このギルネ編では,ラルナカからギルネ付近のマップ,2016/1/9(土)午前ラルナカ空港からバスで出るとき,南ニコシアを経て,グリーンラインを通過し,北ニコシアを過ぎ,ギルネの街に至り,キレニア城を見物し,名物料理の昼食後ベラパイス修道院を見たときの写真を載せました.
南のラルナカ空港からバスに乗り,南ニコシアを経て,南北キプロスを分けるグリーンラインを通過し,北ニコシアを過ぎ,ギルネの街に来た.そしてキレニア城を見物し,名物料理の昼食後ベラパイス修道院を見て回った.
ラルナカ空港の税関(フリーパス)を出ると,ガイドMs.Cnさんが待ってくれており,あいさつの後,目の前の駐車場で待機のドライバMr.Cfに伴われた大型バスに乗り込む.Cnさん,Cfさんどうぞよろしく.
添乗Aさんのお話で,今回ツアーのウリは最上級(5☆)ホテル使用とのことだが,一人当たり4シートでも余分の出るこのMAN(独社)大型バスを加えてもいいだろう.Cfさんの話ではまだ真新しい型だそうだ.
さてそのバスは早速北へ向けてスタートした.道路標識はギリシャ語と英語が併記されている.それと道路は混み合っておらずスムーズな流れだ.
ラルナカ空港の先には標高の高くない丘が広がり,その上に小規模なウインドファームが見えていた.その辺りは住宅がないようで,騒音問題を起こしやすい風力発電には好適な筈だ.ただこの日は風が弱いようで停止している風車もある.なおキプロスの電力は今のところ火力発電が殆どを占めているそうだ.
世界では少数派であろうがキプロスでは,英や日本と同じ,車は左側通行だ.1878年英が露土戦争でオスマントルコ側に便宜を図った見返りでキプロス島の統治権を獲得した頃から,英方式が採り入れられたのではなかろうか.
とう云うことで右ハンドルの日本車はそのまま使い易いのであるが,トヨタ,ホンダ....が多く走っている.でもそうでないBMWやベンツもバカに多い.Cnさんが言うにはそうした高級車は中古輸入が多いそうだ.
道路沿いの平地は畑や牧草地ではなく,ただの荒れ地のように見える土地が多いのだが気のせいかな.....でも羊や牛などの家畜があまり見えないのは確かだと思う.
やがてニコシアの街に入ってきた.左手に赤い屋根の大きなキリスト教会が目立つ.キプロス正教(ギリシャ正教)の教会であろう.
ニコシアはキプロス共和国,それと北キプロストルコ共和国双方の首都であるが,その中央をグリーンラインと称される分離帯で分断されている.昔の東西に分離されたベルリンと同じことが,2016年の今もそうした現実があるのだ.とりあえず国連のキプロス平和維持軍(UNFICYP)の監視下で何とか平穏を維持している状況なのであろう.南北分断のグリーンライン(バッファゾーン)は180kmあるそうだが,一見些細ないざこざも重大な政治問題に発展するケースも稀ではなく,既に50年以上になるUNFICYPの仕事は大変なようだ.
ニコシアの街(南側)に入った.中層建築が主で,高層はあまりなく,道路も空いており,比較的緑豊かな街に見える.人口約33.6万人で,国の人口86.2万人の1/3以上の集中度のようだ.
キプロスの主要産業は観光業と金融業なのだそうだが,その金融業に従事する人の多くがこの首都ニコシアに集中しているのではないでしょうか.
EU加盟国で,通貨もユーロであるが,何しろギリシャ人の国,宗教や行政に似た面が多いとされる国だけに,今は経済的には結構大変な面がありそうだ.欧州中央銀行に支援を仰ぐため,それまで無かった預金課税が最大9.9%となることで,預金者がATMに殺到,『キプロスショック』が起こり....と,まあギリシャのケースと似たようなことが起こったりしているようだ.
それは前置きで,経済面ではいろいろあろうが電柱は無くし,植樹し,また看板の張り出しなど制限しているようで,他のヨーロッパ都市同様街の美的環境保護には気を遣っているように見える.
バス通りはグリーンライン手前,南ニコシア出国チェックポイントにやって来た.普通の国境イミグレーションと同じようにパスポートを調べるだけのようだ.
なおニコシア(Nicosia)は英名で,ギリシャ語ではレフコシア(Lefkosia),トルコ語ではレフコシャ(Lefkosa/sはセディーユ付き)だそうだ.なので,ギリシャ系南ニコシアではレフコシアと呼ばれることが多くなっているそうだ.
ここからは北入国まで撮影禁止で,写真なし.
南キプロスのバスとドライバはそままでグリーンラインを越え,トルコ系北ニコシア,つまりレフコシャに入った.パスポートチェックはあるがスタンプは押さないようだ.そして北キプロストルコ共和国専任ガイドMs.Hさんが新たにバスに加わってきてくれた.どうぞよろしく.
バスが走り始めると,早速青いMERITの看板にはトルコ語セディーユ付きsのLefkosaの文字が目に入る.
そして更に画期的なことは,道路標識にギリシャ文字/ギリシャ語が一切なくなり,トルコ語と英語の併記になることだ.これはかなり徹底しているようで,旅行者は別の国に入ったのだな~と実感できる一番の要因となろう.
北キプロスでは言語だけでなく,宗教がイスラムに,通貨がトルコリラ,トルコ寄り政治体制,国連未承認....と大きな差異がある.
ところでこのグリーンラインの南北往来は2004年自由化されたそうだが,実際双方市民の往来は多いそうだ.北ガイドHさんに物価の差を求めての往来があるか尋ねてみたら,通貨は違うが実質的な物価は殆ど同じだということだ.
この辺りはレフコシャの中心,つまり北キプロストルコ共和国の要所でしょうか,トルコ共和国建国の父アタチュルク(Mustafa Kemal Ataturk)像が立てられている.北キプロストルコ共和国はその名のようにトルコ共和国の一部という位置付けなのでしょうか.
また像の周囲には北キプロストルコ共和国,トルコ共和国双方の国旗がはためいている.北キプロストルコ共和国国旗はトルコ国旗の赤白を反転し,そのままでは印刷や写真のネガ原板と間違えられそうなので上下に線を加えた,といった感じだ.
北ニコシアにはちゃんと電柱があり(無いところもあるかも),歩道など未整備気味だ.一国の首都としてはかなり長閑な感じで,なかなかいいが,南に較べて経済面では遅れてきた感じだ.まあ,昔の東西ベルリンの差,見たわけではないが現在の南北朝鮮の差.....のようなものか.
北ニコシアの郊外に差し掛かった.街路樹を挟んでゆったりした道路が素晴らしい.
ここに限らずキプロスの街路樹はみかん(オレンジ)が多い.そのまま食べると苦い種で,一般にマーマレードなどに加工されるそうだ.
北ニコシアを抜け出ると山の斜面にトルコ共和国国旗(左)と北キプロストルコ共和国国旗(右)が並べてあった.どデカさに驚かされるが,白や赤の石を敷き詰めて描いたのでしょうか?何分にもモザイク画の伝統を有する国ですから.
ただ北キプロストルコ共和国はトルコ共和国以外の承認国が皆無であることがイタいところだ.この先どのような方向に行くのだろう?
バスは北に進み,地中海を背後にした白いギルネの街が見えてきた.この光景は直ぐに上等なリゾートタウンを想起させるが,さて南同様ヨーロッパからの客が押しかけるのであろうか.多分そうであろう.
なおギルネ(Girne)はトルコ語で,英語/ギリシャ語ではキレニア(Kyrenia)というようだ.この後見て回るキレニア城の呼称は当時支配者のギリシャ人や十字軍の名残であろう.
先端が銀色に輝く2本の高いミナレット,銀色ドームのモスクが見えてきた.いや~やはりイスラムの国だな~
バスを降りて少し歩く.ナツメヤシの街路樹がいかにも南国風味を醸している.それと冬のこの時期は雨季だそうだがよく晴れてくれてありがたい.
何やら古い建造物が残されている.近くにはお城も在ることだし,数々の戦いが繰り広げられた街であるそうだから,古戦場跡かもしれないな~今は公園のようになっている.
中央のドーム屋根の建物はオスマントルコ時代の人物のお墓でBaldoken ottoman graveyardと称されるようだが....はっきりはしない.
レストラン近くに小ぢんまりしたキリスト教会があった.英国国教会系のアンドルー聖公会教会(The Anglican Church of St. Andrews)というそうだ.主にここに居住する外国人信徒の利用が多いそうだ.
キレニア城見物の後,ちょうどお腹が空いて,このキビルスエビ(Kibris Evi)レストランで昼食となった.キプロス名物,メッザと呼ばれる前菜サラダ盛り合わせに続き,チキンか白身魚のメインだった.名物なのに写真忘れたが,細かなものがいろいろ.....だったか.
それより,同行者の中でお誕生日の方がおられて,ワインを出してもらったのが印象深い.イスラム圏ながら,少なくとも外国人異教徒に対してはトルコ同様比較的戒律に緩いのであろう.いいことだ.そして普通に美味しかった.
キビルスエビレストランはキレニア港(Kyrenia harbour)の傍であり,またキレニア城のすぐ脇でもある.窓からは湾に停泊した船が見える.
キビルスエビレストランのバルコニーからキレニア港を眺めると,プレジャーボートや遊覧船の他に漁船のようなものも見える.多分共用の港なのであろう.それと桟橋には白いクロスを掛けたダイニングテーブルが並べられ,食事中の人も見える.天気もいいことだし,一段と美味しく食事ができそうだ.でも当地の人はお酒がないであろうから,人ごとながらちと惜しいのでは....と同情する.
9世紀BC頃,海洋技術に長けたフェニキア人がキプロスに入植し,支配した時代,このキレニア港は交易で大いに栄えたということだ.
オープンカフェもあちこちに点在する.ヨーロッパの人は一般に戸外の食卓が好きだ.晴天の今時分ならちょっと寒いかな~くらいか.夏はフライパンのように暑くなるというから,逆に戸外は快適ではなくなるのだろう.ビアガーデンとかであればいいが,それは叶わぬであろうから.
ギルネの街の看板はトルコ語か英語だ.トルコ以外のイスラム諸国は,アラビア語,或いは少なくとも表記がアラビア文字やその系統であるので,まったく見当がつかない.それに較べてトルコやここ北キプロストルコ共和国のトルコ語はラテン文字で表記されるので,例えば地名などある程度見当が付く場合があり,旅行者には便利だ.
ギルネの大通りに面し,白い2本ミナレットと白いドームのモスクがあった.途中で見かけたモスクと色は違うが,同じような形式で似たようなサイズか.ギルネの人口は7万人くらいだそうだから,市内には複数のモスクがあろう.
上述のようにアラビア文字がないし,ブルカどころかスカーフの女性もあまり見かけないので,モスクでもない限りイスラム情緒が希薄だ.
ここはキレニア港周辺を離れ,ちょっと街外れのベラパイス修道院へ続く通り.繁華街を離れ,住宅街にある小さなお店がひっそりと軒を並べている.これもまたギルネの一面であろう.
キレニア港の横,海辺に面したキレニア城(Kyrenia Castle)にやってきた.主に赤味がかった石灰石(limestone)を積み上げた構造のようだ.なかなかの量感がある.
オリジナルは9世紀ビザンチン時代にアラブ勢力(海賊)防護のため内城壁の建設が始まり,11世紀末からスタートした遠征十字軍が現在の原型を築き始めたという.そして1489年ヴェネツィア共和国がキプロスを手に入れてから外城壁を強化するなど改築したそうだ.
キレニア城の入り口は傾斜のある石畳に導かれ,扉が設けられている.外敵侵入対する防護は抜かりない.
城門の近くにはプジョーのようなマークとエルサレム十字のような文様が掲げられている.次の項のベラパイス修道院同様,キレニア城内部のゲオルギオス聖堂建立と維持に関わった人たちの印しなのであろうか?
キレニア城はおよそ四角形の城壁で囲まれ,内側は広い中庭になっている.中庭内には目立った建物はないという点が普通のお城とかなり違うように思えた.
ただ城壁の幅はバカに広く,壁の内側に色々な部屋が設けられている.例えば今は難破船博物館となっている広い部屋や,牢獄(拷問博物館)などである.
キレニア城の中庭では散策中の家族が見える.大奥さんの装束はトルコ中年女性と同様寸胴風ワンピースに着色スカーフだ.トルコは黒いスカーフ禁止であり,またガイドや公務員は,色に拘わらずスカーフそのものが禁止だそうだが,ここも多分それに準じているように見える.例えば北のガイドHさんや,写真の若奥さんのように殆どスカーフは見ない.
ついでに北ガイドHさんに公務員の比率を訊いたら,な,何と就業者の60%あまりだそうで,絶句してしまった.凄いと言われるギリシャを遥かに凌ぐし,殆ど共産国家のようだが....聞き違えかな.....でもほんとらしい.もっと詳しく訊いておけばよかったな~
何れにせよ,北キプロス経済は,トルコからの財政援助に依存しているそうで,財政の苦しい自治体が国からの交付金でなんとか凌いでいるような状況とか.まあトルコ以外承認国が全くないので,トルコ以外直接投資する国は皆無,経済発展の障害はある筈だ.
しかし,これが肝腎なのだが国家財政には厳しいものがあるも,国民生活は概して豊かで,別荘を保有する人も多いし,自家用車の複数台所有は普通のようだ.
キプロスは南国だ.ハイビスカスやブーゲンビリアといった花がここかしこに咲いている.緯度で見ると東京より北に位置するようだが,地中海気候の成せるわざであろうか.
キレニア城の一室は難破船博物館となっている.ここには380年BC竣工,300年BCここキレニア港に沈没したというギリシャ船籍の商船で,1965年発見され,引き上げられたそうだ.
船体は耐水性や強度で名高いレバノン杉と同じか,同系統,現在只ならぬ状況にあるアレッポ産の杉材が使われているそうだ.以前訪れたアレッポの印象では,杉林の様子は窺えなかったが....見た範囲は僅かだし,少なくとも昔は茂っていたのであろう.
何れにしても海底で2300年も残っていたのは驚異的だ.
難破船の断面を再現したレプリカが展示されている,U字型横構造材の内外に,それと直交する縦板材を貼り付けた構造だ.船底キールには縦向きのフィンが設けてあり,ディンギーのセンターボードと同じように横流れ防止機能であろう.
縦板材の固定にコの字状釘が打たれている.これが黄銅のような色あいに見えるので,ガイドCnさんに訊いてみたのだが,『金属釘は一切使われておらず,すべて杉材で作られてます』とのことだ.杉材の特に硬い部分をコの字状釘に加工したのかな.....?これに関してはまだ納得できていない.
古い素焼きの壺,普通アンフォラ(amphora)と呼ばれるそうだが,が載せてあり,立てられているものと寝せてあるもの(左側)がある.中身はワインやオリーブ油で,今日と変わらないようだ.そして何れも壺底が円錐状に尖っている.Cnさんの説明によると,砂浜に刺して立てたり,写真のように船底に転がして積載するのに適した形態ということだ.
このとき見つかった金属(鉄)製品も展示されている.槍の穂先やキー,ハンマーヘッド,普通形状の釘の他に,素材用か或いはバラスト用か,インゴットのようなものもある.銅合金よりかなり高度な技術が要る鉄(炭素鋼)の精錬,加工技術があったことには改めて感心する.
なお上述のコの字状釘らしきものはなかったので,少なくとも鉄系素材でないのはたしかであろう.
この難破船はエーゲ海トルコはエフェソス沖のサモス島(現在ギリシャ領)からキプロスへと,トルコ沿岸近くを航行していたようだ.途中2,3の島を経由するが大陸には立ち寄らないのが面白い.島間だけで十分な交易量があったのでしょうか.
ところでサモス島はギリシャ神話の主神ゼウスの正妻,女神ヘーラーの生まれた島だそうだ.一方こちらのキプロス島は愛と美の女神アフロディーテ(英語でヴィーナス)誕生の地であるそうだ.多神教のギリシャには島がいっぱいあって,神々に自由に割り振ることができたわけだ.
4枚上の本物の船体も全長14.3mと大きいのだが,全体を描いて人と対比すると大きさが感じ取れる.またセールが張られているので,風で航行したようだ.この港は当時のキレニア港であろうが,桟橋は大きな木材で組まれ,広く,同時に数隻着岸できるサイズだ.
イチジクの種,オリーブの種と記されている.それらの木のない島に輸出されたのであろう.現代でも種子は重要な戦略商品であるが,例えばレバノン杉の種子や苗は金の卵なので,原産地では厳重に管理されていたという.
キレニア城城壁内部はただの広い中庭だ.ヤシなどの樹木が茂っている.昔は建物があったのだろうか?
広い城壁の上を歩き,北の縁まで行く.北キプロストルコ共和国とトルコ国旗が並んで掲げられている.北は多分母国と思っているであろうトルコ方面だが,距離が100km以上あるようでちょっと見えない.
こちらは東の端から望んだシリア方面.やはり距離があって,大陸が見えることはない.海岸は岩で,砂が舞い上がらないためかコバルトブルーできれいだ.
岸辺には釣り糸を垂れている人が何人か見える.さて釣れるのは何かな~
城壁南から陸側を見ると,キレニア山脈が意外と間近まで迫っている.ギルネの街はこの山脈と地中海に挟まれた緩やかな起伏ある準平地ということになる,
直ぐ近くにある白い塔は前述のアンドルー聖公会教会で,全体では意外に緑豊かな街に見える.
キレニア城には,11世紀~12世紀十字軍が送り込まれたころに建立されたゲオルギオス聖堂(church of St. George)が残されている.やはり厚い城壁の内側に作られ,素材が石灰岩のためか傷みが激しい.多分初めはあったであろうフレスコ画は残らず,壁表面も凸凹している.
牢獄であり,拷問の場でもあったそうだ.積極的に見るのは気が進まない場所だ.深い穴底の独房などもある.
中庭に転がっていた石臼.黒いので玄武岩でしょうか?でも表面は凸凹穴だらけに風化しているので,やはり石灰岩でしょうか?
このまま小麦を挽くと,皆穴に食い込みそうだが,昔は滑らかだったに違いない.
私たちはバスで海岸を離れ,丘の中腹まで上った.そして少し歩き,ベラパイス修道院にやってきた.
13世紀初頭,エルサレムから逃れてきたオーガスティン派修道会(カトリック系)によって建立されたそうだ.ゴシック建築のようであるが,少しして改築された結果であるようだ.当時修道僧が白い服を着ていたので『白の修道院』の別名もあるそうだ.
なおこの写真は主礼拝堂のある教会部分で,正面入口上部には,かなり欠落しているがフレスコ画が残っている.
主礼拝堂のある教会の左にはアーチ型構造物のある回廊,その内側に中庭が設けられている.構造体は比較的脆そうな石灰岩が主であるように見える.
中庭の真っ直ぐな木は糸杉であろうか,枝がよく茂り,いいものだ.
かなり傷んでいるが,石柱には細かな文様が刻まれている.これらは一部建立以前にあった遺跡の材料を再利用したものもあるらしい.
石ブロックと目地が目立ち,建築構造が見易い.ただ現在は使われていないのでどうしても廃屋的香りを漂わせているようにも感じられる.説教台などの他に,写真左手にバルコニーのようなものが見える.これは何でしょう.
ベラパイス修道院は前述のように,当初カトリック教会として建設されたわけだが,16世紀オスマン帝国支配下に入った後に,正教教会に転換され,存続が認められたようだ.そこで写真のごとくイコノスタシス(iconostasis/聖障)が設けられることになった.イコノスタシス下段の左端は聖マイケル,その隣は聖母マリア,右端は聖ジョージかな.上段にも多くの聖人のイコンが掲げられている.
現在中央の王門は閉じられているので,中の至聖所を覗くことはできない.
横の祭壇にも聖人のイコンが掲げられている.大きいのは,鳶のような鳥が描かれているので福音書家のヨハネであろうか.
イスラム圏にあるので曲がったり,剥がれたりと,ちょっと痛々しいですね.
イスラムの北キプロスに在るキリスト教修道院だから,今は宗教行事にはもちろん使われていない.半ば博物館的に残されており,地元の人達の行楽や,私たち観光客の見物に供されている.
回廊の脇の階段を降り,半地下の広間があった.修道士の寝室と聞いたように思うが....ダイニングルームだったかな~?
現在は何もない空き部屋,暗くて寒々しい印象だ.まあ仕方なかろう.
このベラパイス修道院は高台にあるので北の地中海がよく見える.やはり緑が多いのがいい.仔細に見るとスイミングプールのある家もあって,羨ましい限りだ.
ベラパイス修道院を見た後,ベラパイスの村を通り駐車場に歩いた.数百年遡るキリスト教の時代は門前町として栄えたであろうが,今はひっそり落ち着いた住宅街の趣だ.それでもキリスト教の後,長くイスラムの時代が続いた筈だが,破壊されたり,あるいはモスクに転換されずに今日に残されたのは幸いだったであろう.