ウォンディポダンWangdue Phodran

このウォンディポダン編では,2016年6月8日,ブータンのパロ国際空港に着陸した後,ガイドUDさんと車でタントンギャルポの橋見物,ティンプーでの昼食,タシチョゾンを眺め,ドチュラを経て,ウォンディポダンに行ったときの写真を載せました.


ウォンディポダンまでのGoogleマップ(スクリーンショットに加筆)

ウォンディポダンまでのGoogleマップ(スクリーンショットに加筆)

この日パロ国際空港を出てタントンギャルポの橋を見物し,ティンプーでの昼食,そしてタシチョゾンを眺めてからドチュラに至り,そして夕刻ウォンディポダンに着いた.

タントンギャルポの橋Thangtong Gyalpo Bridge

パロ川に架かるタントンギャルポの橋

パロ川に架かるタントンギャルポの橋

さてガイドUDさんの運転するランクルはパロ川(Paro chhu)に沿うパロ/ティンプーハイウェイ(paro/Thimpue HWY)を走り始めた.ハイウェイは街道であるが,高速道路ではなく,道端に露店があったり,家畜が歩いていたりする.

そして間もなく,昔の高僧タントンギャルポ(Thangtong Gyalpo:1385-1464ころ)師がブータンで初めて鉄を用いて建設したという橋(ただし現在の橋は2006年に修復再建されたものという)にやってきた.

パロ川(Paro chhu)に架かる吊橋構造で,両岸にゲート状ブータン様式のワイヤ保持部材が置かれている.


タントンギャルポの橋ゲート状ワイヤ保持部材

ゲート状ワイヤ保持部材

ワイヤ保持部材は吊橋ワイヤ(チェーン)のテンション支えるべくレンガ造りであるが,ちゃんとブータン様式に則り外観がデザインされている.ブータンの拘りが感じられる.


タントンギャルポ橋の構造

"タントンギャルポ橋の構造

メインの構造材は太い鋼鉄のチェーンに金網のネットを張り込み,一部装飾のためか竹が張られ,そしてチベット仏教のお約束でタルチョーが架けられている.

なおパロ川(Paro chhu)の川(chhu/チュー)はチベット語と同じようだが,現にブータン公用語ゾンカ語はチベット語と近い関係にあるそうだ.また記述にはチベット文字を用いるそうだ.


タントンギャルポの橋

タントンギャルポの鉄

ゲート状ワイヤ保持部材の内側にはタントンギャルポの鉄が展示されている.腐食が少なく今から600年前のものかどうか.....自信がない.

ところでタントンギャルポ(Thangtong Gyalpo)師は16世紀にブータンのみならずチベット,インド,中国の多くの川に鋼鉄を用いた橋を架けるインフラ工事に貢献したそうだ.またそれらの工費を賄うために歌劇団を組織し,公演で資金を作っていったそうだ.この後,幾つかの寺で同師の肖像画や像を見るのだが,白髪に白いひげ姿が多かったように思う.寺(ラカン)やゾン内は写真が撮れないのでちょっと確実ではないが.


ティンプーで昼食lunch at a Thimpue restaurant

パロ川ティンプー川合流点チュゾム(Chuzom)

パロ川ティンプー川合流点チュゾム(Chuzom)に来る

タントンギャルポ橋見物後パロ川沿いを更に下ると,ティンプー川(Thimpue chhu)と交わる場所になった.チュゾム(Chuzom)と呼ばれる場所で,合流後はワン川(Wang chhu)となるようだ.

そしてそのワン川には橋が架かり,歩いて渡ってみた.渡る先には国王ご夫妻の大きな肖像画が架かり,また立派な三層屋根の門が建てられている.


チュゾムの3国様式チョルテン

チュゾムの3国様式チョルテン

橋を渡るとき,合流点対岸にネパール様式,チベット様式,ブータン様式それぞれのチョルテン(仏塔)が建てられているのが見える.この写真では右端のブータン様式チョルテンが木の陰になってしまった.....まずかった.


ティンプー川を遡る

ティンプー川を遡る

チュゾムを過ぎるとパロ/ティンプー街道はティンプー川に沿うようになり,それを遡るように走った.

道路下の谷は農家や棚田が見える.農家の建物は概して立派で,一定の様式に収まっている.特に窓などに関しては厳しい規制があり,満たさないと建築許可がおりないそうだ.また一見窓に見える黒い格子枠は,窓ではなく単に壁飾りであることも多い.これはちょっと不思議だ.


歓迎ティンプー市の門

歓迎ティンプー市の門

やがてブータン首都ティンプー市の入り口に来た.Welcom to Thimpue cityと表示された門があるので判るのだ.

柱が基部が太く,先が細い台形状であるが,どうやらこの柱形状はブータン様式の一つであるようで,あちこちの建物で目にした.


ティンプーで別の門を通過

ティンプーで別の門を通過

さらに進むとまた別の門があった.市の各種エリア毎に門があるのかもしれない.

そして道の両側にはタルチョーの一種と思しき五色の祈祷旗が架けられている.


ティンプー都心部に来る

ティンプー都心部に来る

車はティンプー都心部に来て,駐車場に停まった.都心部はコンクリートの建物が殆どのようであるが,6階建までに制限されているそうで,他国の首都と比べると低く抑えられている.これも規制であろうが,傾斜屋根や垂木のような立体模様など一定の統制が感じられる.

車はそう多くないが,一時設けた信号機は廃止され,おまわりさんが手旗信号で交通整理する交差点もあった.


ティンプーDruk Tshering Jongビルのオーキッドレストランに入る

Druk Tshering Jongビルのオーキッドレストランに入る

私たちはDruk Tshering Jongと記されたビル2階のオーキッドレストランに入った.ビルの壁にはお守りとか魔除けのためという絵が描かれている.この写真ではちょっと小さく,はっきりしないが.


ティンプーでウェートレスはキラを着用

ウェートレスはキラを着用

オーキッドレストランはUDさんが予約してくれていたので,直ぐに窓際の席に案内してくれた.規則があるのかウェートレスは女性の伝統衣装キラを着ている.

一方ガイドUDさんは暑いのか,ゴの上半身を脱いでいる.かと言って全部脱ぐのは規則(法)で叶わぬようで,伝統文化維持もなかなか大変なようだ.


ティンプーで準ブータン料理のランチ

準ブータン料理のランチ

赤い米飯,焼きそば,餃子(のようなもの),少し辛い野菜炒め....など出してくれた.ただ評判高いどれもこれも激辛料理はなく安堵した.餃子は普通に美味しかった.外国人相手のレストランは心得ていて,何でも激辛,本格ブータン料理は出さないという.この後,連れて行ってもらったレストランどこでもあまり辛い料理はなく大丈夫だった.期待する人にはがっかりだとは思うが.

聞くところブータンでは唐辛子(チリ)は香辛料ではなく,野菜だそうですが?とUDさんに訊くと,『野菜ではなくフルーツになりつつあります』とのことだ.恐ろしい.

それと,間もなく松茸の季節になるのだが,UDさんのお母上は,松茸は他の野菜,唐辛子とともにチーズで炒めるので,完全にチーズの香り,チリの味になり,松茸の香りのかの字も消え失せる,ということだ.さすが~


タシチョゾンの眺めview of Tashichho Dzong

首都ティンプーを俯瞰してみる

首都ティンプーを俯瞰してみる

せっかく首都ティンプーに来たからと高台に上ってくれた.こうして眺めてみるとティンプーが山に囲まれた盆地状の底に位置している様子がよくわかる.それでも標高2,320mだということで結構高い標高だ.人口は10万人くらいだそうで,他国の首都と較べれば極めて少ない.当然経済規模も小さい筈だが,そこはGNPではなく国民総幸福量(GNH)増大を国是とする国だけに,その一面を裏付ける結果の表れであろう.


首都の都庁兼寺院タシチョゾンを眺める

首都の都庁兼寺院タシチョゾンを眺める

左の立派な建物は首都の都庁兼寺院ゾン,タシチョゾン(Tashichho dzong)だそうだ.政教一体はチベット仏教圏ではよくみられ,例えばラサのポタラ宮がそうだと思う.チベットでは本来そちらが発祥地であろうが,ギャンツェゾンなど,同じ言葉ゾンのままの庁舎も残っている.

タシチョゾンは1950年代,ワンチュク王朝第3代ジグミドルジワンチュク国王の時代に建設され,伝統的日本建築と同じように釘を使わず建設されたようだ.ワンチュク国王の執務室,中央政庁,国会議事堂が備えられ,国教であるチベット仏教ドゥルック派の総本山を兼ねるということだ.ただワンチュク国王のお住まい(宮殿)は同じ並び右側の林の中に,また入りきらない官庁は別棟にあるそうだ.

タシチョゾン近くの水田は,この疎な苗の様子を見るにようやく田植えを終えた段階のようで,日本より少し遅い作付タイミングのようだ.


ドチュラDochu La

Desi Lamを通過

Desi Lamを通過

ティンプーで昼食が済むと今夜の宿泊地ウォンディポダン目掛け,東に向かった.そして途中Desi Lamなる標識のある,立派な門をくぐった.Desi Lamは自治体の一つなのであろうが,どういった街なのか皆目理解していない.ただ門は垂木状装飾などなかなか立派だ.


カンチレバー橋が見える

カンチレバー橋が見える

道路脇低地には小規模な街が見えた.これがDesi Lamの街であろうか?そして流れる川に木製のカンチレバー橋が架かっている.屋根付きだ.多分耐久性には課題があろうが,なかなか味わい深い.


ドチュラ(Dochu La:3,115m)に到着

ドチュラ(Dochu La:3,115m)に到着

暫くして標高3,115mのドチュラ峠(Dochu La)に到着した.少し肌寒い.広場の小山にはたくさん,108基あるそうだ,のチョルテンが建てられている.チョルテンのデザインは横に臙脂色の帯があり,屋根の架かるブータンスタイルだ.


丘からドチュラのチョルテンを眺める

丘からチョルテンを眺める

下から見ると108基に見えないが,その丘に上って上から眺めるとチョルテンの数を実感する.確かに108ありそうだ.

このチョルテン群は,2004年南ブータンで,反インド政府インド人ゲリラ集団鎮圧のため,ときの第4代(つまり先代)ブータン国王(ジグミワンゲワンチュク国王)は戦地に赴いた.そして4人のお妃様の一番上の方が王と国民の安全を祈願して建立したのがこれらチョルテンだそうだ.ブータン,インド双方に多数犠牲者が出たが,争いは収まったということだ.


ドチュラ冬の好天時に見えるヒマラヤ

冬の好天時に見えるヒマラヤ

近くの休憩所に雲がなければ見えるであろうヒマラヤの峰々が名入りパネルで掲げられていた.いまは雲で全く望むべくもないが,冬であれば高い確率で見えるに違いない.


ドチュラチョルテン向こうの小山はタルチョーでいっぱい

チョルテン向こうの小山はタルチョーでいっぱい

道路を挟んでチョルテン向こうの小山はタルチョーでいっぱいだ.元々チベット仏教で峠など高いところにタルチョーを掲げるのは普通なので,この峠でもその習慣に準じたのであろう.

ところでこのドチュラ峠はこれまで通ってきたプナカ県と,この先のウォンディポダン県の堺になっている.山頂が県境なのはよくあることだ.


ウォンディポダンWangdue Phodrang

ウォンディポダン途中のチョルテンと水力マニ車

チョルテンと水力マニ車

ドチュラがらウォンディポダン県に入り更に東に向かった.道路は狭く曲がりくねっているが,交通量は少ない.

道路は山の斜面をトラバースするように設けられている.そして斜面上方から流れ落ちる小川や滝がを通過する.そうした場所ではしばしば水力マニ車が設置されている(右側四角い箱状小屋).マニ車内部にはマニ(お経)が納めてあり,一回転する度に一回経を唱えたと同じ功徳が得られるという.さらにチョルテン(左側)も併設されている場合もある.ここではチベッタンスタイルの塔だ.


ウォンディポダンへの途中棚田で田植えの作業中

棚田で田植えの作業中

道路下斜面の棚田では下方から順繰りに稲作作業が進められるようで,下側は既に田植えが完了,その上が田植えの作業中,さらに上の田んぼでは代掻きの作業中だ.狭くまた斜面であるのでトラクターや田植機は入れないのですべて手作業で行われているようだ.

なお米はブータンで最も大事な主食で,2,500mの標高まで収穫可能で,第一優先で作付されるそうだ.2,500mを超えると,稲は育たず,やむを得ずアワなど別の穀類,ソバ,トウモロコシなど植えて収穫し,一部は売り,それでお米を買い入れるそうだ.


こちらは田植えほぼ完了

こちらは田植えほぼ完了

こちらは棚田では田植えがほぼ完了し,きれいな水を湛えている.

棚田の向こう(写真左上)には白い布地の祈祷旗ダルシン(darushin)が大量に掲げられている.タルチョーと同じように真言『オンマニぺメフム』が刷られており,風でたなびく度に,その真言を唱えたことになるという.水力マニ車と同じような功徳があるわけだ.


ウォンディポダンへの道の曲がり角の野菜市場

道の曲がり角の野菜市場

道の曲がり角,少し広いスペースがあり,すかさず野菜市場が開かれている.近くの農家が生産した野菜や果物を商っている.近所の村同士で互いに得意な作物を販売し,代わりに不得手(生育できない)な品を買い入れるようだ.車で往来する都市部の人も比較的割安な産直品として買っていくようで,これは日本と変わりない.ただし通る車は疎らだ.

ここも木には大量のタルチョーが掲げられている.チベット以上にチベット仏教が隅々まで浸透している印象だ.


ウォンディポダンへの途中,下校中のゴ着用の生徒たち

下校中のゴ着用の生徒たち

高校生であろうか,皆同じ柄の伝統服ゴを着ている.通学の生徒や学生はゴ着用の義務があり,また学校毎にユニフォームとして同じ柄のゴ(女生徒はキラ)着用となるそうだ.帰宅後は自由で,Tシャツなど何でも構わないそうである.

写真で見た記憶のある日本の旧制高校や高等女学校のスタイルに似ている.....かな?


ウォンディポダン手前北側にプマツアン川(Puma Tsang chhu)が見えてきた

北側にプマツアン川が見えてきた

暫く行くと左手(北側)にプマツアン川(Puma Tsang chhu)が見えてきた.川の両岸は広い耕作地が展開されている.多分標高1,500mくらいで,稲作限界2,500mより遥かに低いので田んぼが多いであろう.また標高が低く温かいので道端にはあちこち大きなサボテンが見える.それに地形の関係でいつも風が吹き,Wangdue Phodrangではなく,よくWindy Phodrang(風のポダン)と呼んでます,とUDさんの解説があった.


ウォンディポダンの新市街(バジョ/Bajo)通過

ウォンディポダンの新市街(バジョ/Bajo)通過

プマツアン川はそのうち南に曲がり,街道もそれに沿って南下した.そして少し進むとプマツアン川対岸にウォンディポダンの新市街というバジョ(Bajo)の街を見ながら通過した.実はこの道の先にあるウォンディポダンゾン(Wangdue Phodran Dzong)が2012年全焼し,その門前町ウォンディポダンゾンもまた壊滅的な被害が出たため,北のこの地に丸ごと新しい街を建設したのだという.

2012年焼失からの建設にしては随分早い完成に見えるが,建物が画一的でマトリクス状にきれいに並ぶ様がどうもブータン的光景から逸脱しているような.....

資料を見ると,近くの発電用ダム工事が重なり,その住宅バブルとタイミンが合ったために超スピードで街が出来上がったのだという.ふむふむ.


ウォンディポダンDragon Nest Resortに到着した

Dragon Nest Resortに到着した

ウォンディポダン新市街バジョを越えた辺りで,バジョ対岸(つまり街道側)川べりのDragon Nest Resortホテルに到着した.

写真右側がレセプションやレストランのある建物,左が客室のある2階建ての建物となる.


レセプションでチェックイン

レセプションでチェックイン

下の建物のレセプションでチェックインし,部屋のキーをもらう.

ガイドUDさんは別のホテルに宿をとるそうだ.明日またよろしく.


ウォンディポダンDragon Nest Resortの部屋

Dragon Nest Resortの部屋

これが私の部屋だった.バスタブ無しだが,シャワーはあった.十分広い.Dragon Nestなので自分がDragonになった筈だが....そんな格調は感じられないな~,もちろん.

ブラウン管テレビが珍しい.画質はあまり良くないがCNNが映った.予備選でクリントン候補が4つの州で勝ったニュースなど伝えている.またwifiはあり,便利だ.

シャワーを浴びて庭に出てみると,ヨーロッパ系やインド系と思しきお客さんがベンチで寛いでいた.かなり辺鄙なところだがそれなりに来客があるのだ,自分も含めて.


最強のビールDuruk 11000

最強のビールDuruk 11000

日が落ちてきたのでホテルレストランに行った.窓からはプマツアン川対岸斜面ポツリポツリ点在する家屋や往来する車も見える.

先ずはビールを頼んだ.xx,xxと,....とありますが,と言うので,『一番強いのを』と言ったら,出してくれたのがこのDuruk 11000で,たしかにラベルにSuper Strongと記されている.飲む前に気に入ってしまい,以降基本的にこのブランドを注文するようになった.なおビールは250円くらいでとても安い.

お料理はこの後出してもらったのだが....チキンだったかな~?


-------------- 明けて2016年6月9日朝になる --------------

ウォンディポダンDragon Nest Resortで朝食

Dragon Nest Resortで朝食

Dragon Nest Resortで一夜明けて2016年6月9日朝になった.昨晩と同じレストランに行き朝食を頂戴する.玉子の調理法を幾つか紹介されたが,サニーサイドアップなど普通のものに加えてチーズ入りオムレツと云うのがあるそうで,それにしてみる.写真がそれだが,美味しい.

ウエートレスが英語を話すのがいい.ブータンでは小学校から国語(ゾンカ語)以外の科目はすべて英語テキストで,講義も英語だそうで慣れているのであろう.英語普及の狙いもあろうが,自国教科書の未整備や,教員不足で,インドから英語教科書や教員確保の必要上,やむを得なかった面もあるらしい.インドだけは他国とは別格,別扱いの事情の一端であろう.


再建中のウォンディポダンゾン(Wangdue Phodran Dzong)

再建中のウォンディポダンゾン

朝食後UDさんがランクルで迎えに来てくれて乗り込み,南に進む.程なくプマツアン川に架かる橋があり,橋の先の丘に焼失し,再建中のウォンディポダンゾン(Wangdue Phodran Dzong)が見えた.ただできた部分は元のほんの一部だそうだ.

ウォンディポダンゾンは1638年着工された歴史ある城で,ここの城主はティンプー,プナカと同格の要職だったそうだ.この手前に広がる農地や気候で比較的豊かな地なのであろう.

なおこのプマツアン川少し南では,北西からタン川(Tang chhu)が流れ込んで合流している.


ウォンディポダンインド系住民の村

インド系住民の村

ウォンディポダンゾンとプマツアン川を挟み反対側,つまり街道側の丘の上にはインド系住民(ブータン国籍)の村という住居群があった.現在も道路工事などで大勢のインド人がブータンに出稼ぎに来ているのだが,昔から道路や建物建設の労働者はインドから賄うという慣わしがあったそうだ.この村は既に古い時代来て,ブータンに定住したインド人の村ということだ.

現在も道路工事の労働者はインド人が多くを占めるのだが,基本的にブータン人より大幅に安く雇えるのが理由だそうだ.まあ,換言すればブータン人は安い賃金で重労働はやらないのだそうだ.これはGNPよりGNHをという哲学にも関係しているかな~?



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