パチャカマック遺跡からナスカへ向かった.
ナスカへは,パンアメリカンハイウエイで南下するのであるが,途中かなりの部分が砂漠地帯であることに驚かされる.もちろん川の流れているところや,綿花やトウモロコシ,ジャガイモ,アスパラガス,バナナなど実る畑が広がっている地帯もある.また,家畜は馬や牛が飼育されているという.車で通ったところ以外についてガイド田原さんに訊ねたら,ペルーの北の端から南の端まで概ねこのような風景だという.
砂漠地帯の農場に関連し,日本人の南米移民は1899年の佐倉丸によるペルー移民(790人)が始まりだそうだ.そして,1923年に移民団というシステムが廃止されるまでに,1万8258人もの移民がペルーへと向かったそうである.沖縄,九州からが多かったそうである.それ以降も,家族呼び寄せなどの形で移民はこのペルーへと渡り続け,現在8万人の日系人がこの国に住んでいるという.この数字は130万人以上というブラジルの次に多いそうである.移民の多くはこのような砂漠地帯の農園で著しく過酷な労働を強いられたそうで,相当数が命を落としたと聞いた.
ところで砂漠の所々には,写真のような掘建て小屋が目立つ.多くはアンデスの山岳地帯から仕事を求めて出てきて,不法に小屋を建て住んでいるのだそうである.しかし,仕事は容易には見つからないし,不法占拠した砂漠では水の確保すらままならないし.......大きな社会問題,政治問題であるそうだ.
下は,パチャカマックからナスカへ行く途中の写真あれこれ
ここは宿泊したナスカラインズホテル.プールには満々と水をたたえている.ナスカは砂漠地帯にあって,遠い昔から遠隔地から水を引く技術を有していたそうで,その一端を見物する予定になっている.
朝ホテルの前の通りを眺めていたら,子どもが続々と歩いて行く.皆道草を食いながら,進む光景はとても自然でリラックスしているように思えた.ここでも制服を着用しているのにはちょっとした驚きを感じた.
ナスカラインズホテルの壁に掲げてあったマリアライヘ(Maria Reiche/1903-1998)は,1903年独ドレスデン生まれの数学者.第一次大戦で父を亡くし,戦後,20代の終わりに単身ペルーへと渡り,「ナスカの地上絵」に出会う.「これぞ我が人生を捧げる道」と確信し,数十年研究と保護のために人生を捧げた人だ.ペルー政府は勿論,彼女の功績を高く評価し,いくつもの勲章を贈り,またナスカには彼女の名を冠した通りや学校もあるそうだ.しかしペルーの国自体が貧しく,政府にマリアの活動を財政的に援助するだけの余裕はなかったようだ.後に,妹のレナーテも姉を追ってペルーへ渡り,保護活動を共に行い,ドイツ政府から支給された年金も,マリアの著書の売り上げも,ドイツに所有していた家まで売って,全て地上絵のために注ぎ込んだそうである.仮に彼女たちの努力がなければ,地上絵の大半は車の乗り入れ等でことごとく破壊されてしまった可能性が高いそうである.
下は,ナスカ市街の写真あれこれ
さてナスカでは地上絵を先ずセスナから眺めることになった.
ナスカの地上絵は,暗赤褐色の岩を特定の場所だけ幅1m~2m,深さ20~30cm程度取り除き,深層の酸化していない明るい色の岩石を露出させることによって描かれており,規模によっては,もっと広く深い「線」で構成されているそうである.
地上絵にはサル(55m),コンドル,ハチドリ(50m),クモ(46m),犬...直線や三角形などの幾何学模様,等々が描かれ,ナスカ式土器の文様との類似点が指摘されてきたそうである.1953年,コロンビア大学のストロング(W.Duncan Strong)は,描かれた直線のうち,土中に打ち込まれた木の棒で終わっているものがあるのに気づき,棒の炭素年代測定を行ない,西暦525年頃に描かれたことが判ったそうだ.
様々な図形を大規模に描き上げた方法として,十分な大きさの原画を描き上げた上で適当な中心点を取り,そこを起点にして放射状に原画の各点を相似拡大する方法が採られた,という説が前述のマリアライヘによって提唱されているそうだ.ただ,飛行機どころか成層圏などの超高々度からでなければ見えない図形などもあるため,この方法で本当に可能か?という意見も勿論あるようだ.まあ,可能性の高い代替方法が見つかっている訳でもないようであるが....
何のために描いたか?については諸説あるそうで,(1)天体観測によってナスカ人が考え出した星座を表現したという説.(2)雨乞いのための楽隊の通り道を作ったという説.(3)土着信仰に基づく,精霊や神格化された動物を表現したと言う説.(4)UFOが飛来する際に標識とした説......等々,色々あるが定説はまだないようである.
近年,アメリカでランドサット画像から,全長50kmにも及ぶ巨大で正確な矢印が発見されたそうである.この地上絵は成層圏はおろか,上空900Kmからでないと形が判らない代物だそうで,一体何でしょう?謎はむしろ深まるばかりだ.
下は,セスナに乗り,眺めたいろいろなナスカ地上絵の写真
さらにセスナからのナスカ地上絵の写真.円錐状灌漑施設の遺跡も見える.
セスナを降り,近くのレストランで昼食をとった.ナスカは一年中殆ど雨が降らない極度の乾燥地域で,放っておけば自然にミイラになるほどだそうだ.そのため砂漠ではしばしば保存状態の良い古いミイラが見つかるそうで,どうしたことかレストランの一画に展示されていた.あまり食欲を昂進するとは思えないが......
下は,ナスカ空港近くのレストランの写真
ナスカの町からパンアメリカンハイウェイに沿って20km北上する(リマに戻る方向)と,ミラドール(Mirador)と呼ばれる観測塔がある.上述のマリアライヘ博士が建てた観測塔で,ここに登り地上絵を近くから見ることができる.見えるのは「手」と「木」で,片方の「手」の指が4本なのが謎だ.
これで見物は全て終わった.あとはバスでひたすら北上し,南太平洋の夕陽を眺め,夜になってリマに戻った.夜になってもバスの車内は真っ暗にして走る.明るくして走ると武装強盗の目に止まり,危険性が高まるためだという.う~ん,なかなか物騒だ.リマ到着後,さよならパーティで,十分食べてから空港に向かった.次はLAだ.
リマからロサンゼルスまではランチリ航空で飛び,8時間半ほどかかった.米国着の機内預入れ荷物は,検査のためカギは掛けずチェックインするのが肝要だ.もう一つ,ペルーではコカ茶を普通に飲むし,我々も高山病に有効だから,と飲んでいた.コカ茶の葉っぱは日本持込は問題ないというが,米国ではコカインの原料なので,麻薬扱いとなるそうだ.つまりコカ茶の葉っぱ持ち込みはエライことになるので十分に注意するようアドバイスされた.ロサンゼルスでは2時間余りの待ち時間で,次はヴァリグで成田まで飛び,おしまいとなった.