カルタゴCarthago

カルタゴはチェニスの少し北の外れに位置する.行政的にはチュニスの一部だろうか.ハマメットからここにやって来た.

トフェTophet

チュニスに戻る

チュニスに戻る

ハマメットから再びカルタゴ遺跡のあるチェニスに戻った.ここは自動車道を降りてしばらく走った大きな操車場のある辺りだ.ハマメットまでは天気が良かったのに残念ながらまた悪くなってきた.そしてやがて降り出すことになった.


トフェの遺跡(Tophet)

トフェの遺跡(Tophet)

紀元前800年頃フェニキア人によって造られたカルタゴはローマ人との3度の戦争(ポエニ戦争)により,紀元前146年に壊滅.このときローマ人はフェニキア人の興隆を妬んで,草木も生えないように塩を撒き,ほぼ完璧に破壊し尽くしたそうである.

そんな中でここトフェの遺跡は例外的に残されたものであるようだ.これら立ち並ぶ小さな墓石から幼児の炭化した遺骨が300体ほど発見されたそうである.「祭司は儀式の際,子ども達の首を切り,燃えさかる炎の中に入れ...」という記録がローマ側に残っているそうで,他の記録共々「幼児生贄」の習慣としてとして知られるという.ただ家畜の骨などもたくさん見つかっていると,ガイドさんが懸命に皆のショックを和らげようと配慮(?)してくれた.墓石群の傍らにレンガの構造物が見られるがこれらが何であったか思い出せない.ちょっと覗き込んだ限りでは特段のものは見当たらなかったが......

タニト神(Tanit)

タニト神(Tanit)

丸い頭部に直線状の手,下部の二等辺三角形,いわば婦人用お手洗いのマークのような記号はタニト神と呼ばれるカルタゴの守護神の象徴ということである.フェニキア人は他の神と同時にこのタニト神を信仰していたそうで,カルタゴ時代の他の遺跡にも必ず出てくるものなのだそうだ.という訳でこの遺跡からタニト神の墓石が見つかったことがここをカルタゴの遺跡とする根拠となったそうである.

カルタゴ港

カルタゴ港

トフェの遺跡から少し走った所にある500m*300mくらいの楕円形状港.カルタゴ時代軍港として活用され,現在も港として使われている.カルタゴ時代は200隻もの軍船を収容し,カルタゴ海軍の根拠地で,二重の防壁で固められていたそうである.カルタゴと言えば海軍,その200隻の軍船はすごかっただろうね~

上に見えるのはビュルサの丘に経つサンルイ教会.1881年統治宣言を下したフランスが,後の1890年建立したキリスト教会だそうである.ここでまたまたガイドのアハレムさんに訊ねてみた,「キリスト教徒の割合は?」と.すると,チュニジア人は100%!!イスラム教徒,キリスト教徒は外国人だけです,と答えてくれた.他の国,例えばトルコなどのイスラム国家では僅かにイスラム以外の人もいます,と答えられることが多いので,この「100%」には少し驚いている.

カルタゴについて改めて三省堂大辞林を参照させてもらうと,

カルタゴ [Carthago] :紀元前九世紀頃フェニキア人がアフリカ北部の地中海岸に建設した都市国家.紀元前六世紀頃,地中海西部を制覇したが,前146年ポエニ戦争でローマに敗れて滅亡.チュニジアの首都チュニスの北郊にその遺跡がある.

とあり,ハンニバルは直接出てこない.で,ハンニバルは?

ハンニバル [Hannibal] :(前247頃-前183頃) カルタゴの将軍.紀元前218年イタリアに侵入し第二次ポエニ戦争を起こす.カンネーの戦いなどでローマを苦しめたが,ザマの戦いでスキピオに敗北.のちカルタゴを離れ,小アジアで自殺.

と述べられている.ドラマチック(?)な象部隊については触れてないが,カンネーの戦いあたりで登場したのか?

アントニヌス共同浴場Antonin Baths

アントニヌスの共同浴場跡周辺

アントニヌスの共同浴場跡周辺

周辺は高台で,緑茂る立派な住宅街だ.すぐ近くに大統領官邸があり,警官が銃を持ち警備に当たっている.官邸の方向にはくれぐれもカメラを向けないように予め注意を受けた.


アントニヌス共同浴場

アントニヌス共同浴場

住宅街を抜けるとパーっと視界が開け地中海が広がる.「ワーッ」と歓声が上がる.「左が官邸ですから,カメラを向けないでね!」と再度注意あり.このような浴場の平面図と,正面図のパネルが掲げられ,これに基づいて説明してくれる.普通のお湯のお風呂に,水風呂に,スチームバス(或いはサウナだったかな?)に.....それらが左右対称に2組あって....と,まあこんな感じだったか.

で,一応「カルタゴ」の項に分類したが,結局カルタゴのこの地を征服したローマ人がカルタゴ再建に着手し,それから百数十年経た2世紀になって,時のローマ皇帝アントニヌスの時代にしたのがこの大浴場ということだそうである.

レンガ造り

レンガ造り

レンガをセメントで固めた構造で,この頃イタリア,ギリシャ,トルコ....など地中海地方に最もよく見られる建築構造ではないだろうか.傷みが激しく危険:廃坑に....のような看板も見える.まあ当時は地中海を見下ろしながら入るお風呂は格別であったであろう.


下は,アントニヌス共同浴場の写真

アントニヌス共同浴場
アントニヌス共同浴場 アントニヌス共同浴場 アントニヌス共同浴場 アントニヌス共同浴場 アントニヌス共同浴場 アントニヌス共同浴場 アントニヌス共同浴場

カルタゴ博物館Carthago Museum

カルタゴ博物館

カルタゴ博物館

看板にはこの通りちゃんと「カルタゴ博物館」と記されている.でも結論から言えばカルタゴの文物は必ずしも多くなく,カルタゴの地を征服したローマ人が残したものの方がむしろ多いようである.上のアントニヌス共同浴場と同じだ.最初「カルタゴ」の名前に惑わされて理解するまでしばらく時間がかかったので,念のため.


ビュルサの丘

ビュルサの丘

これは純粋にカルタゴ時代のビュルサの丘の様子を表した復元図(予想図).現在この博物館がある場所がビュルサの丘の頂上になる.博物館は前述のサンルイ教会と並んで建っている.写真で指差されているのがやはり前述のカルタゴ港.ドーナツ状で,出入り口は強固なゲートで固められ,自軍の船が出入りする時以外は閉ざされていたそうである.


ローマ時代の彫刻

ローマ時代の彫刻

どういう題材のものだったか思い出せないが,生き生きしていてなかなかいいと思う.このような大理石彫刻の展示物は大体ローマ時代のもののようだ.


ポエニ時代のカルタゴ人住居跡

ポエニ時代のカルタゴ人住居跡

紀元前2世紀頃,ポエニ時代の後期に造られ,第3次ポエニ戦争で破壊されたフェニキア人の住居跡だそうだ.博物館の敷地内であるからビュルサの丘の頂上近くである.火は10日間に渡り燃え上がり,廃墟となった街を鍬でならして,塩を撒いたと言われる場所がここだそうだ.僅かに貯水槽,水路,庭のモザイクなどが残っているようだ.元々は数階建ての住居が道路沿いに建連なっていたらしい.

そしてこれら破壊した住居の上に積み重ねてローマの巨大な建造物が造られたようだ.まあやり方はトロイ遺跡とかと似たようなものか.


下は,カルタゴ博物館の写真

カルタゴ博物館の写真
カルタゴ博物館の写真 カルタゴ博物館の写真 カルタゴ博物館の写真 カルタゴ博物館の写真 カルタゴ博物館の写真 カルタゴ博物館の写真 カルタゴ博物館の写真
カルタゴ博物館の写真 カルタゴ博物館の写真 カルタゴ博物館の写真 カルタゴ博物館の写真 カルタゴ博物館の写真 カルタゴ博物館の写真 カルタゴ博物館の写真


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