このリマソール編では,2016/1/10(日)夕刻キロキティア古代遺跡の見物を終えてからリマソールのホテル(St Raphael Resort)に到着し,翌1/11(月)は他所にで出かけて留守にし,さらに次の1/12(火)同ホテルを発ち,リマソールの海岸通りを眺めつつ,リマソールのマリーナに至り見物.次いで少し西のコロッシ城,クリオン古代遺跡,アポロンの聖域を見物したときの写真を載せました.
赤ライン右端が1/10(日)夕刻到着し,二泊したリマソールのSt Raphael Resortホテルの場所.
翌々日1/12(火)ここを出て,リマソールの海岸通りを通ってリマソールのマリーナに至り散策.そしてまたバスに乗り,青マーカーのコロッシ城,クリオン古代遺跡,アポロンの聖域を順次見物した.
2016/1/10(日)夕方,キロキティア遺跡を見物した後,バスはA1街道を西に走り,道は海岸沿いとなった.白い家々にホテル風建物が浜辺に並んでいる.
程なく建物の多いエリアになった.リマソール(Lemesou)に入ったようだ.
リマソールは人口163万人で,キプロス第2の都市だそうだ.現在も最大の港があるそうだが,中世から重要な港町として栄えたようだ.現在は圧倒的なリゾート観光地として人が集まるそうだ.
St Raphael/聖ラファエルとはまた大層な名を冠したホテルに響く.聖ラファエルは旧約聖書の時代から登場する天使で,キリスト教では大天使ガブリエルとマイケルに並んで三大天使の一人とされているのだそうだ.ただ新約聖書では頻出する大天使ガブリエルとマイケルと違って,殆ど現れないそうではある.
聖ラファエルは旅行者の守護神として知られているそうで,ホテル名はそれにあやかったのであろうか.
大きな吹き抜けのあるレセプションでチェックインしてもらった.
同じ頃,他の大きなグループの皆さんも到着していた.
クリスマスツリーや写真の白い人形などのデコレーションは,担当者が片付け始めていた.ゆっくりでいいですよ,と思った.
カードキーを貰って4階の部屋に入る.まあ普通にいい部屋だ.障子のようなデザインの窓が面白い.もちろんガラスだが.
バルコニーに出てみると景色に赤みが着いてきた.日の暮れるのが早いな~
立派な住宅が並んでいるが,この辺は最高級の住宅街で,とても高価だそうだ.こうした高級住宅ではフィリピンや他アジアからのお手伝いさんが働いていることがよくあるそうだ.また逆にキプロス人の出稼ぎ先は,英や豪など英語圏が普通だそうだ.
因みにキプロスでは戸建住宅に住む人は40%くらいかな~と,ガイドCnさんの話だ.また戸建て住宅を建てるとき,借地は法的に許されず,必ず土地を買ってから建てる,若しくは土地付き建売住宅購入となるそうだ.
なおキプロスでは核家族暮らしが一般的で,男性は32~35歳,女性は25~30歳くらいで結婚する人が多いそうだ.
少し西に目を向けると,このホテルのプライベートビーチとヨットハーバーが見える.この辺りは岩場でなく,砂浜のようでリゾートホテルとして好適であろう.
高級ホテルだけあって,プライベートハーバーにヨット(ディンギーではなく本物の)で乗り付けるお客さんもいるそうだ.
高級ホテルだが大レストランはカフェテリアスタイルだった.別のレストランも多分あるのだろう.ただ日によって,出し物が変わるそうで,この日の夕食はイタリアンがテーマだそうだ.
お皿左上はピザで,今日のテーマの一品だ.他はローストビーフにトマトに....何だろう?でも美味しかった.またビールは5ユーロと安く,デザートのぶどうとアイスクリームも美味しかった.
さて一夜明け,1/11(月)朝になった.朝食で階下に降り,食後庭に出てみた.ちょっと小雨がぱらついてきた.スイミングプールは満々と水を湛えているが,今日はその日和ではなさそうだ.尤も私たちはこの後,直ぐにパフォス方面に行くので関係ないのだが.
こんな古いオリーブの木が生えていた.少なくとも100年は生きてきたように見える.オリーブは長寿命だが,ここは海岸近くで潮風など不利な面もあろうに....よく手入れしてきたのでしょう.
ハーバーにはたくさんの船体が停泊していた.船の数を見ると,当聖ラファエルホテルだけでなく,他者との共同運営であろうかと思われる.
聖ラファエルホテルで二泊目の朝がきて,1/12(火)になった.
窓から外を覗くと,昨日と違って晴れている.この分だと一日持ちそうかな.
山側に目を転じると,こちらも晴天だ.これはついているな~
1/12(火)朝,私たちは聖ラファエルホテルからバスに乗って,西に進んだ.地中海沿いの海岸通りだ.観光業のリマソールにあって,しかも海岸沿いだけにホテルが多い.ただしホテルの大きさは中規模くらいまでで巨大なものは見えない.
中段右『TOKIO』のポスターは,各種バリエーションでたくさん並んでいた.近々開店する日本食レストランの広告だそうだ.キモノやお化粧がこちら受け風にデザインされていますね.
リマソールマリーナに着くと,バスを降り散策した.よく晴れた青空の下は気持ちがいい.マリーナには立派なボートやヨットが停泊している.キプロスってお金持ちの多い国なんだな~と思う.
右下のアラビア文字の石柱は何でしょう?私たちは入らなかったが近くにキプロス中世博物館(Cyprus Medieeval Museum)なる建物があったので,中世のものか?
リマソールマリーナの散策を終えると,バスは再び西を目指した.リマソール郊外に出るとみかん畑が広がっていた.ブドウ畑もある.これまでこのような広い果樹畑は見なかったのでちょっとびっくりした.土壌や気象条件が東側より良いのであろうか.
みかんの種類はオレンジ系でなく,静岡みかんのような小粒マンダリン系が多いようだ.
暫く走り,中世コロッシ城(Kolossi Medieval Castle)に着いた.この辺りに関しては先ず,その勇猛さから獅子心王(Richard the Lionheart)の異名もあった英リチャード一世(在位1189年~1199年)軍がリマソール一帯を占拠した時代があった.そしてその後の1210年,リチャード王からテンプル騎士団に領地が譲渡され,やがてそのうちにヨハネ騎士修道会の手に渡り,その修道会により15世紀中ごろ,現在の姿の石造り三階建に改築されたそうだ.お城だけに頑丈そうに見える.
1階は食料などの倉庫,2階は騎士の宿泊室とダイニングルーム,3階が指揮官の部屋となっていたそうだ.
出入り口は階段を伝って2階に上がるようになっている.階段終わり部と2階入り口の間は,小さいながら一応跳ね橋になっている.またその上の3階に窓,屋上にバルコニーが設けてある.敵が攻め入って来たときは,跳ね橋を上げ,上から石や煮えたぎった油を投下したそうだ.
これは2階のダイニング側で,写真左手が真ん中の仕切り壁だ.仕切り壁の逆U字開口は隣の宿泊室へ抜ける通路だ.ダイニングルームと宿泊室は同じくらいの広さで,今はどちらも家具はなく,がらんとしている.
なお3階の作りは2階とほぼ同じで,騎士に対して指揮官は少人数であったであろうから,指揮官はゆったり使えたであろう.まあ何時の時代もそうであろうが.
2階ダイニングルームの壁にはキリスト磔刑のフレスコ画が薄く残されている.何しろ十字軍の城であるから,本来礼拝堂が望ましかったのであろうが,セキュリティ対策や費用面から,ダイニングルームを礼拝用に兼用したのであろう,多分.
ここのフレスコ画は特に顔部分の傷みが激しいように見える(気のせいかな~)が,多分これはオスマントルコ帝国時代の損傷ではなかろうか.
コロッシ城の壁にはこのような紋章が嵌めこまれていた.全体は十字架であるし,中央左上は見覚えのある十字架の上下左右に小さな十字架を配したフランシスコ会のロゴだと思う.またその隣と下2つはプジョーのエンブレムのような感じ,その下のアイリスは仏ブルボン家とかあちこちで.....とまあ,結局創設したヨハネ騎士修道会とか,改築したテンプル騎士団とかの関連は分からないのだ....
現代は生産しているわけでないが,コロッシ城の盛りだった頃,当地方は砂糖の生産地として知られていたそうだ.まあ,上で記したようにみかんやブドウの適地であることからするとサトウキビもよくできるのであろう.
テンプル騎士団やヨハネ騎士修道会騎士団はもちろん打倒イスラムで燃えていたではあろうが,腹が減っては戦に勝てぬ,の言葉通り,軍事費の捻出には腐心した筈で,砂糖生産はその解の一つだったそうだ.
この畑(いや花壇)にはそんな印にと,申し訳程度のサトウキビが植えてあった.気を遣わせて申し訳ありません.
この石造りの立派な建物が製糖工場の跡だそうだ.砂糖はどこでもできるわけではなく,生産適地としての利点を活かし,相当の売上を上げたようだ.まあ,市場経済原則に基づき,というか原油産出国が有無を言わさず非生産国に売り付けるようなものであろう(今はたまたま価格下落しているが).
ここも砂糖生産に加えて,『コマンダリア 』(Commandaria)と言われるワイン醸造の跡地であったようだ.コマンダリアはcommand(司令)とかcommander(司令官)とか,ここコロッシ城上官に献上したワインに因むとか,もっと昔クレオパトラが愛飲したとか....諸説あるようだ.ただ,この地方で採れた特定品種ブドウで作られた一定品質のワインとかの所定基準の甘口ワインで,かなり高い評価があるそうだ.甘いというのが引っかかるが....
現代もそうだが,戦争も,それを止めさせる要因も経済に因る要素は甚大だ.この時代,十字軍戦費のかなりは砂糖やワインで賄われたのであろう.
コロッシ城の庭に大きな胡椒の木があり,写真の赤い実,つまり胡椒の実を付けていた.胡椒を求めてインドを探したり,インドを植民地化したり....と,昔習ったものだが,本物の胡椒の木というものにお目にかかったのは初めてだ.これまでは,赤唐辛子くらいの野菜だと思っていた.やはり人間長生きするものだ,でないと見ずにくたばっていた.
とにかくその木の大きさには驚いた,でかい.そして実をかじってみたが,少し辛いかな~でもよくわからないな~
コロッシ城から西のクリオン古代遺跡に向かった.途中ブドウ畑など眺めながら,短い時間で着いた.
この写真で左手の丘の上にクリオン古代遺跡があるはずだ.
クリオン古代遺跡は海を望む丘の上に位置していた.古代住居跡は保護のため巨大な屋根で覆われている.
当初紀元前14~13世紀,ギリシアのペロポネソス半島から渡ってきたアカイア人の植民都市としてスタートし,やがてヘレニズム文化が栄え,後にローマ帝国に乗っ取られ,それが繁栄してきたということだ.
クリオン古代遺跡は高台にあって,地中海とその間の平地である農地を見下ろす.また背後も谷状になっており,山城的ロケーションとなっている.
下の平坦農地は現在も緑豊かで,また地中海も目の前なので,穀物や野菜,家畜,魚といった食料確保に好適であったであろう.
また保護大屋根先の広いモザイク床は銭湯(公衆浴場)の跡ということだ.7世紀まで機能していたというが,本物の海を眺めながらの入浴は素敵だと思う.
ローマ人の支配下が続き,AD4世紀に大地震が発生し,かなり破壊されたそうだ.そして徐々に再建されるのだが,保護大屋根の下の殆どはエウストリオスの家(the Complex of Eustolios)と呼ばれる建物跡である.つまり当初貴族エウストリオスのプライベートな居宅として建設されたが,キリスト教化の初期時代に公共リクレーションセンターに転換されたのだそうだ.
右写真はサウナを含む多段式お風呂の跡だそうで,ボイラーから湯や蒸気を浴室に導く構造だったようだ.まあお風呂大好きのローマ人だったので,いろいろな風呂を用意したというわけだ.
一部の部屋の床には,多くはAD5世紀作とされるモザイクが残されている.玄関や,客間,居間....といった居室タイプに応じてモザイクアートがデザインされたそうだ.モザイクには典型的な象徴物があり,例えばこの写真の鳥の意味合いも添乗Aさんに説明されたのだが.....思い出せない.
この床にはキティシス(Ktisis)と呼ばれる女性のモザイク像もあった.女性像は珍しいということだ.
右手にブラケット型のものを持っているが,計量器具だそうである.この形からすると長さの計量で,まあメートル原器のようなものであろうか.2つの間の長さは今風に言うと20cmくらいであろうか.
写真右下に見えるのがローマ時代の下水道の配管設備だそうだ.管は土管でしょうか?
ローマ帝国が土木技術に長じていたことで有名だが,こうして大昔の建設物を目の当たりにすると,改めて感心させられる.
当円形劇場は当初紀元前2世紀に,ギリシャ様式で建設されたそうだ.ギリシャ様式は写真のように半円ではなく,楕円で閉じたすり鉢状,すり鉢形状は幾何学的にきれいに成形されず,自然地形を活かした形,つまりベンチに凸凹があったりしたそうだ.
それがAD2世紀になると,半円形ローマ様式に改築され,オーケストラの場所は地下に移動したようだ.現在の収容人数は3500人という.
クリオン古代遺跡を後に,アポロン聖域に向かった.近くになるとこのような街が見えた.白い壁に赤い屋根の家はこれまで見てきたエリアと共通なようである.
アポロンの聖域に着いた.駐車場近くに入口ゲートあり,切符売り場になっている.
アポロンはクリオン国の守護神だったそうで,紀元前800年頃,その神に捧げる神殿としてここに建てられたという.
アポロンの聖域は神殿の他に,聖職者の住居やホテルなどの付属施設があり,それにローマ時代に下ると多段式の浴場や闘技場などが加えられたようだ.
写真はゲートから入った直ぐの場所であるが,左側低い石垣で囲まれた部分は闘技場だったそうだ.でも,あのグラディエーターが猛獣や,或いはグラディエーター同士が真剣で戦うのではなく,スポーツ競技のようなものだったようだ.
闘技場の右手に,石畳の聖なる道があり,その先に写真のアポロン神殿(Apollon temple)があった.崩れた石材に,一部新規石材を追加して復元したようだ.そのため一部不自然な構造材も見える.
アポロンは病気治療の神として崇められ,ヤギや羊の生贄を捧げてお参りしたそうである.
アポロン神殿の円柱,特にその頂部のデザインはくるっと巻いたイオニア式とか,複雑な葉っぱ模様のコリント式とかでなく,4方向に角を出した形で,他ではあまり見ない形態らしい.
ここはローマ多段式浴場で,一番手前がボイラー室,その先に細い支え柱で支えられた床のサウナ室,もっと先がお湯のお風呂,となっているようだ.
なおこの浴場を含めて,現在残っている建物(の残骸)はAD1~2世紀ローマ帝国の手で建てられたものが大半だそうだ.
アポロンの聖域を一通り見物し,次はパフォスに向かう.
少し起伏のある道が続くが,天気は持っており眺めがいい.