蘇州Suzhou

江南の地図

夕方成田からの便は上海浦東国際空港に到着し,途中で夕食をとりながら,蘇州までバスで行きここで泊まった.蘇州は江蘇省東南部,長江デルタの中心部,太湖の東岸に位置する.上海蟹を産する池も多くある.古くから絹織物で発展した国家歴史文化名城で,春秋時代には呉の都が置かれ,呉文化圏の中心であったそうな.現在,上海市に隣接する地の利で,江蘇省の経済的中心であり,市区人口200万人超,郊外合わせて600万人.

藕園(ぐうえん)The Couple Garden Retreat

藕園の庭

藕園の庭

蘇州名園の1つがこの藕園だそうである.総面積8000㎡で,清の初期に造営され,後になってこの地方の総督,沈秉成という方が隠居した後に再建されたそうだ.邸宅と東西に写真のような庭園がある.庭には湖石(注)の築山や池が配され,足元は玉石で舗装されている.

沈夫妻ともここに隠居したため「藕園」と名付けられたそうである.中国語で藕は偶とは発音が同じだそうで,偶を広辞苑第5版で見ると,偶:(1)ならぶこと.対(つい)になること.たぐい.つれあい.....とあるので,なるほどと思う.当時この地の名士がよく藕園に集い,宴を催し,詩を吟じ,骨董を鑑賞したりしたそうだ.引退後の役人の理想的な生き方であったそうだ.まあ,今でも可能であれば理想的であろう.1895年,沈秉成が亡くなった後,庭園は民家に変わったり,別の学者が居を構えたり,保養所や保育園として使われた経緯があるが,近年蘇州市の管理下におかれ,修復工事の後一般公開されるに至ったようだ.

(注)湖石/太湖石:この後訪れる太湖に浮かぶ島洞庭西山から採れる石.長年,アルカリ水質の太湖の浸食で,穴だらけのいろいろな様相になった硬質な石灰岩.歴代の文人が好み,ここ藕園はじめ,寒山寺などあちこちで見ることができる.いまは殆ど採り尽くされたようである.

女船頭さん

女船頭さん

藕園は一方は通りに面し,三方は小川に面している.藕園の勝手口(のような所)の1つには船着場があり,現在は観光用のボートに乗ることができるようになっていた.我々の船頭さんは船を漕ぎながら唄(多分地元の民謡か?)を披露してくれた.


下は,藕園の写真あれこれ.中国国内からの観光客が多い.

藕園の写真
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平江路とクルーズPingjiang Road and a cruise

平江路

平江路

平江路は蘇州で一番大きな通り「干将東路」近くにあるエリア.古い街並みを保存している.この写真の婦人のように通りを行き交う人や道端で野菜を並べる人も伝統的なライフスタイルから逸脱していないように見える.


白い壁と黒い屋根

白い壁と黒い屋根

景観保存のために建築物は伝統的な素材,工法,配色を維持すべく規制されているようだ.普通のエンジンバイクは禁止され,電動バイクが音もなく行き交っている.市民も家族連れでゆっくり散歩を楽しんでいる.脇の運河には市清掃局の清掃船が頻繁にごみ掃除を行っている様子が見られる.


平江路の運河

運河

蘇州と言えばやはり運河で,東洋のベニスとも称されるようだ.ベニスのように運河が多いが,道はベニスほどには狭くはないので,車は一切無く,船だけ,と云うことはないようだ.建物もベニスのように高くないので圧迫感は少ないと思う.ここを小さな屋形船でクルージングしたのであるがなかなか趣深い.行程が結構長かったためかここでの船頭さんは男性であった.やはり美声で唄を披露してくれたが,中国語の案内は,筆者にとっては猫に小判,チンプンカンプンだった.


淡水の運河

淡水

ベニスは海水で,ここは淡水の運河であることも差異の1つだ.そのため運河では洗濯する人が見られる.ただクルージング中,いきなり傍の民家から残飯排水が放り込まれたことがあったのには参ってしまった.

平江路一帯の印象として,観光地ではあるがお土産店などは殆ど見られず,伝統的な街並みの中で,ごく普通の日常生活を垣間見ることができていい処,と思った.これから観光客が増えると変わるかも知れないが.....


下は,平江路の写真あれこれ

平江路の写真
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シルク研究所Silk Laboratory

研究所と称しても,中国ではお約束のシルク製品(真綿布団など)販売所に案内された.ここ蘇州にあっても他都市のシルク製品と特段の違いはなく,やはり日本人や韓国人がメインターゲットなのであろうと思った.

シルク研究所シルク研究所
シルク研究所シルク研究所

寒山寺Hanshan Temple(Cold Mountain Temple)

寒山寺の外壁

寒山寺の外壁

黄色の壁が印象的な外壁を辿って行くと寒山寺の山門に至る.寒山寺は502年頃の建立,当初妙利普明塔院の名であったが,唐の時代,寒山と拾得がここで修行した所以で寒山寺に名を変たそうな.中国仏教の歴史的/政治的背景から殆どすべて禅宗の寺院で,建物や仏像,羅漢,....など,多くは似ている,とガイド藩さんが言われていた.


寒山と拾得(じっとく)像

寒山と拾得(じっとく)像

胸はだけ,髪は乱れ,顔には喜びの表情の寒山と拾得像.寒山の外見は乞食同然だが口をついて出る言葉には皆哲理があり,常に拾得と共に詩を詠み,また偈を吟じたりしていた.彼の詩集も後世に伝わっており,唐代の傑出した詩人,隠遁僧とされているそうだ.

寒山も拾得も実在の人物だそうだ.寒山は天台翠屏山に隠棲していた高僧で,唐代の貞観年間にこの寺に逗留した.拾得は天台山国清寺の豊干禅師に拾われた孤児だったことからその名がついたそうだ.寒山と拾得は,7世代にわたる仇敵同士の家に生まれたが,豊干禅師が2人に悟りを開かせ,ついに仲直りした.その後二人は朝も夕べもともに暮らし,高僧となったということである.民間では寒山,拾得はそれぞれ普賢菩薩,文殊菩薩の化身と見なされているそうであり,こうなるとチベット仏教の生き仏,ラマと少し似たものがあるような気もする.

文化大革命ではこの高名な寺の本尊さえ破壊されたそうであるが,現在は再建され,寒山寺には今30人余りの僧侶が修行しているそうだ.

普明宝塔

普明宝塔

寒山寺の大殿の後ろに配置されている高さ42mの五重の塔.史書によれば,妙利普明塔院と呼ばれていた北宋(960~1127年)の時代,ここには七重の仏塔が建てられていたそうだ.しかし元代の末期戦火にあって壊れ,以来寒山寺は何度も盛衰を繰り返したが仏塔の再建はできなかった.近年になり,寒山寺住職である性空法師が社会各界や信者,友好団体の多大な協力を得て唐代の楼閣の様式を模して,この五重の塔を建立したということである.1996年竣工だそうだ.

寒山寺は日本とも縁深いようだ.例えば鐘についてだが,寒山寺誌によると「倭に遇い変銷して砲となす」とあり,過去に,主要な鐘(二代目くらいの鐘)が日本人により持ち出されたと言う説が強いそうだ.この話を聞いた日本の僧,山田寒山は日本各地を訪ねて鐘を探したが見つからず,1905年伊藤博文とともに発起人となり,寄付を集めて2.5トンの鐘を鋳造し,寒山寺に寄贈したそうである.現在この鐘は,寒山寺の多くの鐘の中の1つとして大雄宝殿に納められているそうである.

寒山寺では毎年の大晦日,除夜の鐘を聞きながら新年を迎える祝典を行っているそうだ.この行事は1979年,日本の藤尾昭さんという方が発起人となって始まったそうだ.それ以来,毎年大晦日になると,この寒山寺で除夜の鐘を撞こうと多くの日本人観光客がやってくるそうだ.またそれだけでなく,中国人や各国の観光客も参加するようになったそうである.

張継の「楓橋夜泊」石碑

張継の「楓橋夜泊」石碑

唐代の張継という方が,3回目の科挙試験不合格で,帰路ここでが詠んだのが「楓橋夜泊」という有名な詩だそうだ.日本語訳は,

月落ち烏啼いて霜天に満つ
江楓漁火愁眠に対す
姑蘇城外の寒山寺
夜半の鐘声客船に到る

張継さんはその後科挙試験をパスし,官吏になったそうだし,また寒山寺はこの詩で一層名を知られるようになったそうだ.また詩の拓本は寒山寺直営ショップはもとより,あちこちで販売されていた.ただオリジナルの拓本かどうかは定かでない場合もあるというのでよく観てからの方がいいかも.夜半の鐘声の鐘は,何度も消失しているので現在の鐘の音色とは異なっているであろうが,はてさてどんな音色であったか...?
因みに前述のように日本からの除夜の鐘ツアー客が多いそうだが,音色そのものは若干重厚さを欠くも,一回撞くと10年若返るというご利益が何とも魅力的,との評を聞いた.


下は,寒山寺の写真あれこれ

寒山寺の写真
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刺繍研究所Embroidery Laboratory

両面刺繍

両面刺繍

静物がモチーフのこのような刺繍はとても美しい.これに限らず,花鳥,山水など伝統的中国画手法で描かれた作品も多い.キセノンランプでの照明が,ちょうど絵筆のストローク方向と似た感じで這うシルクの細い糸に反射し,油絵以上の立体感をかもし出す.蘇州の刺繍は両面仕立てで,背景(地)は半透明の生地が使われている.この両面であることが,フランス刺繍などとの最大の違いであるそうだ.なので,屏風のように床に置き,どちら側からも見ることができる.概ね互いにミラーリングした絵柄になるが,多少変化させたものや,かなり違うものもあったと思う.

刺繍作業

刺繍作業

30代くらいの女性が刺繍作業を見せてくれた.かなり経験を要するのと,よい眼や細かい指運びが要るので,30代~40代女性が多いようである.色つやに優れた蘇州シルクを100色以上用いて,70以上のグラデーションを表現することで,並みの刺繍を大きく超える作品に仕上げるという.1作品を作るのに1ヶ月以上,大きければ数ヶ月かかるそうだ.細かい針運びを見ているとそれくらい十分にかかりそうだと思った.


下は,刺繍研究所の写真あれこれ

刺繍研究所の写真
刺繍研究所の写真 刺繍研究所の写真 刺繍研究所の写真 刺繍研究所の写真 刺繍研究所の写真 刺繍研究所の写真 刺繍研究所の写真

虎丘Tiger Hill

虎丘は2000年の歴史を持つ「呉名第一の名勝」と称されているそうだ.春秋戦国時代,ここに呉王の夫差(ふさ)が父親を葬った.その3日後,白い虎が現われ,墓の上にうずくまっていたと言われるのがその名の由来であるという.

虎丘入り口ゲート

虎丘入り口ゲート

入り口には切符もぎに若い女性があたっている.割と珍しいかな?この入り口の先には,上述の寒山寺のトーンと同じ黄色の壁と黒い重厚な瓦の門が見えている.


試剣石(Sword Testing Rock)

試剣石(Sword Testing Rock)

ここはは春秋時代の呉王夫差が父の闔閭(こうりょ)を葬った陵墓であるが,能書き(のガイドさんの解説)によれば,その闔閭が生前剣の試し切りをさせたという刀の跡だそうだ.圧倒的な切れ味だ.(まさか!)


千人石(Thousand People Rock)

千人石(Thousand People Rock)

よく解らないながら案内板によれば,晋代の高僧生公の説法を聞くために平らなこの岩の上に1,000人もの人が集まったと伝えられるようである.また一説には,闔閭墓造営に携わった千余人の工夫が竣工祝いに招待され,宴の後,墓の秘密を守るために皆殺しにされ,その血で石を染めた場所とも伝えられるようである.剣を好んだ闔閭の墓だけに,名剣が3千本も副葬され,墓泥棒から守りたかったのであろうが....ひど過ぎる.

その後,秦の始皇帝や呉の孫権がこの剣を掘り出そうとしたが発見できなかったそうだ.現在も正確な埋葬位置は不明のままだそうだ.

虎丘塔(雲岩寺塔)

虎丘塔(雲岩寺塔)

虎丘の頂上に建つは,宋の建隆2年(961年)に建設されたレンガ造り八角形の七重の塔.高さ約47.5mで,400年ほど前の明代から傾き始め,現在俗説では西北へ15度ほど傾いている.真っ直ぐな案内板と塔の模型を並べて見るまでもなく,相当傾いており,躯体の煉瓦が基礎にめり込んでいる様子を見るとちょっと心配になる.内部は1階部分に入れてくれるが,階段は登らせてくれない.中国版「ピサの斜塔」と言われるが,ピサの斜塔は5.5度の傾きだそうだから,15度の虎丘塔はそれより大分より大きく傾いていることになるが.....でも,とても15度までは傾いているようには見えない.ネットで調べると,およそ4度の傾き,と記されているサイトもあった.それよりは若干大きいようにも見えるが.....判らない.ちゃんと写真をとっておいて測定すればよかったかも知れない.


下は,虎丘とその近所の写真

虎丘近所の写真
虎丘近所の写真 虎丘近所の写真 虎丘近所の写真 虎丘近所の写真 虎丘近所の写真 虎丘近所の写真 虎丘近所の写真
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蘇州市街City of Suzhou

蘇州新興住宅街

新興住宅街

ここは新市街にあるホテルの窓から眺めた風景.ここも集合住宅建設のラッシュだ.毎年2桁の経済成長率を維持している中国の,しかも上海周辺の都市だからなおさらであろう.


蘇州昔ながらの商店街

昔ながらの商店街

ここは中心ではないが市街地の一画にあった商店街.1階に小規模なお店,2階以上が住宅の造りになっている.上海から高速道路で1時間の距離にあり,今後も膨張するであろう.


下は,蘇州市街の写真あれこれ

蘇州市街の写真
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さてこうして蘇州を一通り見て廻った.渡辺はま子が甲高い声で唄う「蘇州夜曲」というメロディの断片が頭の片隅にあったが,あまりに小さなかけらで今回の蘇州の印象と対比させることはできなかった.「蘇州夜曲」は「支那の夜」(1940年)という映画の挿入歌だそうなので,映画を見たことがあればまた違っていたかも知れない.



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