このシオンの丘編では,2015/11/22(日)午前バスでエルサレムに到着し,シオンの丘エリアに入り,最後の晩餐の部屋,ダビデ王の墓,マリア永眠教会を見て回り,翌11/23(月)ヤッフォ門を出てから鶏鳴教会に来て見物したときの写真を載せました.
私たちがエルサレムで見て回る場所を見取り図に書いてみた.エルサレムの中で旧市街の一部に過ぎないが主にキリスト教関連遺跡と,ユダヤ教とイスラム教の聖地も僅かながらも含まれている.楽しみだ.
このページでは左下ループで囲んだシオンの丘周辺の教会を巡る.
シオンの丘観光に関わる簡易マップ
なおちゃんとしたマップは 別窓で大きなGoogleマップをどうぞ.
ティベリアから来た私たちのバスは,そのままシオンの丘(mount Zion)へと向かった.エルサレムもまた起伏ある地形で,山あり谷ありの風景が待っていた.写真で見える建物の混み合う山の辺りがシオンの丘だったと思う.
シオンの丘はシオニズム(Zionism:イスラエルの地/パレスチナに故郷を再建しようという運動)の語源となった地名でもあるそうだ.
バスの車窓から夥しい数の墓石が並ぶ大きなシオンの丘墓地が見えてきた.後でオリーブ山を訪れるがそのときもキドロンの谷(Kidron valley)の大きな墓地を見るのだが,それと続き,同じかな?
バスはシオンの丘に近づき,エルサレム旧市街城壁の壁際にきた.迫力ある城壁だ.
エルサレム旧市街はエルサレムの街の僅か0.9km2(つまり1km四方足らず)の区画を占めるに過ぎないが世界三大一神教の聖地が集中していると云うことが大変興味深い.ユダヤ教徒にとっては神殿の丘や嘆きの壁があり,キリスト教徒にとっては聖墳墓教会,またモズレムにとっての岩のドームやアルアクサーモスクといったそれぞれの最大級聖地が集中しているのだ.
その歴史は,4000年前ユダヤの祖先アブラハムがこの地に定住し,3000年前頃モーセの後継者ヨシュアがユダヤ一族を引き連れて住み,やがてローマ帝国支配下になり,キリストが生まれ,ムハンマドがイスラムを説き.....と,実に古い歴史を持つわけだ.
まあこうして同根,同じ神(呼び名はヤーウェ,エホバ,アラー,ガッド....など)を抱く三大宗教ではあるが,今日日常で見られるような小競り合い,さらには戦争も起こっているのは現実の姿である.
城壁の間近で眺めると,比較的脆そうな石灰岩のようで,一部欠損しているが,巨大で城壁としての機能に不足なさそうだ.
写真中央アーチ下に薄くアラビア文字が見える.エルサレムの歴史は,上述の通り4000年前のアブラハム,3000年前のヨシュア,2000年前のキリスト,その600年後ムハンマドがイスラムを説き.....と,実に古い歴史を持つわけだが,そんな歴史の一コマとして刻まれた文字であろう.
市街城壁には8つの門があり,その一つがこのシオン門(若しくはダビデ門)になるそうだ.
この内側は,入ったわけではないが『アルメニア人地区』になっている筈だ.アルメニア人地区という区画があるのは不思議だ.アルメニアは確か世界で初めてキリスト教(正教系)を国教とした国であろうが,その総主教座を断固ここに置くのにこだわってきたためらしい.
シオン門の表(外)はシオンの丘エリアだ.この辺りには次に行くダビデ王の墓もあるためか,正統ユダヤ教徒装束の男性もよく見かける.
シオンという言葉はもともと要塞,要塞がある街.という意味で,ソロモンがエルサレムのモリア山に建てた神殿付近がシオンと呼ばれるようになったという.イスラエルを神の民として指すときもそんな風に呼ぶそうだ.
国民ほぼ皆兵制(一般モズレムは除き,ユダヤ,クリスチャン,ドゥルーズは対象)のイスラエルなので,女性兵士も重い銃を携えて行く.
シオン門には1948年のイスラエル建国に伴う第一次中東戦争の弾痕(写真で入り口左辺りに多い)が残る.その時イスラエルは破れて旧市街はヨルダン領となり,1967年の第3次中東戦争(六日戦争)で勝利し,イスラエルが取り戻した経緯があるそうだ.そんなことからイスラエルにとってここは現在も死守すべき要所で,兵を張り付けているのでしょう.
スマホ画面を共有し,サンドイッチを食べる女性兵士.他国から移住のために志願兵となるアフリカ系女性もいるそうだ.多分男性もかな?
シオン門から石畳の路地を行く.路面だけでなく,塀や建物すべてが石造りとしても語弊なかろう.
三叉路ではナッツ売りのおじさんが露店を構えている.この辺りではいろいろなナッツが採れそうな気がする.
建物のトンネルを抜けると広場があり,右の階段の前になる.この辺の建物は互いに入り組んで,くっついて建っているので,個別の建物の特定は難い.でもまあこの階段を上った二階に『最後の晩餐の部屋』があるのだ.
この二階の部屋が,イエスが大祭司カイアファまたはカヤパ(Caiaphas)に捕らえられる前の晩,12人の使徒とともに最後の晩餐をとったところだそうだ.現在の建物は十字軍が建てたゴシック様式建築なので,実際は1000年下った後の建物であるが,場所自体はここだったのでしょう.
柱の頂にはこうした彫刻が刻まれている.ペリカンと悪魔(だったか?)と聞いたような.ペリカンはイエスキリストの象徴だそうだ.大変子を大事にする鳥で,自分の胸に嘴で孔を開け,子に血を与えて育てるという言い伝えがあり,ワインを私の血と.....と言ったイエスとの共通性があるようだ.足元の悪魔(?)については思い出せない.
壁の一部にこのようなアラビア文字が残っている.また上の写真で,正面の凹みはメッカが後ろとなるイスラムのミフラブである.15世紀オスマン支配になった頃,モスクに転換され,改装されたそうだ.
また両側のステンドグラスもオスマン支配の頃改装されたそうだ.イスラムでは偶像崇拝を禁じるので,こうした幾何模様やアラビア文字のカリグラフィーが盛んだった訳だ.
さて現状の建物以前,およそ2000年前ここでイエス一行は最後の晩餐を摂ったわけだが,ダヴィンチのようにテーブルで一列に座ったのではなく,床に直接座ったとされる.つまりベツレヘムのお土産屋さんでみせてもらった木彫りスタイルだったそうだ.
ところで以前ブルガリアのイワノボ岩窟教会を訪れたとき,13世紀に描かれた『最後の晩餐図』(15世紀末レオナルドダヴィンチ作より古い)を見たことがあるが,部屋の雰囲気はやはり現在のこの部屋とはかなり違っており,半円形のテーブルを囲むが,それが座卓か普通のイス付きか.....はっきりしない.まあ岩窟画家もこの建物建築家もそれぞれイエスの時代を想像しながら創造したであろうが.
さてこの最後の晩餐に前後してイエスと関係者には次々といろいろ起こる.順を追って整理すると.
さらにムチ打ちの拷問,磔刑の判決.....と続くわけだ.
なお裏切りのユダが受け取ったのは銀貨30枚だそうで,120ドラクメ=賃金4カ月分に相当しよう.時節柄(書いている今12月なので),比較的高評価査定のサラリーマン暮のボーナスくらいかな~と連想する.やはり魔が差したのでしょうか.
ダビデ王(在位BC1011~BC971)の墓に至る小径の脇にこのダビデ王の像がある.古代イスラエル王国(紀元前1000年頃)の初代サウル王は然程注目されないが,二代目ダビデ王は今も圧倒的な支持を得ているようだ.
つまりベツレヘムで生まれたダビデ少年はペリシテ人隊長,巨人ゴリアテを倒し,ペリシテ人を一掃し,先代サウル王が果たせなかった12のユダヤ系国を統一し,イスラエル王国を固めた.さらにカナン人を征服しエルサレムに都を建設し,繁栄の礎を築いた.そしてその子ソロモンの時代も栄えたそうだ.
ダビデ王は,教科書などにもよく採り上げられ,私達にもミケランジェロ作ダビデ像は超有名だ.フィレンツェの守護神で,若い時分はハープ奏者にして羊飼いをしていたそうだが,巨人ゴリアテの首をとるなど武力も凄かったのだ.やはり羊飼いはこの時代のキーワードだ.
この辺りは遺跡とかで,公衆トイレさえも何かと時代的で,すごい.
上述の最後の晩餐の部屋のある建物の地下にダビデ王の墓がある.その地表の眺めはこんな感じだ.晩餐の部屋と違って地下なので,昔から継続してあるのかもしれない.
ダビデ王墓入り口にはヘブライ文字に続いて英語でもKing David's tombと記されている.
ヘブライ文字には母音がなく,子音だけというせいか全体の文字数が少ないですね.多分King David's tomb相当が,フノフ フコア(左右逆に読む)のような感じでたった6文字ですから.
ダビデ王の墓入り口にはメズーザー(Mezuzah)と言われる細長い筒が取り付けられている.鉛直方向からは少し傾いでいる.
メズーザーは『門柱』の意味で,中には聖書の1節が記された羊皮紙の巻物が入っているそうだ.部屋に入る度に手を当てて,祈るそうだ.
実はメズーザーはあらゆる部屋入り口に掲げられ,実際宿泊したホテル部屋入口には皆付いていた.ただここのように豪華ではなく,シンプルだった.
それと,信仰はまったく違うが,中にチベット仏教の真言『オム・マニ・ペメ・フム』を納めたマニ車(mani wheel)には若干似たコンセプトがあるのかな~と思われた.
玄室に入るとビロード布を架けられたダビデ王全長3mの石棺が据えてあった.石棺の前では黒い帽子,黒い服の正調ユダヤ教徒に加え,普通の服装のユダヤ人も来てお祈りしている.
さてその石棺を半分に切るように,男女室間の壁で仕切られている.そして仕切られた各玄室に男女別々に入り,別々にお祈りする.ユダヤ教の教えだそうだ.
石棺の横には立派な牌(?)のようなものがあり,ここでお祈りする人も見える.
ところで遺体は石棺に収められているのではなく,その下の土中に埋葬されているそうだ.これはキリスト教でも同じらしいが,復活し,地上に戻ると,この石棺に入り,石棺に設けられた小穴から外部を覗くそうだ.こうした埋葬形式は翌日訪れるオレンジ山の大墓地でも,他墓地の一般のユダヤ人にも適応されるようだ.
石棺背後にはお祈りの書見台と椅子が並べられ,その後ろに書架があり,聖書であろう多くの書物が並べてある.
この椅子に座っている人は長いもみあげ,黒い装束の正統派ユダヤ教徒で,しかもラビ(rabbi)と呼ばれる律法学者,宗教的指導者なのではなかろうか?
ダビデ王の墓入り口に戻ると,9本立てのメノラーがあった.普通7本なのでこれは特別仕様で,ハヌッキーヤー(Hanukia)と呼ばれるようだ.9本のうち,中央の点火用を除く8本はハヌカー(Hanukah)の日数なのだそうだ.で,ハヌカーとは何ぞや?ユダヤ教の冬季の祭りで,ヘブライ語の『捧げる,献ずる』を意味する『ハナク』という語に由来するそうだ.それでもまだよく解らないが.....
マリア永眠教会はとても大きい.これはダビデの像の前から撮したものだが全部は入りきらない.実際ここシオンの丘に,10年の工期を経て1910年に完成したというネオロマネスク様式の教会は,エルサレム最大の教会だそうだ.この近くで聖母マリアが永眠し,またここにはビザンチン時代の聖シオン教会があったそうでその遺構に建てられたそうだ.
何しろシオンの丘は土地が限られており,当マリア永眠教会の敷地も狭い.前庭は全体を写すヒキのスペースはないが玄関口だけ見ても,新しいが重厚なデザインだ.
なおネオロマネスク様式とは,19世紀になって,相当昔,中世11~12世紀が最盛期だったロマネスクの様式を一部取り入れた様式,ということだ.
玄関口に寄ってみるとこんな風に見える.ベージュと薄ピンクの石が組み合わされ,とても細やかな彫刻が施されている.中央の柱は頂きだけでなく,全丈に彫られている.実に見事だ.
玄関から入ると広く丸い礼拝堂になっている.正面に聖母子像を天井絵を背にした祭壇が設けられている.
また丸い礼拝堂の周囲には,半球状窪みに旧約聖書のときから関わるシーンが描かれている.
床のモザイク画はイエス当時の砕いた石製ではなく,鮮やかなタイル製だ.模様の意味合いを説明して貰ったのだが.....思い出せない.でもきれいだ.
礼拝堂の周囲の絵の幾つかはこんなだ.例えば右下は三博士の来訪であろうか.新しい建築だが,掲げられた絵の作風は古いというか,伝統的というか,そんな風に感じられる.
地下聖堂へ行くと,象牙の顔で,全身が桜の木でできた永眠するマリア像があった.
ところで新約聖書にはマリアの記述はほとんどなく,そのためマリアさまは古くは比較的重視されてこなかったのだそうだ.しかし現代は,特にカトリック教会や正教会では聖母マリアXX教会や,マリア像,聖母子像....など,あちこちで非常に多く見かける.どうしてなのでしょう.....?
マリア永眠像の足の側に礼拝所が設けてある.半円級天井から聖母子初め,色々な人が見下ろす構図になっている.
ところで昔トルコのエフェソスを訪れたとき,聖母マリアの家を見せてもらい,そこでは聖母マリアが晩年過ごし,亡くなったと説明されたものだ.
エフェソスはここからは遠く,ちょっと不自然に響くが...さてどちらが史実か?...ガイドSさんのお話では,現在バチカンは,ここシオン山,およびエフェソスともにマリアの没した地としているのだそうだ.そりゃまた???だな~
11/23(月)午後ヴィアドロローサをすべて見て回った後,聖墳墓教会からエルサレム旧市街キリスト教地区を抜けて,ヤッフォ門から表(新市街)に出た.旧市街の通りは狭く,屋根があったりで窮屈な感じなので,ここを出ると開放感を覚える.
ヤッフォ門近く,壁の窪みで女性がハープを弾いている.わが街でもギター,キーボード,ドラム,ヴァイオリン....といったミュージシャンは普通に見かけるが,ハープ奏者は初めてだ.ハープの名人ダビデ縁の地ならではだ.ただ私たちは留まることなく,足早に通り過ぎただけだが.
ヤッフォ門を出たところは広場になっている.シオン門辺りと違って旧市街城壁は綺麗だ.きっと近年修復されたのであろう.
この写真で右側四角の左側面にヤッフォ門があった筈だ.
ヤッフォ門近く,iとあるからインフォメーションであろう.警護の女性兵士が自動小銃を携えて見張る.男女均等化はかなり進んでいるようだ.
ランチのレストランを訪ねヤッフォ門から少し南に行った.ここからは東ローマ帝国時代に築かれたという『ダビデの塔(Tower of David)』が見える.何でもかつてダビデ王がここに尖塔を築いたとの言い伝えをベースにしているようだ.
現在は旧約聖書のカナンの時代からイスラエル建国までの歴史を紹介する博物館になっているそうだ.
ちょうどお腹も空いてきたころ,昼食のレストランに入った.珍しく小ぢんまりしたお店だ.逆に狭くて椅子の間を抜けにくい.
ボトルがたくさん並んでいるから,夜は飲み屋かな?
ちゃんとした名前の付いたイスラエル料理だが,名はとても覚えられず適当にチキンの合わせ焚き(ほんとにテキトーだ)とした.
鍋底にチキンブロックを入れ,そこにご飯と少し混ぜもの,調味料を入れ,お皿状の蓋をして炊き込む(かなり想像入り).炊き上がったら,客の前のテーブルに蓋を下に,ひっくり返して置く.そして何だったか掛け声を掛けながら鍋本体を引き上げる(写真はそのシーン).そして拍手.
味そのものは取り立てて.....では,身も蓋もない,....いや蓋はちゃんと料理のお皿としてテーブル上にあるぞ.
レストランを出て,またシオン山に行くため短い距離だがバスに乗る.この辺りは樹木がいっぱいで通念上のエルサレムとは些か違う.まあ結構なことだ.
前日休館日で寄れなかった鶏鳴教会を見るため,再び訪れた.鶏鳴教会の丘からは街の方向がよく見える.
この写真ではちょっと小さいが,中程にはパレスチナ境界のセキュリティフェンス(分離壁)も霞んで見えている.
上述のように,イエスが最後の晩餐の席で,一番弟子ペテロに対し,鶏がコケコッコーと鳴く前までに『イエスなんて知らない』と三度繰り返すであろう,と言われたことに因む教会だ.
教会は当初AD457年ローマ帝国テオドシウス帝が創建し,1010年ファティマ朝アルハーキムが破壊.暫くした1102年に十字軍が再建したそうだが,またイスラム軍に破壊され,やがて1931年カトリック教会がその遺構の上に再建したという.見たところもっと新しく見えるが.....気のせいか.
丸いアーチとその下の絵,蛇腹層と呼ばれる壁面の帯状層などが特徴で,ロマネスク様式に倣いながらもアーチや窓装飾はシンプルに設計されているようだ.
鶏鳴教会入り口の金属扉に,イエスがペテロに告げる場面のレリーフが刻まれている.左青い服のイエスが,『お主は』と,右手人指し指でペテロを指し,左手3本指を立て『3回言うだろう』と,告げ,右赤い服のペテロが左手を胸に,『けっ,決して左様なことは!』のシーンだ.また背景は最後の晩餐列席の12使徒だ.既にユダはトンズラした後か?
ここは当時大祭司カイアファまたはカヤパ(Caiaphas)の官邸があった土地だそうだ.
現在の鶏鳴教会庭にはペテロたちのブロンズ像がある.中央がペテロ,右側はカイアファ邸の家政婦,背後に岡っ引き(ローマ帝国兵士)だ.家政婦は『あっ,この人イエスと一緒だったところを見たことがある,一味に違いない』と情報提供し,ペテロが『何のことだ?そんな人知らないよ』,とイエスとの反逆共謀を否定している場面だ.三度繰り返すのだが,その後で鶏がコケコッコーと鳴く.明けの5時くらいのことでしょうか.
現鶏鳴教会,当時のカイアファ邸の地下の岩には幾つかの洞穴が掘られている.一つはイエスが一晩留置された場所,地下牢で,他に,律法違反者が罰金として捧げた供物を貯蔵した倉庫でもあったとされるそうだ.1889年の発掘調査で,洞窟からヘブライ語の資料や,秤と分銅などが見つかり,判ったという.
そしてイエスはここで大祭司カイアファから激しいムチ打ちの拷問が加えられ,尋問された.その際両手はロープで吊られ,足の爪先がようやく地に着くという過酷なもので,ロープを架けた岩の孔も見える.ムチは39回打たれたという.40回打つとユダヤの律法で禁じた死に至るので,その直前で止めたのだそうだ.
そして最後に『お前はユダヤの救世主キリストであるか?』と訊かれ,『正にその通りだ』と答え,これは死刑に相当する反逆罪と判決されたのだ.
ただ当時当地はローマ帝国ピラト総督の支配下にあり,裁判権もそこにあった.そのため翌日イエスはピラト総督に引き渡され,十字架で死刑の判決が言い渡されることになる.
カイアファ邸の北側には大きな洞窟が掘られている.貯水槽だったそうだ.この地方で貴重な水をこれほど多く蓄えることができたのは,やはり大祭司が多大な権力を有していたことの表れのようだ.
なお上述のペテロも共謀を否定したが,一旦はしょっぴかれ,ここに留置されたという.
ただペテロの罪状は軽かったのか,程なく釈放される.しかしこの場所でそれを深く悔い,号泣したという.そして悔い改めたペテロは,イエスの遺志を継ぎキリスト教団をリードし,やがてローマで殉教し,遺体が埋葬された.その聖(サン)ペテロの墓の上に後世建てられたのが聖ペテロの寺院,サンピエトロ大聖堂ということになる.
岡っ引きに捕らえられ,カイアファ邸に連行された石畳の道が残されている.
その石畳側面壁に,イエスが捕らえられ,このカイアファ邸に連行されるときの様子を描いたレリーフが貼られている.服装からすると連行するのはローマ兵ではなく,ユダヤ人だったようだ.