キリマンジャロに向かうメンバー5人(自分を含む)とツアーリーダーが2007年12月7日夕刻,羽田空港に集まることからスタートした.エミレーツ航空のJALとの共同運航便は羽田から国内線で関空に飛び,深夜便で関空からドバイへと至った.ここで暫く待ち,乗り換えてナイロビへと飛んだ.ナイロビではホリデイインで一夜明かした.
関空からはエミレーツ航空A330-200機でドバイに向かった.9.11以降,少なくともエコノミークラスの機内食はフォークとナイフ,少なくともナイフはプラスチック製であることが多かった気がする.安全面だけでなく,洗浄不要なため低コストで済むのも理由であったようだ.それが今回搭乗したエミレーツ航空はすべてステンレススチール製の食器だったので少し感心した.もちろん使い勝手はいいし,航空会社からすると,使い捨てにしないでエコロジーに配慮,と云った姿勢を示す効果もあるようだ.尤も,この日のような和食であれば,お箸だけで十分ではあるが.
さて関空から長いフライトの末,トランジットでドバイ空港に降り立った.早朝に拘わらず空港内は搭乗待ちの客でいっぱいだ.24時間稼動で中東のハブ空港の一つなのであろう,アラブ系に限定されずいろいろな人種が入り混じり繁盛している.乗り継ぎ時間が長いのであろう,ベンチに座りきらず床に座ったり,寝ている人も大勢居る.団体で座っているのは,心なしかインドネシア人などアジア系イスラムが目立つような.....人の流れもオイルマネーの流れに比例しているように見えてしまう.
カフェのアラビア文字と黒いアバヤの女性がやはりアラブらしさをかもし出している.アラビアのロレンスのような純白のカーフィア(マフラー)とソウブ(オバQのようなワンピース状アラブ服)の男性もちらほら歩いているのもやはり中東ならではか.
ドバイ国際空港内のバーではクリスマスツリーが飾ってあった.イスラムではお酒はご法度であるが,エミレーツ航空は機内サービスとしてビールやワインも振舞ってくれるし,異教徒は異教徒として寛容に扱ってくれるのがありがたい.
さてドバイで4時間ばかり費やした後,再びエミレーツ航空機でナイロビに向け飛び立った.ナイロビはドバイに対して南南西に位置し,時差は-1時間だ.エミレーツ航空機は評判に違わず新しく,シート毎のモニターではオンデマンドで映画や音楽を楽しむことができる.ライトが点かなかったり,イヤホンが聴こえなかったりするエアラインもしばしばあることからすると快適だ.星空をイメージした天井の常夜灯もなかなか気が利いていよう.
ナイロビに向かう便はさすがにアフリカ系の人が多い.筆者は通路側で隣もアフリカ系の女性だった.お手洗いなどに行き来の際,通路側の筆者は立ち上がって道を空けたり,入国カードを記載するのにボールペンを貸してあげたりするのであるが,「ありがとう」とかの言葉は一切無いのには驚いた.別にお隣さんだけでなく,前も,斜向かいのシートでも同じような状況でそのような言葉は聞かれなかった.これまで経験した国ではいささか稀有なことで,釈然としない気も残るが,多分それがケニア辺りの流儀なのであろう.
ここはナイロビ空港.到着して荷物を受け取り,入国審査を済ませ外に出る.一言で言うと快適な気候,と感じた.殆ど赤道直下であるが,標高1,700mに位置し,湿度が低いためであろうか.
ナイロビ空港からはアイザックさんというドライバがピックアップしてくれた.彼の古典力学の元祖アイザックニュートンと同名であることから,早速英国の植民地支配の影響が窺える.
車で街の方向に向かう途中,写真のモスクがあり,周囲には髪を完全に覆うスカーフの信徒が見えた.前述の英国支配の遥か以前,7世紀にはインド洋に面したケニア東部,モンバサ辺りを中心にアラブ人が到達し,栄えたようだ.15世紀になるとポルトガル人が進出し,一時期アラブ人の勢力が衰えるが,18世紀後半アラブ人が盛り返した歴史があるようだ.なのでキリスト教よりイスラムの方がどうやら早く入ったようである.現在イスラム教徒は国民の20%くらいと聞いた.ただし日本の外務省のサイトでは6%と記されているので,さて......
ナイロビの街外れでキリンの餌付けを行っている施設を訪ねた.観光客や地元の家族連れが来て,傍らに備えられたペレット状の餌をあげると,長いべろを伸ばし食べる.デッキがキリンの首の高さになるように工夫されて建てられた小屋の内部は簡単な資料館になっている.一言でキリンと称しても,いろいろ種類があるそうで,写真のものは中程度のサイズの種類であるようだ.
キリンのついでにイボイノシシも飼われていた.名の由来になっているといういぼが目の下と頬に一対ずつあるが,その大きさからしていぼと言うよりこぶが相応しいような....
キリンの後に立ち寄ったのは,小説家として知られるそうであるカレンディネーセンの屋敷だったところ.現在資料館になっている.カレンディネーセンは1885年デンマーク生まれ,1913年スウェーデン貴族のブロアブリクセンと結婚し,翌年ケニアに移住.夫婦でナイロビのここでコーヒー農園を経営するが,まもなく結婚生活が破綻し,離婚.単身での経営を試みるがあえなく失敗し,1931年にデンマークに帰国したそうだ.建物は木造の立派な作りで,当時の家具やタイプライターが展示され,別棟のキッチンには調理用具が並べられていた.学芸員の話では700人の使用人がいたというから相当大きい農園であったのであろう.
本格的な著作活動はデンマーク帰国後に始めたそうで,筆者は詳しくないが,後に邦題『愛と哀しみの果て』(原題:Out of Africa』 として映画化された作品は特によく知られているようだ.
庭園では結婚披露宴が催され,大勢の参列者が集まっていた.宴の最中に撮ったのであろう,参列者の写真が貼り出してあったが,該当者に持ち帰ってもらうためであろう.なおスピーチも行われていたが,英語だった.それが多部族国家の共通語になっているのであろうが植民地政策が後を引いているようで,少し驚いた.
商品広告の看板に混じって選挙ポスター(左端と中央)があちこちに見られた.制限がないのか,かなり大きなサイズのものも見える.この月,12月の27日に任期満了に伴う大統領選の投票が行われるそうである.ドライバのアイザックさんの予想では,与党の現職ムワイキバキ(Mwai Kibaki)候補が有力かな~という話だった.
選挙運動は相当過激らしく,演説や集会の場面にはくれぐれもカメラを向けないよう注意された.帰国後,NHKや読売新聞などの報道を見ると,2008/1/5現在,小差で大統領「再選」を決めたキバキ大統であるが,対立する政党の支持者や部族の間で衝突が相次ぎ,300人以上が死亡,多数が家を失ったとみられているようだ.
なお,選挙の度に部族抗争が起こり,多数の死者が出るのは,今に始まったことではなく残念ながら恒常的な現実であるようだ.それ故,撮影に関する注意については強い喚起を促された訳であるが.
下は,ナイロビに到着し,宿に入るまでに眺めた光景