このキロキティア編では,2016/1/10(日)午後,レフカラ村を見物した後,ここキロキティアを訪れ,先史時代7000年BC~6000年BCのキロキティア遺跡を見物したときの写真を載せました.
このマップは前頁レフカラ編に載せたマップの再掲載です.キロキティア(Choirokoitia)はA1街道を降り,山側にほんの少し入った辺りに位置している.
バスはレフカラの丘を下り,再びA1街道に戻った.そしてキロキティアへと西に進んだ.
キロキティア遺跡のある右側(北側)には低い丘陵が連続して見えていた.そしていかにも牛とか羊がおりそうな地形に見えるので目を凝らすが,全く見当たらない.不思議に思いガイドCnさんに尋ねると,『キプロスでは牧草があまり育たないので,家畜は家畜小屋で飼育しているのです』とのことだ.でも草は結構生えているように見えるがな....それにアラブやウイグル,モンゴルの砂漠やゴビっぽいところでも羊はいっぱいいるし.....まあ,家畜に関しては未だよく理解できていない.
レフカラからキロキティアへは目と鼻の先なので,直ぐに到着した.
駐車場はほぼ空で,ここも貸し切り状態で見物できそうだ.
駐車場からちょっと歩くと,小ぢんまりした遺跡入り口切符売り場があった.レフカラの家と同じように白い石の造りだ.ここでガイドCnさんが切符を買い,パンフレットを分けてくれた.
ところでこれまで見たところ木造の家は見ない.キプロスでは家は基本的に石で造るのであろうか?前回訪れたイスラエルではすべて石造りというし,ここキプロスはそこからはほど近い.多分そうじゃなかろうか.
切符売り場には,キプロス考古学博物館で見てきたポモスの偶像や前期青銅器時代のオブジェ(右側)の模型が並んでいた.ここ同様歴史深いキプロスの発掘仲間として並べたのであろう.多分販売しているものと思われる.
ゲートから入ったところに数戸の復元した円筒住居が建てられている.石材を重ね,隙間に藁入りの土(つまり土壁材)を詰めて綺麗な円筒を作っているようだ.円筒には入り口と小さな窓が設けられ,円筒内部には部屋に区切る壁も見られる.壁の厚さは相当厚く,また円筒の精度(円筒度)はとても高い.
壁は新築時は薄いが,徐々に外側に重ねて積み増し,どんどん厚くしていったそうだ.最大のものは外径が9mもあるという.補強と保温性アップのためでしょうか.ただし小さいものはたった2m程度のものもあるそうで,それでは横になることも難しいような....
円筒下部周りは補強のためであろう,包み込むように泥で固められた石ブロックが寄せられている.また屋根は樹の枝で覆い,土壁材で固めた方式で,現代でも乾燥地帯ではよく見られる工法だ.
内部床面は地面より若干低く掘られているようだ.それと上述のように部屋に区切る厚い壁もある.中央の部屋にはベンチも備えられその奥は暖房若しくは調理用かまどらしい.
それと驚くことに床の一部は亡くなった家族の埋葬場になっている.つまり住居と墓地が一緒になっているというわけで,これにはびっくりしてしまった.写真下側は見本の人骨が丸ごと,土器や玄武岩の埴輪などの副葬品と共に埋葬された様子を展示している.一形式の葬儀と推定されているようだ.
集落はキロキティア遺跡の丘に設けられ,半分はマロニ川渓谷(Maroni river)で,半分は構築された2.5m~3mの分厚い石塀(城壁)で囲まれている.そして一部にこのジグザグ階段入口が設けられている.
家畜囲い,それに野生動物の侵入阻止と,外敵が一気に攻め入るのを防ぐためだったようだ.なお外部からはこの階段が見つけにくい,カムフラージュ構造にもなっている.
遺跡にあったこの説明図で,赤い線がこの階段を登る動線で,判り易い.きっと城壁の上では重い石を持って待ち構えたりしたことであろう.
復元円筒住居の脇にこの『イナゴマメ(蝗豆)の木』が生えていた.イナゴマメは地中海沿岸の温暖ながら乾燥気味の土地でよく育つそうだ.
実は食料や甘味料,飼料として活用されており,キロキティア遺跡の住民も食べたと見られているそうだ.
木から落ちた豆の殻を割るときれいに揃った実が覗く.そして一粒の実は0.2gくらいで,かなり均一であるそうだ.
一方イナゴマメの学名はギリシャ語に由来するCeratonia siliqua(なお和名は英語名Locust beanの訳だそうだ)で,ダイヤモンドの計量単位カラットcaratはこの豆の名に由来し,実の質量均一性を根拠に定められたそうだ.
現代の精密な計りで計測すると,豆は実際バラつき,結構大きな偏差があるそうだ.昔もそれらを平均して値を決めたのでしょうか.
一旦石を砕いて比較的平坦な面を作り,2つの石材を擦ることにより磨いて凹凸を無くし,平らにした石器で,『磨製石器』(polished stone tool)と呼ばれるそうだ.磨製石器には石斧などの刃物などもあるが,ここの現物は穀物などを挽く石臼のようだ.
ちなみに日本でも,さらに古い3万〜4万年前のものと推定される磨製石斧が見つかっているそうで,世界最古とされるそうである.
復元住居は平坦地にあったが,実際発掘された円筒住居は傾斜地に密集して建てられていた.写真で積み上げられた石が円筒住居の一部であり,ちょっと見難いが隣の円筒住居とは殆ど密着しているのが多い.
当集落は新石器時代7000年BC~6000年BCのもので,その長い年月を通し,一貫して300人~600人の人々が暮らしていたようだ.食料は周囲に自生の上記イナゴマメなどに加え,ピスタチオ,イチジク,オリーブ,プルーンや栽培した穀類など食し,また鹿,羊,山羊,ブタの骨が見つかっているということだ.羊,山羊,ブタについては家畜として飼っていたようだ.鹿もそうかな....NZのように.....
この遺跡は1934年,同国考古学者ポルフィリオスディカイオス博士(Dr. Porphyrios Dikaios)によって発見された.以降継続的に発掘調査が進められているが,途中トルコ軍のキプロス侵攻による中断などあったが,今も屋根が見えるように調査は続いているそうだ.
傾斜地の集落を登り切ると,その先は断崖の谷になっている.このためこちら側には厚い城壁は不要である.
一方傾斜地集落に沿う道(現在も私たち観光客の通るトレイルになっている)の横は傾斜が緩やかで城壁を築く必要があった訳だ.それにしてもなぜ2.5m~3mもの厚さが必要だったのか解らないのだが.....
円筒住宅集落の見物を終えて,私たちは丘を下った.当初予想通り,私たち以外の観光客は殆どいなかったようで,ゆったり眺めることができた.
向こうにはA1街道が見えている.あの道を今日の宿泊地リマソールに向かう筈だ.
キロキティア遺跡から下り,バスの駐車場に戻った.たまたまこの近くで採れたみかん集荷の人たちが仕事中だった.さぞ物欲しそうな顔をしていたのであろう,一つ分けてくれた.ありがとうございます.日本のみかんと同じタイプ(マンダリン)で,種は多めながら美味しかった.
なおここは『キロキティア(Choirokoitia)』として,1998年ユネスコ世界遺産(文化遺産)に登録されている.