ターメへTrek to Thame

ナムチェを経由してターメへに向かうことになった.

第18日目:2005年11月5日(土)

今日は第18日目,チュクンを離れデブチェまで下る.

チュクン  Chhukung

ワンデを眺めイムジャコーラの谷を下る

クワンデを眺めイムジャコーラの谷を下る

今朝のロッジ(Sunrise Lodge & Restaurant)の部屋の気温は氷点下4℃,寒いが今日も良く晴れている.チュクンを発ち谷を下る.ず~っと先にクワンデ(コンデリ)がくっきりと見える.


イムジャコーラのほとりで一休み

イムジャコーラのほとりで一休み

ラジューが岩の上に荷を載せて一休み.イムジャコーラは曲がりくねって南西に流れていく.ところでラジュはライ族(Rai)だ,この民族とは何者か?先ずシェルパ族でないのでシェルパ語は話せない.普段シェルパ語が多いというジェルジェンが彼と話すときはネパール語だそうだ.(筆者には全く区別できないが)ライ族はキランティ族(Kiranti)の1種族で,クーンブはじめネパール各地に住み,2001年の国勢調査では63万人余,全人口比2.79%であるようだ.なおインドのシッキム辺りにも少数住んでいるそうだ.またライ族の言語と伝統的宗教はともにキランティ(Kiranti)として知られているようだ.本業は農業だが,ラジュのようにポーター稼業も多そうだ.またライ族はグルン族同様勇敢で,英国やインド軍の傭兵として働くものも多いようだ.

登る人,下る人

登る人,下る人

すれ違う時刻からすると,登る人は今朝ディンボチェを発ち,下る人はチュクンを出発したのであろう.この辺りで何組かとすれ違った.

ディンボチェ  Dingboche

ディンボチェを越える

ディンボチェを越える

イムジャコーラに沿って谷を下るとディンボチェ(4,360m)に至る.そのまま通過して歩いて行くと登り道となる.いくらか登って振り返るとディンボチェの集落が谷あいに見え,背後にローツェとローツェシャーが聳え立つ.


ツラタンガに向かうヤク

ツラタンガに向かうヤク

ヤク追いが十数頭のヤクを引き連れてイムジャコーラの谷に進む.ツラタンガの方向だ.ウィキペディア(Wikipedia)でヤクを引いて見よう.ヤクはチベット高原に生息するウシ科の動物.体長2.9m,体重500kg程度.高地に適応しており,体表は蹄の辺りまで達する長い毛に覆われている.換毛はしないため暑さには弱い.肩がコブ状に盛り上がっている.オス,ス共に長い角をもち,長さは1mに達する.鳴き声は低いうなり声であり,ウシの様に「モー」とは鳴かない.野生での生息数は少なく,「絶滅危惧II類」に分類されている.と述べられている.たしかに「モー」と鳴かないのが普通の牛との最大の違いかも.....

丘を越え,カンテガとタムセルク現る

丘を越え,カンテガとタムセルク現る

ディンボチェを越えたところからイムジャコーラとそれに沿う通りは南西の方向にカーブする.それに従い左手にカンテガとタムセルクが姿を現すようになる.


アマダブラム?

アマダブラム?

ディンボチェを過ぎてイムジャコーラの谷の向こう側,といことはこれはアマダブラムであったか?形からはどうもはっきりしなくなった.

ツラタンガ  TshuraTyanga

ツラタンガの茶屋

ツラタンガの茶屋

ひっそりしたツラタンガの茶屋.屋根に小さな太陽電池パネルが取り付けてある.ベル研が1950年代宇宙用に単結晶型のセルを開発したのが始まりで,日本でも既に1960年代に量産が開始されたというから相当歴史が長い.1974年の石油ショック以降,開発は加速され,今日世界全体で約12GW以上の発電量があるというからすごい.生産コストが低い多結晶型が多いと思われるが,日本が生産量で約半分のシェアを占めるそうだ.ここエベレスト街道ではロッジで薄暗くても灯りがあるのと,全く無いのとではエライ違いで,そのありがたさが身にしみて実感できる.

ツラタンガから下山方向を眺める

ツラタンガから下山方向を眺める

この辺りは家畜囲いで区切られたカルカが広がっている.或いは単なる畑だろうか?畑だとすると,この辺りはジャガイモがメインであるのだが.....
イムジャコーラを挟んで対岸の地にカンテガ(手前)とタムセルク(向こう)を望む.


ツラタンガから振り返る

ツラタンガから振り返る

ヌプツェ,ローツェが青空に映える.二人連れのトレッカーが,この辺りはどこだ~?と地図と周りの風景を見比べている.

ショマレ  Shomare

ショマレの集落

ショマレの集落

ほどなくショマレの集落と通る.ショマレは狭いところに家が密集している印象を受ける.ロッジもあるが他の集落と違って比較的農家が多いように見える.男の子が岩山を遊び場に身軽にとんとん飛び回っていた一方,ままごと遊びに興じる4歳くらいの女の子にレンズを向けたら,「ノーッ,ノーッ!」とえらい剣幕で怒られてしまったのが忘れられない.もちろんシャッターは押さなかったけどすみませんでした.

ショマレの子

ショマレの子

通学途中の小学生であろう.岩だらけの道を元気に行く.模様の付いたジーンズがおしゃれだ.

この子たちに出合って間もなくのところに下の写真の案内板が出ていた.エドモンドヒラリー卿によって1963創立とあるから,40年の歴史があるようだ.パンボチェ僧院の手前,この看板から15分と記されているが,この子たちの軽快な足で15分,筆者の足では.......

パンボチェ小学校の案内板

パンボチェ小学校の案内板

ところでそのエドモンドヒラリー卿についてもう一度見てみよう.1953年5月29日シェルパのテンジンノルゲイとともにエベレスト(サガルマータ)に初登頂.同年イギリス王室より騎士叙勲を,1995年ガーター勲章を授与された.ニュージーランドの最高峰マウントクック(3,754m)の麓にあるハミテージホテル前に銅像が建てられ,また5ニュージーランドドル紙幣の肖像となっているそうだ.また慈善団体「ヒマラヤ基金」を創設し,ナムチェバザール地区の開発に注力し, この地区に彼が1960年に建設したクムジュン小学校の校庭にもヒラリー卿の銅像がある,という.だからこのパンボチェ小学校はクムジュン小学校より3年遅く開設されたということになる.

また息子も冒険家でピーターヒラリーと称し,2002年にエベレスト登頂50周年を記念して,テンジンノルゲイの孫タシ・ワンチュク・テンジンとともにエベレスト登頂に成功しているそうだ.現在ヒラリー卿はニュージーランドで養蜂業を営んでいるそうである.

ショマレ下部のチョルテン

ショマレ下部のチョルテン

ショマレの集落を過ぎ歩くと白いチョルテンの建つ丘に来る.クワンデ(コンデリ)連峰が眼前に広がり,実にのどかで快適なところだ.

パンボチェ  Pangboche

再びパンボチェ(3,960m)に戻る

パンボチェ

再びパンボチェ(3,960m)に戻ってきた.畑がいっぱいある,収穫を終えたジャガイモ畑か?遥か向こうの丘に小さくタンボチェが見えている.パンボチェでは,登り行程で一夜を過ごしたロッジ(Tashi Lodge)に寄り昼食をとることになった.ここではパンボチェゴンパの経典を読むため滞在している3人のお坊さんとも再会した.


パンボチェゴンパ

パンボチェゴンパ

パンボチェゴンパ(僧院)はタンボチェゴンパの壮大な造りと比べるととても質素な建築で,狭い敷地に建っている.一般民家が並ぶパンボチェの集落の一角にあり,もし仏教の赤い色で彩られていなければにわかには識別できないくらいだ.

ところで,このパンボチェゴンパはこの地方最古であって,チベットから布教にきたラマ・サンガドルジェが開山し,チベット仏教ニンマ派開祖グル・トゥンガトゥエ(グル・リンポチェ)の仏像が本尊として安置されているということだ.またラマ・サンガドルジェの召使として夫婦のイエティ(雪男:Abominable Snow Man)が一緒に住んでいたそうな.ところがイエティの妻があるとき死亡してしまったそうだ.かつてはその頭皮が当パンボチェ僧院に保存されていたが,何かの折盗難に遭い失われてしまったという.これらイエティ頭皮ストーリーは仏教の権威付けのために作られた....という説がなきにしもあらず,でもそれでは身も蓋も無いので...

パンボチェのカンニ(仏塔門)の曼荼羅

曼荼羅

パンボチェの集落を過ぎ,イムジャコーラに差し掛かる手前に,パンボチェへの関所のように立ちはだかるパンボチェのカンニ(仏塔門)が建てられている.そのゲートの天上を見上げると一面このような極彩色の曼荼羅が描かれている.

曼荼羅は,サンスクリット語のmandalaに由来し,仏教,特に密教において聖域,仏の悟りの境地,世界観などを仏像,シンボル,文字などを用いて視覚的,象徴的に表わしたもの,だそうである.mandalaの当て字であるので漢字自体には意味はないようだ.

「マンダラ/mandala」という語は,ヒンドゥー教やその他の宗教のコスモロジー(宇宙観)も含め,かなり広義に解釈されているようだ.日本語では通常,仏教の世界観を表現した絵画等のことを指し,さらに「曼荼羅」はもっとも狭義には密教曼荼羅を指す場合が多いようだ.

曼荼羅には色々な種類があるが,全てに共通する点として,(1)複数の要素(尊像など)から成り立っていること,(2)複数の要素が単に並列されているのではなく,ある法則や意味にしたがって配置されている,ということがあげられる.密教系の絵画でも,仏像1体だけを表わしたものは「曼荼羅」とは呼ばない.「曼荼羅」とは複数の要素がある秩序のもとに組み合わされ,全体として何らかの宗教的世界観を表わしたものと要約できる,とウィキペディア(Wikipedia)に記されていた.

デブチェ  Devuche

対岸に渡る

白いヤク

イムジャコーラに掛かる橋を渡り対岸に着くと植生が変化する,具体的には木が多くなるような気がする.ところで写真のヤク(Yak)であるが,荷役用,毛皮用,乳用,食肉用に使われる重要な家畜だ.ヤクのバターは灯明を点したり,チベットでは茶に溶かした「バター茶」としても飲まれるそうである.糞が乾かされて燃料となることに関しては,宿泊する先々のロッジのキッチンやダイニングでこれ以外の燃料は殆ど見かけないだけに,特によく認識するところとなる.

木立ちの間からエベレストを見る

木立ちの間からエベレストを見る

標高が低くなり,このように木の丈もある程度の高さに達する種類が多くなる.デブチェは間もなくの距離だ.前の年,この辺で,若い尼さん集団が太鼓を鳴らし経を唱えながら進む場面に遭遇し,いくらか寄付金を渡した記憶が蘇った.

デブチェには尼僧院があるようで,関連サイトを見てみた.デブチェ尼僧院は金剛仏教の伝統に従い真理の探求と実践を行う場として設立されたそうだ.当初タンボチェ僧院の一部門であったのが,後にタンボチェから20分離れたここデブチェの地,道から隔てられた静かな木立ちの中に独立して建設されたようである.ただ建物は別でもタンボチェ僧院の一部門であることには変わりないようである.建物は傷み,米ヒマラヤ基金の援助等で補修しつつあるが十分とは言えず,世界各地から寄付を募っているようだ.

長く続くメンダン(mendan)

長く続くメンダン(mendan)

平板なマニ石を並べたものはメンダン(mendan)と称されるようである.そのメンダンがこの辺りでは多く見られる.かなり大きく積み重ねられ,長さは数十mにも達するであろう.メンダンはマニ塚の一種だ.一つのタイプは小山のように上方に積み上げ,もう一つのタイプが横に繋げたメンダンだ.マニ塚は山や湖,町や村,路地....あちこちに見られる.これまで通って来た場面では,山や丘には上に伸びるタイプのマニ塚が普通で,メンダンは道の真中に設けてある場合が殆どであった.仏教徒がマニ塚を通る時,石を1つ積んで祈祷すると経文をひと通り読んだことになるそうである.しかしてマニ塚は年を追って高く,若しくは長くなる訳である.

デブチェのロッジから夕陽のエベレスト

夕陽のエベレスト

メンダンから程なくしてデブチェのロッジ(Amadablam Garden Lodget)に到着した.午後の陽射しが暖かく,前庭でエベレストを眺めつつ,しばしうとうとする.夕刻になり2階の部屋に引き上げ寛く.ふと窓に目をやるとエベレストが赤くなり始めた.急いで庭に出て急激な色の変化に見とれつつ,シャッターを押した.


下は,第18日目の写真あれこれ

第18日目の写真
チュクン~デブチェの眺め
チュクンを出るとディンボチェまで一気に下りだ 今日もタワチェがくっきり見える ディンボチェを越えツラタンガの手前に来た ツラタンガ辺りで振り返り見るヌプツェとローツェ 'ショマレ上辺りを下る なおもショマレ上辺りを下る ショマレを過ぎパンボチェ手前で振り返る
パンボチェで仰ぐカンテガ パンボチェ下のチョルテン パンボチェで仰ぐアマダブラム パンボチェゲートに至る下り道 パンボチェのカンニ デブチェに抜ける橋 デブチェで眺めた夕焼けのローツェ

第18日目のメモ

ツラタンガ辺りで,ポーターとガイドを引き連れたチュクンに向かう3人の日本人グループに出会った.皆筆者くらいか若干上の年齢で,一組の夫婦とその友人(男性)だそうだ.とても面白い福島の人たちで,「日本で山に出かけるのは安達太良山など福島県内限定,他県だと交通費や宿泊費などが相当かかるので,他県の山に行くくらいならヒマラヤに来る」のだそうだ.ノウハウも伝授してくれた.ルートはバンコク経由タイ航空が無難だ,「4回来ればマイレージで成田/バンコク往復1回が只で乗れるし,バンコク空港では外に出ないでも時間料金制ホテルで宿泊可能,4千円くらいで済む」,という.な~るほど.ところで奥さんの足がメチャクチャ遅い,とこぼしており,眺めると下からゆっくりゆっくり歩いて来た.ゆっくりではあるがあまり休まない歩行方法のようで,殆ど立ち止まることなくマイペースで一人そのまま上に歩みを進めていた.旦那さんとは,そのまま話し続けた.「いくら時間がかかってもいいんです,お金は山ほど持ってきてますし,時間もいくらでもあるのです,今回はとりあえず1ヶ月くらいの予定でいますが.....」と,屈託がない.いや~豪快というか,日本人としては極めて異色のゆったりバカンスを楽しむタイプの方々とお見受けした.山ほどのお金,って少しはハッタリがあるのかな~?

行くとき宿泊したパンボチェのロッジ(Tashi Lodge)に昼食のため立ち寄った.前回同宿した3人のお坊さんはこの時もまだ滞在中だった.食事を終えるところで,間もなく経を唱え始めた.前回は若いお坊さんだけキッチンで食事をとられていたが,今回は食堂で3人一緒の食事だった.筆者も食事しながら,それまでの経過を一通り報告し,「それは良かったですね~,また来て下さい」,と言われつつ午後の歩きのためロッジを後にした.

デブチェには早い時間に到着した.ロッジ(Amadablam Garden Lodge)の前庭には白い椅子を並べて何人か日向ぼっこをしている.筆者に対して,座って居たよく日焼けしたネパーリーが,「ここにどうぞ」と凸凹の地面にバランスをとって椅子を据えてくれた.彼はシェルパ族ではなくグルン族で,トレッキングガイドをしているそうだ.やはりドイツ人のトレッカーが多いし,今回も2人のドイツ人をガイドしているように,彼にとってはドイツ人客が一番多いそうだ.一度ドイツに観光で旅行したことがあるそうで,多分ドイツ語を話すのであろう.ドイツの車は世界一すばらしい,とかなりドイツ贔屓でもあるようだ.
彼自身前述のように黒く頑丈そうであるし,勇敢なグルカ兵で知られるグルン族なので,それに関してちょっと話題を向けてみたら,彼の兄はかつて正しくそのグルカ兵士だったことがあるそうだ.ただその兄は戦争ではなく,事故のためドバイで亡くなったそうだ.ちなみにドバイの労働者の殆どは自国民ではなく,ネパール,パキスタン,....等々からの出稼ぎ者と言われる.そんな出稼ぎ労働者として亡くなったのであろうか.その点,弟の彼は自国でガイドの仕事を続けられているのでいいのではなかろうか.

第19日目:2005年11月6日(日)

今日は第19日目,ナムチェバザールに向かう日だ.

デブチェ  Devuche

デブチェの朝

デブチェの朝

今日もよく晴れ渡っている.北東の空にエベレスト,ヌプツェ,ローツェがよく見えている.天気もいいことだし少し早めの7:10AMロッジ(Amadablam Garden Lodge)を出発した.デブチェからたまたまクムジュンハイスクールに向かう女の子と暫く一緒に歩いた.週日はクムジュンの寮で生活し,週末になるとデブチェの家に帰って過ごすそうだ.ヒンドゥーが国教のネパールでは土曜日が休日,だから金曜の午後デブチェに戻り,日曜朝の今日,学校に向かうところ,のようであった.

タンボチェ  Tengboche

シルエットのタンボチェゴンパ

シルエットのタンボチェゴンパ

デブチェからタンボチェ(3,860m)へは登り道を辿る.やがてタンボチェゴンパ(僧院)前の広場に出る.大きなゴンパの建物群がクワンデ連峰を背景に影絵の如く浮かび上がっていた.

The Tengboche Development Projectというサイトがあったので,ここからかいつまんで書いてみる. タンボチェはシェルパの里ヒマラヤの重要な仏教寺院である,かつては遠隔の地と見られていたが,エベレストへの主要ルート上にあり,後のヒラリーとテンジンの1953年エベレスト登頂で一躍世界に知られるに至った.以来変遷を遂げ,今日では年間30,000人もの人々がタンボチェを訪れるまでになっているそうだ.

タンボチェはネパールの大事な継承財産であって,数々の雪山を含む広大なサガルマータ国立公園,それはまた卓越した絶景が故にユネスコの世界遺産でもあるが,に位置している.

殺生は平穏と哀れみを理念とする仏教の考え方に反するもので,それ故タンボチェの森は野生動物の生活にとっては格好の住処となっている.国鳥ダフェー,天空を舞うハゲタカ,ベニハシガラス,絶滅が心配されるじゃこう鹿,タールやゴーラルの稀少やぎ類などが見られる.加えて多数の薬草や香料となる木々が茂り,幾種類もの石楠花の花が咲く.石は経文で刻まれ,高いところには経文を記した旗が舞い,慈しみを天空まで運ぶ.

タンボチェ修道院は1916年,ラマグルー(Lama Gulu)によって現在の場所に設置され,またチベットのロンボク(Rongbuk)寺院とは強い提携関係を有している.この地域にはいくつかの古い寺院があったが,タンボチェが最 初の独身修道院であり,金剛仏教寺院ニリンゴンパ( Nyingmapa:チベットにあるようだ)の血筋を受け継いでいる.

タンボチェ修道院は二度災害に遭い,再建されている.1934年には地震を,1989年には火災を蒙っている.大火のため貴重な古い経典,彫像,壁画などがことごとく失わ れた.著名なラマであるSangwa Dorjの足型を記した石さえ火で割れてしまった.

今日修道院はヒラリーヒマラヤ財団,米国ヒマラヤ遺産基金,世界の篤志家の援助の下,上部の階など一部未完成部分を残しながらも,地元の職人,僧侶,シェルパ社会はじめ多くの支えによって再建された.

1993年9月,再建された修道院の祝聖と就任式は,首相,大臣, ....ヒラリー卿など列席のもと,聖トゥルシクリンポチェ(Trulshik Rinpoche)によって執り行われた.またこのときタンボチェリンポチェである大僧正は,流入する膨大な旅行者の管理,特に汚染対策と水の確保に対する要望を出している.

これを受けて,ミハエルシュミットは,大僧正と協同し,タンボチェ環境問題を軽減するための計画及び実施を提案している.

このウェブページもそのプロジェクトの一部であり,他の地域における類似問題の保護プロジェクトを促し,世界の富かな遺産が将来に渡って享受できるよう願っている.終わりにダライラマの言葉を引用したい.
「世界がどんどん小さくなるに連れ,また相互依存が深まるに連れ,宇宙的責任という観点から,かつてないほど生命について深く考える必要があろう.自然と自然,人間と人間といった関係に留まることなく,人間対他の生命体との関係についても熟慮する必要があろう」

タンボチェ開発プロジェクトがこの考えに貢献することを願っている.

タンボチェのテント広場

タンボチェのテント広場

昨年テントで寝たことのある場所だ.今年も大勢のトレッカーが来ているようだ.皆,北東にくっきり浮かび上がったエベレストを見上げている.広場では既にテントを片付けてしまったグループもあるし,まだこれからで畳まれていないテントも多く残っていた.或いは今夜もこのままここで宿泊を継続するのかもしれない.

プンキタンガ  Phunki Thanga

プンキタンガに下る

プンキタンガに下る

プンキタンガ(3,250m)はこれまでこれに沿って歩いてきたイムジャコーラと,ゴーキョから流れ来るドゥードコシが合流する辺りにある.合流した後の川の名前としてはドゥードコシが残り,ルクラ,さらに下流に続く.プンキタンガには何軒かのロッジが軒を並べている.道脇の小川,写真右側には小屋が建ち並び,大きな水車式マニ車が据えてある.いくつかはちゃんと廻り,いくつかは故障で止まったままだ.

ドゥードコシ越えてセラワ(Selawa)

ドゥードコシ越え

合流したドゥードコシの橋を渡るとこのような集落がある.セラワ(Selawa)というところになるのだろうか?道にはチベット商人風の行商人が衣料品を並べている.


日向の童

日向の童

この集落の一画,家畜囲いの中で,陽射しを浴びて子どもたちがごろんごろん転がり遊んでいた.ヤクの糞に気を付けてね~!


林を抜けテシンガ(Tesinga)

テシンガ

ドゥードコシからは登りが続く.林を抜けるとテシンガ(Tesinga)に出る.北の空を見ると山が見える,モンラで見たあの山,タワチェだ.ここも前年テントで過ごした場所である.その時はこのように晴れ渡ってはおらず見晴らしが利かなかった.それ故,このような山の存在に気付かなかった.

キャンジュマ  Kyangjuma

クワンデ(コンデリ)を見て進む

クワンデ(コンデリ)を見て進む

テシンガから先は概して見晴らしがいい.先の方にはクワンデ(コンデリ)が今日もよく見える.距離的にはぐっと近くになったので細かいところまでよく判る.この辺りでは新しく彩色されたと思われる仏画の岩絵が見られた.


南斜面を歩く

南斜面を歩く

この辺りは暫く南斜面の道が続く.日当たりも良く,ドゥードコシの谷とその先の山々の見晴らしもすばらしい.トレッカーもポーターも家畜も,正しく街道の名にふさわしく多くなる.この後チベットアクセサリーの露店が並ぶサナサ(Sanasa)の集落を越えることになる.


キャンジュマに到着

キャンジュマに到着

サナサを過ぎて少し歩くと絶景のキャンジュマ(3,600m)に至る.カウベルやら,チベッタンネックレスやら,いろいろお土産を並べている.珍しく挽きたてコーヒーの案内が店の板壁に書かれていた.普通インスタントコーヒーしかないので,まあまあの味だった,としておこう.注意すべきは砂糖だ,黙って頼むと砂糖たっぷりでとても飲めない,大きな声でブラックと念押しすれば大丈夫だ.

キャンジュマからの眺め.左にタワチェ,中央にエベレスト,ヌプツェ,ローツェ,右にアマダブラム

キャンジュマからの眺め

歩いて来た方向を振り向くと,ドゥードコシの谷の先,左にタワチェ,中央にエベレスト,ヌプツェ,ローツェ,右にアマダブラムが見えている.それにしても今年は雲一つなくくっきり見える.幸運だ!


キャンジュマから眺めるタムセルク

キャンジュマから眺めるタムセルク

ここから眺めるタムセルクの尾根はまるでかみそりのように鋭く切り立って見える.こんなすごいところ登る人がいるんですね~これが.ほんの参考のため,カトマンドゥの登山トレッキング代理店MONTEROSA TREKS & EXPEDITION (P) LTD. の2006年の案内を眺めると以下のように書いてある.

やっぱり一ヶ月以上かかるんだ~費用はUS$2,500 (7人までのグループの一人当たり)とある.登山ガイドは一人付けるごとに+US$1,600,と別料金であるにしても, 期間も長く大変さを考えると,意外と費用が掛からないで済むような......

キャンジュマ下から眺めるクスムカングル

キャンジュマ下から眺めるクスムカングル

登るときは雲で見えなかったクスムカングルが,ここキャンジュマを過ぎた辺りからはよく見えるようになった.クーンブ山群の最南端のチャルパティ・ヒマールにあり,ルクラからナムチェバザールへ向う時に最初に目にする本格的なヒマラヤのピークである.チベット語で三つの雪の峰を意味するそうで,主峰(6369m),東峰(6356m),西峰(5579m)からなる.登山記録によれば1979年に国際隊と日本隊がそれぞれ挑んだそうだ.先ず国際隊が挑み,東峰に達したが主峰には至らず,日本隊は主峰に登頂し,一般的にはこれがクスムカングルの初登頂とされているそうだ.

ナムチェ  Namche

ナムチェへ下る

ナムチェへ下る

ナムチェ(3,450m)へ上から下りてくる道の脇にこのように大きなマニ石がある.こうした大きな石,いや岩は運んだのではなく,最初からそこに在った岩に彫り込んで彩色したのであろう.

シェルパの里と称されるここナムチェは,かつては,標高3,450mに位置する故,住民は貧しく,栽培できたのはジャガイモだけ,住宅もほんの僅かあったに過ぎなかったそうな.仕事と言えば荷物運びで,これをこなすシェルパ族がクンデ,クムジュン,パンボチェ,ターメなどから集まり,豊かな商人たちから運送の仕事を請け負い生計を立てていたようである.

ナムチェ西斜面から眺めたタムセルク

ナムチェ西斜面から眺めたタムセルク

ナムチェ上から眺めたタムセルク.この時まだ雲が現れず,ナムチェバザール背後にはタムセルクがくっきり浮かび上がる.

さてかつて寒村だったこのナムチェバザールには現在は100軒を超えるロッジが立ち並ぶ.別のページで述べたように,さらに建設の槌音が聞こえ,まだまだまだ増えそうな様子だとも記した.概ね,どれも石と木材の堅牢な造りだ.常駐人口は1,100人くらいになるそうだ.拡大の発端は,1953年5月29日英国登山隊に加わっていたエドモンドヒラリー(ニュージーランド人)とシェルパのテンジンノルゲイ(1986年死去)による,史上初エベレスト登頂成功だ.これを機にここナムチェバザールには世界各地から観光客が押し寄せるようになったという訳だ.

今のナムチェには土産物屋,登山用品店は言うに及ばず,銀行,喫茶店,貸し電話サービス,インターネットカフェまで揃っている.2,3日前,カシオ腕時計のベルトを支えるピンが抜け落ちて困っていた筆者は,時計屋(時計だけではないが)さえ見つけ喜んだほどだ.残念ながら抜け落ちたピンは標準的な長さを超える特殊サイズで在庫は無かったが.

ナムチェのロッジから眺めたクスムカングル

ナムチェのロッジから眺めたクスムカングル

ほどなく宿泊するロッジ(Hotel Norling)に到着した.登り行程で一度泊まったロッジだ.部屋で暫くポケーっとしているうちに陽は傾き,ナムチェの街は闇に覆われた.ふと窓を眺めると,夕映えのクスムカングルが流れる雲の合間から黄金色に輝き浮かび上がっていた.


ナムチェから眺めた夕映えのタムセルク

タムセルク

同じくナムチェから眺めた夕映えのタムセルク.間もなく山陰に完全に陽が沈む頃だ.頂上は赤く残り,下から徐々に黒い影が広がっていく.

ある日本語サイトで,タムセルクは「黄金の仏像」の意,別のサイトでは「朝日に輝く黄金の仏像」,また別の中国語サイトでは「黄金門」の意と載っていた.左は朝日ではなく夕方の眺めであるがこの輝きを眺めていると確かにそんな雰囲気が感じられる.


下は,第19日目の写真あれこれ

第19日目の写真
タンボチェゴンパ~ナムチェの眺め
タンボチェゴンパの朝 タンボチェゴンパから見たエベレスト,ヌプツェ,ローツェ タンボチェゴンパから見たクワンデ テシンガ下の林を歩く サナサにから来たゾッキョの群れ サナサの露店を冷やかすトレッカー キャンジュマから眺めたエベレスト,ヌプツェ,ローツェ,アマダブラム
ナムチェ上から眺めたタムセルク ナムチェ上から眺めたクワンデ ナムチェから眺めた夕映えのクスムカングル ナムチェから眺めた夕映えのクスムカングル ナムチェから眺めた夕映えのクスムカングル ナムチェから眺めた夕映えのクスムカングル ナムチェから眺めた夕映えのクスムカングル

第19日目のメモ

今日はサナサの辺りで2つの日本の旅行会社の一行とすれ違った.西遊旅行社とヒマラヤ観光の2社でそれぞれ6,7人のメンバーがいたようである.特にヒマラヤ観光はパンボチェのあの高級なエベレストビューホテルと同資本で,この辺とはなじみ深かろう.これまで他のところでは互いに言葉を交わすことができていたが,この辺では人通り,ゾッキョ通りが多いせいか,「コンニチハ~」程度で,立ち話しまではしにくい気がする.

ナムチェのロッジは再びHotel Norling.今回は2階南西の角部屋,静かで見晴らしも良い.夕食でダイニングルームに下り,焼きそばか何かを食べる.右前にのテーブルには若くきれいな女性が座り,食事を全部平らげていた.どうやら足りないようでもう一度メニューを眺めて,宿の人に,「オネー無しのホットケーキはできますか?」(Can you make a hotcake without honey?)と訊いている.店の人は直ぐに理解して,「できます」と答えていた.ここのメニューではwith honeyのホットケーキしか載っていなかったので,多分蜂蜜を好まないためであろう,蜂蜜無しで作れるかどうか問い質したのである.ハニーをオネーと発音するのはフランス人以外なさそうである.筆者が,「フランスからいらっしゃいましたね?」と言ったら,「どうして判ったの?」で始まりいろいろ話してくれた.

ボルドーから来たそうで,20歳代半ばくらいだろうか.「ボルドーと言えばワイン,ここではあまり飲めないので残念ですね~」と言うと,「ボルドーワインは最高です,でも今はネパール文化にハマっているから平気」とも.このときネパールに来て既に4週間,それまでルンビニとカトマンドゥに滞在し,自分でもよく理解できてないが一応『プジャ』を試みてきたそうである.「ん,そのプジャって何ですか?」と訊いたら,「ほら何て言うか,瞑想というかお祈りと言うか.....まだよく解らないけど.....」傍を通りかかったロッジのおばさんに,今度は彼女が,「プジャは何ぞや?」と訊いてみるが,ロッジのおばさんは,「解らないです!」と忙しいせいか素っ気ない.(いまネットで見ると,プジャとはヒンドゥー 教のお祈りの儀式とか,ネパール語で「お祈り」を意味するとか載っている.)何にしても彼女はよく解らないながらも彼女なりにプジャを実践してきたところがスゴイ.ところでルンビニはお釈迦様の生誕地であるが,ここにはドイツ寺院,日本寺院,コリア寺院と,.....と各国の寺があるのだそうである.筆者もよく解らないながら,う~んそうなんだ!それだけ各国からの巡礼者というのか求道者というのか....が集まり,お祈りを実践する所なんだ,と思った次第だ.

で,ナムチェにはまだ着いたばかりでこれからどうするか決めかねている.ゴーキョとカラパタール両方行きたいし,パンボチェゴンパで年一度の大きな祭り(註:下に補足)が催される,特に一般人も見学可能で特別な舞が奉納されるハイライトの日,たしかこの年は11月17日だとか,にタンボチェを通過して見物するようにしたい,ということだ.「ところで,私は寒いのは苦手,姉(または妹)がシャモニーの近くに住んでいるので,モンブラン周辺の山などアルプス地方はしばしば歩くけど寒いくてしようがないことがあるし....ゴーキョとカラパタール行って来たのなら寒さどうでした?平気でした?」と訊かれる.「いや~私は寒がりだからとっても寒かったです,でも日本人と比べてヨーロッパの人は強いから皆平気に見えましたよ」と正直に応えた.そしたら,向かいの頑丈そうな中年男性が,「ガハハハー」と笑い出し,話題に新規参入することになった.

ミュンヘンから来たというご夫婦で,歳の頃は40代後半くらいか.「いや~日本人が寒がりと云うのはほんとだよ,私らがTシャツにショートパンツでちょうどいいときでもダウンジャケット着て,『寒い!寒い!』ってブルブル震えている場面に何回も遭ったことがあるよ,まあ日本人じゃなければ平気じゃないの」とかなり屈辱的なことをストレートに言ってくれる.悔しいがこれは事実だ,なかんずくゲルマン人とかバイキングとか北方系の人はメチャ強いように感じる.このミュンヘン夫妻もこれから上に登るのだそうであるが,ここに来るまでの話をしてくれた.

彼らは多くの人がするようにルクラまでのフライトを使ったのではないのだ.下のジリからここナムチェまで1週間かけて歩いてきたのだそうだ.ジリからのルートは歩いているトレッカーは疎らで,ルクラから急に人が多くなり驚いたという.ガイド,ポーターと一緒にジリから歩き始めた翌日マオイストに遭遇,ドネーションと称しながらも実質通行税を一人当りRs5,000,夫婦でRs10,000要求されたそうである.それは余りにも高いので値引き交渉に入り,「Rs2,000に負けろ」と強く言ったそうだ.(筆者註:ご夫妻とも簡単には折れない,身体も精神面も屈強ないかにもゲルマン民族っぽい方です)一方マオイスト側も「Rs3,000までなら何とか値引きに応じるが,それ以上はダメだ」と1時間くらい経ってもまとまらない.そのうち,背面には後続のトレッカーが2,3組溜まりだしてしまった.Rs2,000でなければいやなので,「それなら我々は引き返し,飛行機を使う」と宣言したそうだ.そうしたら引き連れているガイドとポーターが限りなく悲しい顔をしたそうだ.連中の仕事を失わせるのは,本来支持者である筈の彼らのマオイストに対する信頼も失わせることに直結する.また後続のトレッカーとの取り引きにも悪影響を与えそうな雰囲気になり,最終的にはRs2,000で折れてくれたそうだ.

なお領収書はちゃんと本来の金額Rs5,000で書いてくれたそうである.トレッキング中,他のマオイストに遭遇したときこれを提示すれば再び徴収されることはないそうである.それでも要求されたときはマオイストを騙る強盗とかそれに類する生業者の仕業とも聞く.

かくして美しくも気さくなボルドー女性と迫力のゲルマン夫妻のお陰で楽しく過ごせた.ボルドー女性は終わりに付け加えた,「以前インドで2ヶ月過ごして大きな影響を受けたが,今回のネパールはインドとは距離的に近いながらも文化は独特で甚だ興味深い.ビザも延長できそうなので,そうなると3ヶ月以上居座りそうだ」と.そうなんだ,大してインパクトもないサラリとした旅なんて勿体無い,筆者もそう思いつつ今日もいい日だったな~と感じながら暮れいく.

(註):パンボチェゴンパで年一度の大きな祭りについて後で調べたところ,マニリムドゥ(Mani Rimdu)と呼ばれる祝祭のようだ.2005年については判らないが,翌2006年に関してパンボチェゴンパの案内では次のようになっている.

とまあこんな風になっている.ボルドー女性の話していたプジャ(puja)もあるし,いいと思う.

第20日目:2005年11月7日(月)

今日は第20日目,ターメに向かう日だ.

ナムチェ  Namche

ナムチェを抜け,丘を歩く

ナムチェを抜け,丘を歩く

朝早くロッジ(Hotel Norling)を出発し,ターメに向かう.ターメはナムチェの北西にある.先ずはナムチェゴンパの脇を抜け,西に向かう.暫く日当たりのいい丘を歩くことになる.


訓練中の兵士

訓練中の兵士

丘を抜けると林の中に入る.大きな木が茂り,日本の低山の趣きとよく似ている.この辺りは道もかなり広い.ただ空気が乾いているので土埃が多い.おそらく政府軍兵士であろう,迷彩服に銃を肩に駆けていく.ネパールでの実線の場を想定すればは高所訓練は必須であろう.

フルテ  Phurte

乾燥ヤク糞作り

乾燥ヤク糞作り

やがてフルテの集落に差し掛かる.塀にはヤクの糞が貼り付けられている.ここでは最も重要な燃料となる.


植林所

植林所

高所で気温が低いので木を育てるのは容易ではなかろう.つまり木の種類が限定されたり,成長に時間がかかるであろう.しかしこの辺りには大きな木もそれなりにあるので,ちゃんと植林を続ければ大きな木に育つのは間違いなかろう.トレッカーが増えたのも大きな要因で,これまで燃料や住宅,居住施設用に多くの木が伐採されたそうだ.そのため現在はこのような植林所が再生に注力しているのであろう.

白いチョルテンン

白いチョルテンン

他所と同様この通りも仏教関連の施設が目立つ.ここはチベットへ連なるメインルートの1つだと聞くと一層その感が強くなる.チベットからはナンパラ峠(Nangpa La:標高5,715mm)を越えてくるそうだ.チベット方面からナムチェバザールを目指すチベットのキャラバンとはこの先ソムデ(Somde)辺りをはじめ,あちこちで遭遇する.(4枚分くらい下に写真を載せた.)こうした交易商人は正規のイミグレーション手続きでネパールに入国した者であるが,そうではなく亡命者も頻繁にナンパラ峠を越えるという話も聞く.多くは集団で,ヤクを引き連れることなく身一つで,闇夜に乗じて越えるようだ.見つかれば銃撃され,もちろん命がけであるが,ダライラマが逃れている先のインドを目指す者が多いようである.

フルテの西側カンニ

フルテの西側カンニ

フルテの集落を抜けると目の前に川が見え,その手前にカンニ(仏塔門)が置かれていた.天上には曼荼羅が描かれている.チベットから来るときの門になっているのであろう.地図に依れば川はどうやらチャジョドレンカ(Kyajo Drengka)のようである.

ターモ  Thamo

ターモが見えてくる

ターモが見えてくる

チャジョドレンカの川を越えると,左(西側)にボーテコシ(Bhote Koshi)の深い谷に流れが見えてくる.以降ターメまでこの流れに沿って歩みを進める.ボーテコシ下流はモンジョの少し上でドゥードコシと合流するようだ.通りの先方にはターモ(3,440m)の大きな集落が見えており,ボーテコシの対岸,西の空を見上げるとクワンデ(コンデリ)が青空に聳えていた.

クーンブ電力ターモ事務所

クーンブ電力ターモ事務所

クーンブ電力会社のオフィスが通りに面してあった.看板によれば1988年~94年にかけて建設され,実行落差205mペルトン水車2基で600kWの出力,高圧送電は11kVで総延長13km,供給先はターメ,ターモ,ナムチェ,クムジュンで人口2,000人,年間15,000人訪れるツーリストにも貢献している,オーストリアのNGOが協力と記されていた.


チベッタンキャラバンが行く

チベッタンキャラバンが行く

ここはターモの少し先,ソムデ(Somde:3,580m)辺りであったであろうか.交易品を載せたヤクを引き連れ,チベットのキャラバンがナムチェ方面に向かう.塩やヤクの肉といった伝統的交易品に加え,ナムチェバザールで見かける商品をみると衣料品なども多いのではなかろうか.国境のナンパラ峠はどれくらい先なのだろうか?

それにしてもチベット人は自由に国境を越えることができるそうだが,ネパール人のチベット入国は認められていないそうだ.不思議な条約だが,やはり力関係に因るものであろうか?ネパール政府が亡命を恐れているのだろうか?....なお筆者など外国人はこのルートでの出入国は許可されないそうである.

深いボーテコシの谷

深いボーテコシの谷

この辺りで振り向くとボーテコシの谷が深くナムチェ方向に流れていくのがよく見える.そしてその先にはカンテガとタムセルク,クスムカングルが谷を見下ろすように立ちはだかっている.

ターメ  Thame

大きな荷物を運ぶ

大きな荷物を運ぶ

ソムデを越えた辺り.枯草であろうか大きな荷を背負って運んでいる.この辺りでは道は比較的ボーテコシの水面近くになり,所々で橋が架かり,対岸に行き来できるようになっている.またこの辺りから始まるターメに向けての登りは急坂で大変になる.


ターメ間近に至る

ターメ間近に至る

氷河谷であろう底の広い谷の向こうに山が見えてくる.手持ちの地図では切れていて何という山か不明だが.谷を流れるボーテコシには幾つかの支流が流れ込んでいるが,本流はチベット国境のナンパラ峠まで遡るという.


ターメのロッジから北を眺める

ターメのロッジから北を眺める

そしてナンパラ峠へつながる長く厳しい交易路の入口の村ターメ(3,750m)のロッジに到着した.

ロッジの名前はValley View Lodge & Resort,で全周山山に囲まれる.(尤もどこへ行っても山で囲まれているのではあるが)西の下方にボーテコシの谷が見える.しかしエベレスト街道から離れているし,エベレストやローツェといった8,000m峰が見えず地味なためであろうか,トレッカーの数は比較的少ない.翌日ナムチェへの戻りを含む2日間で日本人トレッカーに会うことがなかったし,歩いている総トレッカー数も多くはない.

ところでターメは,ヒマヤラ登山黎明期に大勢の著名なシェルパを輩出した村としても有名なのだそうである.↓のアッパーシェルパさんはその名残かな?

エベレスト15回サミッター,アッパーシェルパさん

エベレスト15回サミッター

お隣のロッジ,こちら向きに立っている右の黒いジャケットで日焼けした人物,はアッパーシェルパさんという方だそうだ.この時,2005年11月現在までにエベレストに15回も登り,ギネスブック記録保持者だそうである.現在はこのロッジを経営しており,ここに宿泊するお客さんのガイドとして時々,エベレストに登るそうである.たしか48歳とか.....


夕焼けのタムセルク

夕焼けのタムセルク

ロッジの庭から眺めた夕刻のタムセルク.主峰は雲で覆われていたが西側(ここから右側)の肩部では幸運にも雲が去り,赤く輝いた.一瞬であったが実に見事な夕焼けだった.


下は,第20日目の写真あれこれ

第20日目の写真
ナムチェ~ターメの眺め
ナムチェを出てターメを目指す フルテの手前,カラフルなマニ石 ターモで見上げるクワンデ ターモ付近の古いバッティ ヤクの糸を紡ぐ男性,日本語ガイドでもあるそうだ ボーテコシに沿って登る ヒマラヤンタールが草を食んでいた
振り返るとカンテガ,タムセルク,クスムカングル 対岸を行くヤクのキャラバン ターメの集落に入る ターメの住居は石造り バター作りのツール ターメから望むカンテガ,雲のタムセルク,クスムカングル ターメから望む夕焼けのクスムカングル

第20日目のメモ

ターメのロッジ(Valley View Lodge & Resort)で一緒になった男性二人連れ,その中の一人はショートパンツだ.「スゴイですね!」と声を掛けると,「でもこんなに日焼けしてしまうからもう止めようと思っている」,と赤くなった肌を指し示してくれる.寒いからではなく,日焼けするからって,こんなに寒いのによく平気ですね~.ロンドンの弁護士で,音楽関連著作権の仕事をしているそうだから,アングロだ.アングロもゲルマン同様頑丈だね~

ここではもう一人宿泊のトレッカーが居り,ストーブを囲んで暫く話すことになった.ペトラさんというオーストリアから来た女性だ.20代後半くらいか?オーストリアならゲルマンであろうが,ゲルマンであっても胃を悪くすることはあるようだ.彼女の場合,グループで登山(山名は聞いたが知らない山で覚えられず)に来たが,3日ほど前から胃の具合が悪くなった.グループとして薬は山ほど持参していたがどれも効かず,グループメンバーの中にこれから医者になる予定の研修生がいるがこちらもまだ頼りにはならなかったそうだ.結局クーンデのクリニックで診てもらい,処方してくれた薬で大分回復したという.とりあえずポーター一人を引き連れ,ここで休養しているが,早く回復してグループに復帰したい,という.まあ当然でしょうね.

ところで彼女たちのグループもジリから歩き,やはりマオイストに寄付を強要されたそうだ.でも同じゲルマン(多分)とはいっても,前日のミュンヘンご夫妻とは全く対応が違う.彼女たちの場合,前者の場合同様Rs5,000というので,すかさずディスカウントを要求,これにRs3,000と応じたのでさっさと支払い,Rs5,000の領収書を貰って通過したという.「ものの2,3分でお金で解決なら問題ないでしょ!」という感じだ.話は飛ぶが,彼女はネパールの基本食ダルバート(ご飯に豆のスープを添えたもの)がエラク気に入っており,「ダルバートは美味しい,最高!」とまで言っている.筆者はまあ,あれはたまに食べれば十分,ハッキリ言って好みとは言えないので,「まあ,そうですね,結構いいですね~」とか当り障りなく応じる.たしかにオーストリア辺りではソーセージとか,まあ,ああいったリッチというかグリースィなものが主流なので,ダルバートのようなアッサリサッパリしたものが,胃を悪くした彼女にとって良かったのだと思う.

ペトラさんは会社を辞めてネパールに来たそうで時間は無制限だそうな.「ここの山ではグループに属しているが,下ったらグループを離脱して,インドとタイに行こうと思う」.「以前自転車で廻った経験のあるニュージーランドにも,もう一度足を伸ばしてみようかな~」とも.「戻ったらまた仕事探さなければならないし,旅行好きだからその前に....ところでユーも旅行好き?」「オーストリアは来たことある?」と続ける.「ウイーンくらいですけど」と応えると,「私はウイーンから南のxxx(覚えられず)で,湖畔にあって,自然の美しさは例えようがないほどすばらしいところよ,オーストリアはむしろウイーン以外,地方がいいのよ」とペトラが諭す.そうなのかも知れない.「そのオーストリアはアルプスが直ぐ傍だから,わざわざヒマラヤまで来なくとも山が楽しめるでしょうに」と言ってみる.すると,「直ぐそこなんだけど,ヨーロッパの連中は猫も杓子もヒマラヤに来たがるのよ,高さが違うからやはり」と応じる.たしかに人口の割にヨーロッパのトレッカーを多く見かけるが,まあそんなもんであろう.

こうして話しているうちにストーブの乾燥ヤク糞燃料が燃え尽き,そろそろ潮時かと部屋に引き上げるのであった.部屋のガラス窓の外は冷たそうなガスが立ち込めていた.明日もいい天気であろうか?と思いつつ眠りにつく.


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