この南ニコシア編では,2016/1/9(土)夕刻北キプロスからグリーンラインを越えて南ニコシアに入り,繁華街レドラ通りを歩き,バスでニコシアヒルトンに行き宿泊.そして翌朝1/10(日)ニコシア市内ファマグスタ門,自由の記念像,聖ヨハネ教会,都心の朝,考古学博物館を訪ねたときの写真を載せました.
このマップは聖ヨハネ教会近くの案内板を写したもの.丸い城壁の所々に↓状突起が設けてあるのが面白い.
中央を横断する黄色い線がグリーンラインだ.なぜグリーンでなく,黄色なのか?そしてそのラインの向こう側,北キプロス側は白図であるところにまたこだわりが感じられる.北ニコシアの案内板は見逃したが,きっと逆に南側は白図になっているでしょうね.
2016/1/9(土)夕刻,北キプロス側の見物を終え,グリーンラインを越えて南ニコシアに入った.そしてその通りは南ニコシア一番の繁華街というレドラ通り(Ledra Street)だった.
お店のウインドウにユーロ金額表示が現れ,EU加盟の南キプロスに入ったことが実感される.そしてヨーロッパの街はどこもクリスマス明けから大々的にバーゲンセールを行うが,このバッグ店も70%引きと売出中だ.
レドラ通りのレストランも戸外にテーブルを並べ,客も多い.南ニコシア側はキリスト教圏なのでアルコールOKだ.実際客の多くは酒類のグラスを並べている.安心できる光景だ.
並べられたトウモロコシは皆生だ.日本のトウモロコシ屋さんは予め焼いたものを数本並べてあると思うが,このお店では客の注文を受けて焼き始めるのであろう.美味しいであろうが,待ち時間が長くなる.待っても美味しい方を選ぶのがキプロス人気質,と見た.
レドラ通りで,地下が食品売り場になっているスーパーマーケットに寄った.酒類は豊富に並び,ワインもよく知られるというコマンダリアン初め色々だ.ただそれはかなり甘いということで,普通のキプロス産ワインを買い,寝る前に飲んだ.
レドラ通りにはスタバもマックも出店している.まあ普通の都市らしいと言えよう.時間をかけた焼きトウモロコシもいいが,やはり直ぐに出てくるマックがいい,と言う人もいるのだ.
マックの上に縦書きでタトゥー(TATTOO)の看板が出ているが,別にそのスジに限らずかなり一般的なのでしょう.
レドラ通りは長くない.少ししたら終わりに近づいてきた.この先でバスが待ってくれている筈だ.
すっかり暗くなってバスはニコシアのヒルトン(Hilton Park Nicosia)に到着した.ヤシの木が南国情緒を醸すがさすが,この時間暑い感じどころか暖かくもない.まあ1月だから当然だが.
添乗Aさんがまとめてチェックインしてくれるのを待つ.脇で奏でるピアノの音が聞こえてくる.そして程なくキーを受け取り,4階に上った.
十分広いこんな部屋だった.バスタブもあるし,いいんじゃなかろうか.
ただロビーに降りないとwifiが使えないなど不便な面がある.
部屋で荷物を解いて,一階のレストランに行った.サラダにサーモンの料理は下の写真の通りだ.まあ普通の地中海料理といったところか....いや,サーモンは地中海では泳いでいないだろうから違うか.ごく小さなビールが8ユーロと高かったが,首都のヒルトンなのでどうしても高くなります,とAさんの案内があった.(実際その後のホテルやレストランではもっと安かった)
ニコシアヒルトンで一夜明け2016/1/10(日)になった.一階のレストラン(前夜と別のバフェレストラン)に降りる.レストランはプールサイドにあり,外を見るとよく晴れている.前日に続いてラッキーだ.
プールサイドのバフェレストランはなかなか感じがいい.早い時間で人も少ない.アイランド型のフードテーブルにいろいろ並んでいるので,好みのものを載せてくる.イスラム圏やユダヤ圏,ヒンドゥー圏などのように食品に関する特段の掟がないので,一般的な朝食品は皆並んでいる.
で,装ってきたのがこれだ.大好きなブルーチーズもあったのでもちろん入れたし,またオリーブも加えた.ただこの二品は半ば予想した通り塩が効き過ぎていたのがちと惜しかった.
ホテルのバス駐車スペースに行き,乗り込む.今日は南ニコシア観光で,先ずはファマグスタ門に向かうそうだ.
ニコシアヒルトンからバスが出て,少し市内を走るとこの緑地に至り,駐車した.
芝や木立が美しく,また花も鮮やかだ.
丸い城壁に設けられた3つの門の一つがこのファマグスタ門(Famagusta Gate)で,一番大きいそうである.戦前までは実際の通用門として使われていたが,今は使われず,観光用に開放されるようだ.ただし私たちが訪れたときは日曜日のせいか,或いは時間が早い(9時過ぎ)ためか,格子戸は閉まったままだった.格子の間から空き巣狙いのように中を覗きこんだら,石積み逆U字状トンネルが暗い中,奥に続いているように見えた.
ファマグスタ門近くにはこのように立派な水道橋(アクアダクトAqueduct)が残されている.石積み構造で建設されたのは18世紀オスマントルコ時代だそうだ.このダクトは北のキレニア門(Kyrenia Gate)からここ東のファマグスタ門(Famagusta Gate)まで引かれ,市中に設けた泉(水場)に水を供給したそうだ.
現在は上水道としては使われないようだが,補修され,一部灌漑や歩道に供されているようだ.
1970年,キプロス共和国独立10周年を記念して作られたそうだ.この時間完全逆光で見づらいが,一番上は自由の女神像だ.
記念像下側には,牢獄の鉄格子が引き上げられ,開放される囚人の姿が描かれている.独立前は英の統治領(直轄植民地)だったので,英圧政からの開放の象徴であろうか.
自由の記念像脇からはニコシア城壁(Venetian walls of Nicosia)がよく見渡せる.ヴェネツィア支配の時代,1567~1569年頃にオスマン帝国防衛のため築かれたそうだ.全周4.5km,11の張り出した砲台,それと前述のように3つの城門があったそうで,とても頑丈な構造に見える.
しかしながら完成の翌1570年オスマン帝国軍に攻め入られ,45日間の攻防の末2万人もの戦死者を出し,ニコシアは陥落.次の1571年にはキプロス全土がオスマン帝国セリム2世の領土になったそうだ.今も続くトルコとの不仲の出だしであろう.
アクアダクトは既に役割を終えているが,日本と同じように,いや圧倒的にたくさん太陽熱温水器が使われているようだ.戸建てにも,集合住宅にもたくさん屋根に載っている.日本のタイプよりタンクが大きく,晴天率も高そうなので活用し易いのだろう.
私たちは自由の記念像から聖ヨハネ教会に向けて歩いた.途中いろいろ興味を引くものが見られた.この建物はその一つで,張り出し二階や窓枠がトルコ風に見える.オスマン時代の建設かな~
こちらのお宅ではまだドアにクリスマスのリースを掛けていた.一般にヨーロッパではクリスマスの飾りは長く残すことが多いと思う.
少し行くと格子塀に囲まれた大きな建物があった.その門扉には写真の双頭の鷲が架けられていた.相当の鷲はビザンチン帝国の紋章,ハプスブルグ家の紋章,ロシア帝国の紋章,オーストリア帝国の紋章,セルビアの紋章,アルバニアの紋章,ドイツの紋章,....と,あちこちで使われているそうだ.
そしてここの場合はギリシャ正教会の紋章として掲げられているということだ.どのような経緯で正教会の紋章になったかは分からないのだが.
さてその双頭の鷲を掲げた塀の内側にこの大きな建物がある.『マカリオス大主教の館』(Archbishop's Palace)と称され,1960年キプロス独立の翌年に建てられたそうだ.マカリオス三世大主教(Makarios III:1913~1977年)は写真中央白い立像の人物で,キプロス正教の大主教(最高位)であって,しかも初代大統領に就任(1960~1977年)した方だそうだ.そのためここは大主教館であり,また大統領官邸を兼ねていたということになる.
キプロス正教会大主教に就任するが,英のキプロス統治への反発とギリシャへの併合(後に独立志向へ)を求めるキプロス戦士民族機構を結成し,武装闘争を含め戦い,やがて独立を勝ち取り初代大統領に就いたということだ.
なお後日トロードス山中に設けられたマカリオス大主教の墓所も訪れる予定になっている.
マカリオス三世大主教の館のガレージにはキャデラックとベンツが置かれている.宗教家にして政治家だったマカリオス三世大主教は車も好んだそうだ.そしてキャデラックはその昔米ケネディ大統領から贈られたものだとか.
聖ヨハネ教会,正しくは聖ヨハネ大聖堂(Cathedral of St. John)であろうか.手前鐘楼の奥に本堂礼拝堂がある.
大聖堂(Cathedral)は別に物理的サイズを指す訳でなく,正教やカトリックの階級最上部の教会を言うのだと思うが,ここの場合比較的コンパクトで簡素な建屋だ.
オスマン帝国統治下の1662年,ニコフォロス(Nikiforos)大司教がフランコビザンチン様式の修道院礼拝堂として建立したという.そして控え目な外観はオスマン支配下にあったためという.一方金ピカで,煌々と輝くクリスタルシャンデリアのインテリアは,期待していなかった訪問者を驚かすそうだ.私も内外の差にびっくりした.
ちょうど日曜礼拝の最中であったが,私たちは後ろの階段から上って二階席で見せてもらった.写真も許可してくれた.
18世紀になると,当時の職人さんの金箔技術で種々装飾が加えられ,4つの大きなイコンはクレタ島の画家ジョンコマリス(John Kornaris)によって1795~1797年に描かれたそうだ.
その4枚とはちょっとシャンデリアの背後になっているがイコノスタシス最下部のイコンであろう.
イコンだけでなく,壁や天井はこれでもかとばかりにフレスコ画で埋め尽くされている.これほど隙間なく描かれているのはあまり例がないだろう.
絵の内容は主に聖人やバイブルに因む内容で,これは他と同様と思われる.
礼拝が終わると,皆さんが前庭に出てきた.そして一部の人がテーブルを広げ,手造りのお菓子(供物)を紙袋に入れて皆に配ってくれている.私たちも分けてもらった.
仏教徒が一周忌や三回忌...の記念で供物を添えて,お経を上げるように,ここの正教徒の人々も故人の亡くなった日を偲び,皆に供物を分け与えて,お祈りするのだそうだ.
こうして分け与えられた紙袋を手に近所の知り合いの皆さんが集まり,故人を偲び,また近況を話題に話しが弾むようだ.教会の役割の一つであろう.
野良猫であろうかトラ猫が男の子に寄ってきて抱き上げた.あまりいじめられることがないのか,猫は素直になついてくるようだ.
聖ヨハネ教会のお向かいにはギリシャ神殿風の立派な建物が見える.ニコシアで一番古い高校だそうだ.それにしても格調高いですな~
Cnさんの説明で,キプロスの学校は6-6-4制で,大学に法学部はないのだそうだ.一方最近稼ぎのいい職業はIT技術者,大学教授,弁護士などだそうだが,その弁護士になるための法学は英などの大学で修めるのが普通なのだそうだ.ちょっと不思議だ.
なお聖ヨハネ教会の横には『ビザンチン美術館』があったが,私たちは一切立ち入ることがなかった.
たっぷり時間があるということで,都心,と言っても前日夕刻歩いたレドラ通り近くの路地辺りであるが,を散歩することになった.
バスが走り始めると直ぐこの日曜マーケット広場を通過した.道脇は小規模な市民フリーマーケットといった趣に見えるが,奥に本格的市場が広がっているらしい.
そして背後にモスクが見える.ガイドCnさんに南にもイスラム教徒がいるのか訊くと,『ほんの少しだけ』(very few)ということだった.そしてこのモスクは1570年,オスマントルコ軍が最初にニコシアの城壁を突破した場所に記念して建立されたバイラクタルモスク(Bayraktar Mosque)のようである.
全く海の見えないニコシアだが,白い家々にヤシ並木の風景,丸で海岸通りの趣だ.結構ですね.
さて都心の路地に歩いてきた.赤く丸いポストが目に入った.少し前の日本でも多かったタイプだが,これも英国の郵便制度を採り入れたことに関係あろううか?
狭い路地にアクセサリー商品を並べたご主人.通りかかれば直ぐ目の前に,無意識でも見えるからなかなかいいロケーションだと思う.
路地にはイコンのお店などもある.イコンはキリスト像と聖母子像が多い.
そしてそれらイコンには銀色,多分銀の縁取りが被せてある.こうした縁取りはリザ(Riza)と呼ばれるそうだが,元々オイルランプや香炉前のイコンが煤けるのを防ぐためという.ただし後には装飾そのものの役割を果たすケースも多くなったようだ.
ニコシアはシルバー製品と刺繍が産物として名高いそうだ.そしてこのお店はそうしたアクセサリーやクロスを並べてある.
右側にはこの後博物館で見ることになるポモスの偶像を模ったお土産や,左手には聖母子のイコンも揃いている.
自転車のお巡りさんが狭い三叉路まで来ると,自転車を降り,ポケットのガジェットに駐車中の車について照合若しくは記録し始めた.私が見ても違反場所のようなので,『駐車違反ですか?』と訊いたら,『そうです,この場所はいかんです』と答えてくれた.確かに路地にはパトカーでなく自転車が向いてますね.
そろそろお昼の準備をしなくては,とレストランの従業員はテーブルを並べ,電話で次の指示を仰ぐ(想像です).
南北に走るこの路地に陽が射すのは昼時だけで,また直ぐ陰りそうだ.勝負は昼ですね.
散歩は終わり,郵便局前でバスに乗り,次のキプロス考古学博物館に向かった.
普通の集合住宅のように見えるが,ギリシャ国旗やEU旗の掲げてある.さて何の建物かな~
そして何よりも道路にはみ出した緑が素晴らしい.枝を切り落としたりしない市役所が羨ましい.
バスでキプロス考古学博物館に到着した.ギリシャ神殿風入り口から一見小さな建物に見えるが,中に入ってみると展示室は結構広い.
この博物館は英占領下の1888年,順法的発掘品保護のためにの設立されたのが始まりという.そして1905年にはキプロス最初の考古学のための立法がなされていったが,外国,例えばスウェーデン隊に発掘されるなど続いたようだ.そして1935年になり,新考古学法の成立で,博物館は正式な権限が与えられ,例えば島の初期定住人に関する発掘調査が進められ,博物館の収納品も増えていったそうだ.また1960年キプロス独立に伴い,他とは孤立し,また先進のキプロス考古学が発展してきたということだ.
なおキプロス考古学博物館は14の展示室に,オフィスや倉庫が備えられているそうだ.
早速中の展示室で見せてもらった.展示室は部屋の周囲と中のアイランドに物を並べた一般的な形式だ.とても空いていて,ほとんど貸切状態だ.しかも写真もぞうぞ,ということでありがたい.
キプロスのポモス村で見つかり,『ポモスの偶像(Idol of Pomos)』と呼ばれているそうだ.およそ紀元前30世紀前,銅器若しくは黄銅器時代という有史以前,ものすごく古い時代の石の彫刻のようだ.あまりの昔の作品で驚く他ない.
彫刻は幾つかのバリエーションが見られるが,基本的には手を伸ばした婦人像が基本で,多産のシンボルとしてお守りや魔除けとして用いられたのではないかと推測されるそうだ.
キプロスは2008年にユーロ(Euro)を導入したが,キプロスのユーロ硬貨,1および2ユーロ硬貨デザインにこのポモスの偶像を採用したそうだ.写真は1ユーロ硬貨だ.
牛の神に祈るときに用いる神器ということだ.牛の神と聞くと映画十戒で,エジプトから脱出し,カナンの地への途中,疲れたモーセ一行の民衆が牛の偶像を拝むに至るシーンが思い出される.その牛の神と同じであろうか?
これも随分古い時代で,ネックレスなど装飾品を身に着けている点が興味深い.こうした昔からファッションが日常生活の一部であったのだ.
アッシリアの支配~ペルシャの支配の頃の陶器と思われる.なかなか凝ったデザインだ.
上と同じ頃の作品であったか,ピカソも顔負けのデフォルメされた顔のデザインだ.モデルは女性に見え,ちょっとエジプト風の香りもする.
注ぎ口に人物像のある形式はキプロス特有のスタイルということだ.特に写真でははっきりしないが左側の女性は天使のように羽根があるようで,キプロス以外では先ず見つかっていないようだ.写真は475BC~400BC時代の作品で,アレクサンダー大王の前,ペルシャ支配の頃であろうか.
北キプロスんの海岸で2000体ほどまとまって発見されたそうで,およそ紀元前11世紀に作られたそうだ.大体同じ身長の西安兵馬俑と違って,大小色々なサイズがある.殆どは男性像で,戦士または戦いの神ではないかと推測されるらしい.
発見したのがスェーデンの調査隊だったそうで,発掘品のかなりは同国博物館に収容されているそうだ.
紀元前1世紀頃,つまりローマ帝国支配の頃,ここニコシアで見つかったアフロディーテ(Aphrodite)像だそうだ.大理石製だそうで,制作されたのはいつなのであろう?
美の神だけに像も美しい.
ローマ帝国の皇帝ルキウスセプティミウスセウェルス(Lucius Septimius Severus:146年~211年)のブロンズ像だそうだ.作られたのは皇帝在位の時代でしょうか.
メソポタミアの古い印象などと比較すると,随分きれいな円筒印章だ.相当新しい時代に彫られたものであろうか.
紀元前12世紀のブロンズ製2角豊穣の神像だということだ.豊穣の神は一般に女性が多いように思うが,この神は女性でしょうか?でも顔立ちは男に見えるような.....
レリーフが随分と綺麗に仕上がって居ますが,一旦鋳込んで数珠つなぎのブランク材を造り,それを雌型にいれ,プレスした,つまりコイニングしたのでしょうか?
もっとよく見ておくべきだったな~
2000年前の金の指輪やイヤリングなどだが,『いまでもそのまま使えますね』との感想が聞かれた.まあ金ならでの普遍性もあろうし.
彩色された素焼き陶器であろうか.戦士は盾を持っている人物が多い.多分反対の手に槍や刀を持っていたのだが,細いので折れたのではなかろうか.何時の時代の作品か控えてなかったが,素朴な感じからするとかなり古いものかな....
考古学博物館の前に設置されていた.自転車レンタルサービスの,乗り場/置き場のようである.自転車そのものは日本のように多くないがときどき見かける.なかなかいいサービスだと思う.
次のレフカラ村に向かうためバスに乗った.そして直ぐに建設現場の前を通過する.コンクリート壁がなく,柱だけの上に床を重ねる構造で,揺れには弱そうに見える.つまりこの国では地震が殆ど無いのだと思われる.....が,今ググってみると面積当たりの地震はむしろ日本以上に多いそうだ.