小さな旅:青森縄文紀行2023

この青森縄文紀行2023は主に青森県,一部岩手県,秋田県の主に縄文遺跡を巡るバスツアー紀行で,撮った写真を訪問地別にまとめて記した.資料によれば「採集,漁撈(ぎょろう),狩猟を基盤とした定住を1万年以上にわたり継続した稀有な資産で,生活の在り方と自然環境の変動に応じて変容させた集落の内容が農耕開始以前の生き方を理解するに貴重なもの」といった趣旨が述べられている.

↑ マウスのコロコロで拡大/縮小,ドラッグで移動.マーカーのポイントで地名表示.

 

今回巡った場所をマーカーで示した.マーカー番号が概ね回った順番.今回見て歩いたのは縄文遺跡のほんの一部であるがそれでも海岸近くから内陸深くまで広く分布しているのが興味深い.以下の日程で回った.

日にち地名宿泊
1日目
2023/
6/16(金)
⇒JR東京駅⇒9:00発はやぶさ9号⇒盛岡10:22着⇒バスで⇒①是川縄文館(八戸市)⇒ 黒石温泉郷板留温泉ホテルあずましや
2日目
6/17(土)
ホテルで朝食⇒②三内丸山遺跡(青森市)⇒③亀ヶ岡石器時代遺跡(田小屋野貝塚,亀ヶ岡石器時代遺跡,つがる市縄文住居展示資料館カルコ)⇒④つがる市森田歴史民俗資料館⇒ 伊勢堂岱温泉縄文の湯
3日目
6/18(日)
ホテルで朝食⇒⑤伊勢堂岱遺跡(北秋田市)⇒⑥大湯環状列石(秋田県鹿角市)⇒⑦御所野遺跡(岩手県一戸町)⇒盛岡駅⇒18:50発はやぶさ42号で東京駅 -

なお今回歩いた遺跡の殆どはユネスコ世界遺産「北海道・北東北の縄文遺跡群」(Jomon Archaeological Sites in Northern Tohoku, Hokkaido)(2021年文化遺産登録)の範囲に含まれている.


縄文遺跡歴史年表

今回巡った遺跡や関連遺跡の時代をチャート上に大まかに示した.

今回巡った青森,秋田,岩手の縄文遺跡年表

今回巡った青森,秋田,岩手の縄文遺跡年表

遺跡で暮らした人々はある程度長い年数そこで過ごしたのだがここでは簡便にその中の一時期を点で載せた.


是川縄文館

盛岡駅からバスに乗る

盛岡駅からバスに乗る

JR盛岡駅に到着すると表に出て,待機していてくれたバスに乗る.ドライバさん,ガイドさんどうぞよろしく願います.ツアー客は22人だそうで一人2シート使いでちょうど良かった.


岩木山を眺め是川縄文館に向かう

岩木山を眺め是川縄文館に向かう

盛岡から是川までは相当遠い.緑で覆われた小高い山と岩木山,(さらに八幡平だったか)それに田や畑を見下ろす高速道を進むが1時間45分くらい要したであろうか是川縄文館に到着した.


是川縄文館付近のマップ

是川縄文館付近のマップ(固定)

さて是川縄文館①,正式には「八戸市埋蔵文化財センター是川縄文館」是川石器時代遺跡(現在整備中で見学不可)近くに位置している.標高23mで太平洋近くにあり,石器時代から縄文晩期の長い間栄えた集落跡でクリやトチなどの木の実の殻,シカやイノシシの獣骨,さらに観なかったが人骨,スズキやマグロなどの魚骨が出土し,後に土偶や土器,漆器など多く出ているようだ.

多様なデザインの土偶,例えば頬杖土偶,合掌土偶,東京国立博物館に展示された遮光器土偶 (翌日訪ねるつがる市木造亀ヶ岡遺跡で出土)に似た土偶等々色々観ることは楽しみだ.

ところで是川は石器時代遺跡,4000BC~弥生初期くらいがユネスコ登録内容のようだが,近年の日本では石器時代ではなく縄文(中期くらい)時代と呼ばれるのでは?多分国際的には4000BC頃が新石器時代の始まりとされているのが標準で,それに合わせたのでしょうか.

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是川縄文館前景

是川縄文館前景

木造二階建てだったと思う.前庭の提灯が盆踊り会場のようでいいですね.


発掘地層断面

発掘地層断面

確か調査発掘した穴(溝)の脇を透明樹脂で固め,十分に乾燥し.数十cm板状にして剥ぎ取ったものを展示していたのだと思う.貝殻,獣や魚の骨,木材など見つかれば炭素14年代測定で堆積された年代が分かるのでしょう.また例えば人骨が全く無くとも土の成分を調べ普通無いリン(P)の存在から過去に埋葬されていた墓地と分かるそうだ.すごいですね.


日本最古の土面

日本最古の土面

約5,300〜5,100年前に制作された粘土で顔を表現した「土面(どめん)」と考えられているそうだ.捨て場の覆土の中から裏返った状態で出土したそうだ.Y型凸部は眉と鼻,その下の穴は目だそうだ.多数の非貫通穴は単に模様であろうか.いずれにしても今のところ日本最古の土面という.

全く似てないのになぜか「羊たちの沈黙」のハンニバル・レクターが他人を噛み殺すのを防ぐために装着させられたマスクを思い出させられた,どうしてだろう?ちょうど欠落しているが口の部分は開口していても小さかったのでは....と想像するからかな~


木製飾り太刀

木製飾り太刀

木製で刀の形に削り出されている.刃物ではなく儀仗として祭祀に使われたのではないかと言われているそうだ.側に全体が赤い漆でペイントされ,一部損傷した太刀も置いてあった.


漆塗りのツボ(土器)

漆塗りのツボ(土器)

ツボ(土器)の外周がきれいな漆で塗られている.殆どが赤色で,7時の方向のネック部と底部に黒色が用いられている.どちらも滑らか艶がありとても美しい.

漆そのものは無色透明で,塗ればツヤが出てもちろん有用だが,赤と黒は土の色を覆いきれいに仕上げるのに用いられたようだ.赤は細かい粉体に加工したベンガラ(酸化第二鉄)を混ぜ,黒は煤を入れて発色させたそうだ.


縄文人の指紋

縄文人の指紋

外側を赤い漆塗りに仕上げていた縄文職人さんが,漆の付いた指でツボの内側に触れて指紋が転写されてしまった.多分塗った後に焼成工程があり,そこで硬化するので あろう.


石槍,箆(へら)状石器など

石槍,箆(へら)状石器など

石槍,箆(へら)状石器,異形石器,石匙,魔製石斧,磨製箆形石器など.色々加工されているので所謂新石器に相当するのであろうか.こうした小型の石器は他にイヤリング,やブレスレット,玉などのアクセサリー類もたくさん展示されていた.


小さくかわいい土偶

小さくかわいい土偶

縄文晩期是川中居遺跡で見つかったという小さくかわいい土偶.祭祀用ではなく,個人が日常アクセサリーとして身に付けるようなサイズだ.

でも開腹手術縫合跡のような小さな連続丸穴があるな.大掛かりな手術で10時間は要したであろう.


頬杖土偶

頬杖土偶

左手で頬杖を付いている.柔和な顔つきで,私には男性に見える(一般に土偶は女性とされているようだが)ヘアスタイルはかなりユニークで毎日のセットは大変そうだ.やはり女性かな~

顔にはないが腕には全面的なタトゥーが施されているようだ.


国宝「合掌土偶」

国宝「合掌土偶」

是川遺跡に代表される亀ヶ岡文化の形成を考えるうえで極めて貴重な学術資料として国の重要文化財に指定されたという.座った状態で両腕を膝の上に置き,正面で手を合わせ指を組んだポーズを取っていることから合掌土偶と称されているそうだ.またどこも欠落や損傷がないのも稀ではなかろうか.

唇を含めて顔,少なくとも上半身,両腕,両下肢にタトゥーが施されている.また髪の毛は頂部で髷が結えられている.それと頬杖土偶同様開腹手術縫合跡(勝手に筆者命名)が見える.


合掌土偶の出土状況

合掌土偶の出土状況

竪穴住居跡の出入り口から向かって奥壁際から出土したそうだ.正面を住居中央に向け,背面を住居壁面に寄りかかるように埋められていたそうだ.また出土時に欠けていた左足部分は2.5m離れた西側の床面から出土したそうだ.土偶は一般に捨て場や遺構外からの出土例が多いが,このように住居の片隅に置かれた出土例はごく少ないらしい.

また出土時両腿の付け根,膝と腕が割れておりアスファルトで修復した形跡があり,また体の一部に赤色顔料が残っており,長期に渡り大切に使われた様子が窺えるようだ.


市松模様が施された深鉢形土器

市松模様が施された深鉢形土器

この土器は約3500年前の縄文後期に作られた深鉢型土器で,八戸市の風張遺跡で出土したという.側面に約4cm四方の大きさで,平面状と網目状の市松模様が描かれているようだが....格子状線ははっきり見えるのだが,一つ飛び模様(チェック)はちょっと分かりにくい.

なおこれら斜め格子はおおよそ凹状であるが,円筒周囲の2つの細い帯,上タブ部の縁や内部の細い線は縄文ラインではなかろうか.とても細いが.


是川縄文館付近の風景

是川縄文館付近の風景

今回は修復工事のため遺跡は閉鎖され見えなかった.そして縄文館を去ることになった.周囲は緑地とそれを囲む林でいかにも縄文遺跡のような様相だ(実際は不明)

そしてバスは今日の宿黒石温泉郷板留温泉ホテルあずましやへと向かった.ホテルあずましやに着き,夕食をいただき,温泉に浸かり,寝入った.


三内丸山遺跡

この三内丸山遺跡では遺跡の写真を載せました.

黒石温泉からバスで三内丸山遺跡に向かう

黒石温泉からバスで三内丸山遺跡に向かう

宿黒石温泉郷板留温泉ホテルあずましやで8月23日朝を迎えた.そこで朝食を頂きバスに乗り込み三内丸山遺跡に向け出発したバスは概ね緑豊かな丘陵地帯を進んだ..


三内丸山遺跡付近のマップ

三内丸山遺跡のマップ(固定)

本遺跡は青森市郊外標高21mに位置する縄文前期~中期末の大規模集落跡で存在自体は江戸時代から知られていたが発掘調査は昭和中頃から始まったようだ.土器,石器,土偶の出土で青森の有名人棟方志功氏なども訪れたそうだ.昭和47年青森国体が予定され,ここに総合運動公園が計画され施設工事は慎重に行われたそうだ.

やがて総合運動公園老朽化対策と野球場建設が計画された.そして着工前発掘調査が平成4年から開始され大量の遺物,特に低湿地の捨て場から,骨角器,木製漆器,樹皮製の編籠あみかご,食料残滓である動物の骨や木の実の殻なども出土,加えて竪穴建物や貯蔵穴,土器片や石器,盛土,420mにわたって延びる土坑墓(大人の墓)列と道路跡,小児用の土器棺墓等が見つかったという.

特に直径1m以上のクリの木柱が据えられた6基の巨大な1間×2間の配置で整然と並ぶ柱穴だ.この遺構は重大な発見として全国的な注目を集め,調査が進められたようだ.そして縄文前期中頃にムラが形成されはじめ,中期末に終焉まで,約1,700年間各時代を特徴づける道具や竪穴建物など発見判明したという.

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三内丸山遺跡センターに着きガイドツアーを待つ

三内丸山遺跡センターに着きガイドツアーを待つ

やがてバスは三内丸山遺跡センターに着き添乗Mさんの館内ガイダンス聞く.そして遺跡ガイドツアー参加の列に並ぶ.この日はまた猛暑の予報で最初の9:15発は予定通り行うが,それ以降のツアーは制限されるとの案内だ.私達は当然9:15発キューに並ぶ.前日も無茶苦茶暑かったが今日明日も続くそうだ.この辺りでの観測史上一番暑いとか,北なのに関東並だ.


環状配石墓と道路跡

環状配石墓と道路跡

今歩いているのは地面を削って造った幅7~12m,東西長さ800m弱の道で,道路両脇斜面には直径4m大人用環状配石墓(埋め戻し白く見える)が並んでいる.配石された石は拍子抜けするほど小さい.道路北端は当時気温が高く海面上昇し海に近かったようだ.ちょうど今は海から遠い大森貝塚が往時は近かったのと同様であろう.

それにしても幅7~12mとばかに広い.なぜそれほど必要だったのかな~


南盛土の地下層

南盛土の地下層

盛土は竪穴建物の掘り下げたときの土やゴミ,掘っ建て柱穴の土,キッチンの炭や灰,動物や魚の骨,石器や壊れた土器や土偶....等々捨てられたゴミ置き場だったようだ.長年のゴミ堆積で盛土が形成されたそうで,遺跡内では盛土が3箇所見つかっているそうだ.

こうした盛土の一つがここ南盛土で,調査で掘ったトンネルを堅固な屋根でトンネル壁面を保護膜で覆い,空調し公開している.私には地層の色が時代で変化しているなどくらいしか判らないが,見る人が見れば色々見えるのだと思われる.


掘掘っ建て竪穴住宅の穴と復元模型

掘っ建て竪穴住宅の穴と復元模型

手前は調査済み掘っ建て竪穴住宅の跡.竪穴の深さが殆ど無いので埋め戻した後だったからかな.

奥は掘っ建て竪穴住宅の復元模型だ.これらは竪穴や掘っ建て柱穴(ガイドさんが,穴間隔はある数値の倍数と説明されたが忘れてしまった)の調査結果からそれら以外(柱や床の高さ,屋根構造,屋根葺き材など)は全て想像だという.例えばここでは寄棟屋根と切妻屋根の2例ともに茅葺きであるが,近年土屋根構造だったのでは,と云う説が有力になっているそうだ.ここに限らずこうした復元模型が茅葺きであることが多いが,殆ど根拠なく登呂遺跡の屋根を真似たためだそうだ.


スーパーケムラーで耐久性高める

スーパーケムラーで耐久性高める

先ずスーパーケムラーのネーミングが秀逸だ.一般的には多分スモーカーなどであろうが.煙を送り柱や茅の表面をコートし,害虫駆除,カビ防止を図るそうだ.写真は全屋根型(非高床住宅)に送煙し燻蒸中のようだ.

それと屋根に草が生えているので土屋根構造のようだ.


北の谷(低湿地)

北の谷(低湿地)

北の谷は縄文前期主にゴミ捨て場として利用されたそうだ.水分が豊富で捨てられたものが空気に触れることがなく,普通残らない動物や魚の骨,種子,漆器や木製品,編み物などの有機物が見つかるという.そしてDNA解析や炭素年代測定が可能となり当時の生活がかなり判ったということだ.


竪穴住居内の子供の墓

竪穴住居内の子供の墓

上述のように大人の墓は大通り両側に作られた.一方子供は専用の土器(壺)に収められ住居一角の穴(写真左上)に埋葬されたそうだ,壺は底部や上部の一部が欠かれ.普通の煮炊き用や保存用と区別されていたそうだ.


穴径2m,深さ2m,間隔4.2m,6つの掘っ建て竪穴

穴径2m,深さ2m,間隔4.2m,6つの掘っ建て竪穴

標記の六本柱の柱穴が見つかった.決定的だったのは穴の底に直径1m栗材柱の一部が残されていた(写真左下の穴底の濃い色の塊)ことであろう.これで炭素年代測定が可能となり,想像だけでなく部分的ではあるが科学的検証がなされたわけだ.なお残された柱下部分は焼かれ炭化され耐久性向上策が採られていたそうだ.


6本掘っ建て復元建物

6本掘っ建て復元建物

これは完全な想像で復元された構造物で,柱と床は木の皮などで縛られ連結され,また柱は少し内側に傾き現代の構造力学的観点でも耐傾き性を上げている.この構造物は想像で作られたが,いずれにしても縄文遺跡のシンボルとして親しまれている.

設計施工は大林組が担当し,また国内では直径1mの栗材は得られず,大林組がロシアからの輸入も担ったようだ.またこれ以外の三内丸山遺跡工事の多くは同社が請け負ったそうだ.


大型竪穴掘立建物(想像復元物)

大型竪穴掘立建物(想像復元物)

写真左側大屋根建物は大型竪穴建物の復元モデル.とにかく非常に大きい,もはや現代の大きな神社の屋根のようだ.やはり大林組の施工だそうだ.


大型竪穴掘立建物の内部

大型竪穴掘立建物の内部

大型掘立建物の内部は相当広い.柱と梁の連結などは6本掘っ建て同様のようだ.

何の目的で建てられたのでしょう.積雪期は冷えるのでここに集まり過ごした.ムラのミーティング会場として使った(会議長引きそうだな~)....等々想像されるが確たる根拠は得られてないようだ.


竪穴に残された栗材柱

竪穴に残された栗材柱

小一時間灼熱のガイドツアーを終え三内丸山遺跡センターに戻った.ガイドさんありがとうございました.そして館内展示品を見て回った.最初は6本掘っ建て建築の穴底部分に残された栗材柱下部だ.大きい.今は無いが当時気象条件が合い大きく成長したのでしょうね.それと焼かれれて炭化したのが見えますね.

それと捨て場の栗の実をDNA解析したところ栗の木は周囲のものと異なり植林された栗の木であることが判明したのだそうだ.すごいですね~そんなことまで解るなんてびっくりしました.


捨て場に残された人骨

捨て場に残された人骨

日本の遺跡では殆どの土地が酸性で人骨は残らないという.それが北の谷(低湿地)では空気に触れずに過ぎたこと(,それに土地が貝殻でアルカリ性に変化したこともあったのか)写真のようにかなり多く発掘されたそうだ.これらはDNA解析が使えてとても有用だ.


黒曜石の槍先

黒曜石の槍先

黒曜石はガラスのようにピカピカ反射しきれいだ.三内丸山には交易品として日本各地からさまざまな黒曜石が運ばれて来たようだ.

槍先と反対の根本はフランジ付きの握り部があり,先端をY字状に割いた木の棒に差し込みアスファルトや漆で接着し,その上から紐で巻きしめたようだ.フランジは木の棒先内側に掘った溝に嵌め抜けないようにし,また紐が外側に逃げさせないためであろう.


縄文が少ない土器

縄文が少ない土器

ここはどういったカテゴリー表示の土器だったか.全般に縄文模様が少なくあっさりしている.縄文晩期,弥生時代に移行するころの品々だったかな.


具象的かつ抽象的平面的小さな土偶

具象的かつ抽象的平面的小さな土偶

三内丸山遺跡には平面的クロス型土偶,遮光器型土偶など各種土偶が多数出土している.そんな中で写真の土偶はなかなか興味深い.全体的には下部が欠落しているが平面クロス型のバリエーションか.目,鼻,口はやけにくっきり具象的だ.黒いアイシャドウは煤入り漆であろうか,また目の下3本の横線その終端でつながる輪郭3本ライン,口横の3本ライン.これらのラインは細い溝に黒漆入れで,タトゥーであろか.

一方口下左右2つの穴,その横のコブ,頭の被り物等々は見当がつかない抽象表現だ.ただ耳たぶの穴はイヤリングを下げたか或いはここに紐を通し,ネックレスとして使えるように工夫したのか.....興味が尽きない.


縄文家族の暮らし

縄文家族の暮らし

竪穴住居での家族生活を描いた模型だ.左上男性は津軽三味線を弾いている,ではなくて狩猟用槍を整備しているところだ. その右の男性は火を使って調理中だ.葦カーペットのない土床に掘られた小型かまどで加熱中だ.別の場所のガイドさんが申すに火起こしは意外と簡単で二人がかり数十秒あれば可能だそうだ. 右手前女性は味見担当で,「もう煮えたよ」とか言っているのかも. 左下白髪女性は木の繊維で造った糸を用い機織りの最中だ.


縄文ファッションで決めてみる

縄文ファッションで決めてみる

上写真で白髪女性が織った布は一部染色され,縄文ブテックに運ばれ,そこで衣類に仕立てられる.そしてそれらの中で上着と帯が試着用に置かれ,バックスクリーンもあるのでどうぞどうぞと誘われ乗ったのがこれ.

バックスクリーンは縄文人にとって大切なクリ,クルミ,トチノミ,ドングリなど収穫できる広葉樹が色付いた時節だ.


三内丸山遺跡センターの大規模保管庫

三内丸山遺跡センターの大規模保管庫

三内丸山遺跡はとにかく規模が大きく出土品も膨大だ.そしてセンターの大規模保管庫には溢れんばかりの未展示出土品が保管されていた.まだ調査不十分のものや将来革新的解析技術が見つかったときの準備のようだ,例えばDNA解析技術の進歩など好例だ.


ソフト栗夢

ソフト栗夢

栗はアク抜きも要らず,生でも食べられ,保存も利き,美味しい.そして三内丸山では栗の木が大量に植林された.そんな意義深い栗に夢を託す「ソフト栗夢」がこれだ.美味しかった.

ここではランチも済ませたので,次は亀ヶ岡石器時代遺跡に向けて出発だ.


亀ヶ岡石器時代遺跡

三内丸山遺跡を去り亀ヶ岡遺跡へと向かった.

三内丸山遺跡から亀ヶ岡遺跡への眺め

三内丸山遺跡から亀ヶ岡遺跡へと進む

三内丸山遺跡でバスに乗り亀ヶ岡遺跡へと進んだ.周囲はこれまでの山地,林と違って平地,稲作地帯が多くなった.日本海側へと近づいたためであろうか.ただこうした田園風景は日本全土同じようなもので,規模は違えど縄文晩期からさして変わりないのかも知れない.


亀ヶ岡遺跡③と周辺のマップ(固定)

亀ヶ岡遺跡③と周辺のマップ(固定)

さて私達は標高7m~18mに位置する亀ヶ岡遺跡,田小屋野貝塚,つがる市縄文住居住居展示資料館(カルコ)のあるつがる市に到着した.そしてここからは狭い道にも入れるよう小型車に乗り換えた.

ここは何といっても遮光器土偶出土地で,更に人骨出土地点であることに期待が高まる.

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先ず田小屋野貝塚から見物

先ず田小屋野貝塚から見物

つがる市に到着すると小型バスとドライバさん,遺跡ガイドさんが迎えてくださった.そして先ず田小屋野貝塚から見物が始まった.


人骨出土地点

人骨出土地点

日本では多くが酸性土壌のため滅多なことでは人骨の出土がなく,ここで出土となるとやはり注目度が高められる.そして墓は埋め戻されているであろうからその近くにレプリカを造り展示している.


これが田小屋野貝塚出土の人骨

これが田小屋野貝塚出土の人骨

あまり鮮明ではないが,若干色の付いた骨が土の間から見える.

資料によれば出産歴のある成人女性で,縄文前期肘と膝が折り曲げられ,横向きで葬られたようだ.前歯3本と奥歯の摩耗具合,骨盤の形態などから色々解るという,すごいですね.また骨のコラーゲンから食べていたものが推定できるそうだ,すごい,将来は確定に至るまで進歩するでしょうね.


竪穴建物跡とその内部に貝層が見つかった解説

竪穴建物跡とその内部に貝層が見つかった解説

田小屋野貝塚では竪穴建物跡がいくつか見つかっており,その中の一軒には内部に2層の貝層があったそうだ.家の中に食べた後の貝殻を捨てたのでしょうか,それとも元々貝塚があり,そこに竪穴を掘り,住宅を建てたのでしょうか....いずれにしても生活するには快適ではないような....


これが竪穴建物で見つかった貝層

これが竪穴建物で見つかった貝層

素人目でははっきりしないがこれが竪穴建物内の貝層.2層あるようだが.


亀ヶ岡遺跡

亀ヶ岡遺跡

田小屋野貝塚の後,亀ヶ岡遺跡を訪れた.亀ヶ岡は例の超有名な遮光器土偶出土地として知られる.そこでこんな大きなレプリカを建てた訳だ.でも正直あまりアーティスティックさは感じられないですね.本物がここに据えられていれば圧倒的迫力なのに....やはり本物を東京国立博物館に渡してしまったのは気の毒なような.


写真と解説発見された本物遮光器土偶の実寸写真

写真と解説発見された本物遮光器土偶の実寸写真

この土偶は1887年(明治20年)亀ヶ岡遺跡南部の低湿地から出土したそうだ.遮光器のように見えるがそうではないということだが,私にはやはり遮光器に見えるし,そうであって欲しい.左脚損失は何らかの祭祀とか祈りのためとの見解が主なようだ.


つがる市縄文住居住居展示資料館(カルコ)

つがる市縄文住居住居展示資料館(カルコ)

次につがる市縄文住居住居展示資料館(カルコ)にやってきた.やはり正式名はあまりに長く言いにくい.で略称カルコとは何だ?入り口の看板を見るとKarco←Kamegaoka archaeology collectionのようだ.

ここではつがる市上記2つの遺跡,さらにそれ以外の遺跡出土品も加えて展示している.それと竪穴住居の様子を模型も展示している.


竪穴住居での生活模型

竪穴住居での生活模型

三内丸山の項で載せた縄文家族の暮らしと雰囲気が似てますね.例えば葦編みカーペットとか縄文服とか窪みのないかまどとか....かまどに窪みがなく,また横壁もない.これだと土器が置きにくい(倒れやすい)し,燃料もちりやすいような....不思議でならない.


狩りで得た動物の骨

狩りで得た動物の骨

やはり湿地で空気に触れなかったり,食した後の貝殻が土壌をアルカリ性に改質したせいか動物の骨が多く出土している.野生動物は槍や弓で仕留めるだけでなく.落とし穴なども用いたそうだ.安全性が高く,体力も少なくて済んだのであろう.


つがる市森田歴史民俗資料館

つがる市森田歴史民俗資料館

つがる市森田歴史民俗資料館

次いで標記の民俗資料館に到着した.先程見てきた田小屋野貝塚,亀ヶ岡遺跡,カルコと同じつがる市内なので僅かな時間で着いた.これまでと違って小規模ローカル博物館の趣だ.比較的早い時代の円筒土器が多いようだ.


つがる市森田歴史民俗資料館④と周辺のマップ(固定)

つがる市森田歴史民俗資料館④と周辺のマップ(固定)

同資料館は標高30mに位置するこのマップ辺りにある.日本海に近い.ただ当時は気温低下時期で海面が低くなり,漁労場が離れる傾向にあったかも知れない.

館長が直々に詳しく解説されるというので楽しみだ.

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円筒土器

円筒土器

メイン展示の円筒土器.今から約5500~4500年前,縄文前期~中期の青森県を中心に作られた作品だそうだ.ほぼストレート縦長,フランジや縄文が少ない.普通の粘土色に加えて赤っぽいのも見えるが赤漆コーティングかな~それとも粘土にベンガラを混ぜたのかな~


壊れかけた円筒土器の修復

壊れかけた円筒土器の修復

これら円筒土器は焼成時クラックが入ったものだ.たとえ乾いた食料保存に用いてもその圧力で割れが進み破壊するという.そこで割れ目の両側に1~3組程度の貫通穴を明け,そこに靴紐(のようなもの,動物の皮かな)を通し結んだそうだ.強固に接着するためにアスファルトや漆が使われることもあったようだ.館長のガイドさんが詳しく説明してくださった.

なお穴明けにはモース硬度6~7程度の硬い石(例えば翡翠や水晶か)のキリが使われるそうだ.


小型土偶群

小型土偶群

この時代既にたくさんの土偶が作られ,そして発掘された.総じて小型,平面タイプ,十字架型で,顔の表情は様々だ.縄文や黒漆模様の入ったものもある.一家に一人は制作者がいたのかバラエティに富む.


北秋田市伊勢堂岱温泉の宿に向かう

この日も非常に暑かったが見物を全てこなし,バスで伊勢北秋田市伊勢堂岱温泉に向かった.途中稲作地の実った穂の黄金色がきれいだ.そして宿の縄文の湯に到着し,お風呂に食事でこの日を終える.

伊勢堂岱遺跡(いせどうたいいせき)

伊勢堂岱遺跡縄文館に到着

伊勢堂岱遺跡縄文館に到着

宿泊した伊勢堂岱温泉から伊勢堂岱遺跡縄文館はすぐ近くなので直ぐに到着した.ここの縄文館は黒土(クロボク)をイメージさせる黒ずくめとしたそうだ.


伊勢堂岱遺跡⑤付近のマップ(固定)

伊勢堂岱遺跡⑤付近のマップ(固定)

伊勢堂岱遺跡は北秋田市の標高45m河岸段丘上にあり,近くを道路がたくさん走っており,一部工事で遺跡が破壊されたが現在は保護する協定が整っているようだ.

また空港も近くで調査のためのバルーンやドローンが航路と干渉しないように上げるのにも神経をを使うそうだ.

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伊勢堂岱遺跡

伊勢堂岱遺跡

伊勢堂岱遺跡は湯車川近くの段丘上にある祭祀遺跡で4つの大きな環状列石(図で茶色部分)が設けられている.最大の環状列石は直径45m,最小30mとバカでかい.

このマップは南北逆に描かれている.騙されそう.


湯車川を渡る

湯車川を渡る

私たちは気温がさらに上昇する(この時既に十分暑かったが)前にガイドさんに伊勢堂岱遺跡に連れていってもらった.野の道を行くと左側に川があり橋が架かっていた.川先端が上流でかなり狭い流れだ.撮影している橋の辺りは橋工事のために広げられたそうだ.

そしてこの狭い川を鮭が遡上するのだそうだ.縄文人は多分容易に捕獲できたであろうから冬の食料確保には大いに役立ったであろうということだ.


4環状列石の遺跡に到着

4環状列石の遺跡に到着

橋を渡った先からは緩い登り坂となりしばらく続く.そして広々した丘に到着した.そして環状列石(ストーンサークル)で囲まれた4つの大きな土の円,竪穴住居跡の柱,竪穴などが見える.列石の一部は幾何学的繰り返しパターンのようであるが殆どランダムに置かれているように見える.ただし見えているのはダミーでその下に埋め戻された本物があるのだったかな.

4サークルの中で北に位置する未完成,半円くらいの環状列石から欠落なしの板状土偶が出土したそうだ.


環状列石から見つかった板状土偶の拡大レプリカ

環状列石から見つかった板状土偶の拡大レプリカ

縄文館に戻り,ガイドさんが出土した板状土偶の拡大レプリカを案内してくれた.この板状土偶は『伊勢堂岱遺跡出土板状土偶』として秋田県の文化財で,遺跡のシンボルとして活用されている.解りやすくていい.


これが本物の板状土偶

これが本物の板状土偶

全体に装飾が少なく腕とか省かれ縦横線(溝)だけでシンプル.ただしどれが目鼻口か解りにくい.一番上はヘルメットかな?

なお列石の下には土坑墓があり,多くの土偶が破壊されて一緒に葬られたようだ.そこで本板状土偶が無傷で出土したのが超レアケースというわけだ.

こうしたレアな出土品以外に割りと一般的で面白い土偶が下写真のように掘り出されている.


変わった土器色々

土偶1土偶2土偶3
↑土偶1↑土偶2↑土偶3

小さな土器

小さな土器

このコーナーでは比較的小型のへら形土製品,切断壺(上部が蓋になっている),石刀と石剣,赤彩壺,石棒などが並んでいた.

このコーナーのサークルストーン資料は英誌トーンヘンジ特別展に貸出中と表示が出ていた.


ストレート紐模様の土器と化粧粘土

ストレート紐模様の土器と化粧粘土

縄文は縄になわれ,その斜めの撚り線(溝)があるが,この土器のライン模様はストレートで,凸状に付されている.またネック部の紐通しリングはとても薄いのには驚く.すばらしい.

なお左側は化粧粘土だ.全部ではなく,凸部表面が赤いようだ.ベンガラ入り赤漆であろうか.


動物のようだが

動物のようだが

動物のような感じだが,前後の判別もできないでいる.多分左が前のような気がするが....なかなか迫力がある.


大湯環状列石

このつ大湯環状列石では大湯環状列石や出土品の写真を載せました.

伊勢堂岱遺跡から大湯環状列石に向かったときの眺め

伊勢堂岱遺跡から大湯環状列石に向かった.

伊勢堂岱遺跡から鹿角(かづの)市の大湯環状列石遺跡に向かった.猛暑ながらバスから眺めるにはぶんには申し分なくいい眺めだ.


大湯環状列石⑥付近のマップ(固定)

大湯環状列石⑥付近のマップ(固定)

大湯環状列石は秋田県鹿角市,標高約180m台地に位置している.

環状列石(ストーンサークル)は今回回る他所で少し見てきたし,また世界各地にあるようだがここも私には初めてで,どんなものか見てみたい.

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大湯ストーンサークル館に到着

大湯ストーンサークル館に到着

やがてバスは大湯ストーンサークル館に到着した.同館には大湯環状列石関連資料や出土品が展示されている.

これまでと違って館内を先に見て,その後ストーンサークル現場を訪ねる.


気温と海面高さの図

気温と海面高さの図

大湯環状列石が作られたのは縄文後期で気温が年々低下傾向にある時代だった.低下すると収穫できる木の実が取れなくなったり,海面の変化(低くなる)で海産物が捕れなくなったりで楽ではない時代だったようだ.またこのようなときはムラの解体や移動が起こりがちだったようだ.


大湯環状列石を空から観た写真

大湯環状列石を空から観た写真

大湯環状列石は2つの大きな環状列石,万座環状列石(径54m)と野中堂環状列石(径44m)があり,写真は前者だ.

環状列石は同心円二重になっており,野中堂も同様らしい.また列石の外側に小さな組石も多く見える.列石は主にお墓の機能(や祭祀の会場機能)を担っていたようだ.

なお野中堂環状列⽯の中⼼から万座環状列⽯の中⼼を結んだ線が夏⾄の⽇没⽅向と⼀致そうである.何らかの祭祀的理由があり,それに基づいて配置設計されたのでしょうか.


外周の組石例:日時計

外周の組石例:日時計

外周の組石は色々なタイプがあるが,これは日時計タイプの模型だ.一人用のお墓だったようだ.


採取された木の実

採取された木の実

栗やどんぐりなど植物性食料は栄養の観点から稲作が始まるまでは主食的立場にあったのではなかろうか.


石槍,嘴状石器,石匙,石鏃,石錐,石箆

石槍,嘴状石器,石匙,石鏃,石錐,石箆

漢字が読めないので仮名をふる
石槍(いしやり):打製石器の一種で棒の先につけて動物を突く.人は突かない
嘴状(くちばしじょう)石器:魚の解体などの漁労に関わる加工具や祭祀に 用いられた
石匙(いしさじ):匙(スプーン)ではなくスクレーパー,tanged stone scraperと書かれている
石鏃(せきぞく):矢の先につける石のやじり,槍先石
石錐(いしきり):剥片石器の一種で一種の携帯ドリル
石箆(いしべら):剥片石器の一種で木や骨の切削や獣皮の皮なめし,土掘りの道具
石匙はあちこちで見てきたが,やはりスプーンではなくスクレーパーだ.今回これだけは覚えたかな.


フラスコ状保存庫

フラスコ状保存庫

地面を深く掘り,植物性食料や干した魚(,それに塩漬けした肉などもか)などの保存庫だ.フラスコ状で,底辺は土器がたくさん並ぶほど広く,高さは上に伸ばした手までの長さがある.

地表の搬入者とのパートナーシップが途切れると中の男は梯子もザイルもないので地表に戻れずおさらばだ.まあ動物の落とし穴と同じか.


多様な出土土器

多様な出土土器

大きな土器が並んでいる.多くは縦長円錐,または円筒形だ.開口部にフランジや角の付いたものもある.縄文の付されたのと,それがなくのっぺりしたのが見える.色々だ.


石のお皿

石のお皿

立ち上がった縁や平面度のよなさそう内側はちょっと硯のように見える.実際はお皿だと思う(説明書きが写ってなかった).食べ物を装ったり,果実を砕いたり,粉にすり潰すために使ったのであろう.


アスファルト補修された土器

アスファルト補修された土器

アスファルト自体はここでは産せず,交易で得られたようだ.アスファルトは常温で固体,加熱し高粘性液状になるようだ.そして土器に生じたクラックに塗り常温に戻るとそこが塞がるということだ.

今日のアスファルトは石油アスファルトで,縄文時代は天然アスファルト,日本海側の秋田県,山形県,新潟県などで採れたそうだ.


土版の土偶

土版の土偶

土製品で平らに形づくったものを土版と呼ぶそうだ.土版は祭祀に用いたと考えられ,縄文後期から晩期の遺跡から多く出土しているそうだ.

ところで本遺跡で出土した土版の一つがこれで『どばんくん』と称され大湯環状列石のシンボル,マスコットになっているそうだ.紀元前1500年頃野中堂環状列石生まれ 約3500歳という.


さて実際外に出て眺めてみる

さて実際外に出て眺めてみる

大湯ストーンサークル館で色々予習したので実際の現場を見てみよう.最初は林で色々な樹木が茂っている.名前など聞くのだがすぐ忘れてしまう.


これが万座環状列石

これが万座環状列石

しばらく歩くと環状列石が見えた.円状に配された石は適当に置かれたように見える.直径54mという万座環状列石のようだ.そしてその内部には小型の環状列石も配されている.さらに環状列石外側に沿って4本掘っ建て柱建築が建てられている.住宅だったかな~


周辺には他の4本掘っ建て柱建築もあり

周辺には他の4本掘っ建て柱建築もあり

上とは別の外周には別の4本掘っ建て柱構造物があった.住居跡だったか,それともお墓跡だったか....


万座環状列石周囲の森の一部

万座環状列石周囲の森の一部

青々と茂りいい森だ.名は忘れたが赤い実を付けている木もあった.地面に近いものはいいが,上の方大変だな~梯子を掛けたかな~


道の駅かづの

大湯環状列石見物を終え,道の駅かづのに寄る

さて大湯環状列石見物を終え,次は岩手県御所野遺跡だ.そしてその前にランチのため道の駅かづのに立ち寄った.とろろそばが美味しかった.


御所野遺跡

このつ御所野遺跡では御所野遺跡の写真を載せました.


御所野遺跡⑦付近のマップ

御所野遺跡⑦付近のマップ(固定)

御所野遺跡は岩手県一戸町のこの辺りに位置している.標高200mくらいの馬淵(まべち)川沿岸河岸段丘に立地しているそうだ.

ここは何と言っても長く長~く言われ続けられてきた屋根材が茅や芦ではなく,土屋根だったということが判った遺跡だ.楽しみだ.

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御所野遺跡入り口

御所野遺跡入り口

バスは御所野遺跡につながる木製きききの吊り橋入り口に着いた.きききのつり橋とは「木」「奇」「喜」からの命名だそうだ.吊り橋は吊りワイヤとその支柱が鋼鉄製で,他は全て集積木材という.

ただ吊り橋下の谷川の名称はgoogleに訊いても分からなかった.マップを見ると根反川というのがあるのでそれかな~


きききの吊り橋を歩く

きききの吊り橋を歩く

吊り橋前では遺跡ガイドさんが待っていてくださった.そして歩き始めた.橋はあっちへ,こっちへと曲がりながら,また外が見えたり,塞がれたりしながら終点まで進む.橋終点では御所野縄文博物館があった.ここは遺跡見物後に入る.


遺跡の緑地を歩く

遺跡の緑地を歩く

そして色々案内を聞きながら遺跡の緑地を歩いた.やがて草で覆われた盛土のように見える竪穴住居が見えてきた.草屋根の下は土であるという.これが画期的なことであることは徐々に解説してもらった.

この辺りは丘陵地先端部で西のムラがあったという.やがてこのムラ周辺で縄文中期末(約4000年前)の建物構造物を復元できる良好な火災住居跡が4棟出土したそうだ.次にこの遺構の詳細な検討から土屋根の竪穴式住居のであることが明らかになったという.住居跡は炭化材が竪穴住居の輪郭に沿い,またその内側にも散在し,それら炭化材と炭化材の間には焼けた土の層(これが屋根だったのだ)が重なっていた.これで土屋根構造竪穴式住居であると明らかになったようだ.またガイド氏によれば4住宅は同時に焼け,類焼ではなく同時に故意的に焼かれたという(なお焼けなかった3軒も出土している).多分伝染病等の発生で,拡散防止狙いの焼却だったのでは,と.


土屋根構造竪穴式住居入り口

土屋根構造竪穴式住居入り口

竪穴式住居入り口に立ち,屋根を眺める.土で覆われているのでそこには地面同様草が青々と茂っている.垂木の上に直接土を置いても下に漏れるだけなので先ず栗の木の皮など敷き,そこに土が載せてある.

これを眺めると横穴式住居(たとえばモラティノスの横穴式住居のように).つまり住居の下も横も上も土なのだから横穴,いや横竪穴式か.

この構造だと茅葺き屋根,壁構造と比べて耐久性があり,断熱性が高く,北の地に適しているように見える.でも換気性は悪く蒸れるかな~


掘立て柱竪穴式住居の内部

掘立て柱竪穴式住居の内部

玄関をくぐると先ず竪穴に降りる階段がある.竪穴の深さは1.5mくらいで,穴周囲は細い掘っ建て木材で囲われている.また中央にはかまどが設けられている.換気性は悪いが,煙が立ち込める(週4回くらい)のでスーパーケムラーなどでスモークせずとも自動的に燻される効果もあろう.なおメインの掘っ建て柱は6本で,思ったより細い.

さらにこのように再現建設された掘立て柱竪穴式住居は,1999年燃やして炭化材や土の分布がどのようになるかの実験も行われ,縄文時代4軒の焼失と同様であることが検証されたそうだ.すばらしい成果だと思う.


果実の実る御所野の林

果実の実る御所野の林

もちろんこれは近年植林された林であろうが赤い果実,確かトチノキの実などが実っていた.縄文時代では大事な食料源だったであろう.


御所野遺跡博物館に入る

御所野遺跡博物館に入る

現場見物を終え御所野遺跡博物館に入った.上述の吊り橋と同じコンセプトで一体的にデザインされ,木材が多用されている.


栗の木の樹皮

栗の木の樹皮

栗の木は実に多様に使われている.栗の実,掘っ建て柱,梁,垂木,梯子などだ.加えて写真のように樹皮も有用で土屋根のベース敷き材などに使われたそうだ.丸ごと利用できるので植林も促されたであろう.


御所野遺跡出土土器

御所野遺跡出土土器

中央の土器は撚りのない細い縄文が面白い.高速道のジャンクションを連想させる.

その左は突起付き二重’フランジが特徴だ.持ち易そうだ.


御所野遺跡出土注口土器

御所野遺跡出土注口土器

なかなか繊細な模様が施された土器だ.水を注いだか,あるいは調味料.割り下,お酒...か


御所野遺跡出土土偶

御所野遺跡出土土偶

説明にあるように御所野遺跡で土偶はあまり出土してないそうだ.そんな中の2体がこれだ.やはり祭祀用であろうか.


鼻曲がり土面

鼻曲がり土面

土面(マスク)で祭祀で被られたのではないかと見られるそうだ.確かに鼻が曲がっている.でも他の部分も曲がっている.日本のマスクで言えばひょっとこのようなものか.芸能や子供のおもちゃで,若干用途が違うが.


さてこれで全ての見物が終わった.後は盛岡までバス,次いでJRで東京駅に帰る.楽しかった.中でも人骨の発掘とDNA解析,御所野の土屋根発見など非常に興味深かった.おしまい.

(2023/9/1記)


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Rev.1.0:2023/9/1