このフンザへ編では6月29日朝イスラマバードを出て,同日チラスに宿泊.翌6月30日カリマバードへ至り,さらに次の日7月1日ドゥイカルへ足慣らしハイクを行い,同日夕方カリマバードを散策したときの様子,フンザ料理とダンスの写真と記事を掲載した.
イスラマバードで一夜明けた6月29日朝,ホテルで朝食後イスラマバード空港国内線ターミナルへと向かった.一応チェックインを済ませ,待つこと暫し....だがフライトはキャンセルされた.がっかり!ギルギットへのフライトはナンガパルバット脇など気流の悪くなりがちな山岳ルートのためキャンセルされることが多い.多分50%以上の確率で.となると小型バスで2日間かけてフンザに向かうことになる.試練の始まりだ.
荷物を戻し,バスに運ぶ途中から生憎小雨が降り出した.皆で防水対策パッキングをやり直し,バスの屋根に載せる.バスは8:45AMイスラマバードを出発した.
イスラマバードを出たバスは町々を通過し,ペシャワールとカラコルムハイウエイ(KKH)への分岐点で後者の方面に分岐し,やがてハリプール(Haripur)に至り,ここで最初のお茶となった.茶屋は蒸発式クーラーが備えれれているが殆ど効かないのでとても暑いが,まあ已むを得まい.
ハリプールの後バスは小さな町を幾つも通過した.イスラム圏らしい風景がやはり印象付けられる.例えばスカーフの女性や,町によっては男性ばかりで女性の姿そのものが見当たらないなど.
ガイドSさんがパキスタンのイスラムについて話してくれた.
下は,イスラマバードを出て暫くの写真いろいろ
ここはマンセーラのレストランであったか?昼時ここに着きランチとなった.軒先でのカバーブ焼きの光景は日本の焼き鳥屋さんのそれと同じだ.右の串はビーフの挽肉で,美味しかったが多少スパイスが効きすぎており,少し控えてくれたらさらにいいかな~と思った.イスラム圏なのでビールなど一切無いのは甚だ残念であるがまあこれも仕方なかろう.替わりにコークなどソフトドリンク類は置いてあるのだが,皆一様に「食事に甘いものを摂るのは気が知れない....」と,専ら水(ミネラルウオーター)を飲む.
ランチの後再びバスは進む.ここはシンキアリ(Shinkiari)の町であったか,市場の売り方も買い物客も男ばかりだ.多分スンニ派教徒でしかも戒律の厳しいエリアなのであろう.こうした地方の女性は家の中の仕事と畑の仕事に専念しているそうである.またこうした地方はしばしば女性の識字率が10%以下と低い場合があるそうでもある.徐々に改善していくであろうが.
南の地方から移入されるマンゴーが旬で,店先にはたくさん積まれていた.Sさんによればマンゴーは27種類あって,パキスタンで好まれる果実の筆頭であるそうだ.ちなみに次はバナナだそうだ.
街の中や近くの町間を繋ぐ小さな乗り合いバスが客を満載して走っている.女性や年配者は内側のシートに,若者は外側にぶら下がって乗るのがマナーのようだ.料金は内も外も同じで,Rs20~30くらいであったか.東急コーチなど同様バス停でなくどこでも乗り降りできるのは便利であろう.
私たちの小型バスは燃料を入れるためにスタンドで停車した.タイヤホイールをベンハーの戦車のように飾り立てられた小型トラックを眺めていると,このドライバが「俺を写せ」と言ってくれた.内部もこのようにいろいろ飾り立てており,ドライバは誇らしげだ.
カラコルムハイウエイはやがてインダス川(Indus)に沿って走るようになる.既に蜂のシーズンは過ぎているが写真のように養蜂の箱があちこちに置いてあった.また来春花の頃蜂がブンブン飛び回るのであろう.
この辺りはまた養鶏小屋も目立つ.4階建てくらいの大きな建物が多い.この地方だけでパキスタン全体の30%くらいのニワトリを産するそうだから相当多いようだ.
朝から一人で運転を続けるドライバのRさんは殆どホーンを鳴らさず,路面の悪い所では減速し,大変丁寧に運転してくれる.やがて夜になり,安心しきった私たちは車内で眠りに入った.
大分時間を経て,ゴーっという音で目が覚めると,滝の脇の橋を通過するところだった.滝の両側にはレストランがあり,時計に目をやると既に11:00PM近くであったが,かなり多くの客が滝の光景と食事を楽しんでいた.聞けばここはスンブルナーラ(Sumbul Nala)と呼ばれるところで,ナーラは「水の流れる所」の意で,長距離トラックドライバがよく利用するという.なかなか豪快な地形だ.
バスはなおも走り続け,深夜1:50AMようやくチラス(Chilas)のシャングリラホテルに到着した.お腹が空いていたので先ずはチャーハンやチキンの夕食を頂戴し,名前の印象とは随分異なり質素な部屋に入りシャワーを浴びて,扇風機で熱い風を浴びながら眠りに就いたのは明け方4時近くになっていた.あ~疲れた!
下は,チラスへ向かうときの写真
6月30日朝シャングリラホテルで目を覚まし,外を眺めると,暑い砂漠をインダスの濁流が流れていた.そこを歩くと肌がひりひり感じられる.
テレビはないので,FIFAワールドカップの日本vsパラグアイ戦の結果をホテルの番頭に訊いてみる.でも当地ではあまり報道されないようで,判らない.そのうち添乗Eさんが現れ,国際電話でご家族に問い合わせた結果を話してくれた.PK戦突入の末敗れたそうで,まことに残念!
ホテルで簡単な朝食を済ますと,早速バスに乗り,カリマバードへと向けてスタートした.ドライバのRさん,今日もよろしくお願いします.ちょと誤ればインダスへ転がり落ちる場所に事欠かないカラコルムハイウエイ(KKH)だからね.
チラスから暫く行くとKKH脇に紀元前一世紀頃,ガンダーラ時代の岩絵を多く見ることができる.中国の修行僧がシルクロードの1つであったインダス沿いの道(今も残っている)を往来する際に彫ったものだという.道はインダスを挟んである所では右岸に,またある所では左岸に位置し,川を越えるときは食料などを頭に載せ,何とか流されないで渡れる水量の比較的少なくなるタイミングを見計らっていたそうな.そして,それを待つ期間に修行の1つとして彫られる場合が多かったようだ.絵は仏像や仏塔が多く見受けられた.
岩絵の少し先に温泉が流れ出ていた.実際は帰路立ち寄って試してみたのだが,75℃ということで熱くてちょっと足を浸すと云う訳にはいかないが,下流まで行けば大丈夫かも知れない.ウルドゥー語でタタパニと言うそうで,シェルパ語のタトパニと良く似ていると思った.まあ,距離も近いし地形も似ているし,上述の修行僧初めとして古くはいろいろ人的交流もあったのであろう.
目指すフンザのカリマバード村の少し上,グルミット村の少し下流で今年1月崖崩れが起こり,フンザ川(途中でインダスに流れ込む)を堰き止め,ダム湖を形成しKKHは通行不能になっているそうだ.我々の明日予定されていた足慣らしハイキングもそのため上フンザ地方からカリマバード周辺に場所が変更された経緯がある.崖崩れの規模は大きく,一山丸ごと崩れ,堰き止められたダム湖は現在長さ28km,水深130mに達する大きさになっているそうだ.崩れた際に数十人亡くなり,緊急の食料などは船で運んでいるという.
写真は,ダム湖下流で,かつ川の直ぐ近くに住む人たちがダム湖決壊に備えて避難のため生活しているテントだそうだ.カリマバードに着くまでの間このようなテント場は数箇所見られた.ダム湖は自然に任せておくと瞬時の大決壊を起こし,下流側で大規模な氾濫の恐れがあるそうだ.数年前地震で山古志村にできたダム湖の場合,穴を開けて放水すると穴が広がり一気に決壊する恐れがあるためポンプで汲み出す方法が採られたと聞いた.KKH建設/保守同様,特に中国政府の援助でパキスタン政府が復旧を進めているものと思われるが,住民のため何とか速やかに解決するよう願いたい.
KKHでは相対的にトラックが多く,そのためこのような立派な,所謂デコトラが目立つ.デコトラはパキスタン全土に広がる文化で,イランに接する地方などではここ北パキスタンなどより一層凄いそうだ.デコ自転車なども当たり前,バスは前から見ると運転手の顔だけがようやく見えるほどフロントガラスは装飾で埋め尽くされているらしい.見てみたいものだ.
デコトラ(中古車をデコレーションしたもの)はRs180万(180万円くらい)するが,その半分はデコレーションコストだそうだ.コストダウンのためペイントをプラスチックに替えているケースも多くなっているそうだ.トラックは運輸会社所有が多く,個人所有は少ないという.それでもドライバは自分の運転する会社のトラックをデコするため,給料の15%くらいを注ぎ込むのが普通だそうで,いや~すごい入れ込みようですね~と思わずにいられない.
視界は悪くなるし,重量は増えるし....単純には何もいいことなしであるが,実際気合の入り方が全然違ってくるのでしょうね.見せるためにデコっているので,写真撮るのはとっても喜ばれます.
給油のため止まったガソリンスタンドに礼拝所があった.小ぢんまりした部屋で,ミフラーブに向かって数枚の礼拝カーペットが敷かれていた.ミフラーブ横には礼拝時計が下げられている.外国でよく見かけたのは現在時刻を示す普通の時計と,当日5回の礼拝時刻を示す時計の計6個である.でもここのは合計7個,残り1つは何?と訊いてみた.すると,次の金曜日の集団礼拝の時刻を示す時計だそうだ.モズレムにとって金曜日は大切な日だ.ただ最近はパキスタンを含めて学校やビジネスは休みを日曜にしている国が増えているようである.
ジャグロットを過ぎ,ナンガパルバットビューポイント辺りに差し掛かる頃,同じ旅行社の標識を掲げた下りのバスに出合った.バスには昨年シブリンBCトレックでご一緒した熊谷のご夫妻が乗っているのを同行のSさんが見つけ,再会を喜び合う.ナンガパルバット周辺トレックをほぼ終えて帰路にあるそうだ.
ビューポイントからのナンガパルバットは残念ながら雲が厚くあまり見えず,すかさず駆けつけた石売り屋さんを冷やかしたり(冷やかされたりか?),デコトラを眺めて過ごす.インダスはこの辺りでK2のあるスカルド方面に進路を変え,KKHは以降暫くギルギット川に沿って走るようになる.
午後2時半ようやくギルギットのレストランに到着した.フライトキャンセルが無ければ昨日午前中早い時刻に到着していた地点だ.つまり半ば織り込み済みとは言え,昨日今日はかなり凶暴な回復行程である訳だ.ドライバRさん,済みませんです!
このレストランの食事はなかなか美味しかった.ただスープは胡椒容器のメッシュが外れて全部入ってしまった,のではないかと思われる程たっぷり効いており,皆がむせてしまっていた.ナンやチキンは申し分なく,サクランボに至っては色こそ違えど佐藤錦クラスとの評価もあった.
下は,チラスからギルギットの写真
ギルギットではギルギット川にフンザ川が合流し,ギルギットから先,KKHはフンザ川に沿って走るようになる.ギルギット川はインダス川の砂金など含む濁流(確か暮れ頃はかなりきれいらしいが)と違ってほぼ通年清流で,マスも棲んでおり,所どころにその養殖場もあるようだ.
そのギルギット川がフンザ川に代わって暫く走ると,フンザ川西側に位置するフンザ地方に入ってくる.フンザ川対岸東側はナガール地方で,パキスタンに併合されるまではそれぞれフンザ王国,ナガール王国として争いの絶えない独立国同士であったそうだ.フンザの入り口の村はノーマル村と呼ばれるそうで,全体的に砂漠っぽい土地にオアシス的光景の緑の大地が広がり,美しい.麦の畑や果樹栽培が多いようである.
フンザ入り口のその村辺りでは比較的最近できたという大学があり,通りかかったときは遅い昼休みの時間のためか学生が多く散歩していた.ここに大学ができたため遠くの都市に行かなくても済むようになったそうだ.
なおフンザは97%がイスマイール派,ナガール住民は100%シーア派だそうである.前述の通りイスマイール派はアザーンを行わないので,今夜の宿泊地フンザのカリマバードで聞こえてきたアザーンは対岸のナガールから風に乗ってきたものだと教えられた.
現在のフンザとナガールはごく普通の関係(多分)で,カリマバードへの行き来でもナガールを普通に通過している.そのナガールの一角で大きな布を広げ,桑の木の上から実を落とす場面に遭遇した.面白そうなのでバスを止めて見物させてもらった.すると桑の実収穫の人たちは私たちにどうぞ,と白い桑の実を一山分けてくれた.実に温かい人々だ.ありがとうございます.
頂戴した桑の実は次の休憩地ラカポシビューポイントでガイドSさんが洗って出してくれた.「白い」桑の実というのも初めてだが,甘いのには驚かされた.遠い昔食べた桑の実の味は記憶が必ずしも定かではないが,きっと少し渋いか酸っぱいか....と半ば警戒しながら口に入れてみたが大丈夫であった.なおパキスタンには黒い桑の実もあるそうで,木が異なるようである.
ラカポシビューポイントでは基部しか見えなかったが,夕刻カリマバードに近づく頃若干赤味を帯びたラカポシが見えてきた.ラカポシは意外と夕刻見えることが多いのだそうだ.明日以降の期待にも繋がって,とても嬉しい.なおラカポシは英国人の付けた名で,元々はドゥマニ(Dumani)と呼ばれるそうである.
ディラン(Diran:7,257m)も雲の下から遠慮がちに姿を覗かせるが,その頂上に連なる支脈の襞がきれいに輝いたのが印象深かった.
少しして陽は落ち,周囲は暗くなった.凸凹道をなおも進み,8:40PMカリマバードのフンザエンバシーホテルに到着した.ドライバRさんご苦労さまでした.フンザエンバシーホテルでは和食(風)料理を出してくれた.まだパキスタンに来たばかりだが,まあこれもありであろう.夕食の後部屋に入りバスタブに湯を満たすと,真っ黒で驚く.まあでもこんなものかと覚悟を決めて(そんな大げさな!)入る.何れにしても大変な2日間だったなあ~それでもフンザは昨日チラスまでの夜と違ってぐっと涼しくなったの助かる.標高2,500mまで上がった効果であろう.お休み~
下は,ギルギットとカリマバード間の写真あれこれ
月も改まり7月1日,カリマバードの朝を迎えた.日の出は5時半頃と聞いていたのでその少し前に目覚ましを鳴らしたのだが南の窓を眺めるとすっかり陽は昇っており,ディラン(左/Diran:7,257m)とスマヤール(右/Sumayar)はほぼ白く輝いていた.スマヤールはその麓に同名のスマヤール村というのがあるそうで,まあその村の山といったところであろう.
庭に出て北を向くとレディフィンガーとフンザピークも屋根の上に見えていた.今日の天気は期待できるかも知れない.
ホテルで朝食後ドゥイカルに向けてハイキングに出発した.最初西に向けて歩き出すと程なくウルタル(左/Ⅰ峰,右/Ⅱ峰)を望み,その下にバルティット城が見えてきた.ウルタル(Ultar)はⅡ峰の方が高く7,388mあるという.1991年10月10日初登頂をめざし登攀中の長谷川恒男氏が雪崩に襲われ落命した山としても知られている.
バルティット城(若しくは砦:Fort)はフンザ国の藩主(ミール)の居城だったところだそうで,今回訪れはしなかったが現在博物館として用いられている筈だ.ミールの息子さんは現在歩き始めて直ぐの場所にロイヤルホテルというフンザ一番と言われるホテルを経営しているようである.政治的権力はなくなったものの当時から遺産は大きいようだ.ちなみに宿泊中のフンザエンバシーホテルは現職,いや,元だったか?大臣の創設だそうで,パキスタンはそうした例が多いそうだ.何やら政治家が汚職に容易に結び付きそうな国のイメージに符合するような気がしないでも......
ガイドSさんは現在もここカリマバード在住で,イスラマバードから帰り昨晩暫くぶりに家に戻ったら,お子さんが膝から離れず,今朝出かけるのに苦労したそうだ.そしてガイドとして今歩き始めたら偶然妹さん(左側)とその義母の方(右側)に出会い,私たちに紹介してくれた.妹さん家族はカラチだったかの都会で暮らしており,夫の実家に久しぶりに里帰りしているところなのだそうだ.
Sさんは家族だけでなく,周りからひっきりなしに声が掛かったり,掛けたりしながら先導して行った.カリマバードは風光明媚な地として知られるが,小さな村で皆顔馴染み,平坦な場所は少なく,斜面や矮小な平坦地,稀に道路上の建物など縫って歩く....そんな印象だ.
村を抜けるとやがて峡谷脇のトレイルに入っていった.谷は深く斜面には立派なポプラが林立している.この辺の建物は石造りが多いが,梁や屋根にはどうしても木が必要で,ポプラは大事な建築材料になるのであろう.ポプラに近づいて見ると,縦縞の木肌と横縞の木肌2種類ののポプラが生えている.縦縞のものはこの辺原産のポプラで,横縞のポプラはオーストリア原産,それを輸入し植林したものだそうだ.なぜ2種類にしたか?え~と,全体の本数を増やすためだったかな~?
トレイルを歩いていると羊を連れた人に出会った.狭い場所であるが草のある場所へと朝に夕にと移動するのであろう.
トレイルはやがて進路を東に変え,暫く歩くとバルティット城のちょうど背面に至った.こうして眺めると正に山城で,攻めにくい地形にあることが伺える.ただ一旦兵糧攻めに遭うと対抗するのはかなり大変でもあろう.まあ,平和になって良かったものだ,
なお背面に見えているのはディラン(左)とスマヤール(右)で,左にスパンティーク,右にはラカポシ,逆方向(北側)にはウルタルやフンザピークが位置している.
フンザ国にはこのバルティット城の他に,少し東にもう1つアルティット城と呼ばれる城が在り,ここからさらに歩くと眼下に見えてくる.確かバルティットは上,アルティットは下の意と説明されたように思う.当初2つの城は防衛上の必要性から築かれたが,後は複数後継者の争いの拠点に.....と,よくあるストーリー展開になっていったようである.
歩き始めて2~3時間経ったであろうか,ドゥイカル(Duikar)に到着した.ドゥイカルの標高は2,900mだそうでカリマバードはかなり下に見える.かなり雲が多くなってきたがレディーフィンガー(Ladyfingaer/Lady's Fingaer;6,000m)の麓付け根から見えたりし,なかなか眺めがいい.
ドゥイカルの丘にはイーグルネスト(Eagle's Nest)という立派なホテルがあり,ここで昼食となった.入り口にはたわわに実ったサクランボがあり,どうぞどうぞと言われ,口に放り込んだらなかなか美味しかった.日本の果樹園の食べ放題ツアーの気分みたいだ.バフェ形式の食事もなかなかいけて良かったと思う.イーグルネストはロケーションがいいので大変な人気で,増設してきたが,ここ数年パキスタンの危険度が上昇し,外国からの客がばっさり減り,現在は経営が大変と聞いた.私たちが食事中,地元客が1,2組あったが,宿泊客はなく,確かに大変そうに見えた.
ドゥイカルの丘からはディランの東にスパンティーク(Spantik:7,027m)や,その左にはちょっと雲に覆われたがギルギンディール(Girgindil:5,296m) も見えていた.スパンティークの下に目指すラシュファリの辺りも教えてもらうが,今この写真でどこと特定できなくなった.大まかにはスパンティーク下辺りなのだが....
まあ,このようにしてドゥイカルハイクは終わり,4WDに分乗し,カリマバードの宿に引き上げた.
下は,ドゥイカルへのハイキング写真
下さらにドゥイカルへのハイキング写真
ホテルから先ずカリマバードのメインストリート下方にある水路脇の小道を西に歩いた.水路の水は氷河の融けた灰色で,昨夜お風呂で出てきた水と同じようだ.浄水場も見えたが小規模で,多くはこれに近い水が飲料にも供されているようだ.
少し行くとウルタルとバルティット城の好ビューポイントに来た.ポプラの緑,城の白い壁,茶色の岩,白い峰と雲,青い空,いい眺めだ.
なお,ウルタルは雲が掛かっているときが多く,全容を現すことは少ないそうである.
ジャガイモ畑があり紫の花を付けていた.中には花の後にトマトのような実を付けているものもある.驚いた.芋は地中にできるので,花の後にこんなに大きな実を付けるのが不思議に思える.例えば大根は地中に大きな実が成り,花の後に小さな種ができるが,このように大きくはない......でも,これは小学校4年生くらいで学ぶことで,常識ですよ,と同行者に教えられる.ふ~ん,そうなんだ,「馬齢を重ねる」のいい例であろう.
下は,カリマバード散策のときの写真
もっとカリマバード散策のときの写真.最初の一枚は連邦女子短大の校門であるが,校舎の一部は前述の崖崩れで形成されたダム湖決壊に対する避難所に充てられているそうである.
7月1日夕食はホテルの庭でフンザ伝統料理を頂戴した.野菜,乳製品,ヤギ肉料理....といろいろあった.フンザは長寿の里として有名であり,要因の1つとして食べ物の作用が大きかったとされているそうだ.そう言われると身体にいいように思えるし,味も結構いけると思った.ただガイドSさん(30代半ば)によれば,昔は周りに100歳以上の人が多く居たが,最近は少なくなった,ということだ.お祭りや特別な日に伝統料理は今も多く使われるが,普段は少なくなっているのが実情だそうである.まあ,沖縄の料理と寿命の関係,その推移と似ているように思えた.
なお,イスマイール派のアルコールに関する寛容さに乗っかり,杏ワインなどを少し出して戴いたのもよかった.
食事が済むとダンスが披露された.地方ごとにスタイルがあるようであるが,むしろ個人がアレンジして独自のダンスを作り出すのが上手とされるようである.写真の方はテレビに出たりすることもある名手だそうである.ご祝儀は帽子に挟み込むのが慣わしで,バンドの皆さんにはダンサーから分け与えられるそうである.なお,女性のダンスもあるそうだが,女性の前でしか踊られないそうで,ちょっとつまらないかも.
さて明日からいよいよトレッキングが始まる.天気いいかな~?