードコシの谷,対岸の山々の様子が手にとるようにくっきり良く見えた.

ここのロッジ(Cho Oyu Lodge Dole)で,米国人グループなど結構大勢の客がダイニングルームで集う中で,異色の二人が居られた.ネパール民族楽器の演奏に併せて唄を披露していた.聞けばカトマンドゥから来たヒンドゥー教徒で,聖地ゴーキョ湖を巡礼で訪れる途中であるそうだ.この人たちは多くのポーターたちと同様,客室は取らずにダイニングルームの一角で夜を明かしていた.ところでここのロッジの手洗いは客室のある建物の庭先にあるので,夜は結構大変だ.建物に付属する場合でも要りようなヘッドランプは当然として,寒いので暗い客室内でシェラフから這い出て,厚着に着替えて用足しし,また戻って寝床に入るプロセスは結構手間取るのだ.でも天気が良くて助かった,寒いので満天の星空もチラッと見上げるくらいでそさくさと戻るのであるが,これが雨ならそんな楽しみも持てないし身支度は一層大変になろう.

寝る頃の室温7℃,寒い!ロッジに毛布の借用を頼んだらOKしてくれた.以降全てのロッジで借りることにした.どうやら風邪も治ったようだし,これで暖かく眠れる.がしかし,12時頃ようやく眠りに着いて,3時間後くらいになって息苦しくなって目が覚めた.しばらく考え,ようやく高山病と自己診断し,明け方ダイアモックス1錠を飲むことにした.しばらくして外が白み始め,快晴の朝が明けた.ダイアモックスの副作用か指先が少し痺れる.

第6日目:2005年10月24日(月)

今日は第6日目で,高度順応のため昨夜に引き続きドーレに滞在する.

ドーレ  Dole

ドーレ朝の風景

ドーレ朝の風景

ここがドーレの川に面した低い方の地区.ロッジがいくつか並び,テント泊のグループもある.食事の支度はグループについて来ているキッチンボーイがロッジのキッチンを借りて料理しているようである.さらに食事の場所としてロッジのダイニングルームに来て暖炉に当たりながら食べているテントグループもあるようだ.まあその方が寒くなかろう.

この日は,前日偵察した裏の丘を登り,翌日通過する予定のルザ方面の途中まで散歩で出かけることにした.

ドーレ方向から登るシェルパニ

ドーレ方向から登るシェルパニ

登って来たドールの方向を振り返り眺めるとカンテガ,タムセルクがよく見える.長焦点で撮るとその麓がこのような感じになる.急坂で,シェルパニの登りも大変だ,たまに路傍の岩にドコを支えて一休みしながら登っていく.ところでドコは竹で編まれた籠であるが,竹は一般に温暖な地方でないと育たない,実際この辺りではもちろん,より低いルクラ辺りでも竹林は見ない.大量に使われる道具であるが,低地から持ち込まれるのであろうか.

ところでシェルパ族についていろいろ読んでみると,シェルパとは東の人の意で,チベット東のサルモゴンと呼ばれる地方に住んでいた民族が祖先のようだ.その祖先は16世紀になるとチベットでの政治的圧迫を逃れ,ナンパラ峠(Nangpa La:標高5,715mm)を越え,ここ南方のネパールに移住してきたとされるそうだ. 現在シェルパ居住地域は主にエベレスト南麓のここクーンブ地方で,他にインドのダージリンやシッキムにもいくらか住んでいるそうだ.クーンブ以外のネパール各地にもいくらか居るのではないかと思うが.....それについては筆者はまだよく判らない.

ここクーンブ地方は今実感しているように寒冷な高地で,農業は難しく,以前は放牧と交易によって生計を立てていたそうだ.しかしそのうちにジャガイモや,蕎麦,大麦の栽培,保存技術を持つに至り,20世紀に入り外国人によるヒマラヤ登山が始まると,高地に順応した天性の身体能力が高く買われてポーターやガイドとして雇われるようになっていったようだ.そしてやがてトレッカーの数も飛躍的に増え,ロッジ経営など含めポーター,ガイドなど観光関連が主要産業になってきたようである.

ドーレ上の広場

ドーレ上の広場

ドーレから登りしばらく歩くと全般に台地状で広々としたところである.そんな中でも休憩に格好の広場が現れる.多分今まで通って来た中では一番広々としているのではなかろうか.腰を下ろす石もたくさん転がっており,トレッカーの多くが隣の無名峰ながらなかなか美しい山を眺めて一休みしている.


谷の先にチョオユーとギャチュンカン

谷の先にチョオユーとギャチュンカン

ドーレを少し上がるとドゥードコシとその両岸,およびその先のチョオユー(左,Cho Oyu:8,201m)とギャチュンカン(右,Gyachung Kang:7,922m)が大迫力で広がって見える.こんな荒地にも画面下部中央のような夏のヤクカルカが所々で散見される.


チョオユーに向かって歩く

チョオユーに向かって歩く

この辺りからよく見え始め,以降ゴーキョリまで終始見え続けるのがチョオユーだ.ショートパンツで行くのはヨーロピアンであろうか.それにこの人の場合ポーターなしで,かなり重そうな荷物を担いでいる.タフだ,エライ!

チョオユーについてウィキペディア(Wikipedia)から転載すれば,チョオユーは標高8,201 mで世界第6位の山.シェルパ語でトルコ石の女神の意味.8,000m峰の中では比較的登りやすく,また危険度の低い山といわれている.1954年10月19日 - (初登頂) - J.ヨヒラー,パサン・ダワ・ラマ,H.ティッヒー,と記されている.

トルコ石の女神と云う名前がまたどうして付けられたかは分からない.トルコ石と言えば若干緑がかったような青のようで,とりあえず光線の状態でこのような色に輝き,高い山々は,日本でもそうであるように神が宿るし,ネパールでも同じ考えがあるので......と自己流に解釈しておくか.

赤い潅木

赤い潅木

何という木か判らないがこの界隈一帯で多く見られる.例えば2つ上の写真下部中央のカルカ右端の赤みがかったところはこの潅木だ.背景の雪と対比させるとそれなりに映える.

この辺りにいっぱいあって判らない潅木がもうひとつある.綿の実のような白い実を付けている,さて何だろう?


下は,6日目に撮った写真あれこれ

第6日目の写真
ドーレ付近の眺め
ドーレからルザの方向に登り西方向を眺めた.無名峰だが迫力がある. リンドウの一種,この辺りで広く分布している. ドーレの少し上から眺めたチョオユー タルチョーで祀られた大岩.その下を行くトレッカーと対比するととても大きい. ドゥードコシを挟んで,カルカの目立つこちら側と帰路通ることになる向こう側. ルザに行く前にある小さな集落,看板にはLhafarmaとある.ラファルマ?かな? チョオユーとギャチュンカンを見ながら行くトレッキングルート
ドーレとルザの中間点で見たギャチュンカン 同じくドーレとルザの中間点で振り返って見たカンテガとタムセルク ドーレの上に登ってくるトレッカー ドーレ上で一休みしてチョオユーを眺めるトレッカー ドーレの上,シェルパニがゾッキョを連れて通る ドーレの少し上,カンテガとタムセルクを背に穀類か重そうな荷を運ぶポーター. 名前がわからない花.これも多い.

第6日目のメモ

快晴の朝室内は5℃.ロッジ(Cho Oyu Lodge Dole)のダイニングルームに朝食を食べに行くと,米グループの中の2人,NYとフィラデルフィアからで,距離は離れているが友達同士だという,が先客でいた.互いに挨拶交わし,調子を尋ねられ,「夜中息苦しくなって目が覚めるから多分高山病だろう」と答える.フィラデルフィアの方が,「自分は去年最初のトレッキングで高山病になった.すかさずダイアモックスを朝夕1回ずつ,水を1日6リットル飲んで大丈夫になった」と教えてくれた.米国人なのに,少し間を置きながらも親切にメートル法のリットルで言ってくれたのはありがたい.ダイアモックスの量は聞き漏らしたが,ちょうど筆者も飲み始めたところだったので,実際に効果が有ったと云う話を聞き,大いに勇気付けられた.水は体のサイズに合わせていくらか少なくていいかも.

好天の7:45AM,早速丘に上り,ルザ方向に歩いてみる.全般に広々とし見通しがいい.天気の良さと併せて快適な通りだ.途中いろいろな人と出会うのもまた楽しい.

久しぶりに日本人に出会い,広場で腰を下ろし,しばらく話をした.大阪(大阪弁なので多分)の女性,30歳代か,単独で,ガイドとポーターを一人づつ連れている.ポーターが圧縮紙パック入り20個くらいの卵,上蓋が何故か付いてなかったため常にパックの水平を維持しながら手で持って運んでいる.もちろん額に掛けたメインの大きなドコを運んでいるので,わざわざ大変ですね~と思いながらもつい笑ってしまう.

この大阪女性はゴーキョリに向かう途中だ.ゴーキョリは高所順応準備が目的で,その後チョーラ(チョーラパス,チョー峠)を越え,チュクンを経てアイランドピークをアタックするのが最終目標だそうである.だから同行のガイド氏もちゃんとした登山ガイドだそうである.卵を手持ちするポーターはアイランドピークのベースキャンプまでで,上には登らないようだ.つまり高所ポーターではなく普通のポーターであろう.でも調理に自信があることは食材の取り扱いから観て明らかだ.ヒマラヤでの登山は初めてだそうで,無事成功を祈って別れた.

一人で岩陰で休んでいるポーターから,こちらも一人で歩いていると声をかけられ,互いに一通り挨拶を交わす.ヒンドゥーだという.ヒンドゥーといってもいろいろな種族,カーストがあるのであろう,ただ仮に,聞いたとしてもこちらには判らないであろうが.英語はかなり上手い,今ポーターをやっているが,できればガイドになりたいのだそうだ.何しろポーターとガイドとでは収入に雲泥の差があるから.....と言っていた.意欲的な人だったので次の年からはガイドをやっているかも知れない.ただヒンドゥーのガイドだとチベット仏教文化圏のこの地のしきたり,単純な例で言えばマニ石の左を通る掟を無視したりする事例なども見ているので....ちょび気になったりもする.

12:30PMロッジに戻りスパゲティを注文してみた.ごく普通にフォークを沿えて出てきた.行儀の悪い作法だそうであるがスプーンでくるくる丸めて食べる習慣があり,スプーンも頼んだ.ウェーターは首に巻いた手ぬぐい,どちらかと言うと雑巾のように黒ずんでいる,で持参のスプーンを拭き拭きテーブルにどうぞと差し出してくれた.見なければ良かったが,実際に見てしまうと......

夕刻になると,お隣のロッジ前庭で身体に毛布を巻きつけた男性と周りに数人の男が立ったまま何か相談中の様子だ.情報によればこの男性はドイツグループメンバーの1人で,高山病で熱やら悪寒やらで急ぎ下山する必要があり,ヘリコプターの救援を要請し,間もなく到着の見込みと聞いた.でも待ってもヘリは来なかった.気象条件の悪化か,夕刻になり有視界飛行困難で飛べなくなったのであろうか.男性は毛布を巻きながらも自力で立っていたので,この後何とか自力で,もしくは馬とかで下山したのであろうか?なおこの後,カラパタールに登ったとき,エベレストベースキャンプにヘリ2機の残骸が微かに見えた.この2機の墜落事故以来ヘリのパイロットは出動要請に対してとても慎重になったと言われている.

日中は快調であるが,また今夜の睡眠中に呼吸が苦しくなりそうなのでこれに備え5:30PMダイアモックスを1錠飲む.6:30PMカレーライスの夕食後早々と床に就く.途中2回ほどトイレに起きたが目覚めるとき息苦しさがない!ダイアモックスの効果だ,と思う.今後ダイアモックスを切らさないようにしなければ.

第7日目:2005年10月25日(火)

今日は第7日目,マッツェルモに向かう日だ.

ドーレ  Dole

ドーレの朝再び明ける

ドーレの朝再び明ける

ドーレの丘(ルザ方向ルートの丘)は一昨日の午後,昨日に続いて3度目の登りだ.ただ今日は戻らないで先に進む.丘からドーレの宿泊ロッジを見下ろすと,テントを畳んだグループと,今日はまだ一日滞在するのであろう,そのままのテントのグループとがある.


ドーレの上,朝のギャチュンカンが迫り来る

ドーレの上,朝のギャチュンカンが迫り来る

上に出るとギャチュンカンが上部を覗かせてくれる.鋭角的な面を大胆に組み合わせた形が力強い.
もちろんその左(西側)には
チョオユーチョオユーが,また背後(南側)には
カンテガカンテガも美しく輝いている.

ルザ  Luza

ルザに到着

ルザに到着

標高4,380mの看板あり.先に見える山は何だ?
標高が高くなったためか日陰には以前降った雪が未だ残っている.ここの茶屋の日向,気取った言葉で言えばここのオープンカフェで飲んだ熱いミルクティーが美味しかった.
ここルザには高山病で亡くなった若いイタリア青年の慰霊碑があるそうであるが気付かないうちに通り過ぎていた.

ルザの西の山と氷河

ルザの西の山と氷河

ルザに来ると西の方角に氷河と雪山が見える.キャジョリの南東面ではないかと思うが...確証はない.テニンボ(Teninbo)5,839mという山かも知れない.もしキャジョリであれば氷河はマッツェルモ氷河(Machhermo Glacier),山がテニンボであれば氷河はキャジョ氷河(Kyajo Glacier),ということになりそうだ.う~ん,どちらかな~?

ところでキャジョリであれば,それはマハランガーヒマール(Mahalangur Himal)に属する山だそうで,2002年のモンスーン明けの頃,南西尾根から英仏遠征隊によって最初に登られたようである.それまではネパール政府の許可が下りなかったのであろうか?急峻なのは東面で,それはまだ誰にも登られていないようである.

この辺りやマッツェルモにはかなり多くの家が見られるが,大半は夏にヤクを連れてきて草を食ませるカルカに付属する建物,言わば夏の別荘だ.これらの土地,建物の所有者の多くはクムジュンとクーンデの住民であるようだ.

マッツェルモ  Machhermo

キャジョリとマッツェルモ氷河

キャジョリとマッツェルモ氷河

今度はこの先の宿泊するロッジのご主人に確認したので左側はキャジョリ(Kyajo Ri:6,151m)で間違いない.すると手前の氷河はマッツェルモ氷河であり,右の山は多分マッツェルモピーク(MachhermoPeak:6,017m)であろう.ここは小高い見晴台になっており,石を積み上げたチョルテンが築かれ,タルチョーがたなびいている.チベット仏教の一般則として,高い所には可能ならチョルテンを築き,少なくともタルチョーをたなびかす慣わしがあるようである.すぐ先の少し下ったところにマッツェルモの集落が見えている.

ロッジの小屋とチョラツェ(Cholatse)

ロッジの小屋とチョラツェ(Cholatse)

今夜ここマッツェルモ(4,410m)で宿泊するロッジ(Yeti Lodge & Restaurant)に到着すると東にチョラツェ(Cholatse:6,440m)が姿を現した.山肌を見ると,斜面にヒマラヤ襞が無数に走り,滑らかな弧を描くいくつかの頂部と谷部との組み合わせが実に美しい.

手前の石造りの物置小屋の屋根は石葺きで,ときどき強い風が吹くこの地にあっては理想的な屋根であろう.板状に剥がれる石は何という種類なのだろう?資料を探すと,天然屋根材の1つとして,粘板岩というのがあるようだ.例えば豊富な天然粘板岩,特に粘板岩の一種で「玄昌石」と称する種類だそうだが,を産出するヨーロッパでは,多くの家の屋根が天然石で葺かれているという.しかも築後300年経った今でも,まったく美観を損なわず機能し,存在し続けているということだ.さらに人工合成材のように有害物を含まないのもいいようだ.粘板岩は数億年にわたり泥質准積岩が地層の地下深くで,地殻変動の高温,高圧によって劈開を生じた岩石だという.しかしてこの岩石は板状に割れやすく,屋根材かじめ建築材料として便利な訳だ.マッツェルモの屋根石も層状に剥がれた形跡があるし,色や形もヨーロッパのそれと似ているからこの材料かな?なお日本ではこの粘板岩は「すずり」や「碁石」,「砥石」などに利用されてきたそうである.


下は,7日目眺めた景色などあれこれ

第7日目の写真
ドーレ~マッツェルモの眺め
ドーレ上,朝のチョオユーを眺めつ進む 荷役ゾッキョ ルザの集落を手前から望む シオProtrekでは4,190mと何と200mもの差が ルザから眺めたキャジョリの一部と思われる 上のズーム画像 カンテガの方向
チョオユーを背景にしたマニ塚(石積みチョルテン),タルチョー マッツェルモ手前からギャチュンカンを望む 氷河から流れる川で水飲みの馬 マッツェルモから見えるチョラツェ ドゥードコシの左側尾根を進む.マッツェルモ先にはチョオユーが見える ラサのポタラ宮(右)とヒンドゥーの神々(左下)は共存.上のマッターホルンは単なるポスター ギャチュンカン登山隊の皆さん.左から2人目が隊長さん,3人目が頂上アタック2人中の1人

第7日目のメモ

今日は曇り模様で明けた.両手の指先が若干痺れる,ダイアモックスのためであろうが問題なし.7:15AMドーレを発ち,ルザに向かった.途中までは一昨日,昨日に引き続き3回目なので見慣れた風景だ.ルザの少し手前でゴーキョから戻る途中のアミューズトラベルさんのツアー一行に出会った.10人近くいたであろうか,戻り行程で皆ニコニコ元気に下りて行った.アミューズトラベルさんご一行とはキナバル山で出会ったことがある.山のツアーが得意なのであろう.

マッツェルモ手前高台のチョルテンで,「あ~疲れた~!」と言いながら登って来た若い日本人女性と出会った.まだ大学生くらいで,デニムのジーンズと,およそ山の装束には最も相応しくない出で立ちである.実際日本で登ったのは高尾山くらいだそうだ.それがすごいのです!先ず友人と二人でカラパタールに行って来たそうであるが,残念ながら天気が悪く3日間滞在し3回登ってようやく何とか雲に遮られずにエベレストなどの山々が眺められたそうである.その後フェリチェまで下り,昨日はフェリチェからドーレまで,今日はドーレからゴーキョまで一気に行くのだと言う.

筆者にとってはドーレからここマッツェルモまでが今日の分,マッツェルモからゴーキョは明日の分だから,筆者の2日分を1日で歩く訳だ.高山病の影響はなく,「ひたすら脚など筋肉が疲れた~」と言っていた.確かに高山病の恐れがなく,若いとか健脚であればそれぐらい歩けるかも知れない.まあ根性があっていいと思う.がんばってね~!と言って別れた.なおご友人は,「もう疲れたから」と言って,先に下山し,どこかで待っている,とのことだ.

マッツェルモまで来るとミネラルウオーターが180RS/1ボトルと,ナムチェの50RSと比べて3倍以上になる.富士山の小屋では,重機で商品を運んでいるに拘わらず高値を設定しているのは解せないが,ここでは人力運搬なのでまあ納得できよう.

マッツェルモのロッジ(Yeti Lodge & Restaurant)でギャチュンカン登頂に成功し,下山途中の福岡のパーティに出会った.先ず隊長さんが宿に着かれた.その隊長さんに話していただいた.

と,まあいろいろ本格登山隊のお話を直接お伺いできてよかった.ミーハー的に一緒に写真とかも撮らせてもらいました.ありがとうございました.

後日西日本新聞社のサイトに掲載された上記ギャチュンカン登頂に関する2005/11/21朝刊掲載記事を転載させてもらうと,

「約束の頂に立つ福岡大学山岳会隊7952メートルギャチュンカン峰登頂 」
さえぎるものは何もない.そこは神々の領域であるかのように,雪をいただいた八千メートル級の山々が,生まれたままの姿で眼前に広がっていた.2005年10月17日午後1時40分(日本時間午後4時55分),福岡大学山岳会登山隊(川邊義隆隊長以下7人)の花田博志(45),重川英介(30)両隊員が,ヒマラヤ・ギャチュンカン峰7,952メートルの頂に立った. 山の名は,チベット語で「百の谷の源流となる雪の山」に由来する.そんな流麗な響きとは異なり,山容はあまりに険しく,登攀(とうはん)は過酷を極める.これまで登頂を許したのは,世界でわずかに五隊だけ.幾多の登山家たちの挑戦を退け,ときに犠牲を強いてきた.十七年前にも福大の登山隊はこの山を目指した.頂上まで百五十メートル地点に迫りながら,険しい岩壁に行く手をはばまれた.撤退の帰路,一人の隊員を滑落によって失った.
「山仲間」の雪辱.そう誓った再挑戦だった.この間,山は大きく姿を変えた.地球温暖化の影響なのか.隊員たちをのみ込まんばかりに,大きく口を開けたクレバス(氷の割れ目).雪が溶け,やせ細った稜線(りようせん).「雪の山」は,薄く雪に覆われた,巨大な岩峰に変わっていた.生死が紙一重で接する厳しい闘いに,隊員たちは生身の身体で向き合った.ヒマラヤに挑むことの困難さ,ひた向きさ,そして尊さ.その一端でも読者に伝えられたらと思う.(登山隊員,社会部記者・重川英介).

と述べられている.それで上の写真中央の方は,隊長<渉外担当>川邊 義隆(64)さん,(株)八ちゃん堂,1995:ニンチンカンサ副隊長 .右の方が,登攀隊長<装備・食料チーフ>花田 博志(45)さん,アルプス工業,1983:ヨーロッパアルプスクライミング,1985:ナンガパルバート登頂,1988:ギャチュンカン,1996:チョモランマ登頂かと思われる.

ここのロッジ(Yeti Lodge & Restaurant)ではもう1つの日本人グループ,横浜/東京3人のグループ,と一緒になることができた.仮にYTGと称することとする.この方々は日本山岳会のメンバーだそうで山については専門家である.なのでこのYTGの人が色々上記福岡ギャチュンカングループの人と交わす言葉を聞いたり,或いは判らないことはこのYTGの皆さんに聞いて教えてもらったりした.YTGにはラクパシェルパさんというガイドが付かれていたが,日本語ができるのだ.何でも日本に1年ほど滞在した経験をお持ちだそうだ.

そんなこんなで日が暮れて就寝の刻になった.先ほどのYTGの方のお話ではダイアモックス1錠丸ごと250mgと云うのは普通必要ない,と言うか多すぎるようである.その方の場合,使う場合はせいぜいその1/4~1/2程度くらいだという.筆者にもよく効いているようであるので,とりあえず半分に分割し,125mgを飲み寝ることにした.その結果,朝まで息苦しくなることはなかったので以降この量で継続してみることとする.そう言えば副作用の指先の痺れも無くなったようだ.


Cannergy'sホームへ