ホイアンHoi An

このホイアン編ではベトナムの観光地ホイアンを訪れたときのチャンフー通り,福建会館,海のシルクロード博物館(ホイアン陶磁器貿易博物館),来遠橋(日本橋),憑興家(フーンフンの家),トゥボン川辺り,広肇会館(広東会館),ホイアンの夜祭り(ランタン祭り)などを巡ったときの写真にキャプションを添えて載せました.

チャンフー通りTran Phu street

ホイアンのシルクと刺繍のお店のお針子さん

シルクと刺繍のお店

私たちはミーソン遺跡の見物からホイアンに引き上げて,シクロ(Xichlo/人力車)で旧市街を廻るためどうやら乗り場を兼ねているシルクと刺繍のお店に立ち寄った.シクロドライバーが集まって来るまでショップ内をうろつくようになっている.観光協会もなかなか上手いものだ.シルクのアオザイは,ここで今採寸すれば仕立てたものをホテルに夜届けてくれるということで注文された方も居られた.

また刺繍はなかなか細かい仕事だが複数の若いお針子さんが脇目も振らずせっせと励んでいた.働き者だ.


シクロでホイアンのチャンフー通り

シクロでチャンフー通り

さてシクロは一人乗りなので,人数分の台数が到着するとホイアン旧市街のメインストリートであるチャンフー通りへと繰り出した.途中回り道して見所も見せて貰った.この季節晴れ渡った青空の元,Tシャツ一枚で乗るのは快適で楽しい.

あまり広くない旧市街の通りは観光客でいっぱいだ.また地元の人のバイクや自転車も結構走っている.ただ車は制限されているようである.

通りに面した建物は黒い屋根,黄色の壁が印象的で,落ち着いたというか重厚というか,いかにも古都的(小さな港町で,都だったことはない)の雰囲気を醸し出している.何よりもアジアの街なのに張り出した看板とかが見当たらないのが驚きだ.代わりに住所や店名を記したシックな表示版が掲げられている.お店自体は衣類,食品,雑貨,お土産,アートギャラリー...カフェ,レストラン,ホテル...と色々揃っている.


チャンフー通りの天秤と傘

チャンフー通りの天秤と傘

おばさんの天秤と傘(ノン)はベトナム名物であるが,チャンフー通りにこの出で立ちはやはりピッタリだ.さて商品は何でしょう?向かうお店は何でしょう?レストランかな?既にベトナムでは使われていない漢字で何やら記されている.

ところで天秤竿両端のザルの掛け紐であるが,これが紐ではなく細い棒でできているのですね~これにはとても感心しました(常識なのかな?).ザルを地面に置き,竿を外したとき紐だとループが崩れて,再度竿に架けるのが大変,この細棒の蔓だと,型崩れなく,立った姿勢で容易に竿が通せますね.


チャンフー通りの赤いランタン,赤い国旗,赤い共産党旗

赤いランタン,赤い国旗,赤い共産党旗

ランタンはホイアン名物,国旗と共産党旗で,中国的な雰囲気と少し似ている.実際福建会館,広東会館,中華会館....と云った中国系先祖を持つ住民も多いようであるからなおさらであろう.

共産党旗も掲げた左のお宅は党員であろうか.前ページで触れたがベトナムでは健康保険や自動車保険加入者が少ないそうであるが,普通年金にも加入していないそうである.ただ公務員だけは退職後年金が支給されるそうだ.また公務員になるには党員である必要があるらしい,とガイドHさんに聞いた.党員が必須なのか,或いは望ましい条件なのかなど詳しくは聞けなかったが.


下は,チャンフー通りの写真いろいろ

チャンフー通りでの眺め
チャンフー通りでの眺め チャンフー通りでの眺め チャンフー通りでの眺め チャンフー通りでの眺め チャンフー通りでの眺め チャンフー通りでの眺め チャンフー通りでの眺め
チャンフー通りでの眺め チャンフー通りでの眺め チャンフー通りでの眺め チャンフー通りでの眺め チャンフー通りでの眺め チャンフー通りでの眺め チャンフー通りでの眺め

最後の一枚はベトナム名産香木の工房で職人さんが香る部分を削り出しているところ.以前から伽羅など上級のものは想像を絶する値段と聞いているので,ここでのセールス口上にはちょっと耳を塞いでいた.

世界遺産ロゴこのなかなか味わい深い町並みは『ホイアンの古い町並み』(Hoi An Ancient Town)として1999年ユネスコ世界遺産(文化遺産)に登録されている.

ホイアンの歴史

あまり正確ではないがホイアンに関わる歴史年表は下図のようである.

ホイアン周辺の歴史年表

ホイアン周辺の歴史年表

ホイアンの前に見物したチャンパ王国は16世紀初頭,広南グエン政権に取って代わられたそうである.これは現在のベトナムの主流民族であるようである.そして一旦は北の西山(タイソン)朝に依って滅びるが,18世紀末その残党が西山朝を征服し,ベトナム全土を支配するに至ったようだ.

さてホイアンは広南グエン政権が支配したころ日本を含めて,世界交易でとても栄えたのだそうである.日本は室町の末~安土桃山~江戸初期の時代に相当するようだ.

福建会館Fujian assembly hall

ホイアンの福建会館

福建会館

福建会館は福建省出身の華僑が集う集会所で,1757年に建設されたそうだ.前述のチャンフー通りに建っている.既に250年余り経だつ訳で長い歴史があるようだ.建物は複数あり,立派な龍を載せた,セメントで固められた焼き瓦の屋根など眺めると実に堅固に見える.この辺りは地震は無いが毎年台風に見舞われるそうだが大丈夫であろう.

華僑の人たちは結束が堅いことで知られるが,ここでも同郷に絆を保ちながら発展してきたのであろう.そして多くの土地,特にアジアでそうであるように,多分現地のベトナム人より豊かになったのであろう.こうした立派な建物を見るとそんな風に思えてくる.


福建会館の媽祖(天后聖母)と長い線香

媽祖(天后聖母)と長い線香

福建会館には航海や漁の守護神である媽祖(天后聖母)が祀られていた.この神様は前年マラッカの青雲亭本堂でも見かけたことが思い出された.そして両者顔立ちは似ているように思えた.媽祖神は元々中国福建省辺りの沿岸部に実在した女性という説もあるそうで,今も福建省や台湾,マレーシア,...等々,中国沿岸出身の海外華僑の信仰を強く集めているようだ.まだお目にかかったことはないが横浜中華街にもあるそうだ.

天井から下がる赤いスパイラル状のものは線香だそうで,巨大なので三週間も燃え続けるそうだ.でも実際火が灯っているのは見かけなかったような.....


ホイアンの福建会館の媽祖神にお祈りの人

福建会館の媽祖神にお祈りの人

私達のように純粋な(?)観光客も多いのであるが,当然ちゃんとした参拝者も相当数お参りに来る.やはり女性,しかも若い方が多いかな~....

お参りで一般的に灯される線香は普通の真っ直ぐなタイプであるが,日本のものよりかなり長く,中国風だと思う.堂内は少し霞むほど煙で満たされている.


ホイアンの福建会館庭の木に咲く花

福建会館庭の木に咲く花

まだ殆ど葉の出ていない木(かなり大きい)に綺麗な花が咲いていた.桜の花の付き方と似ている.さて花の名であるが,同行の方に教えてもらったのだがどうしても思い出せない,ん~ん,何だったかな~?

この花はこの後,フエのカイディン帝廟で再び見たのだが,それでも思い出せない.


下は,福建会館のいろいろな写真

ホイアンの福建会館での眺め
ホイアンの福建会館での眺め ホイアンの福建会館での眺め ホイアンの福建会館での眺め ホイアンの福建会館での眺め ホイアンの福建会館での眺め
ホイアンの福建会館での眺め ホイアンの福建会館での眺め ホイアンの福建会館での眺め ホイアンの福建会館での眺め ホイアンの福建会館での眺め

海のシルクロード博物館Silk road of the sea museum

海のシルクロード博物館は旧華僑の住まい

海のシルクロード博物館は旧華僑の住まい

表の看板では『ホイアン陶磁器貿易博物館』と称されるこの建物はある華僑の方のお住まいだったそうだ.天井が高く広い部屋で立派な造りだ.間口に比べて奥行きがあり,中庭が設けられている.中庭の壁には磁器のレリーフなど嵌め込まれ,近くにキッチンがあった.

この住宅に限らず旧市街の家は間口の割に奥行きがあるが,これは世界に古くからある都市,例えば京都などに共通する傾向であろうが,多くは土地価格と間口に比例した固定資産税対策のためであろう.なおホイアンは京都などに比べるべくもなくとても小さな街ではある.


海のシルクロード博物館展示の陶器

海のシルクロード博物館展示の陶器

今もここホイアンを含めてベトナムはシルクの生産地で当時から遠く世界に輸出されていたようだ.逆に輸入していたものや,途中の中継地としてこの展示のような陶器や磁器が多かったようである.これは海のシルクロード以前の陸のシルクロードの交易品と同じ傾向なのではなかろうか.

写真は中国製であったと思うが,伊万里焼など日本産のものや,ここに在住したという日本人陶工の焼いたとされる陶器もあったように思う.ところでシルクは保存が難しいせいもあろうが,その展示はないようだ.表の看板『ホイアン陶磁器貿易博物館(The Museum of Trading Ceramics in Hoi An)』の通りの展示であり,日本向パンフレットの『海のシルクロード博物館』は日本人の大好きな『シルクロード』を少々無理やり入れたような雰囲気が.....いくらか感じられる.そもそもこんな所で言うのも何だが,ロード(road)の語感自体が海にそぐわないであろう.でもまあいいか.


海のシルクロード博物館の交易航路図

海のシルクロード博物館展示の交易航路図

博物館の壁に航路図が掲げられていた.日本からは一旦中国に渡り,その海岸沿いを各地に寄港しながらホイアンまで南下する様子が見てとれる.ヨーロッパはシルクの主な行き先であったと思うが,マラッカ海峡からベンガル湾,アラビア海を経てアフリカ西海岸沿いを寄港しながら喜望峰を越え,あとは一気にポルトガルのポルトに到着している.またアフリカに向かわずペルシャ湾の最奥イラク辺りや,スエズ湾の最奥カイロに行く航路もある.いや~実に雄大な航路だ.また近隣のマニラ,コタキナバル,ジャカルタ方面など近いだけあって一層密な航路が描かれている.

日本人ビジネスマンは室町時代の末より,黒潮に上手く乗る航海術でここまで航海してきていたようだ.ただこれは幕府のお墨付きである朱印状と呼ばれるパスポート無しで往来していたのではなかろうか.なぜなら1601年,広南グエン朝が徳川家康宛に正式書簡を送り,国交樹立を求め,江戸幕府はこれに応じ朱印状を発行したそうであるからだ.以降30年間ほど朱印船が活発にホイアンに入港し,大規模な日本人街も形成されていたそうだ.ただその後徳川政府の気が変わり,鎖国政策で朱印船は途絶え,日本人は完全に居なくなってしまったようである.この辺は中国華僑が長く継続的に往来したり,住み着いたりしているのとは全く異なるところだ.

なお朱印船の行き先はこのホイアン以外に台湾,北ベトナムのトンキン湾,マレー,ルソン島,タイのアユタヤなどで,輸出品目は陶磁器もあったであろうが,銀や胴が多かったようだ.また輸入は砂糖などに加え,シルクも多かったそうだ.シルクは日本でも産するので意外に思うが,当時の国産品は品質が良くなかったのだそうだ.へえ~なるほど.

ところで当時栄えたホイアン港であるが,直ぐそこに流れるトゥボン川河口に位置しており,川が運ぶ土砂が堆積し,やがて港として機能しなくなり衰退したそうである.そしてこの北のダナン港がホイアンに代わって発展してきたということだ.


下は,海のシルクロード博物館(ホイアン陶磁器貿易博物館)の写真

海のシルクロード博物館(ホイアン陶磁器貿易博物館)での眺め
海のシルクロード博物館(ホイアン陶磁器貿易博物館)での眺め 海のシルクロード博物館(ホイアン陶磁器貿易博物館)での眺め 海のシルクロード博物館(ホイアン陶磁器貿易博物館)での眺め 海のシルクロード博物館(ホイアン陶磁器貿易博物館)での眺め 海のシルクロード博物館(ホイアン陶磁器貿易博物館)での眺め

来遠橋(日本橋)Japanese bridge

来遠橋(日本橋)南面

来遠橋(日本橋)南面

チャンフー通りに架かった屋根付きの太鼓橋だ.漢字で来遠橋(らいおんばし)の看板が掛かっている.中国風デザインに見えるが日本橋とも呼ばれているそうだ.レンガの頑丈そうな橋脚に木造の舗道面と柱,屋根構造が組まれ,屋根は漆喰で固めた瓦で葺かれている.福建会館やシルクロード博物館,或いは周辺の住宅同様どっしりしたもので,『ホイアンの古い町並み』に調和したものだ.

写真で南面で,左側(西)に日本人街,右側(東)は華僑街がチャンフー通り沿いに広がっていたという.日本人は徳川幕府の鎖国政策であっと言う間に引き上げ,日本の香りは感じられない.一方華僑は継続したので現在も右側は中華風雰囲気でいっぱいだ.


来遠橋(日本橋)北側面祠の本尊

来遠橋北側面祠の本尊

渡る橋の北側は塞がれ,外は見えない.塞がれているのはそこに部屋(祠)が設けられ,写真の本尊が祀られているためだ.見た通り完全に中国風風貌と装束だと思う.ホイアン一帯現在もそうであるらしいが,しばしば暴風雨と洪水に見舞われる.そしてその要因はこの辺りに棲む大ナマズだとする伝説があったそうだ.この神様(名称不明,所謂水神様か?)はその大ナマズの霊を鎮める治水の守護神ということである.

この神様も中国風であるし,まだ一向に『日本橋』と呼ばれるに至った理由が判りにくい.屋根の構造が日本建築の技法に則っているとか,当時1000人を上回る日本人会が建設資金のかなりを出したとか,日本の大工が建てたとか,華人街と日本人街を結ぶ日中友好の架け橋にとか,日本人街の脇にあったからとか,いろいろ言い伝えられているらしい.


来遠橋の犬と猿

来遠橋(日本橋)西の犬東の猿
↑西の犬↑来遠橋(日本橋)東の猿

橋の両端にちょっととぼけた表情の猿と犬の石像が祀ってある.西(日本人街側)に犬,東(華僑街側)に猿だ.申(猿)年に橋の建設が始まり,戌(犬)の年に竣工したと云うのが理由と聞いた.日本では犬猿の仲という不仲の代表のような表現もあるので,日中ちょっと離れていた方が無難かな~と両側に配置したとか,....ないと思う.


下は,来遠橋(日本橋)の写真

来遠橋(日本橋)での眺め
来遠橋(日本橋)での眺め 来遠橋(日本橋)での眺め 来遠橋(日本橋)での眺め 来遠橋(日本橋)での眺め 来遠橋(日本橋)での眺め 来遠橋(日本橋)での眺め

憑興家(フーンフンの家)Phung Hung house

憑興家(フーンフンの家)の広~い部屋

憑興家(フーンフンの家)の広~い部屋

フーンフン(憑興)さんの家は来遠橋西の袂に建っていた.木造のしっかりした造りで,写真は二階にある一間であるがとても広く天井も高い.柱や梁に装飾も施され,祭壇も設けられている.

ちょっと見難いが祭壇下の床には格子状の嵌め込み床が組まれている.これを外して,二階に家具などを上げ入れるための穴を開けるのだそうだ.これは毎年のように起こる洪水で,一階にある品々を二階に引き上げるために頻繁に使われたそうである.なお洪水は今でも秋の雨季には頻発するそうだから,現在も活用されているのかも知れない.多分そうだ.

フーンフンさんは200年ほど前にここに住んでいた華僑で,この家もそのような長い歴史があるそうだ.現在はその8代目というご子孫一家が実際に住まわれている.多くのスペースは生業としているお土産や骨董の品々を並べる陳列台や棚に充てられている.でもとても広い家なので,フーンフン一家は残りの部屋で寝起きして,炊事も,食事も,生活の全てをここで送っているそうである.


憑興家(フーンフンの家)二階バルコニーからの眺め

憑興家二階バルコニーからの眺め

通りに面する二階バルコニーからは近隣家々の屋根がよく望める.正に甍の波だ.日本の屋根瓦は一般にずり落ちないように針金で止めてあるだけであるが,ここでは漆喰でガチンガチンに固めてある様子がよく見える.台風などには強いであろう.


下は,憑興家(フーンフンの家)の写真

憑興家(フーンフンの家)の写真
憑興家(フーンフンの家)の写真 憑興家(フーンフンの家)の写真 憑興家(フーンフンの家)の写真 憑興家(フーンフンの家)の写真 憑興家(フーンフンの家)の写真

トゥボン川Thu Bon river

トゥボン川ではボートレース

トゥボン川ではボートレース

ホイアンにはトゥボン川が流れている.結構大きな川だ.トゥボン川は訪ねたミーソン遺跡近くも流れている.地図で見ると流れは単純な一本ではなく,途中で流れが複数に分岐したり.交わったり,また分岐したり,曲がりくねり....と,いかにも氾濫が繰り返され,治水しようがない川のように見える.

ちょうどこの日はボートレースが行われていた.かなり気合の入ったレース展開で,Uターン地点近くの橋上では見物客が鈴なりだ.着衣など揃ってないが,町内対抗かな?ボートレースはホイアンの夜祭りのある日(旧暦満月の日)の昼間に開催される慣わしだそうだ.


トゥボン川川岸風景

トゥボン川川岸

かつて繁栄したホイアン国際貿易港はこのトゥボン川の運びこむ土砂が堆積し,今ではすっかり寂れてしまっているそうだ.土砂は河口に近いこの街の中心部でも堆積し,川幅はかつて反映した頃と比べて随分狭くなっているのだそうだ.つまり両岸には自然の埋め立て地が形成されたという訳だ.その土地にはチャンフー通りと同様カフェやバー,レストラン,骨董品店,ランタン店,...いろいろ並び,観光客がいっぱいだ.


下は,トゥボン川とその周辺風景

トゥボン川とその周辺風景
トゥボン川とその周辺風景 トゥボン川とその周辺風景 トゥボン川とその周辺風景 トゥボン川とその周辺風景 トゥボン川とその周辺風景 トゥボン川とその周辺風景 トゥボン川とその周辺風景

広肇会館(広東会館)Cantonese assembly hall

再びチャンフー通りに来て横浜中華街の門と似た雰囲気の門構えを持つ広肇会館,別名広東会館を覗いてみた.広東出身の華僑の集会所と云うことで福建会館の広東版とみて良かろう.1877年竣工というから福建会館より100年あまり後の建設のようだ.会館と称しても同胞の墓や学校,争いの仲裁などいろいろな機能を備えるようである.日本で『県人会』と聞くと,まあ,ちょっとした友好団体程度の響きだが,福建会館,広肇会館は経団連+関連事業,といった凄さが感じられる.

ホイアン広肇会館(広東会館)の表門ホイアン広肇会館(広東会館)の中門
ホイアン広肇会館(広東会館)の龍ホイアン広肇会館(広東会館)中門の書

ここもスパイラル線香の下げられたお堂が建てられていた.やはり媽祖神が祀られているのであろうか?それと龍も凄い.中国本土で龍は皇帝専用/皇帝の化身,下々が勝手に据えたりしてはならぬと聞いている.なので皇帝以外の者は,指の数を少し変えるなど小細工し,龍紛いのものを作り,予防線を張ったとの話も聞く.ここは外国で,中国皇帝の手が及ばない,と見たのであろうか?なお11世紀くらいまではここも中国の支配下ではあったが.

ホイアンの夜祭りHoi An legendary night

ホイアンの夜祭りはランタンでいっぱい

ホイアンの夜祭りはランタンでいっぱい

私たちのツアーはこのホイアン夜祭りがセールスポイントの一つで,まあこれに乗せられて来た訳だ.ホイアンの夜祭りは太陰暦の満月の日に実施されるそうだ,概ねひと月に一回ということになるが,4年に一度年間13月あるので,その年は13回となろう.この祭りはランタン祭りとも言われ,トゥボン川沿い中心に照明が消され,色とりどりのランタンで飾られる.

私たちはライブ演奏付きレストランの筈がまだ早すぎるので,それはなし,というレストランで中華料理を早めに頂き,夜祭りにやってきた.


ホイアンの夜祭りトゥボン川にランタンが映える

トゥボン川にランタンが映える

昼間ボートレース観戦で人だかりのあった橋にもランタンが灯された.川面に映えて美しい.仕掛け花火を静止画像で見たような光景かな.

ただものすごい人出で,しかも街灯が消され真っ暗(満月の日ではあるが月が上に位置してなかったようだ)であるから,ガイドHさんの後ろをくっついて行くのは大変だった.この人混みで,もしはぐれてしまったら,さてどちらに向かえばいいのか皆目見当が付かない.なので,ようやく人混みを抜け,バスに乗ったときは,ランタンの印象もさることながら,先ずはほっとできた印象が強かった.


ホイアンの夜祭りは灯篭流しのようだ

灯篭流しのようだ

道端では灯籠が売られ,これを川に流す光景も見られる.日本の灯篭流しに似ている.ただ日本のお盆だけとかとは違って,毎月(29日毎)開催されるので宗教的意味合いを含むのかどうか解らない.あるのかも知れない,いや恐らくそうだ.因みにヒンドゥーの人もプジャで精霊流しを行うのを,ビートルズの滞在でも知られる聖地リシケシで見たことはあった.


下は,ホイアンの夜祭りの写真いろいろ

ホイアンの夜祭りでの眺め
ホイアンの夜祭りでの眺め ホイアンの夜祭りでの眺め ホイアンの夜祭りでの眺め ホイアンの夜祭りでの眺め ホイアンの夜祭りでの眺め ホイアンの夜祭りでの眺め ホイアンの夜祭りでの眺め
ホイアンの夜祭りでの眺め ホイアンの夜祭りでの眺め ホイアンの夜祭りでの眺め ホイアンの夜祭りでの眺め ホイアンの夜祭りでの眺め ホイアンの夜祭りでの眺め ホイアンの夜祭りでの眺め


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