昆明から再び広州に戻り,簡単な市内見物を行った.
ガイド 馬さんとはここ昆明でお別れし,中国南方航空機で広州に向かった.馬さんは,モンゴル帝国が世界制覇したころ,この地に残留した兵士の子孫だそうであるが,自身は漢民族の中で育ったためモンゴル語は話せないそうだ.元々雲南の木材を日本に輸出する会社の仕事を行っていたそうであるが,木材の伐採が制限されるようになり,したがって仕事がなくなり,日本語の観光ガイドに転じたそうである.
旅も終わる頃,中国の一人っ子政策について話してくれた.田舎の少数民族以外は一人っ子政策はきわめて厳格に適用されているそうだ.例えば,違反した場合の罰金は公務員給与の5~10年分に相当し,そのため無戸籍者も多く生じているそうだ.戸籍がないと,例えば大学にはいることはできないなど,生活上も重大な支障を来たすそうである.馬さんのケースでは昆明にちゃんと戸籍があり,広州の大学を自由に選択し,卒業できたということだ.また住所は固定的で,戸籍に登録された地方の住所から都会に移すことは普通できないそうである.出稼ぎで都会に住む人は多いが,その小学生の子供の学費は,そこに戸籍がある子弟の学費の2倍チャージされるという.そういった政策で,厳しく管理されているのが現代中国の実態のようである.
広州に到着すると,そこのガイド,謝さんが待っていてくれた.この方はきわめて流暢な大阪弁なまりの日本語を話す.それと何より,通り一遍の観光案内に留まらず,結構中国社会の実情も話してくれるところがすばらしい.空港から都心までの道すがら,次のようなことをいろいろ話してくれた.
下は,昆明から広州へ至るときの写真
今は中国に主権が戻り,こうして寛ぐ人が集う街だ.それが,1861年のアヘン戦争の以降では,運河で仕切られ,イギリスやフランスの租界地となり,その他欧米列強の領事館が多くあったそうで,今も多くの欧風建物が残っている.たくさんの木々や広場は現在市民の憩いの場を提供し,我々のように観光客も多く訪れるようだ.
なぜかブロンズ像がたくさん据えてある.ちっとも関係ないが,これを書いている今日(2007/2/22),NHKニュースで,マーガレットサッチャー元主首相のブロンズ像除幕式に出席したサッチャー氏ご本人のコメントが面白かった.「現役中は鉄の女と呼ばれたが,こうして見るとブロンズも悪くない,錆びないから」,と.
下は,沙面の写真あれこれ
こうして夜もふけ,いよいよ中国で最後の夕食をこの大きなレストランで行うことになった.それにしても巨大なレストランで,数多くの生き造り魚の水槽を揃えた調理場,大きな食事室から数多くの個室まで,たくさんの客と従業員でごった返している.筆者はビールに関してはあまりこだわりなく,量があればいいくちであるが,中国ではやはりチンタオビールが一番の証であろうか,すこし高い値段で出てくる.サッパリ美味しいが少しアルコール分が少ない....のがもの足りない気もする.
下は,広州市街,夕暮れのころ
こうして広州の夜を満足に過ごし,翌朝広州空港から成田に飛び,旅行はあっと言う間に終わったのだった.