ミーソンMy Son

このミーソン編ではベトナムの観光地ミーソンを訪れるために先ずダナンに飛び,一旦ホイアンに泊まり,後ミーソンへの道中を経てミーソン遺跡を観光したときの写真にキャプションを添えて載せました.

ダナンに飛ぶfly to Da Nang

ダナン空港の北緯16°線カフェ

ダナン空港の北緯16°線カフェ

2/4夕刻,クチトンネルを見てから一旦ホーチミンシティに戻り同国内線ターミナルよりVN1320便でベトナムのちょうど真ん中辺に位置するダナン(Da Nang)に飛んだ.機体は3-3シート配列のA321で,1時間強のフライトだった.ダナンは人口が90万人ほどで中部最大の港湾を有し,諸工業が発展しつつあるそうだ.ベトナム戦争当時旧正月(テト)に北ベトナムと南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)がダナン駐留米軍に大攻勢を仕掛けた激戦地としても知られる土地だ.

さてダナン国際航空に到着すると全てが真新しい.つい2ヶ月前にリニューアルされたのだそうだ.出口を出るとかなり涼しい,ちょうどいいくらいか,ここで当地のガイドHさんが待っていてくれた.どうぞよろしく.写真はその出口辺りの眺めであるが,16°N Air Cafeの看板の掛かるカフェが見える.北緯17°線であれば太平洋戦争終結後ベトナムを南北に分断する境界線の意であるが,16°なので『ここは南ベトナム』だよ~ということなのであろう.因みに北緯17°はダナンではなく,後に観光するフエより少し北に位置し,従って中部の主だった都市は皆南ベトナムに含まれていたということになろう.


ダナンの海鮮料理店の仏壇

ダナンの海鮮料理店の仏壇

空港からバスで海鮮料理店に案内してもらった.料理とビールはもちろん美味しかったが,中華風デザインのインテリアに加えて大きく立派な仏壇が据えられていた.『孝祠堂』と名付けられ,観音像が置かれていた.レストランオーナーが先祖の霊を祀るための仏壇で,日本のそれに近いであろうか.

柱や壁に漢字で色々記されているが,学者やお坊さんなど除き殆どの人は読めないそうではあるが.ここのオーナーは別に中国系民族ではなく,普通のベトナム人だそうであるが,仏教や儒教的信仰心にはとても篤いようである.


下は,ホーチミンからダナンに飛んだときの写真

ホーチミンからダナンに飛んだときの写真
ホーチミンからダナンに飛んだときの写真 ホーチミンからダナンに飛んだときの写真 ホーチミンからダナンに飛んだときの写真 ホーチミンからダナンに飛んだときの写真

ホイアンに泊まる stay overnight at Hoi An

ホイアンのHoi An Trails resort & spaに落ち着く

Hoi An Trails resort & spaに落ち着く

ダナンで夕食後バスで海岸沿いを南下し,ホイアンのHoi An Trails resort & spaという長い名のホテルに落ち着いた.広々した部屋でここでは二連泊の予定だ.私の部屋はそうでもなかったが,部屋によっては少々湿っぽいところもあったようだ.また涼しいので冷房は不要だった.


ホイアンのホテルで朝から泳ぐ人あり

ホイアンのホテルで朝から泳ぐ人あり

翌朝目覚め,バフェのレストランで朝食を食べた.普通の洋食がメインで美味しかった.食後庭に出るとプールで泳いでいる人がいた.ホーチミン市と違って朝のうちは結構涼しいが,タフな人たちだ.

庭には色々な花が植えられていたが,特にこの時間に合わせて開いたのであろう赤い池の睡蓮は美しい.


ホイアンのホテル前朝の光景

ホイアンのホテル前朝の光景

ホテル前の通りは通勤のバイクが通り過ぎている.周囲には木立も多く田舎町の趣きが,マスク姿は多い.排気ガスも然程ひどくなくとも巻き上げる埃が多いのであろうか.

ガイドHさんの話ではベトナムでは自動車保険や健康保険など,保険一般には殆ど加入していないそうだ.だから事故で怪我をしたり,呼吸器系の病気などになると大変なのでマスクで自衛しているのであろう.お気を付けて.


下は,ホイアンに泊まったときの写真

ホイアンに泊まったときの写真
ホイアンに泊まったときの写真 ホイアンに泊まったときの写真 ホイアンに泊まったときの写真 ホイアンに泊まったときの写真 ホイアンに泊まったときの写真 ホイアンに泊まったときの写真

中保の写真,ホテルの隣にちょっと変わった建物が建っていた.屋根上の立派な龍,亀の上の龍のような鳥のような....壁の絵,さてお寺であろうか?

ミーソンへの道中Way to My Son

ミーソンへの道中,朝の茶屋風景

ミーソンへの道中,朝の茶屋風景

ホイアンのホテルで朝食後バスでミーソンへと出発した.途中米作を主とした田園地帯を走るが,途中幾つかの町を通過する.ここは街道沿いの朝の茶屋風景だ.女性や子供もいるが,やはり若い男性が多いようだ.


ミーソンへの道中,水田とお墓

水田とお墓

水田が広がっている.二期作だそうだ.土地は私有制だそうで,「へえ~そうなんだ」と思った.中部地帯の秋は雨季で,また台風の影響もあって水害に見舞われることが多々あるという.幸い今は乾季で晴れる日が多いようだ.もちろん観光の適期でもある.ベトナムで米は一人当たり月に11kgくらい消費されるというからかなり多い.ご飯だけでなくフォーや春巻きの皮などにも多用されるためであろう.なお現在ベトナム人の平均年収はUS$1500(20万円足らずで日本の1/20くらいとか)でとても低いが米などの物価が安いので生活が維持できるのだそうだ.

水田の中に大きなお墓が見えている.宗教に依らず一人ひとりが土葬で埋葬されるそうで,お墓だけは日本より立派です,とガイドHさんの解説あり.

住宅も立派なものが結構ある.建設中の住宅を観ると判るがレンガとコンクリートで作られるうようだ.昔は竹や木でも築かれたが現代では殆ど使われないという.強度の問題や,木材はとても高価なことが理由だそうだ.なおレンガは普通電気炉で800~1000℃くらいで焼成され,作られるそうだ.


ミーソンへの道中,自転車もあり

自転車もあり

ホーチミンシティでは殆ど見かけなかったか,少し田舎に来ると道路が空いているためか自転車も活用されている.いや或いは免許年齢に満たない若い人たちかな....?

ホーチミンシティでは「バイクがないと結婚できませんよ,だってデートができないんだから」と聞いていたので,こうしてチャリのカップルを見かけると少しほっとするような気になる.


下は,ミーソンへの道中の写真

ミーソンへの道中での眺め
ミーソンへの道中での眺め ミーソンへの道中での眺め ミーソンへの道中での眺め ミーソンへの道中での眺め ミーソンへの道中での眺め ミーソンへの道中での眺め
ミーソンへの道中での眺め ミーソンへの道中での眺め ミーソンへの道中での眺め ミーソンへの道中での眺め ミーソンへの道中での眺め ミーソンへの道中での眺め

ミーソン遺跡My Son Sanctuary

ミーソン遺跡に到着

ミーソン遺跡に到着

ホイアンから南に1時間ほど走ってミーソン遺跡に到着した.ゲートからは電気カートなどで林を走り,雑草で覆われたレンガ建築や石造り構造物群から成るミーソン遺跡に至った.レンガ積みの構造物は温暖で水分が十分な気候のお陰で雑草がかなり生えている.それでも草だけで,カンボジアのタプローム寺院のように木は生えてないのは幸いであろう.

ここはチャンパ王国(チャンパ人の国で,現住民ベト族とは別民族だそうだ)の宗教,ヒンドゥー教の聖域だったそうである.また周囲の山の一つは聖山マハーパルヴァタとされ,7世紀から13世紀に建造されたそうである.

大まかな年表で示すと下図のようになっているようだ.

ミーソンの歴史年表

ミーソンの歴史年表


チャンパ王国そのものは極めて長く,日本の弥生時代から室町の時代まで存続し,その中で飛鳥後期~鎌倉初期相当に本ミーソン遺跡群が築かれてきたようである.こうして改めて日本の歴史と対比するとその古さが認められる.またお隣りカンボジアの有名なやはりヒンドゥー遺跡(後に仏教寺院に改修)アンコールワットは12世紀頃の建立というから,それよりは圧倒的に古い訳で,よく耐えたものだと思う.


ミーソン遺跡の石の構造物

石の構造物

レンガ構造の他に,このような大きな石の構造物も残っている.前日到着したダナンは大理石の産出と加工が盛んであるそうだから,そうした材料も使われたのであろうか?

ところでチャンパ王国はある程度の広がりはあったのであろうが,ベトナムの一部,つまりここ中部周辺に留まっていたようだ.ヒンドゥー教は隣国のアンコールワットや,バリ島のように当時インドからかなり遠くまで栄えたようだ.チャンパ王国はその後何度か戦争で衰退し,消滅,現在はその一部が少数民族の一つとして残っているそうである.


ミーソン遺跡のレンガ済みとレリーフ

レンガ済みとレリーフ

レンガ積み建造物は神殿,一般参拝者のお祈りの場,お清めのための館等々の説明を受けた.積み上げたレンガとレンガに隙間はなく,極めて高精度に重ねられているのが驚異的だ.

チャンパ王国のヒンドゥー主神はシバ神で,建物の壁には関連の女神であろうか,レリーフが刻まれている.レンガではなく石像も残っている.ただこの聖域が20世紀初頭に仏人によって発見されたのだが,その植民地支配時代にかなり盗掘され持ち出されたそうでもある.さらに致命的だったのはベトナム戦争で米軍の空爆で,遺跡の大半が破壊されたことだそうだ.そして残った僅かな部分が今見物している所というわけだ.


ミーソン遺跡オリジナルのレンガ積みと修復の跡

オリジナルのレンガ積みと修復の跡

写真は元のレンガ構造物を一部修復し資料館として彫刻等展示してある建物の壁である.右半分はオリジナルのレンガ積み部分,左半分は最近修復された部分である.修復された部分には一般的なレンガを漆喰(セメント)で固める工法で積まれている.しかしオリジナルの部分はレンガの面精度だけに頼る積み上げただけの工法だ.レンガは焼成すると変形し,面精度が狂いがちであるので一体どのように高精度のレンガを作ったのでしょう?上述の女神像レリーフは積み上げたレンガを彫り上げたように見えるように面が滑らかに繋がっていた.であるから,構造用レンガは焼き上げた後で,何らかのレンガより更に硬い研磨剤で磨いて平面に仕上げたのであろうか?この点が一番謎でまた興味が尽きない.

なお積み上げて完成するまではずれないようにご飯粒の糊のようなもので仮止めしたのかな~と,ガイドHさんの推論が披露された.

もう一つ,プリズム形(楔形)の屋根も興味深い.ドーム型屋根は世界あちこちで大建築含めて多く見られるがプリズム形は比較的稀ではなかろうか.これも梁とかなくレンガのみで積み上げ強度を維持している.持っていたカメラのAFがタコでフォーカスせず,またカナジーの老眼ではファインダーが暗くて見えず,結局残念ながら写せなかった(涙).


ミーソン遺跡のリンガとヨニ

リンガとヨニ

リンガとヨニはインドやスリランカ,ネパールなどヒンドゥー国や教徒の多い国でよく見かける豊穣,繁栄のシンボル.あまりにも直截的な『ご神体』であるがヒンドゥー国ではアッケラカンとごく日常的に扱われている.こちらは少し呆気にとられるのだが.


ミーソン遺跡サンスクリット語の碑文

サンスクリット語の碑文

サンスクリット語で記されているのだそうだ.そうであれば読める人は幾らでも居ようから,それなりに判ることが多いのではなかろうか.でもガイドHさんから,内容に関する説明が無かったのは少し残念かな.


下は,ミーソン遺跡の写真

ミーソン遺跡の写真
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下段の写真首の無くなったシバ神像のように首が取られたものがかなりある.ウイグルに於けるイスラムの偶像破壊とかではなく,研究者とかが持ち去ったのが多いようだ.そのうちの幾つかはルーブル博物館に収められているらしい.

世界遺産ロゴなおこの遺跡は『ミーソン聖域』(My Son Sanctuary)として1999年ユネスコ世界遺産(文化遺産)に登録されている.


ミーソン遺跡の帰りに寄った船型レストラン

ミーソン遺跡を見物し,ホイアンに引き上げる途中川のほとりの船型レストランで昼食を頂いた.いかにも観光レストランといった趣きで,メニューも決まりきったもののようで,座ると直ちに料理(何だったかな~?)を出してもらった印象が残る.

船型レストラン船型レストラン内部
↑船型レストラン↑船型レストラン内部


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