北ニコシアnorth Nicosia

この北ニコシア編では,2016/1/9(土)午後,ギルネ見物の後バスで,北キプロストルコ共和国の政庁所在地(またキプロス共和国の首都)である北ニコシアに戻り,クマルジュラルハン辺り,ビュユックハン,セリミエジャミイ,アラスタ通りを眺めて南ニコシアに抜ける前までの写真を載せました.

北ニコシア付近のマップmap of north Nicosia

北ニコシア付近のマップ(Googleマップのスクリーンショット)

このマップは全ページに載せたものと全く同じで,このページの記事『北ニコシア』は赤いマーカーの上(北)のごく小さな範囲となる.

ニコシア(レフコシャ)に戻るreturn to Nicosia from Girne

夕方ギルネからニコシア(レフコシャ)に向かう

夕方ギルネからニコシア(レフコシャ)に向かう

冬の夕暮れは早い.ギルネ見物の後,まだ4時半頃であるが既に陽は傾いてきた.幸い道は空いており,30~40分の走行でニコシア(北ニコシア)に到着見込みだ.


北ニコシア(レフコシャ)に入り,ヴェネチア広場辺り

北ニコシア(レフコシャ)に入り,アタチュルク広場辺り

北ニコシアに入ってきた.どうやらこの辺りにはアタチュルク広場があり,左の丸い玉を載せた円柱はヴェネチアの柱と呼ばれるようだ.

真ん中はモスクのミナレットで,右の肖像画は若い時分のアタチュルクのようだ.


トルコ風建物も見える大通り

トルコ風建物も見える大通り

バスはグリーンラインの方向へと進んだ.ただし往きとは異なる市中心部の国境だ.

道路左手の白い建物は,2階部分が張り出し,トルコ風デザインに見える.それとイスラム圏のクリスマスツリー風ディスプレーも興味深い.


北ニコシアにはカジノあり

北ニコシアにはカジノあり

カジノの看板がキラキラだ.パチンコ屋がキラキラしているのと同じ理由であろう,カジノは世界のどこでもキラキラ輝いている.

ガイドCnさんによれば,南キプロスにカジノはないが,北キプロスにだけあるという.一般にイスラムの戒律では賭け事は禁止で,例えば競馬などご法度と聞いていたので,不思議で仕方がない.逆にキリスト教国ではあちこちでカジノを見かける.

カジノにはヨーロッパの観光客のみならず,本国トルコのお客さんも駆けつけるらしい.まあいいじゃないですか,と思います.

クマルジュラルハン辺り nearby Kumarcilar Han

クマルジュラルハン正面

クマルジュラルハン正面

クマルジュラルハン(Kumarcilar Han)とはギャンブラーの宿,つまり鉄火場ということだ.現在かなり朽ち果てているが,17世紀末に建築されたと推定されるそうだ.後述のビュユックハン(Buyuk Han)に較べて規模が小さいので『小さな宿』と称されることもあるそうだ.

構造は多くのキャラバンサライと同じように2階建ての城壁に囲まれた中庭のある形式で,56部屋あり,2階が客室,1階が家畜や荷物保管に使われたそうだ.ただ,なぜ『ギャンブラーの宿』の異称を持つかは不明だ.


クマルジュラルハン辺りのナン焼きのご主人

ナン焼きのご主人

窓からナンを焼く様子を眺めていたら,『しっかり写せよ』と,こうしてポーズを取ってくれた.ありがとうございます.

焼きかまどの上にはコーランの一節か,アラビア文字のプレートが掛けられ,如何にもトルコ人の風貌が北ニコシア風だ.はい,ちゃんと立派に写ったと思います.


ビュユックハンBuyuk Han

ビュユックハンはメンテされている

ビュユックハンはメンテされている

クマルジュラルハンの先には,大きなビュユックハン(Buyuk Han)がちゃんと補修されながら維持されている.オスマン帝国がキプロス島を支配し始めた1572年ころに建てられ,島内最大のキャラバンサライだそうだ.


ビュユックハン内部

ビュユックハン内部

現在のビュユックハンはもちろんキャラバンサライとしては使われず,カフェやレストラン,各種ショップに改装され,客を集めている.

白いアーチに赤い光がなかなかいい雰囲気です.


ビュユックハンの周囲

ビュユックハンの周囲

ビュユックハンの周囲には,道路にはみ出した服飾品など中東バザールのような様相,トルコ風で,首都にしては庶民的街並みだ.


ビュユックハンの先

ビュユックハンの先

少し先に行くと,同じように雑多なショップの並びの先に,目指すセリミエジャミイのミナレットが見えてくる.


セリミエジャミイ(モスク)Selimiye Camii

セリミエジャミイ(モスク)のファサード

セリミエジャミイ(モスク)のファサード

正面から眺めると,少なくともファサードは典型的なゴシック様式と思われる.元々は聖ソフィア大聖堂(下写真:Saint Sophia Cathedral)と呼ばれたこの建物は,フランス統治時代の13世紀初頭に着工され,資金繰りや政治問題がありながらも,一応東部分は1228年頃竣工し,そしてほぼ大半が1346年に落成したようだ.

ところが1570年,オスマン帝国が政権を取ると,この大聖堂はモスクに転換され,2本のミナレットが追加され,また教会内の彫像やフレスコ画,ステンドグラスすべて撤去されたそうである.まあ,こうした例は他でもよく見られることだと思う.例えばイスタンブールのアヤソフィアなどがそうだ.


セリミエジャミイ1208-1346

セリミエジャミイ1208-1346

写真はモスク入口に掲げられた『セリミエジャミイ1208-1346,聖ソフィア大聖堂』のプレートが掲げられていた.まあ,これは聖ソフィア大聖堂建設が1208-1346だったことから,『セリミエジャミイ,聖ソフィア大聖堂(1208-1346)』と書いた方がいいと思う.


セリミエジャミイ礼拝堂

セリミエジャミイ礼拝堂

元々カトリック教会だった時は壁や柱はフレスコ画で満たされていたであろうが,今は白一色だ.また椅子は取り払われカーペットが敷き詰められ,モスクの標準様式になっている.


セリミエジャミイでちょうど日没の礼拝中

ちょうど日没の礼拝中

私たちがセリミエジャミイを訪れたとき,一日5回の礼拝のちょうど第4回目,日没の礼拝の最中だった.10人くらいでしたか,信徒の方が礼拝の最中で,私たちは後ろから見せてもらった.

礼拝堂には他のモスク同様,ミフラブや説教台などが備えられているが,他に北キプロストルコ共和国とトルコ共和国双方の国旗が掲げられている.


セリミエジャミイの追加されたミフラブ

追加されたミフラブ

元々キリスト教会として建設されているのでメッカの方向を示すミフラブは広間の向きからすると横に位置し,やはりちょっと不自然ではある.まあ,それでも機能的には何ら問題ないのであろう

ミフラブそのものは色彩豊かな花の絵(これはかなり珍しいように思う)に囲まれ,金色や赤,緑の色彩のある派手目なものだ.


セリミエジャミイのアラビア文字のカリグラフィー

アラビア文字のカリグラフィー

礼拝堂壁に掲げられたアラビア文字のカリグラフィー.全く意味は解らないのだが....

モスクの外に出てから,北キプロスガイドHさんに,『金曜礼拝には行きますか?』と訊いてみたら,『いや私は行きません』ということだ.『ではご両親はどうですか?』と訊いたら,『やはり行きません』と言われた.金曜礼拝は最も大切な礼拝なので,これを欠くのはまあ,さほど信心深くはないというところであろう.たった一人に訊いただけなので全容は不明だが,世俗的な人が多いのかも知れない.

アラスタ通りArasta street

アラスタ通りのオープンカフェ

アラスタ通りのオープンカフェ

アラスタ通り(Arasta street)は北ニコシア一番の繁華街.南ニコシア境界の直ぐ近くだ.オープンカフェもそれなりに繁盛している.ただこの時間になると少し寒いので,パラソル状暖房具(写真中央)の下で食事中だ.


アラスタ通りこちらはバックギャモン

こちらはバックギャモン

私は知らないのだが,バックギャモンというゲームだそうだ.将棋盤とか囲碁盤くらいの板の上で二人でプレイし,観客も加わったりしている.

店舗の方はケーキ屋さんかな?そうであれば,イスラム圏だから甘すぎる危険があるかな.


アラスタ通り国境直ぐ近くになる

国境直ぐ近くになる

間もなく東西キプロスの国境となる.朝通ったバス通りと違って,ここは歩行者限定のためか出入国管理は緩やかなようだ.

ショッピング街はやはり中東バザール(スーク)風香りが濃いか.



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