このパロ編では,2016年6月12~14日,ティンプーからパロに行き,パロの街を見て,タゾン博物館とパロゾンを見物.パロの宿にチェックインし,あくる日ドゥゲゾン,キチュラカンを見物.さらに次の日アーチェリー,ダショー西岡チョルテンを見たときの写真を載せました.
6月12日朝ティンプーからパロに向け街道を走った.到着初日,パロ国際空港からティンプーに行くとき通った道と同じで,ブータン一番の街道だ.
パロに到着し以下の辺りを見て廻った.
別窓でパロ周辺の大きなGoogleマップを開くティンプー/パロ街道に入り,パロに向かう.先ずは暫くティンプー郊外新住宅街を通過する.
コンクリート造り中層住宅が多く,ブータン的香りが弱くなっている.
街道交差点に象,猿,うさぎ,鳥の像があった.皆協力し合えば美味しいフルーツが得られるという教訓的モチーフで,あちこちラカンで壁画を見たが,ここは三次元像であることが特徴だ.
ブータンで最も速く走れるというティンプー/パロ街道だが,こうして牛も出るし,脇に露店もあったりする.いろいろ注意が要るが,なかなか長閑でいい.
ティンプー/パロ街道は2方向分離されており,合わせて1.5車線の東西横断道とは全く違う.合わせて1.5車線で,カーブだと対向車と衝突可能性があるが,本街道ではその心配がない.
パロ県若しくはパロ市の入り口であろう,ゲートがあった.別にチェックポスト的機能はなく,単純に行政区の標識,歓迎門のようなものだ.
UDさんのランクルダッシュボードには仏像が載っている.仏教の国ブータンらしい.チベット辺りではソーラーパネル付きマニ車など見ることもある.ここでもあるかと思うが.
ティンプー/パロ街道は最初ティンプー沿いを走っていた筈だが,ここはもうパロ川脇となった.この辺りは浅瀬で水量の多くない今時分は州ができており,ゆっくりした流れだ.
屋根や梁は解体され無くなっているが,版築工法で築かれるという壁はしっかり残っている.そのうち土に帰るので放っておいて構わないということだろう.ただシルクロード周辺にこうした版築工法の遺跡がいろいろ残るが,ここもこれら残骸が1000年くらい残るかも知れないですね.
それはそれである種のロマンだ.
やがて水田地帯に入った.田植えが終わって間もないであろう,まだ短い苗の水田だ.成長が速いのだと思う.
ちょうどうまい具合に木陰があり,何人もの女性が野菜や果物を並べている.野菜も果物も今が一番種類の多いときだそうだ.
そろそろパロ空港近く,市街地に入ってきた.出てきたティンプーのような新しいデザインの建築は少なく,伝統様式が殆ど占めているようだ.
道端でダーツをしていた.ブータンではアーチェリーが国技であり,人気も高い.それに加えてアーチェリーより狭くて済むダーツも人気だそうだ.さらに河原での石投げもよくやられるようだ.
ダーツと言っても,アメリカのスポーツバーなどでよくやられる壁の的に投げるあれとは全く違う.投げる距離は半端ではない.的まで20mくらいあるようだ.とにかく驚愕すること間違いない.それに矢がまた凄い大きさで重さもありそうだ.それでいて的はかなり小さい.
アボリジニのブーメラン,インディオの吹き矢....のように,元は狩猟の本気ワザが発祥かと思えた.
ということで当てるのは結構大変そうだ.当たると見方グループメンバーがアーチェリーと同様ダンスと歌で勝どきを上げている.
パロ川沿い,パロゾンの少し西にパロ銀座とも言うべき繁華街,いや商店街か,がある.何れも伝統様式建築で,道幅も広くなかなか美しい.ただ路上駐車は多い.
普通の雑貨店や食料品店だけでなく,写真のような工芸品のお店,仏具店,レストラン,ホテルなど種々並んでいる.
ゾンカ語と英語の併記は他都市と同じで旅行者には便利だ.
アイスを食べ歩く人,お坊さん,ゴやキラ着用の人....いろいろな人達が歩いている.
つまらない話だが,ブータンのタクシー表示灯(TAXIと書いてあるあれ)は右に寄っている.全部ではないが他都市のタクシーもやはり右に寄っている.他国では皆中央だし,こんなの見たことない.まあどうでもいいだろうが発見(?)したので.
ところでこれまで日本からの中古車が人気で,多く輸入されてきたそうだ.ところが近年政府が右ハンドル車輸入を禁止したそうで,以来日本車は減少しつつあるそうだ.パロのレストランで昼食を頂いた.バフェ形式で選べるのが良かった.
二階のレストランの下に小さな雑貨屋さんがあり,この子が笑顔を見せてくれた.店主の奥さんに訊いたら1歳と4ヶ月とか.雑貨屋さんは本来タバコが主力商品だったかも知れないが,ブータンでは吸える場所が限定され,実際吸っている人を見かけることは稀だ(たまに見かけたが)
ところでこの店ではビンロウと石灰をセットにして売っていた.国によっては(マレーシアなど)ビンロウが違法の国があるが,ブータンでは大丈夫なようだ.食後噛む人が多いそうだ.
昼食後車でタゾン(Ta Dzong)国立博物館入り口に来た.タゾンは望楼であり,また城塞で当地の城主が1649年に築城したのが始まりだそうだ.
本来山城に適したロケーションであるが,現在は背後の車道に連なるこのゲートから行くことができる.
ゲートに料金表が掛けてある.地元の人:10Nu,旅行者:200Nu,何よこれ20倍,ボッタクリか.実にあからさまですな~.まあ,それでも高々320円くらいに過ぎないのでいいだろう.なおASSRC:50Nuはインドなど近隣友好国旅行者への適用料金だそうだ.
丸いような,半円のような形の建物だ.滅多に見ない形だ.吉祥アイコンにもよく見る聖ほら貝を模した形との説があるようだ.
で左の橋から入場するのだが,歴代ラマ像や,曼荼羅などの宗教画が展示されている.一方動物や鳥類の剥製など自然関連の展示も豊富だ.ただお寺同様写真は一切禁止で,壊れたフラッシュメモリ或いはリフレッシュ回路のイカれたDRAMの如く記憶はちょっと頼りない.
元が望楼だっただけによく見渡せる.中を流れるはパロ川でその向こうに並ぶのが先ほど食事したパロ商店街だ.
パロ川下流から眺めたパロゾン(Paro Dzong)だ.特に屋根付きカンチレバー橋との組み合わせが映画『リトルブッダ』の記憶を呼び戻す.実際この橋は撮影に使われたらしい.
パロゾンをタゾンのある上方から眺めると随分違う印象だ.つまり赤い屋根と金色の屋根がバカに目立つ印象になるのだ.
入り口は山側の二階部分に一つ付いている.橋で連結されているが,普通なら跳ね橋でもいいような感じだ.
さてこのパロゾンは17世紀前半,建国の父シャブドンガワンナムゲル(Zhabdrung Nawnag Namgyal)が創建したのが始まりとされているそうだ.つまり前日見てきたプナカゾン(Punakha Dzong)と同じということだ.機能もチベット軍に対する防衛とドゥク派布教の拠点を兼ねた点は同じであると思う.
パロゾン入り口はなかなか凝った装飾が施されている.守衛さん(お巡りさん)とお坊さんは暇そうに世間話か.まあ平和でその方が望ましいと思う.
入り口を入ったところは回り廊下で,中庭に続いている.廊下の下がり壁はインド風の凹凸模様があり,中庭に面した建物はとてもシックで美しい壁や列柱を見せている.プナカゾンも美しかったがここもまたすばらしい.
回廊に描かれた壁画は,パドマサンバヴァが虎に跨り現れたという故事に因むものであろう.虎の顔らしく見えないが,トラ模様の胴体が見えるからそう断定した(違ってたらすみません)
パロゾンは現在もパロ県庁の行政機関,裁判の司法機関,それと条例の律法機関など政治面と,ドゥク派仏教の寺(ラカン)としての機能を有しているそうだ.この中央の高い建物は寺の部分であったか.
所謂ブータン伝統デザインだが微妙で落ち着いた色あいが何とも素晴らしい.
上の壁に較べて艶やかだ.とは言っても控え目ではあるが.
何度も言って申し訳ないが,トタン屋根は些か残念な気がするのだが,木板の耐久性や保守費用を勘案すれば,きっと止むを得ない折衷案なのであろう.
大変判り易い絵なのでパドマサンバヴァ像に間違いなかろう.....でも鉄の鎖で繋がれているから,あの鉄鎖橋タントンギャルポ師も関係していようか?
ゾンの性格を端的に表す表札の一つだ.ロイヤル裁判所とあるのでずばり裁判所,県の司法機関であろう.民主化がなされた筈だが,まだロイヤルと掲げられているところを見ると,多分まだ行き渡っていない面があるのであろうか.
何度も登場するのは他の絵やアイコンは難しくて覚えられないのに,この『象,猿,うさぎ,鳥』の絵はUDさんに聞いた限り,コラボレーションの精神を語る単純なストーリーだからだ.
でもここの猿はなぜか険悪な感じに見えるし.....そんな単純な話ではないのかも知れない.
大きな回廊はシンプルなパターンの連続で,いい味を出している.色の組み合わせが何ともいい.
パロゾンの望楼タゾンとはさして高さが違わないという気もするが,ここからのパロの眺めは結構間近に感じられるものだ.多分昔はさらに多かった筈だが,田んぼが目立つ.これがきっとパロの原点なのであろうと感じられる.
丘のパロゾンには敷地の片側にパロ川まで下るトレイルが設けられており,ここを下ることにした.UDさんは車で橋の先で待っていてくれるという.
パロゾンからゆっくり下ると,パロ川の橋の袂に出た.橋を眺めると大勢ゾンの方向に歩いている.インド人が多いようだ.
インド人の皆さんは団体だったのか,一瞬にしていなくなり,静かになった.パロゾンの橋は,幅は幾らか少ないようだが,プナカゾンの父川に架かるのと同様なカンチレバー橋だ.また屋根もちゃんとした木の板に石を載せた古典的タイプで味わい深い.
ただ映画で観た時はもっと長いのかと思っていたが,実際は然程長くはないと感じられた.
6/12午後,パロの宿Mandala Resortにチェックインした.このホテルは現地旅行社直営だそうだ.ここには連泊予定だ.
このホテルはパロ空港西の高台に位置し,下に青々した田園が広がり,先にはパロ空港と発着機,さらに向こうには国立博物館(望楼)を望む.
Mandala Resortのレセプションには,広く信頼を集める国王ご夫妻の写真が掲げてあった.民主化移行した後も人気に変わりはないようだ.
なおレセプション脇のロビーは広く,リゾートの名に恥じないようだ.
客室は別棟になっており,コテージ風内装で,部屋もバスルームも広い.周りは田園なのでとても静かだ.wifiも使うことができる.
さて明日のタクツァン僧院ハイキングは大丈夫かな~とその方向の空を見る.ちょっと雲が厚いが....降らなければ大丈夫なのだが.
バスタブがあり,お湯も十分出るので結構,そして湯船に浸かり,外の景色も楽しめる.まあ,露店風呂の要素を採り入れた訳だ.でもこの外は通路で,たまに人が通る.まあカーテンを閉めておけばいいと思うが,ちょっと変わった趣向かとは思う.
とても広いレストランで,まだあまり客はいない.まだ暗くなりきっていない時間で,窓際のテーブルに着く.
夕食はバフェスタイルで,フードコーナー壁には王家ファミリー写真が掲げてあった.中央の現王ご夫妻以外は知る由もないが,全体的に比較的若い女性が多い...かな.
ここでは珍しいことに魚料理があった(お皿左).海の魚だと思うが,冷凍輸入されたのであろうか.結構美味しかった.ビールは定番(いやバカの一つ覚え)11000だ.
さて一夜明け,6/13になった.テレビを点けるとCNNが,銃乱射で米史上最悪50人死亡,の事件を臨時ニュースで報じていた.他国のことながら,やはり銃の野放しは....
UDさんがゴ試着がプログラムに入っていると言うので,Mandala Resort二泊目の夕,着てみる.不慣れで落ち着かない.やはり普段着として使っていない衣服は着るのではなく,見るものかな.
タクツァン僧院ハイキングの帰り道,丘の上のドゥゲゾン(Drugyal Dzong)を眺めに訪れた.1951年に火災があり,修復されなかったため現在は廃墟となっているそうだ.ドゥゲ(Drugyal)とは,ドゥック派の勝利の意で,ドゥゲゾンはその戦勝記念城ということだ.この時代パロゾンやプナカゾンなど,チベット防衛のための城が多く建設されたが,それだけの効果を発揮していた訳だ.
ところでブータンでは,これまで聞いたところ,名のある寺やゾンで火災に見舞われたケースが多い.一つにバターランプの灯明による事故などあるようだが,ちょっと残念なことだ.
ブータンの水田や畑は殆どが狭く不定形だ.そのためトラクターやコンバインといった大型農機は適さず,写真のような小型耕運機が活用されているようだ.尤もそれも使えず手作業に頼る場所も多く見かけた.
ドゥゲゾンを見てからキチュラカン(Kyichu Lhakhang)に来た.キチュラカンは,チベット(吐蕃)を最初に統一したソンツェンガンポ(Songzain Gambo:581-650年)が7世紀に創建したという.パドマサンバヴァ(グルリンポチェ)より100年あまり前に布教活動したことになろう.当時の吐蕃国は広大で,国境も確定していなかった面もあって,ブータンエリアまで手を伸ばしていたのだろう.
ソンツェンガンポは唐より文成公主,ネパールからも妃を迎え,同時に仏教を導入し,そしてここブータンやラダックなど周辺にも広げていったわけだが,現在の4大宗派への分派はまだ起こっていないようだった.そして建てた寺院はここを含めて108ということだ.
ご近所の皆さんであろう,キチュラカン境内で井戸端会議のようだ.その間絶えずマニ車を廻しお祈りを続ける人もいる.
また時どき腰を浮かせて,ラカン周囲のマニ車を廻しながら,お堂を周回する人もいる.日常生活に身近なラカンのようだ.
広場にはソンツェンガンポの時代に遡る神聖なみかんの木が生え,また香木を焚く香炉や,灯明台が据えてある.
本堂の中に入れてもらうと,全体的に内装や仏像が古い感じを受けた.本尊は確かブッダだったと思うが,その前の木の床には五体投地が繰り返されてできた窪みがあった.そしてその後私たちは本堂内の薄暗い回廊を周り,種々の像や壁画を見せてもらった.またこれに連なる新しいお堂には本尊としてパドマサンバヴァが祀られていた.
キチュラカンお堂の周りにはマニ車が配されている.UDさんに付いて時計回りに歩いた.中には軸受けが傷み,回転しづらいものもある.尤もかなり飛ばしながらインチキで一周したのだが.
こちらは比較的新しいマニ車堂で,大きなマニ車4基を備える.台形柱がブータン特有様式だと思う)
さて6/13朝,ダショー西岡チョルテンを訪ねる前にアーチェリーを観戦した.アーチェリーはブータンの国技でダツェ(datse)と呼ばれるそうだ.芝生のダツェ場には既に観客が詰めかけ,競技が開始されていた.
お坊さんやゴで正装した人も多いところが面白い.
以前は竹製弓が一般的だったが,今は写真のプレーヤーのように洋弓が一般的だそうだ.やはりパワーが違うでしょう.洋弓は普通輸入品でブータン一般市民のサラリーの数倍に上ることもよくあるとか.
ただこの男性のようにゴで正装するのが慣わしのようだ.この方がもっともらしくていいと思う.
前にも書いたが,的までの距離が140mとベラボーに遠い.オリンピックのアーチェリー競技は70m,日本の弓道は60mであるそうだから,並外れて距離がある.また同心円が描かれた木の的は私の老眼でははっきりしないくらい小さい.まあ,よくこんな大変なもの狙えますね.
ところでダツェは一般的には男のスポーツなのだが,女性で嗜む人もいるという.そして2012年ロンドンオリンピックアーチェリー(女子個人種目)にSherab Zamさんが出場したが,一回戦敗退だったという.普通ブータンで観戦者と言えば,写真のような人数であるが,ロンドンではそれこそパロ全市民が集結したようで,そのような数の人間を観た経験がなくすっかり上がってしまったそうだ.また的の距離が近すぎて調子が出なかった,という逸話も残っているそうだ.
的は140m離れて両側にあり,2つのチームが所定タイミングで交代するそうだ.サッカーのゴール交代と同じ理由で,風や光線の公平を保つためであろう.
ダツェは一般的に5人一組,3チームで行われることが多いが,バリエーションもいろいろという.
一度で一人2矢を放ち,的を射ると味方メンバーが何やら唱和し,円状にステップを踏み踊る.野球のホームランで,ホームベースを踏んだ後味方選手と順繰りにタッチするようなものだ.
スコアラーと思しき人物隣の色分けされたスコアボードを見ると,このゲームは2チームで争われているようだ.私には読み方が判らないが,ルールを知っていれば簡単にわかるのであろう.
ところで的の直ぐ近くに相手の選手が立っていたり,また観客も矢道から保護されているわけではない.手元が狂って矢が逸れたら危ないのでは.....実際時どき事故はあるようだ.野球のファールボール並かな~
ダショー西岡チョルテンを見るため,パロ南の丘に向かった.途中パロ国際空港の上を通過する.ちょうどドゥックエア機が離陸するところだ.
やがてつづら折りの道となり,棚田エリアに入ってきた.棚田の稲はまだ植えて間もないようで,短い.緑もいいが秋の一面黄金色も想像してみた.
少し小雨の中,ダショー西岡チョルテンの建つ国立種子センター(National Seed Centre)に到着した.ゲート左には種子センターの標識が架かり,右には正装着用願いの旨注意書きがある.私たち旅行者は制限がないし,またUDさんはガイドなので着用済みで問題ない.
鉄パイプのスノコだと牛が入れないそうだ.何しろブータンではどこでも牛がふらついているので,試験栽培中の作物がやられては困るのだ.
国立種子センターの一角にこのダショー西岡チョルテン(Dasho Nishioka Chorten)があった.ダショー西岡(西岡京治:1933-1992年)氏は,海外技術協力事業団に所属し,農業指導者,植物学者で,28年間に渡りブータン農業に大きく貢献し,『ブータン農業の父』と称されたそうだ.そしてブータン国王から『ダショー』の称号を贈られたということだ.またこの称号を得た外国人は西岡さんのみということだ.
1964年以降ブータンに定住し,小さな試験農場で若い現地助手とともに大根栽培から始めた.収穫された立派な大根を見た住民は感嘆の声を上げ,国王は次の年とても広い土地を与えてくれたそうだ.
そして次年度以降は栽培する野菜の種類を増やし,また南方の荒れ地に稲作田を拓き,稲の栽培も行ったという.
誰もが尊敬した西岡さんは1992年敗血症で亡くなったが,国葬に付され,時の農業大臣レキドルジ氏を葬儀委員長として執り行われたという.
そして後に,この国立種子センター(農場試験場)にダショー西岡チョルテンが建てられたことになる.
チョルテンには日本語,ゾンカ語,英語で,28年間に渡りブータン王国人民のために尽力された功績を称える碑文が刻まれている.
ダショー西岡チョルテンの傍らには小さなお堂とマニ車があった.ご近所の住民であろう人々が集い,マニ車を廻し,お祈りしていた.またこうしたところで西岡京治氏についてきっと語り継がれていることであろう.
ダショー西岡チョルテンの丘には果樹が試験栽培されている.いい結果が得られる果樹は種子となり,ブータン各地に送られるのであろう.
他に大きな温室もあり,こちらでも種々テストされているのであろう.