このティンプー編では,2016年6月のブータン旅行で,プナカからティンプーに行くとき,ティンプーのホテルとその周辺,メモリアルチョルテン,タシチョゾン,ドゥプトプ尼僧院,ティンプー大仏などの写真を載せました.
6月11日夕刻プナカ(右上)からティンプー(左)に移動し,翌12日ここを見物した.
ティンプーで訪れた場所は右図のメモリアルチョルテン,タシチョゾン,ドゥプトプ尼僧院,ティンプー大仏などである.
別窓でティンプー周辺の大きなGoogleマップを開く6月11日夕刻,プナカ見物を終えて東西横断道を西に向かった.東西横断道のこの区間はさらに東の区間と較べて工事が進んでいる.写真の辺りは2車線幅(双方向合わせて)に拡張され,アスファルト工事に入っている.作業している人はやはりインド人のようだ.
ティンプーに着いたのは夜中になった.殆ど暗い中でメモリアルチョルテンだけはライトアップされ輝いていた.翌日訪れる予定になっているが,特別法会の期間だからであろうか?
時計の示すように8時と遅くなってPhuntsho Pelriホテルに到着した.二階のレセプションに上がり,UDさんがチェックインしてくれた.
三階のこの部屋はごく普通のツインタイプで,バスタブがあり,wifiもあった.ロケーションは大通りから1,2本西に入った通りのようで,出掛けるのであれば都心に近いようだ.
一風呂浴びてレストランに出向いた.さすがこの時間になるとヨーロッパのレストラン辺りと違って,とても空いていた.11000ビールもお料理も,一人なので些か味気ないが,まあ普通に美味しかった.
Phuntsho Pelriホテルで朝が明けて6月12日になった.朝食に部屋を出る.二階にお寺風レセプションがあり,一階から階段で繋がる.客室は吹き抜けの周囲に配置され,遅いがエレベータがある.
バフェ形式のまあ一般的な朝食だ.フルーツはブータン南部の暖かい地方から来るものも用意されている.結構だ.
ホテル入口辺りに,チベット仏教の吉祥アイコンが張らてている.左は宝の壺,右はチベットやヒマラヤでも頻繁に目にする無限の紐(endless knot)だと思う.
Phuntsho Pelriホテルの窓から,庶民的集合住宅がすぐ脇に見える.ベランダいっぱいに花のプランターが並び,タルチョーが掲げられている.タルチョーはいかにもブータン的だが,こうした集合住宅でも仏間が備えられているのは一般的らしい.
右がPhuntsho Pelriホテルで,オフィスや集合住宅がそれに並んでいる.ティンプーは一般に平らなところは少ないが,ここも傾斜地だ.ここの通りは比較的疎らで,静かだ.
直交する方向の通りも比較的静かだ.朝なのでお店のシャッターが閉じた状態からかも知れない.ときどき通勤のためと思しき人達が歩いて行く.
次王記二つの通り交差点で選挙ポスターが張られていた.チベット文字なので多分ゾンカ語版,英語版2種貼られている.選挙ポスターと言っても,候補者や政党のポスターではなく,投票しましょう,とか女性候補者もいます,といった選挙そのもののプロモーションだ.
1907年,ウゲンウォンチュック(Ugyen Wangchuck)が初代ブータン国王となり,王国としてブータン国がスタートした.そして世襲で王政が継続したが,第三代ジグミドルジウォンチュック(Jignme Dorji Wangchuck)国王は,より民主的な政治を目指し,1953年に国民議会を設立したそうだ.そして次の第四代ジグミシンゲウォンチュック(Jignme Singye Wangchuck)国王は1998年,王の権力を閣僚へ移行し,相当民主化が進んだ.さらに2001年同第四代国王の助言でブータン憲法草案が出来上がり,2008年に施行され,そこに永久に民主主義が謳われることになったということだ.
ということで以来国政も地方政治も選挙が行われ,参加が促されているということだ.
UDさんが迎えに来てくれて,ランクルに乗り込む.そして南に向かった.少し伝統様式とは異なるデザインの建物も見えるが,屋根や窓枠,それと色彩に一定のブータン風味を残している.
この辺りは主に集合住宅であろうが,建設中の建物が多い.ブータンの総人口はさほど増えてはいないということだから,地方から首都に出てくる人が多いのであろう.まあ,世界共通の動きではあろうが....幸福度増大を目指すブータンでもこれはいろいろな問題を引き起こしているのが実態のようだ.
ホテル間近なメモリアルチョルテンには直ぐ到着した.路肩には既にかなり停車しているがスペースを見つけて割り込む.
塀の外からも見える白く大きなチョルテン(仏塔)はチベット式デザインだ.第三代ジグミドルジワンチュック国王が功徳を積むため発願し,1972年没した(ナイロビで客死という)が,第四代目ジグミシンゲウォンチュク国王が遺志を継ぎ,国家事業として建立したということだ.ということで国立で,またメモリアルの呼称は第三代国王記念ということから付けられたそうだ.
メモリアルチョルテンは特別な法要の最中だそうで,こうして身体の不自由な方も家族の手助けを得て駆けつけてくる.とても意義深い行事ということだ.
山門をくぐると左手にマニ車堂があり,内部には大きな6基のマニ車が設けられている.これを時計方向(上から見て)に廻しながら,かつ6基を右回りで歩いた.大きいだけに結構重い.
お堂の空いたスペースには既に多くの人に占拠されている.ここは涼しいのだ.そしてそこで手持ちのモバイルタイプマニ車を廻しながらお祈りしている人も見える.
改めて正面から望むと随分と大きい.一階部分には部屋が設けられており,壁画や立体曼陀羅,歓喜仏,忿怒尊などが納められているということだ.
チョルテンの前にこのようなお知らせが掲げてあった.12日(ちょうど今日)~16日まで,ソールデブ師(Guru Soeldeb)の朗唱が,DE-SUUPS(平和守護者団体らしい)の手で実施されるということのようだ.そして
境内に幾張りか張られたテントはメモリアルチョルテン参拝者でいっぱいだ.この日は日曜日とあってか比較的若い方も多いようだ.それとどうやらオレンジ色ユニフォームは前述のDE-SUUPS団体のメンバーのようで,一部は食料,飲料配布作業に,一部はテントでお祈りのようだ.
参拝者はチョルテン周囲をコルラして歩く.杖を突き廻る人や,小型マニ車を廻し,数珠玉を送りながらコルラする人もいる.
チョルテン右側に小屋があり,前述のソールデブ師(Guru Soeldeb)と思しき方が経を読んでおられる.
ここでは師に向かい五体投地する人もいる.UDさんもここでは3回伏せていた.
オレンジ色のユニフォームの人たちが,道案内やジュースなど飲料配布,それに食料の配布などで働いている.前述のDE-SUUPSのメンバーでしょう.
今日は日曜だからいいが,明日月曜からはどうなるのでしょう?参拝者も減るので大丈夫なのでしょうか.
初日ウォンディポダンを訪れる前に以前と同じ場所に立ち寄り,タシチョゾン(Tashichho Dzong)を眺めた.
タシチョゾンはティンプー都庁であり,ブータン仏教(ドゥク派)の総本山であるそうだ.首都のゾンであるので王の執務室や,国会議事堂,中央省庁も備え,また周囲には官庁や王宮も分布しているそうだ.
1641年,釘を使わない伝統工法で建設されたそうだ.釘なし工法は日本古来の寺社建築と似ていよう.
ドゥク派最高位の僧はジェケンポ(Je Khenpo:大僧正)と称され,このゾンに執務室があるが,冬は寒いので前日見てきたプナカゾンに引っ越すということだ.大僧正だけでなく,お坊さんの多くが,ということのようだ.
タシチョゾンを望む傾斜地をほんの少し進むと,このドゥプトプ尼僧院山門になった.尼さんが出入りしている.服装は男性の場合と同じように見えるが....少なくとも色あいは同じだ.
ドゥプトプ尼僧院の正式名はThangtong Dewachen Dupthop Nunneryで,Thangtongは鉄鎖橋のタントンギャルポ,Dewachenは極楽,Dupthopは成し遂げる,の意があるそうだ.
あまり広くはない敷地に幾つかのお堂が建てられている.60人ほどの尼さんが暮らしておられるということなので,僧帽や,キッチン,ダイニングルームなどもあろう.
このお堂は暖色系の配色で,周囲にたくさんのマニ車が備えられている.本堂に行くときは左に入りマニ車に手を添いて進むと,人も左に,マニ車も左に廻り都合がいい.
ここが本堂だ.比較的こぢんまりした建物だ.マニ車のある前室に続く,本堂に入ると,あの鉄の鎖で橋を建設したタントンギャルポ(Thangtong Gyelpo:1361-1485?)師の大きな座像が鎮座していた.
タントンギャルポ師は実際この地で瞑想,修行したことがあるそうだ.
ところで話が逸れるが,UDさんによると,最も罪深いことは一旦お坊さん(尼さんを含む)になって,それを途中で辞めて還俗することだそうだ.確実に地獄に落ちるそうだ.実際還俗する人は時どきいるが,地獄行きを避けるため種々善行,例えばボランティア活動などに励む人を知っているそうだ.
ドゥプトプ尼僧院は高台であるので眺めがいい.直ぐ下の建物群は私立の学校と云うことだ.UDさんはプナカ近くの育ちだが,現在はこの近くの戸建て住宅にご両親と住まうそうだ.昨夜はホテルでなくそこで休んだ筈だ.
ドゥプトプ尼僧院から大分南のティンプー大仏にやって来た.入り口前に駐車場があり,そこで車を下りる.地名はクエンセルフォッドラング(Kuenselphodrang)ブッダ公園で,標高2400mとなるようだ.
小型観光バスも停まっているので観光スポットであろう.
山門先は広々広場になっており,片端に仏像が鎮座している.黄金色が陽に輝く様に圧倒されるようだ.
UDさんによると主にシンガポールの大富豪,台湾や香港,本土の中国人からの資金で建設中(内部を含めかなり出来上がっている)であるようだ.
ティンプー大仏は51.5mもの高さがあるそうだ.奈良の大仏さまは15mほど,鎌倉の大仏さまは若干それより小さいというから,ざっと三倍以上大きいようだ.とにかく巨大で,台座下の人と比べると驚く.
ほんとに金か,或いは色が金色だけなのか判らないが,とにかくチェーンや脇のタイルまで金ピカだ.シンガポールで昔,ピカピカのテーマパークを見たことがあったが,(中国系)シンガポール人の好みが強く反映されているような.まあ,スポンサーだから当然でしょうが.
台座タイルもまた,これでもかとばかり全部金ピカだ.そしてこの中に入れてもらった.広い部屋にはやはり太い金柱に金壁構造で,既に仏像など祀られている.ただ他のブータン仏教施設同様内部は一切撮影禁止で,仔細には思い出せない.
広場縁にはこれまた金ピカの如来など立像が立てられている.こうした像はブータンで作られたのではなく,スポンサーの国で制作され,運ばれて来たように感じられる(想像だが)
ティンプー大仏は標高2400mの高台クエンセルフォッドラング(Kuenselphodrang)ブッダ公園に位置するので,ティンプーの街がよく俯瞰できる.こうして見るとティンプーの街は四方山に囲まれた決して広くはない盆地である様子が見てとれる.
今後カトマンドゥ盆地のように,排気ガスで汚染されていく恐れもありうる.既に対策が採られていればいいが....
大仏前広場縁は柵で囲まれ,全部で10種,いや8種か,の吉祥紋が飾られている.ここでは2匹の魚(自由の象徴だったか?),宝の壺,法輪で,これらも工事の途中だ.
広場への参道大階段が工事中だ.大広場に合わせ,階段もまた巨大だ.
工事をしているのは道路と同じようにブータン人ではなくインド人(いや中国人だったか?)ということだ.ブータン人だと人件費が高くなるのは道路と同じだ.
さてこれでティンプーの観光は終わった.次はパロに戻る.