台南Tainan

この台南編では,日月潭見物後,台南まで南下し,台南の街や赤嵌楼,延平郡王祠を見物したときの写真を載せました.

台南に向かうto Tainan

再び高速道路に入る

再び高速道路に入る

日月潭から下ると再び高速道路に入る.大陸とか他のアジア諸国とは違って,バスドライバの運転は丁寧で,警笛とか鳴らすこともなく,安心して乗っていることができる.


スイカジュースは30元(120円くらい)

スイカジュースは30元(120円くらい)

さて台南エリア近くになってきた.ここの休憩所でちょっとお休み.売店では特産品と称して果物などが売られている.半分切れてしまったが,スイカジュース(西瓜汁)30元,スイカミルク(西瓜牛女編に乃の字)40元などと看板が下がっている.スイカは一年中採れるそうで羨ましい.でもスイカは搾らないで,やはりそのままガブリと食べるのが美味しいと思う.まあ好きずきだが.


ちょっとしたショッピングモールも兼ねている

ちょっとしたショッピングモールも兼ねている

高速のサービスエリアであるが,ちょっとしたショッピングモールも備えている.アパレル関連や名産の食品が並びなかなか便利ではなかろうか.


ミスタードーナツやスターバックスも

ミスタードーナツやスターバックスも

日本同様ミスタードーナツやスターバックスなど米資本ブランドも並んでいる.一般にアメリカの食事はちょっと....とか言われるが,企業の国際進出はすごい.例えばビーフを食べないインドにまでマックの店が並んでいるのを見ると,資本主義の強さを誇示し,また押し付けているようにも見える.

少なくともドーナツより,点心などよほど美味しい中華料理系スナックがあるのに....頑張れ,とか思ってしまう.

赤嵌楼Chihkan Tower/Fort Provintia

赤嵌楼外観

赤嵌楼外観

台南の街に入り,先ずこの赤嵌楼(せきかんろう)を見物することになった.1653年にオランダ人の手で建設されたそうだ.背景として,1600年代初頭大陸中国本土一地方の支配権を巡り争っていたオランダは1624年に明朝と講和条約を結び,代替地として台湾を植民地支配し,その拠点としてここ台南に商館や砲台を設け,築城したということだ.

なお当時台湾南部は既にスペインに抑えられていたのだが,オランダはそれを追っ払った訳だ.また日本では第3代将軍家光~第4代家綱の頃で,スペインとポルトガル船は来航禁止,ただ出島でのオランダ商館は許可,とやはりオランダの威力があった頃のようである.


赤嵌楼の城壁

赤嵌楼の城壁

楼本体もそうであるが城壁もまた焼きレンガで築かれている.レンカの接着にはに餅米などを加えたセメントだそうで強力だそうだ.ご飯粒で紙を貼り合わせるのは馴染み深いが,まさかレンガ積みに用いられると聞き驚いてしまった.そういえばベトナムのミーソン遺跡でもそんな話があったかも知れない.


赤嵌楼の資料館

赤嵌楼の資料館

赤嵌楼の内部は資料館になっている.左はオランダの赤嵌楼城主,右はこれを打ち負かした鄭成功という漢人の肖像画だ.

さてオランダの台湾支配であるが,漢人の大陸から台湾への移動を制限するなど,漢人にとって快くないのは当然である.そして赤嵌楼を攻撃し,倒したのが明の軍人鄭成功ということである.なお明王朝のために戦った鄭成功であるが,明王朝自体はこの頃既に清に滅ばされつつあったようである.

その後赤嵌楼の用途は色々変遷するが,反乱や地震で崩壊し,幾度か補修され現在の姿になっているようである.


下は,赤嵌楼での写真

赤嵌楼での眺め
赤嵌楼での眺め 赤嵌楼での眺め 赤嵌楼での眺め 赤嵌楼での眺め 赤嵌楼での眺め 赤嵌楼での眺め 赤嵌楼での眺め

台南の街the city of Tainan

台南もまた雨だ

台南もまた雨だ

この季節,南の方は殆ど降らないですよ~とガイドKさんの案内を聞いて南下してきた台南である.しかしバイクの人がカッパを纏うくらいの雨がやはり降っている.今回は余程付いていないようである.台湾の都市はどこも銀行の看板が目立つが,ここもやたら目に付く.ガイドKさんの話では,台湾は銀行以外にも(中小の)企業が多く,従って社長(董事長)がたくさん居る.社長は皆ベンツ(BMWやレクサスでなく)なので台湾にはベンツがとても多いのだそうである.

現在の台南市は合併で187万人くらいの人口であるそうだ.前述の鄭成功政権下では台湾の首都だった訳であるが,現在も台湾五大直轄都市の一つとして大事な市ということだ.私たちが訪れたのはほんの僅かであるが,古都だけあって古跡は多いのだそうだ.


正覺寺

正覺寺

通りかかった寺で『正覺寺』の文字が刻まれている.赤い瓦屋の寄棟稜線の動物飾りなど文廟や道教の寺院と似ている.幾らかシンプルなデザインに見える,それでも『寺』と付いているから,仏教寺院であると思われるが,入り口に狛犬(獅子)が据えてある....違うかな....因みに日本では正覺寺という名のお寺は全国津々浦々に存在するようである.


下は,台南の街風景

台南の街風景
台南の街風景 台南の街風景 台南の街風景 台南の街風景 台南の街風景

延平郡王祠Koxinga's Shrine

延平郡王祠の鄭成功像

延平郡王祠の鄭成功像

上述のオランダ軍を撃退した鄭成功は,残念ながら38歳という若さで1662年に死去したそうだ.明王朝の再興に尽力したものの叶わなかったが,ここ台湾で漢人政権の礎を築いたということで神として崇められ,ここ延平郡王祠に祀られたということだ.

ところで鄭成功は大陸の漢人であるので,これからすると確かに北京政府の言い分『台湾は中国の一部』ももっともらしいが.....しかしそれより前から棲んでいた原住民からすればどうなったであろうか? 例えば米国は,元々英が原住民(インディアン)から国土を奪って植民地としたが,移住した人々は英の植民地はいやだとして,独立し,米国を打ち立てた.まあ,インディアンからすれば英植民地でも米国でも同じように奪った連中であることに変わりないのだが.


延平郡王祠本殿

延平郡王祠本殿

鄭成功像この大きな本殿に祀られている.また周囲の建物には資料館のようになっており諸品々が収められている.

ここは文廟やお寺に多い赤い屋根と違って,青く,エンジの柱やレンガ庭との対比がなかなかシックだ.


鄭成功の母/田川松氏の位牌

鄭成功の母/田川松氏の位牌

ところで鄭成功は漢人の父鄭芝龍と日本人の母田川松とのハーフで,平戸(長崎県)生まれで,7歳まで平戸で暮らしたそうだ.この写真はその田川松さんの位牌である.

その後父の故郷福建に連れて行かれ,一族が生業とするアモイなどを拠点とする密貿易に励むようになったそうだ.一族は私兵を擁し,政府軍や商売敵との抗争もあったそうだ.ただ鄭成功は武力だけでなく頭脳明晰で,若くして難関の官吏登用試験にも合格しているそうだ.赤嵌楼資料館には,旅先への移動中でも勉強するための細かい文字でびっしり記されたハンディなメモ帳が展示されていた.三省堂コンサイス辞典より細かで,私にはルーペがあっても無理そうだった.

ところで鄭芝龍一族は所謂『倭寇』の類であろう.『倭』の文字は,Jap同様,中国人の日本人に対する蔑称で,確かにこれより昔は日本人の海賊もいたようだ.しかしこの時代には,殆どの海賊は福建など中国系が占めるようになっていたようだ.


延平郡王祠内での撮影モデル

延平郡王祠内での撮影モデル

雑誌かなにかの撮影だそうだ.台湾では結婚に先立って,いろいろな場所で撮影し,披露宴では立派な写真集を見せるのが普通だが,これはちょっと違います,とガイドKさんの解説あり.衣装やヘアスタイルがちょっと奇抜過ぎるということらしい.


下は,延平郡王祠での写真

延平郡王祠での写真
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夕暮れどき高雄に向かう

夕暮れどき高雄に向かう

台南の観光を終え,更に南の高雄に向かった.黒い雲が多いが,それでも夕日が覗いている.明日こそ晴れるかな~?



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