このトロードス編では,2016/1/11(月)リマソールのホテルをバスで出て,トロードス山中へ上り,アラカ教会,ポディトゥ聖堂を見た後,キプロス料理の昼食を頂く.そして午後キコス修道院,およびマカリオス大司教の墓を見て回ったときの写真を載せました.
2016/1/11(月)朝,赤いマーカー,リマソールのホテルからA1街道を西のレメソスまできて,北の山道に入っていった.そしてしばらく行くとトロードス(troodos)山中となり,青いマーカー各所,アラカ教会,ポディトゥ聖堂,キプロス料理のレストラン,キコス修道院,およびマカリオス大司教の墓を巡った.
さて1/11(月)の朝がきてSt Raphael Resortのレストランで朝食を食べ,このロビー吹き抜けでメールをチェックする.部屋ではwifiがうまく繋がらないのだ.
高い吹き抜けなので,まるで戸外のように大きなヤシもOKだ.その傍のクリスマスツリーもようやく片付けにかかっているようだ.お正月は大してお祝い行事がないので,クリスマスを長く継続するのだろう.
バスは一旦A1街道を西に向け進んだ.普通込み合う時間帯であろうが,そうした様子は見られずスイスイ進む.そしてリマソールの真ん中辺り,レメソスで右(北側)に折れる筈だ.
北に向かう山道に入った.道路はカーブが多くなり運転は大変になる.ただ道路は空いており,路面もちゃんとした舗装のいい道である.
山道の途中には住宅があり,村や小さな町がある.ただ畑は少なく,家畜はやはり全く見かけない.
大分高度を上げたか,いや大して上がってないか?山間の村が次々に現れる.夏になると涼を求めて訪れる人が多くなりそうな自然環境に見える.
天気予報通りなのだが,この辺りからちょっと雨になってきた.標高も高くなるし冷えてきそうだ.
十字に下にハの字,まとまって『ホの字』のロゴに見える.さてどう云ったいわれの教会なのでしょうか.
外観デザインは比較的シンプルでモダンなように見える.少なくともオスマン帝国が退いた後の建築かな~
ここは上の教会よりさらに新しく見える.塀も,本堂壁も,鐘楼もいろいろな色の石をランダムにではあるが配して,地中海エリア伝統のモザイクアートを試みているようだ.
分岐点にきた.右に行くと8km先に目指すアラカ教会があるとの標識があった.
標識がキプロス語に加えて英語併記が親切だ.これも英支配の歴史の結果であろう.....反英一本槍でなく前向き志向で行ければいいと思う.....
やはり現代風デザインの教会だ.お堂の形が正教十字架と同じように縦横比同じになっているようだ.この点西欧に多いカトリック教会の,縦に長く,横はそれより短い張り出し構造の教会と違っていると思われる.
バスはアラカ教会,正しくはパナギアトゥアラカ教会(Panagia tou Araka Church)に到着した.標高が上がったのと,あいにくの雨で少し寒く,傘が必要だった.
アラカ教会は世界遺産対象9教会の一つで,トロードス山中ピツイラ(Pitsilia)地方にある. ビザンチン時代からヴェネツィア時代までの長い期間,キリスト教会や修道院は海賊や,侵略軍の影響を避けるためこうした山中に建立するケースが多かったそうだ.
アラカ教会は随分と変わった教会だ.教会本体は石造りなのだが,風雨,それにたまに降るという雪から保護するため全体を本体より大きな木造建屋で囲った構造になっている.最初見て驚いた.他国でも古い文化財保護のため一回り大きな建物を被せる例を見かけるが,ここアラカ教会は,12世紀の終わり頃,最初からこの二重構造で建設されたそうだ.
ただいろいろ資料を見てみたところ2段屋根外側建屋は14世紀になって付け加えられた,という記述も見られ,ちょっと混乱している.
本堂礼拝堂中央にある石造りのドームは保護建屋から半身覗かしている.柔らかな色合い,素朴なデザインで味わい深い.
外側構造材はガイドCnさんによると主に『アレパパイン』ということで,松の一種であろう.壁は通気のため全面格子が嵌められ,屋根はスレート葺きで,雪落としのため急傾斜だ.
トロードス山中は松や杉が豊富なようだ.ただし住宅は石造りが多いように見えるが....
木造保護建屋入口に入ると回廊になっており,石造り本堂の入口前に管理人の男性が座っていた.写真はその椅子を離れ,内部に入ったところで空になっている.
石造り本堂の表面は漆喰が塗られ,古いフレスコ画が一部残っている(椅子の上辺り).覆い建屋が保護しているが,格子壁からは自然光が結構入り込むので,本堂内部と比べると退色が激しい.(↓に写真あり)
アラカ教会主礼拝堂に入った.かなり小振りな礼拝堂で,調度品やフレスコ画など全般的にクラシックな香りだ.普段撮影禁止らしいが,私たちのときはガイドCnさんの働きかけによるものか,フラッシュなしで撮っていいとしてくれた.
12世紀末,土地の若主人が聖マリアのイコンが存在するというこの場所に導かれ,そこに教会と傍に二階建ての修道院が建てられたそうだ.19世紀までは修道僧が生活し機能していたが,現在修道院部分は倉庫になっているように見えた.
私たちを礼拝堂に導き,ご自身は寒いので後部電気ストーブ前に座っておられた.
壁や天井はフレスコ画で満たされているが,最初のものは1192年中期ビザンチンの後期コムネリス様式(late Commenian style)で描かれたそうだ.何でもコムネリス様式とは概して細身で,衣服は曲線的に畳まれ,生き生きした動きに,例外的な(一般的ではない)色の組み合わせ,細部は一般的.....らしいが,私はさっぱり分かってない.
礼拝堂自体が小さいのでイコノスタシスもコンパクトだ.王門右にキリストのイコン,左に聖母子イコンと,正教の定石通り配置されている.
壁や天井はイエスキリスト,マリアに加え,天使や聖人のフレスコ画がビッシリと描かれている.これが前述の後期コムネリス様式なのであろう.
アラカ教会中央のドーム天井にはキリスト像が描かれている.手にした箱はドミノ牌を入れた箱のようだが,まさか?
そしてその外周は皆羽根が付いているので天使像であろうか.
さらにその外周の人物は全員,何らかのドキュメントのようなものを翳して立っている.どうやら12使徒らしい.
そのまた外はマリア像,いろいろな建物......と延々と続くのだ.
大きな聖母子像と大天使マイケル像,そしてその上に横たわった聖マリア,被昇天の図であろうか,その上にはいろいろな聖人像....と,こちらもどんどんフレスコ画が続く.
やはり正教会らしいと改めて感心させられる.
礼拝堂中程にこのような黒ずんだ枠の聖母子像イコンがあった.以前教わったリザで覆われているが,ボケてしまった.
シャンデリアは古いものと,近年の電気式シャンデリア両方下がっているが,実用されているのは専ら電気式だ.
これが本堂外周のフレスコ画だ.外周の絵は内部より相当遅く,1673年頃,別の画家によって制作されたそうだ.かなり欠落しているが,残った部分も退色は激しい.でも漆喰や,漆喰が落ちて剥きでた石の色とうまく調和してそれなりの味わいがあるように思う.油絵に対するパステル画的香りと言うか....
上の退色したフレスコ画の下にこのイコンが立てかけてあった.マリアと,マリアの被昇天かな? かなり新しいが十字の入ったマントが掛かるので特別なものであろう.
アラカ教会の見物を終えるとバスは一旦往路を引き返し,ポディトゥ聖堂を目指した.途中このような結構な戸数の村を通過した.霧と雨で霞んでいるが,住居は斜面に建っている.日常生活は結構大変そうに見えるが,さて主な生業は何でしょう....?この先で,やはり山間の村についてCnさんに訊いたときは,主に観光(ホテルやレストラン)で,他に果樹栽培なども,と話していた.
晴れていれば,この辺りではキプロス最高峰オリンポス山(Mt Olympos/1951m)が見えるはずだが,雲がある.或いは見えたときもあったかも知れないが,形を知ってないので判らなかったかも.
バスはポディトゥ聖堂,正しくはパナギアトゥポディトゥ聖堂(Panagia tis Podithou/Church of Panagia Podithou)に到着した.パナギアトゥポディトゥは『素足の聖母マリア』の意味だとか.広い屋根(テラコッタだそうだ)はアラカ教会と似ているが,一層急勾配で,一重である.外壁は格子ではなく,石積みの頑丈な構造に見える.それと上部はガラス窓で,いくらか新しさを感じさせる.
実際アラカ教会より近年の1502年,ヴェネツィア共和国が支配していた時代で,アラカ教会同様修道院付属教会として建てられたそうだ.
ポディトゥ聖堂は石の二重構造で,同じ二重でも外側が木の柱や格子のアラカ教会と異なっている.なお外側はU字型で,一番奥の祭壇部だけは二重になってない.
また屋根は木材の上にテラコッタ(terra cotta/赤土の素焼き)を敷き詰めた構造だそうだ.
内側本殿外周には,写真のように入り口周辺に一部フレスコ画が残っている.概してフレスコ画はルネサンス様式とビザンチン様式がミックスされた様式らしい.
礼拝堂入り口両側にキリストとマリアのフレスコ画があり,顔に傷が見える.1502年というとオスマントルコ支配の少し前だが,多分オスマン軍によるものではないだろう.仮にイスラムの偶像破壊によるものならもっと白くなるくらい剥がされていたと思う.
礼拝堂では写真不可ということで,廊下からロングで撮った.イコノスタシスはとても簡素で左右に聖マリアとイエスキリストのイコンが架り,聖人や天使,他の預言者....などのイコンがない.
そしてなぜか王門が開かれており,至聖所が覗けそうだ.実際この後礼拝堂に入り,よく見せてもらったのだが,う~んよく思い出せないな~手前左右に聖ペテロと聖パウロの大きなフレスコ画があったかな~
正教のフレスコ画は大まかに言って二次元的だが,ここのはイタリアルネサンスの三次元絵画技法が採り入れられていたようだ.はっきり思い出せないが.
上の方は誕生したイエスを抱くマリアさまを訪れた東方の三博士,それと12使徒?ぜんぜん違うかな~?
下はイエスキリストが誰かを救い上げているシーン.イエスよりかなり年配に見えるが.....さてだれだろう?
ポディトゥ聖堂礼拝堂は前面と左右に回廊が巡らされている.石の壁はむき出しで,漆喰も塗られておらず,剛健さむき出しだ.
ポディトゥ聖堂を見た後で,バスでこのモンテクリストレストランに寄った.伯爵とは関係ないとは思うが....
モンテクリストレストランはカフェテリア形式で,写真左手のフードスタンドから適当にお皿に装って食べる.
このシーズンはオフなのであろう,1時頃であったが,席は空いておりゆったり座れた.
モンテクリストレストランの売りはキプロス名物料理で,その中のスブラキ(Souvlaki)と呼ばれるシシケバブ,ハルミ(Halloumi)と呼ばれるヤギミルクのチーズを頂いた.
スブラキは今思うに,レフカラのケントポカフェで食べたケバブもそうだったのかも知れない.このお皿で左上のビーフと,その右の大きなチキンがそれであろう.なかなか美味しかった.
ハルミはヤギ乳に羊乳を混ぜ,非熟成塩漬けにしたチーズだそうだ.写真右下,黄色に茶の焼き焦げが付いたのがそれだったように思う.味は不慣れなせいか,一般的なチーズが無難かな~
なおトマトベースのスープも美味しかった.
お隣の庭には広いぶどう棚がある.夏になればいっぱい実を付けそうだ.ワインも仕込むのかな?楽しそうだな~
赤い屋根の上のソーラーパネルは一枚だけ剥がれかかっているが,大丈夫か?それはそれとして晴天率の高そうな国なのでソーラーパネルは温水器と共に効用大であろう.
腹がくちくなり,バスに乗った.今度はこの道をキコス修道院に向かう筈だ.幸いなことに青空も見えてきたから,雨も上がりそうだ.
キコス修道院に向けバスは松林の道を進んだ.山中なのでカーブが多いが,道が空いているのは幸いだ.
だいぶ走り標高も上げたようだ.キコス修道院は標高1140mに位置しているというから,浜辺より6~7℃くらい低いであろうか.
キコス修道院の表玄関に到着した.先ずは正面の大天使などのモザイク画に驚く.これまでのアラカ教会,ポディトゥ聖堂に較べて,建物や描かれたモザイク画,フレスコ画が圧倒的に新しい.同じユネスコ世界遺産かな~?との疑問も湧いた.この建築は新しいが,創建そのものは11世紀と古く,以来度重なる火災で,現建物は1979年の再建だそうだ.それは新しい筈だ.
さて,その創建当時に遡ると,ビザンチン帝国(東ローマ帝国)皇帝アレクシオス1世には病弱な娘がいた.そしてあるとき,『キプロス島に修道院を建て,そこに聖ルカが描いたマリアのイコンを奉納すれば王女は快癒する』と云う修道士イザイア(monk Isaiah)の助言を受けたそうだ.そこでアレクシオス1世は早速,ここキコスに修道院を建立したそうだ.
で,聖ルカの描いたマリアのイコンであるが,聖ルカ(St. Luke)は福音書4著作者の中の一人であるが,長めに見ても1世紀~2世紀に福音書を記したとされるそうで,その頃描いた筈のイコンの在り処をどのように調べたのでしょうか?何とか調べて,手に入れないことには奉納できないですので....
聖ルカが描いた本物のマリアのイコンは然るべき場所に厳重に保管されているらしい.一方これは,ルカがマリアを描く様子を現した絵で,上玄関門に描かれている.聖ルカ制作マリアのイコンはもちろん貴重だが,その制作シーンを描いた絵がこれまた有名だそうだ.世界では何人ものアーチストがそのシーンを描き,ここのモザイク画はそのレプリカ,若しくは別の画家の創作ということになるそうだ.
で,アレクシオス1世は結局,聖ルカが描いたマリアのイコンの一枚はお膝元のコンスタンチンノーブルに在ることを知った,または予め知っていたそうで,それをゲットしここに奉納したそうだ.そして王女の病は快癒したということだ.めでたし.
ところで聖ルカは福音書著者として有名だが,元々医師で,ちゃんとした由来は知らないまでも,東京でも聖路加病院などの名から,医療関係者だったのかな~と想起させる.
キコス修道院には中庭があり,大きな2階建て,若しくは3階建ての回廊を持つ建物でぐるりと囲まれている.この場からは見えないが,さらに上の丘からは,本修道院と同規模の別棟,多分僧坊であろうが建てられているのが見える.
石積みで漆喰で固めるという基本構造は前記2つの古い教会と同じで,多分この辺りの住宅工法としても使われているのではなかろうか.
写真右上,鐘楼は修道院本体から離れ,自然地形を利用した丘に建てられている.なかなか巧みな設計だ.
黒い装束の修道僧が数名の来訪者を案内して回っているところか.ちょうど玄関先に写真に邪魔な立派な車が止まっているな~と,皆で話していたのだが,その車の人たち,多分エラい人たちでしょう.
現在18人の僧が修道に励んでいるそうだ.他に例えば門番の守衛さんとか,キッチンの賄方さんや,用務員さんとか...かなり働いているのではないだろうか.何しろ大きな修道院だから.
主要構造は石積みで中庭に面する部分はアーチで,これがまた手が込んでいる.写真左のアーチはエッヂの効いたアーチだが,右のは丸い角で,連なる平面も凹凸のあるソフトな感じで仕上げている.なかなか美しい.
キコス修道院回廊は全部が全部絵で満たされている.イエスキリストや聖母マリア,預言者,天使,12使徒,旧約聖書,新約聖書,聖人....などにまつわるお話が,これでもかとばかりに描かれている.
昔はあまり文字の読めない人がいたので,代わりに絵にして見てもらっていた,とまあそんな風に聞いていたものだ.だが現代は別に読めないからという理由ではなく,絵のほうが短時間で,しかも深く理解できるからだと,少なくとも私は思い,納得した.ちょうど,百聞は一見にしかず,のように.
回廊の壁はもちろん,天井まで絵でいっぱいだ.天井は絵の具が落ちて来るし,首は上向きだし....画家は大変だそうだ.
ところでこうした壁画はアーチストではなく職人さんが描くので,作者の名は入らないものなのだと,最近の新聞(日経)で知った.なるほど.
無数にある中での例1だ.多分聖母マリアの永眠,被昇天の図であろう.背後の子を抱く男性はイエスキリストかな~でもイエスはマリアより先に亡くなっているし,それに抱かれているのは誰だ?
いや~やはり全然解っていない....
2番めの例はこれだ.実は前回イスラエル紀行2015でシオンの丘を訪れたとき,イエスが12使徒と共に摂った『最後の晩餐の部屋』の円柱頂部にペリカンのレリーフがあった.そしてその時のガイドSさんから,ペリカンが子に自らの血を分け与える,とのお話を聞いていた.
そしてここキコス修道院回廊の壁に,そのペリカンストーリーがモザイク画で掲げられていた.やはり絵はとても分かり易い.
膨大な数ある中から幾つか載せた.聖パウロのお話など,添乗Aさんの解説を聞きながら巡った.
この中には,後にパフォスで訪れる『パウロの柱』の聖パウロが主人公の絵,改心したパウロがローマ兵に責められるシーン(右上)や,逃がしてもらうシーン(左下)などもある.
なお以上でアラカ教会,ポディトゥ聖堂,キコス修道院はトロードス地方の壁画聖堂群(Painted Churches in the Troodos Region)として,1985年ユネスコ世界遺産(文化遺産)に登録されている.
キコス修道院を後に,今度はマカリオス大司教(マカリオス三世大主教)(Makarios III:1913~1977年)の墓に行った.この2つは間近で直ぐに駐車場に到着した.そして駐車場から近く,この大きなマカリオス大司教立像の広場に歩いた.おなお墓はこの脇の坂を上った先にある.
既に南ニコシアの聖ヨハネ教会のページで記したことだが,マカリオス大司教(Makarios III:1913~1977年)は,キプロス正教の大主教(最高位)であって,しかも初代大統領に就任(1960~1977年)した方だそうだ.今も国民から『キプロス共和国の父』と多大な尊敬を集めているそうだ.もちろん反マカリオス派の人もいるに違いなかろうが.
宗教指導者が政治の最高権威に就くケースは,例えばイランなどイスラム圏ではよくあると思われるが,他の宗教圏では珍しいのではなかろうか.
立像のある広場から墓所へは坂になっている.陽が低くなってきたが,晴れて良かった.
やはりキプロス正教大司教の墓所に続く坂道であるから,両脇には延々と立派なイコンが並ぶ.
この写真の例は,大天使マイケル(ミカエル,ミシェル,ミゲル....)かな?
マカリオス大司教の墓に着いた.棺の背後では一人の衛兵が銃を携え,不動の姿勢て守っている.30分毎に交代するそうだ.
『建国の父』クラスの墓所としては控え目かな~という気もする.エジプトのピラミッドや,秦始皇帝陵などは置いておいても,例えば台北の中正記念堂,アンカラのアタチュルク廟,ハノイのホーチミン廟....など,大きなお墓は枚挙に暇がない.
ただ大きなお墓は国内の大きな争いを経て,専制国家的,独裁国家的成立を経た場合が見られ,控え目な墓所はむしろ平和裏に生涯を終えた国家指導者だったケースが多いように感じる.
マカリオス大司教は元々この近くの生まれで,13歳で上述のキコス修道院に入り,正教への道に進んだそうだ.随分若かったのだ.やがて大司教に就任し,そして反英運動の末,独立を勝ち取り,初代大統領に就任した.
そして亡くなった後もキプロス全土を見続けたいと,このキプロスの中心,全土を見渡せる高地であるこの地への埋葬を望んだということだ.ちょっと雲が多いが,確かにこの辺りからは遠く地中海まで望めるようだ.
墓所の前に交番のような詰め所があり,いっぱい詰め込んだポケット付き上着の兵士が警備に当たっている.ポケットの中身は物騒なものかな~?
ところでガイドCnさんに訊くと,キプロス(南)には18歳から25ヶ月の徴兵制があるそうだ.ただ海に囲まれた国なのに,海軍はないのだそうだ.何でも,キプロス国家守備隊という組織で,陸海空全部守備するということらしい.また別途ギリシャ軍が駐留しているそうだ.
なお北キプロスにも国防組織に加え,もちろんトルコ軍が駐留しているそうだ.そしてグリーンラインには国連キプロス平和維持軍 (UNFICYP) が駐留し,監視しているのは前にも触れた.
マカリオス大司教の墓近く,若干高いところに工事中の建物があった.道脇だけでもこれでもかというほどあるのだが,それらに加えて収容されているようだ.
マカリオス大司教墓を参拝し,バスに戻ると下りにかかった.結構深くまで来ていたので,長く走る.
途中霞む谷あいの大きな村が見えた.この辺りはホテルやレストランなど観光業が主だそうだ.まだちょっと季節には間があるので,今は暇であろう.
さてこうしてリマソールのSt Raphael Resortホテルに戻り,二泊目の晩を過ごすことになる.