マチュピチュMachu Picchu

クスコから,今回の旅行のハイライトの1つ,マチュピチュに向かった.

列車でマチュピチュへTrain to Machu Picchu

マチュピチュへの列車車窓風景

畑を通る

クスコからマチュピチュ麓の終点プエンテルイナス駅まで,ディーゼル機関車に引かれた青い列車に乗る.6:15という早朝,クスコを出て間もなく,盆地から抜け出るためにスイッチバック運転が繰り返される.途中は概ね山岳地帯であるが,写真のように畑も多少見られる.右側のトウモロコシはこの辺が原産であろう.この鉄道は当初アマゾン源流,アンデスの向こう側まで引く計画だったようであるが,マチュピチュ麓で終わらせても観光用として事業が成り立つとして,ここが終点になったと聞く.クスコからマチュピチュまで,3時間余り要した.

オヤンタイタンボ駅

オヤンタイタンボ駅とその先

半分余り進んだところにオヤンタイタンボ(Ollantaytambo)という駅があった.ここからマチュピチュへ抜ける,所謂インカ道があるそうで,いくらかの乗客はここで下車する.ここでは手作りの素朴な人形など売り込みに,ホームや線路に地元の女性が何人もがんばっていた.

さらに行くと,徐行運転となり,崖崩れの修復工事現場を通過した.2004/03/27 12:34発信の四国新聞の記事を引用させてもらうと,
「観光客700人足止め/ペルー,雨降り続き地滑り」ペルーからの報道によると,同国南部の観光地クスコとインカ帝国のマチュピチュ遺跡を結ぶ鉄道の線路が24日夜,地滑りによる土砂で埋まり,外国人観光客ら約700人が遺跡から帰れなくなった.鉄道会社は25日から26日にかけ,ヘリコプター2機で観光客をクスコに搬送した.同遺跡は南米有数の観光地で,現場一帯では強い雨が降り続いていた.鉄道は27日には復旧する見込みという.

こう云ったニュースを予め知って,4/5朝列車に乗ったのであるが,工事は続いていたものの大丈夫であった.この路線はしばしばこのような事故が起こるようである.


下は,列車でマチュピチュへの写真あれこれ

マチュピチュへの列車の光景
チュピチュへの列車の光景 チュピチュへの列車の光景 チュピチュへの列車の光景 チュピチュへの列車の光景 チュピチュへの列車の光景 チュピチュへの列車の光景 チュピチュへの列車の光景

マチュピチュMachu Picchu

マチュピチュは標高2300mと,前日より相当低地で,クスコで高山病にかかった人も皆元気を回復した.歩き始めは小雨であったが,幸い雨が上がり,気持ちよく歩くことができた.熱帯山岳樹林帯の中央にあり,植物は多様性に富んでいるそうで,入り口近くの林の山道では蘭などが自生していた.マチュピチュ(Machu Picchu)とは,「老いた峰」の意味だそうで,有名なインカの遺跡だ.遺跡のある峰は急峻ではあるが,侵食で角が取れ,老いた峰を実感する.周りはウルバンバ (Urubamba)の深い谷で,山裾からは遺跡の存在が見えないという.

マチュピチュが何であったかについては諸説あるようだ.インカの神は太陽神であるため,太陽により近い山の頂は儀礼場として適当だった.神殿の畑など耕作地で栽培された農作物は神への供物として栽培されていた可能性が高いなど,現在,マチュピチュは宗教都市として捉える説が有力なようである.なおインカの人々にとっての神は,太陽とともに月もあり,多くの遺跡には太陽神殿(Templo del sol)と月の神殿が対で祭られている.ここマチュピチュの太陽神殿に対しては,ワイナピチュ(「若い峰」という意味で,マチュピチュ背後にある尖った山)の裏手に,月の神殿が洞窟に作られているそうである.また主神殿(Templo Principal)と呼ばれるものも見物したが,どうして”主”なのか理解できていない......

遺跡には大きな宮殿や寺院があり,王族とその生活を支える住民の住居跡がある,勿論推定であるが.最大で750名程度の人口と推定されるようだ.住民の住居跡にはいかにも生活くさい,石臼などが残されていた,この都市はインカの王パチャクティ(Pachacuti)の時代,1440年頃に建設が着手され,1532年にスペイン人により征服されるまでの約80年間,人々が生活していたようである.

マチュピチュ遺跡マチュピチュ遺跡マチュピチュ遺跡
マチュピチュ遺跡マチュピチュ遺跡マチュピチュ遺跡

下は,マチュピチュの写真あれこれ.遺跡に入ると間もなく,3mずつ上がる段々畑が40段あり,数えたわけではないが3,000段もの階段でつながっているそうだ.また石の建物の総数は約200戸あるそうである.

マチュピチュ遺跡
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さらにマチュピチュの写真あれこれ.1911年7月,イェール大学の歴史家,ハイラムビンガム氏が,この地域の古いインカ道を探検し,山の上にこの遺跡を発見したそうな.同氏は1915年までに3回の発掘を行い,マチュピチュについて一連の論文を発表し,またナショナルジオグラフィック誌 が1913年マチュピチュを特集したことで有名になったそうである.

マチュピチュ遺跡
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レストランにてat a Restaurant

遺跡入り口に下り,そこのレストランで食事をとった.レストランからさらに下るとインカ風模様生地など並べたショップを覗いてみた.総じて原色が多用され,ちょっと派手目,楽しい絵柄が目立つ.こうしてまた高原列車の駅に向かった.

マチュピチュのレストラン
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クスコへ戻るBack to Cusco

クスコ夜景

クスコはすっかり夜

マチュピチュから再び高原列車でクスコに向かった.途中の山々では,北側斜面に雪の残る峰も見える.クスコに到着する前,丘の上から見下ろすと,タングステンランプの低い色温度で照らされた暖かい街の様子がよく見える.やはり中心は,写真のようにカテドラルとラコンパーニャデヘスス教会のあるアルマス広場のようだ.


下は,クスコへ戻るときの写真あれこれ

クスコへ戻るときの写真
クスコへ戻るときの写真 クスコへ戻るときの写真 クスコへ戻るときの写真 クスコへ戻るときの写真 クスコへ戻るときの写真 クスコへ戻るときの写真 クスコへ戻るときの写真


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