南京Nanjing

江南の地図

南京は江蘇省の省都.長安,洛陽,北京と並んで中国四大古都の一つとされる.三国時代,孫権が都をおいた建業は今の南京の旧称.南北朝時代,南朝の都となり,朱元璋が元を倒したときに都としたのも南京であったそうだ.北京に遷都した後も南の都として繁栄し,北京に対比して南京の名が付けられたそうである.近年,これから訪れる陵墓のある孫文が中華民国臨時政府の都とし,蒋介石も中華民国の都を置いた地でもあるそうだ.

現在郊外を含めた総人口は約640万人で,自動車,電子,鉄鋼,石油化学などの2次産業に加え,観光業,物流,金融,情報センターなど3次産業も伸びているようだ.

夫子廟(孔子廟)Confucios’ Temple

夫子廟エリア

夫子廟エリア

夫子廟は別名孔子廟で,孔子を祀っている廟であろうが,廟そのものはどこかにあった筈であるが見逃した.ただ南京で夫子廟というと左写真の秦淮河周辺から建康路周辺の地域も夫子廟と呼ばれているそうだ.南京有数の歓楽街でもあるようで,川辺には屋形船が浮かび,多くの店が軒を並べている.なお秦淮河は長江の支流だそうだ.


夫子廟のいろいろなお店

いろいろなお店

この界隈には我々を含めて御上りさんが多いようだ.所謂普通の土産物店から,客引きを配した超市(スーパーマーケット)とか,特許専売の菓子店から,雑誌スタンド,マクドナルド....といろいろ並んでいる.


科挙試験に縁深い秀才のブロンズ像

江南貢院

江南貢院は南宋時代(1169年~),当初県と府の科挙試験場として創建されたそうだ.後に,明の太祖朱元璋が南京を都に定めたため,国レベルでの試験場としてさらに重要になったのだそうだ.この通りには科挙試験に縁深い秀才のブロンズ像が何体か並んでいる.例えばこの人は案内板によれば呉承恩さん,およそ1500年~1582年,字は汝忠で号は射,山陽人で明代の小説家,26歳の時南京に来て,地方試験を受けるも失敗,以降幾度となく受験するも42歳まで不合格..(..この間理解できず..)..60歳過ぎ,浙江省長興県丞を勤めた.晩年は著述に専念し,「西遊記」を記した,ということか?漢字を適当に解釈したので.....

南京のローカルガイド,同名の呉さんの説明によれば,呉承恩氏は幼少より秀才の誉れ高い人であったが,そういった人でさえ科挙試験は難物であったようだ.科挙試験受験者は何日もの間,小さな個室にこもって試験を受けねばならなかったが,この個室は号舎と呼ばれ,最盛期には実に20,000室余に達したそうな.ブロンズ像の後には試験官の部屋も必要だったということで,詰め所であった明遠楼が保存されている.


下は,夫子廟の光景あれこれ

夫子廟の光景
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夫子廟の光景 夫子廟の光景 夫子廟の光景 夫子廟の光景 夫子廟の光景 夫子廟の光景 夫子廟の光景

明考陵Imperial Tombs of the Ming

明考陵入り口

明考陵入り口

「明考陵景区」の入り口看板は世界遺産マーク入りの立派な石造り.明太祖朱元璋の陵墓は,樹木で覆われた周囲約1,100mもあるという円形の山であるそうだ.墓石や建物がないので,埋葬位置をピンポイントで特定することはできていないそうである.もちろん現代の技術で調べれば判るのであろうが,こう云った遺産が数多い中国では,今のところそ~っとしておくのがいいと判断しているのであろう.周辺には三国時代の孫権の墓などがあり,位置的にはそちらが露払いのような場所に相当するようで,まあ明太祖は孫権より偉大だったと誇示したかったようである.

朱元璋の死後,二代目皇帝恵帝は「孝陵衛」を設け,5,600名もの用兵が明孝陵保護のための任務に当たったそうである.また清の時代に入り,乾隆帝の頃までは明孝陵の手厚い保護が講じられたが,後の代では崩壊させてしまったそうである.見物はしなかったが,今は城壁の一部が残っているようだ.

動物の石像

動物の石像

正式には神道というのか(?),石像路を歩いた.この写真の象や,麒麟,馬,獅子など12 種類の動物石像がそれぞれ道の両脇に対になって並んでいる.石像は重さが6トンもあるそうで,ここまで運ぶのは大変であったであろう.何でも,浅い水路を堀り,注いだ水が凍った時に,そこを滑らせて運んだそうである.それでも丘の上だし,楽ではないことは確かだ.石像路は曲がっており,その形状は北斗七星をかたどっているのだそうだ.


プラタナス並木

プラタナス並木

南京はそれまでの蘇州,無錫,揚州,鎮江に比べて木が多い.特にここ明考陵を含めて,プラタナスの並木がよく見られる.木々は,地上2~3mで摘心されたのであろう,そこから3本くらいに枝分かれした形で統一されている.白い木が連なる風景はそれだけでも十分美しいが,初夏の頃は高温多湿という気候で青々と葉が繁り,一層印象的になろう.その光景が瞼に浮かぶようだ.


下は,明考陵での写真あれこれ

明考陵での写真
明考陵での写真 明考陵での写真 明考陵での写真 明考陵での写真 明考陵での写真 明考陵での写真 明考陵での写真

中山陵Dr. Sun Yat-sen’s Mausoleum

中山陵登り口アーチ

中山陵登り口アーチ

辛亥革命の指導者,中国国民党旧党首孫文(字は中山)先生(1866-1925年)の陵墓が中山陵.頂上の墓室に至る登り口にこのアーチが立っている.日本語でも併記された案内板によれば,1926年~1929年に建設され,ここから墓室まで392段の階段,2000ム(面積の単位?)の敷地は,民衆を起こして国家と人民を救うことに身を投じた精神を象徴し警鐘(アラームベル)型となっているそうだ.なお階段の段数392という数字は,1925年当時の中国総人口3億9千2百万人に由来するそうである,

孫文の年表は以下のようである.

中山陵祭堂

祭堂

登り口アーチから並木道を越え,途中中山先生直筆という「天下為公」の額が掲げられた陵門を過ぎ,広い階段を登り切るとこの祭堂に至る.ここからは南京の街を広く鳥瞰することができる.このお堂のアーチ型入り口の額には,民権,民生,民族の文字が篆書体で記されている.民族の独立(民族主義),民主制の実現(民権主義),地権平均/資本節制による経済的不平等の是正(民生主義)を骨子とする彼の三民主義を表した言葉だ.


孫文座像

孫文座像

祭堂の中央に大理石製の孫文先生の座像が置かれている.この後ろ側が墓室になっており,墓室内部円形の大きな窪みがあり,表面に孫文の全身大レリーフが刻まれた大理石の棺が配置されていた.

祭堂の裏側は資料展示スペースとなっており,孫文先生や中山陵建設に関わる諸資料がパネルで展示されている.


入場料80元と記された中山陵入り口の案内表示

入場料80元

写真は中山陵入り口の案内表示.訪れた時の為替レートは1人民元=¥16.4だったので,80元は1300円くらいに相当する.国民に尊敬される人物の陵墓にしては随分入場料が高いようにも思う.ただ中山陵はとても広く,参拝を済ませた後,例えば陵内に据えられた大きな香炉を眺めたり,陵内遊覧バスで巡ったり,ピクニックを楽しんだり,ショップで締めくくったりすることができるので,多くの市民が訪れていた.


下は,中山陵の写真あれこれ

中山陵の写真
中山陵の写真 中山陵の写真 中山陵の写真 中山陵の写真 中山陵の写真 中山陵の写真 中山陵の写真

南京市街City of Nanjing

玄武湖

玄武湖

南京は大きな街で,高層建築の建ち並ぶところもあるが,このような豊かな水をたたえた湖,玄武湖というそうだ,や,街を長江が二分するように流れ,なかなか風情ある景観だ.また樹木が多く,特に郊外では大きなプラタナス並木が続き,なかなか見事だ.


南京駅

南京駅

宿泊した新世紀大酒店(下の写真)からほど近い場所に南京駅があった.地上の列車と地下鉄の駅になっているそうだが,駅舎は新しく見えるので多分最近なって建てられたものであろう.普通車の切符販売/待合室は2階,一等車のそれは1階,と分かれており,1階は空いている様子だった.JRとはかなり違うが,空港で,エアライン各社のラウンジがファーストクラスとかビジネスクラスの客に限定されているのと少し似た考えかな?


新世紀大酒店

新世紀大酒店

何の変哲もない西洋建築の外観のホテルであるが,ロビーでは民族衣装で身を包んだミュージシャンが中国音楽を奏でていた.かなり新しい建物であろうが,お手洗いの流れがちょっと具合悪かったりするのがちょっと残念だ.最新の空港やホテルなどしばしばTOTOブランドにお目にかかるようになったが,このホテルのバス設備などと比べてやはり一歩進んでいるのだと感じる.

南京では「南京ダック」を食べたが,北京ダックがパリパリの皮だけを衣に包んで食べるのとは違って,まあ普通に調理した皮付きアヒル肉をそのまま普通に食べるものだった.かくして特徴は?と問われても,筆者的には別段の記憶を引き出すことができなくなってしまっているが......


下は,南京市街の写真あれこれ

南京市街の写真
南京市街の写真 南京市街の写真 南京市街の写真 南京市街の写真 南京市街の写真 南京市街の写真 南京市街の写真
南京市街の写真 南京市街の写真 南京市街の写真 南京市街の写真 南京市街の写真 南京市街の写真 南京市街の写真

南京と言えば先ず南京虐殺を頭に浮かべるが,今回はガイド藩さんも触れず,また客の方も敢えて聞こうとはしなかった.南京に到着する前の休憩所でこれに関する本があったので買ってきたが,中国語なので殆ど読めてない.ただ一般の売店で南京虐殺だけの本が,現在日常ごく普通に売られている事実は少し重く受け止めたい.

資料をめくると,1937年の第二次上海事変の戦闘に破れた中国軍は撤退を始め,首都であった南京を中心として防衛線を構築し,抗戦する構えを見せた.日本軍は撤退する中国軍を追い,次々と突破.やがて南京城を包囲し,投降勧告を行った.中国軍がこの投降勧告に応じなかったため,日本軍の総攻撃が始まり,間もなく南京は陥落.この日本軍の南京進撃中に残虐行為,女性,子供を含めた非戦闘員市民の殺害など,を行ったと言われている問題だ.

南京には「南京虐殺記念館」があり,毎日大勢の中国国民が訪れ,改めて反日感情を強めて帰っていくと言われる.何とかしなくてはと思うが,......



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