ケルアンKairouan

ケルアンの街は7世紀後半,アラブ人により建設されたそうである.9世紀になると,当時に支配者アグラビットがここケルアンを首都と定め,グランドモスクなどを建設したそうである.10世紀以後政治の中心都市としては衰退するが,今もイスラムの聖地として変わりなく重要であるようだ.つまり北アフリカ最古のグランドモスクを含め,約50のモスクを有し,メッカ,メディナ,エルサレムに次ぐイスラム第4の聖地とされるそうだ.ケルアンを7度訪れることはメッカに一度巡礼することに相当するとされ,多くの巡礼者がケルアンを目指すそうである.現在の人口は10万人(チュニジアで5番目),絨毯の産地としても知られ,1988年にユネスコ文化遺産登録されたそうである.

ケルアンのメディナMedina of Kairouan

ケルアンのメディナ入り口辺りに佇む男たち

メディナ入り口辺りに佇む男たち

今日は羊の犠牲祭,メディナの多くのお店は休みだし,色男4人がこうしてメディナゲートに佇む.はてさてこの後どういった展開になったやら.....


ケルアンのメディナ入り口

メディナ入り口

ここはメディナへの入り口前.この辺りに来るとさすがに写真のような黒で全身を覆った女性を見ることができ,ようやくイスラム圏にたどり着けたか,とほっとする.ところで頂部の凹凸はあちこち,すなわちキリスト教圏,ヒンドゥー圏,イスラム圏の城砦に共通する様式であるように思える.単なるデザイン上の一様式か?それとも凹みから顔を覗かせたり隠したりする盾の役目なのか?所によっては銃眼が付加されているような気がする.

メディナの路地

メディナの路地

羊の犠牲祭のためここケルアンのメディナの多くの店は閉めたままである.そんな中このような地元の人が往来し,そう多くはない観光客がぶらついていた.光線の方向が凹凸の激しい壁を一層強調している.国によってこのように平面度の低い壁は一般的であり,これらに囲まれて逍遥すれば必然的に「旅」を感じないではいられない.


タバコの露天商

タバコの露天商

遅い昼食か,ボールから何かを指で摘みながら食事中である.何かな~?と覗き込ませてもらったら,「ムトン」(マトンのことであろう)と言いながら,手刀を自らの首を掻き切る仕草をし,「お前も1つ喰え!」と勧めてくれた.なるほどこれが羊の犠牲祭か!と納得した.イスラムの僅かばかりの一面ではあるが垣間見ることができたようで,ラッキーだった.トマトソースで煮込んだ肉塊は美味しそうであったが,メルシームシューと言いながらも腹いっぱいのジェスチャーをしながらこの場は遠慮した.どこの馬の骨とも知れない旅行者にとても温かな人だった.

メディナのミナレット

メディナのミナレット

この地方,いやマグレブ諸国やエジプトに共通であろうが,ミナレットは四角柱状である.イランやトルコでは円柱状が普通であるから地中海を渡ると四角になるということか.壁面から浮き出た直線状のアラビア文字に特徴を感じる.こうしたレンガを浮き出して模様や文字を描く手法はここチュニジアお得意の手法らしく,これ以降しばしばこの方式の模様を目にすることになった.


マント

マント

この辺りではこのような民族衣装に身を包んだ人が結構多く見られる.マントというかポンチョというか,ちゃんとした名称は不明であるが縫い目が少なく,従って縫製が容易で砂の進入が効果的に防げる構造とみた.この写真には写ってないがもう少し縫い目の多いジュラバを着た人々もよく見かけることができるのもチュニスとの違いだ.でも民族衣装は年々少なくなっていくのかもしれないな~とも想像する.


下は,ケルアンのメディナの写真

ケルアンのメディナ
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ケルアンのメディナ ケルアンのメディナ ケルアンのメディナ ケルアンのメディナ ケルアンのメディナ ケルアンのメディナ ケルアンのメディナ

ケルアンに来ると幸い天気が良くなり光が周り写真が楽しくなる.たくさんシャッターを押した.

絨毯屋

絨毯屋さん

イスラム圏ツアーのお約束,絨毯屋さん参り.あまりよく聞いていなかった(すみません!)がウールは当然として確かラクダの毛やシルク製のカーペットも紹介されていた.でも今思い出すにチュニジアでシルクが産出するのかな~?と自信が持てなくなった.......模様は偶像崇拝を禁じるイスラムの掟に従い幾何学模様やアラベスク模様である.


売り歩く青年

売り歩く青年

絨毯屋近く通りの路上風景.遠目で何を売っているのか定かではないが,乾物とかの食品だろうか?背景に公共の建物,さらにその奥には夕陽が当たるモスクのドームが見える.


遊ぶ少女

遊ぶ少女

通りには夕暮れ前に遊ぶ目鼻立ちの整った少女が居た.アラブ系かそれともベルベル系か?レンズを向けるとかすかに微笑んでくれた.ありがとう.


コンチネンタルホテル

コンチネンタルホテル

このホテルの入り口はちょっとしたお城のゲートのようだ.尤もホテル自体は一般的な建物に過ぎないのであるが....このホテルは後述のアグラビットの貯水池の間近に位置し,入り口だけは周囲の景観に合わせて造られているか,或いは古い建造物をそのまま利用しているのであろう.


中東のCNNと言われるアルジャジーラ

アルジャジーラ

中東のCNNと言われるアルジャジーラ.ブッシュ大統領の演説などをアラビア語同時通訳で放送していた.チンプンカンプンである.テロップが左から右方向に流れるを見てアラビア語が左向きに書かれる珍しい言語であることを改めて認識する.ちなみにアルジャジーラとはどういう意味かガイドのアハレムさんに尋ねたら,「半島」と答えてくれた.それならきっと定冠詞の付いた半島,アラビア半島のことであろう.ところでテレビはアラビア語とフランス語が主のようであるが,ケルアンの上記ホテルではBBCやCNNも見ることができた.


さらにメディナとその周辺の写真

ケルアンのメディナとその周辺
ケルアンのメディナ周辺 ケルアンのメディナ周辺 ケルアンのメディナ周辺 ケルアンのメディナ周辺 ケルアンのメディナ周辺 ケルアンのメディナ周辺 ケルアンのメディナ周辺
ケルアンのメディナ周辺 ケルアンのメディナ周辺 ケルアンのメディナ周辺 ケルアンのメディナ周辺 ケルアンのメディナ周辺 ケルアンのメディナ周辺 ケルアンのメディナ周辺

アグラビットの貯水池Aghlabid Pools

アグラビットの貯水池

アグラビットの貯水池

7世紀後半アラブの北アフリカ侵攻の拠点となるここケルアンに攻め入り,やがてここを首都に定め,9世紀アグラビットの時代になると,元々水の乏しいここケルアンに貯水池を造ることになったようである.直径100m超の大貯水池2基と,ゴミをとる小型の沈殿槽などから構成されているようだ.水はケルアンの西36kmにある丘の上から水道によって運ばれたそうである.

アグラビットの貯水池の現在

貯水池の現在

現在写真の貯水池は1969年に修復された後の姿であるそうで,今も人口10万人,チュニジア第5の都市市民の重要な水源になっているそうである.周りには住宅地が広がっており,水が決して豊かではないこの地で重要な役目を担っているのは容易に理解できる.


ケルアンの周囲

周囲

チュニジア第5の都市と言っても,人口は10万人であるのでメディナ等を除けば広々とした景観が広がる.貯水池の周りにはオフシーズンのためか観光客も少なく,僅かな屋台が客待ちしていた.

シディサハブモスクSidi Sahab Mosque

シディサハブモスクの中庭から望む

シディサハブモスクの中庭から望む

サハブはアラビア語で友人の意味,イスラム教の創始者,預言者ムハンマドの忠実な従者にして専属の床屋のアブ・ザマ・エル・ベラウィ,通称シディ・サハブが眠る霊廟として7世紀に建てられたそうである.

マグレブで最も美しい霊廟の1つと言われるそうで,壁,床には美しいアラベスク模様のタイルが貼られている.イランなど他国で見られるアラベスクと比べてパターンが大柄で,少し南欧風な印象を受ける部分もある.また天井には細かな透かし彫りや浮き彫りが嵌め込まれている.

浮き彫りはグラナダのアルハンブラ宮殿のそれと似た雰囲気を持っていると思う.実際ヨーロッパ,イベリア半島におけるレコンキスタの結果スペイン,アンダルシア地方からここチュニジアに逃れてきた人が多くいたそうで,その人たちが17世紀に再建されたという本シディサハブモスクの建設に関わったという説を聞いた.

シディサハブモスクの回廊

回廊

馬蹄形アーチで囲まれた回廊をジュラバの男女が行く.つまり少なくとも回廊までは女性に対する入場制限は無いようである.まあ我々異教徒でも回廊までは入ることを認めているのであるから当然であろうが...


シディサハブモスクのミナレット

ミナレット

霊廟として建立されたものであってもこのようなミナレットを備え,一般のモスクと同じ機能も併せ持っているようである.また上述の如く内部は鮮やかなタイルや透かし彫り,浮き彫りで彩られているが,外部は対照的に何の変哲もない塀壁のようであり,この対比も興味深い.


下は,シディサハブモスクの写真

シディサハブモスクの写真
シディサハブモスクの写真 シディサハブモスクの写真 シディサハブモスクの写真 シディサハブモスクの写真 シディサハブモスクの写真 シディサハブモスクの写真 シディサハブモスクの写真
シディサハブモスクの写真 シディサハブモスクの写真 シディサハブモスクの写真 シディサハブモスクの写真 シディサハブモスクの写真 シディサハブモスクの写真 シディサハブモスクの写真

グランドモスクGreat Mosque

ケルアンのグランドモスク中庭

グランドモスク中庭

最初は671年ウクバ・イブン・ナーフィーによって建てられたそうである.何度かの修復を経て,現在のものは862年建立され,その後修復が続けられているようである.修復の際には他の建造物から資材を借用したため異なる様式の柱が仲良く並んでいたりする.これはイスタンブールの地下宮殿にメデューサの顔が逆さまにされ,土台として使われているのと同様であろう.支配者の変遷に連れ,古いものが取り壊されっぱなしでなく,ちゃんと再利用されているのでまあよいとしていいだろう.

ケルアンのグランドモスク内ミナレットや貯水槽

ミナレットや貯水槽

中庭に面し,回廊の一角にはミナレットが設けられている.土色のレンガ造りはシディサハブモスクのミナレットや他のモスクのミナレットと共通である.様式も概ね同じようである.中庭は大理石が敷き詰められ,中央に向かって緩やかな勾配がついている.つまり緩やかな漏斗状になっており,中央には穴の開いた水盤が設けられている.雨水がこうして集められ,地下に設置されたろ過貯水槽に蓄えられ,飲料水などに利用されたのだそうだ.


グランドモスク内部

モスク内部

我々異教徒が入ることはできないが,こうして中を覗くことは許される.仔細に見ると柱の文様はどうやら一つではなく,内部も改修が繰り返されたことが窺える.カーペットが敷き詰められた礼拝所は相当広く,きっと金曜日には多くの信者で満たされるのであろう.


下は,グランドモスクと周辺の写真

ケルアンのグランドモスク
ケルアンのグランドモスクの写真 ケルアンのグランドモスクの写真 ケルアンのグランドモスクの写真 ケルアンのグランドモスクの写真 ケルアンのグランドモスクの写真 ケルアンのグランドモスクの写真 ケルアンのグランドモスクの写真
ケルアンのグランドモスクの写真 ケルアンのグランドモスクの写真 ケルアンのグランドモスクの写真 ケルアンのグランドモスクの写真 ケルアンのグランドモスクの写真 ケルアンのグランドモスクの写真 ケルアンのグランドモスクの写真


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