ラパスの街city of La Paz

このラパスの街編では2015/5/29~30,および6/6ラパスの街を訪れたときの見聞,具体的にはラパス空港からラパスの底に下るときの様子,カラコト周辺,キリキリの丘,ムリリョ広場,民族博物館,ハエン通り,サガルナガ通り,サンフランシスコ教会,ロープウェイ,新市街ソポカチ,フォークローレなどの写真を載せました.


ラパスの街付近のGoogleマップ

ボリビアのラパスの街はマーカー4に位置している.

ラパスの街はすり鉢状地形に貼り付くように展開され,市中心部の標高が3,600m強と極めて高いのが特徴だ.国の首都(実質的な)としては一番高いところにあるようだ.

ラパスの底に下るgo down to the bottom of La Paz

エルアルト境界のトールゲート

エルアルト境界のトールゲート

AA922便で到着したラパス空港は,すり鉢状ラパス市街の上の縁,エルアルト(El Alto:近年行政的に独立した市になったそうだ)にあり,先ずはここからすり鉢底のホテルに下ることになった.写真はエルアルト境界のトールゲートだ.

ゲート脇には教会の塔が見える.外務省の資料によれば『国民の大多数(95%以上)はカトリック教徒』とされているので,カトリック教会であろう.それにしても95%以上とは随分高い比率だ.


ラパスのすり鉢に貼り付く住宅

ラパスのすり鉢に貼り付く住宅

すり鉢にビッシリと赤いレンガ住宅が貼り付いている.人口110万人くらいだそうである.なおすり鉢上のエルアルトは40万人で膨張中だそうだ.

すり鉢の上部ほど空気が薄く,寒いので貧しい人が住み,生活し易い底の方には裕福な人の住まいが分布しているそうだ.一般的な都市とは逆なところが面白い.また底部以外殆どの住宅はコンクリート枠に赤レンガ(焼成レンガ)を嵌めた構造で,戸建てのようだ.ガイドPさんによれば,ラパス住民は集合住宅ではなく戸建て住まいだそうだ.子供5~6人いる家庭が多いので戸建てでないと部屋数が確保できないのだそうだ.うらやましい限りだ.

なおラパスには地震がないそうで,かなり簡素な非耐震構造建築でも大丈夫だそうだ.それと後日別のガイドCさんに聞いた話だが,酸素濃度が低いため火事は起こり難く,住宅が密集していても類焼が起こることは先ず無いのだそうだ.これにはへえ~と正直びっくりした.


『大地の神様』の像

『大地の神様』の像

このトーテムポール状の像は『大地の神様』とガイドPさんが教えてくれた.こうした全身一体像はモノリート(Monolito)と称されるようだ.でも前述のように国民の殆どが一神教のカトリックである筈では.....?何でもカトリックではあるが伝統的土着信仰も併せて信仰するそうだ.仏教やヒンドゥー,その両者融合ネパール式ヒンドゥー.....のような.....甚だ興味深い....


ラパスすり鉢底部に下りてきた

ラパスすり鉢底部に下りてきた

マイクロバスはラパスすり鉢底部に下りてきた.何という街であろうか商用ビルやオフィイスが多くなってきた.歩いている人の数も多くなってきた.


ラパスの絡まる電線,通信線

ラパスの絡まる電線,通信線

道路脇電柱に支えられる電線,通信線はゴチャゴチャだ.こりゃカトマンドゥと同じだな~.....と思ったが,いくらかマシかな~と思い直した.

前述のように地震もないし,台風やハリケーンもなさそうなので,まああまり心配ないのであろう.


ラパスの由緒ありそうな建物

ラパスの由緒ありそうな建物

マイクロバスはどんどん下った.そしてちょっと目を引く建物の前も通過する.写真は旗が掲げられ,マリア様のような像も見える美しく由緒有りげな建物だ.さて何でしょう?皆目分からないものの歴史を想起させる建物ではないか....と興味は尽きない.


ラパスの砂岩の上のビル

砂岩の上のビル

マイクロバスはどんどん高度を下げ目的地カサグランデ(Casa Grande)ホテルに近づいてきた.周囲は位置(標高)が上なわけだが,見ると少し怖い.写真のように崖っぷちの上に建物が建っている.しかもその崖はどうやら砂岩らしき脆そうな土質に見える.ただこの地は殆ど雨が降らず,地震も無いということだから大丈夫なのであろう.ほんとに大丈夫なのかな.....との老婆心は沸くのだが.....


背後にも砂岩の山が

背後にも砂岩の山が

さて低高度のホテルは間近になった.低高度なので立派な住宅やオフィスが主流となる.ただ背後には上述の砂岩崖と同じように背後から迫る砂岩山の迫るエリアも目立つ.まあこれも大雨,地震が無いところなので心配無用なのですよね.

ところでこの住宅街下の壁の落書き,スゴイですね~こんな大きな面積を塗りたくったなんて~感心する.でもなかなか腑に落ちないでいるのだが....

カラコト周辺around Calacoto

カラコト地区のカサグランデ(Casa Grande)ホテルに到着

カサグランデ(Casa Grande)ホテルに到着

私たちのマイクロバスはラパス最底3,300mに位置するカラコト地区のカサグランデ(Casa Grande)ホテルに到着した.空港から760mも下ったわけだ.これで今夜は高度障害なく眠れるであろう.


大きな吹き抜け

大きな吹き抜け

カードキーを貰い,エレベータで部屋のある階に昇る.エレベータ操作にはカードを通すのだが,部屋のある階以外に行き先は指定できない.かなり厳密だ.全体の構造は,スイミングプールのある大きな吹き抜けを囲むように客室が配された造りだ.プールは高所トレーニングにいいかも知れないが,人影は見えないな....


カサグランデは広い部屋だった

広い部屋だった

カサグランデは大きな家の意と思うが,部屋もまたとても広く,新しい建築で明るいし,WiFiも備えている(使わなかったが).ただバスタブはなくシャワーのみだった.尤も明日以降はロッジ(山小屋クラス)となるのでシャワーすらない覚悟ではあるが.


カラコト周辺

窓にはカラコトの風景

窓を眺めると,お金持ちが集まっているというカラコト地区の街が見えた.確かに色とりどり立派な家が立ち並んでいる.中にはプールを備えた家も見える.それと比較的大きな樹木も点在している.標高の高いエリアではあまり見ないので,辛うじてこの辺りは森林限界の下なのであろうか.樹木の有り無しは居住区のレベル付けに影響し,実際快適性に大きく関わるのではなかろうか.

また背後は砂岩のように脆弱そうな岩壁で囲われている.なお雨は少ないが明日訪れる予定のアンデス山脈からの地下水脈があり,水供給は心配ないそうだ.


カラコトの散歩

カラコトの散歩

ホテル近くスーパーまで散歩してみた.基本的には住宅街で,通りは静かだ.街路樹も綺麗に並び,陽光に映えている.ただ電線だけはこの辺りもゴチャゴチャの気配が感じられる.台風がないから大丈夫かな.


民族衣装の街行く人

民族衣装の街行く人

時々こうした民族衣装の婦人たちを見かける.衣装に加えて概ね立派な体躯にそれを纏っているのが普通だ.ボリビアは南米の中で先住民インディヘナ(インデアン)の比率(55%+混血32%)が高く,その人たちの一部がこうした伝統的衣装を纏っているようだ.

立派な体躯について,後日別のガイドCさんによると,十二単状衣服とイモ類など炭水化物の摂り過ぎ,ということだ.ただこれが別に問題ではなく,『当然,良い事』とする習慣や文化があるのであろうし,守って欲しいと思う.


カラコトのスーパー

カラコトのスーパー

私たちは近くのスーパーマーケットに入った.数ヶ月前入ったベネゼエラ/カラカスのスーパーでは商品が疎らで驚いたものだが,ここラパスのスーパーは種類も量も十分な商品が並んでいる.私は単にバナナなど少し買っただけだが,普通にカードが使えた.前記カラカスではスキミングの恐れがあるから使わないようアドバイスされていたが,ここでは心配ないと言われていたので安心だった.

キリキリの丘Mirador Killi Killi

キリキリの丘に向け大きな吊り橋を経由

大きな吊り橋を経由

5/29午後市内巡り観光のためカラコトのホテルを出発した.そして少しすると大きな吊り橋に出合い,ここを通過した.大きな吊り橋であるが,市内最大のチョケヤプ川(Choqueyapu River)は大して大きな流れではなく,谷状の地形をまとめて跨ぐためのようだ.橋は比較的最近完成し,近くには広い大統領公邸もあるそうだ.

ところでチョケヤプ川は街の中心部も流れ,一部は蓋がされ暗渠となっている.植民地時代,この両岸にスペインからの居住者区域と先住民区域とに分けられていたそうだ.そしてそこを通ると建物などに現在もその名残りが強く感じられた.


ティワナク遺跡レプリカを通過

ティワナク遺跡レプリカを通過

キリキリへの途中,後日訪問予定ティワナク遺跡のレプリカを配した広場を通過した.広場のレプリカは精巧にできていて,ここでもかなり多くが観察できそうだ.この近くにはティワナク遺跡博物館やサッカースタジアムが設けられ.通りもかなりの賑いを見せている.


キリキリの丘のアーチ

キリキリのアーチ

キリキリ展望台に到着した.キリキリと聞くとピンクレディーの『きりきり舞いよ~きりきり舞いよ~♪』が思い出される.ここのキリキリはここに棲息した小鳥の名か何かに基づくらしい.

中央にアーチ型ゲートが置かれている.きっとどう云うものか説明された筈だが....はっきりしない.ただこの丘はアイマラ先住民族の指導者トゥパクカタリ(Tupac Katari:1750~1781)がスペインの植民地統治政権に抗して1781年,4万人の武装集団を率いてラパスを包囲したが,その本陣をこの丘に張ったということだ.ここからはラパス全体が見渡せたので作戦を立てるに適していたであろう.ただトゥパクカタリ自身は後に捕らえられ四裂きの刑に処されたという.ただ,いやむしろか,先住民の英雄であることに変わりないという.で,アーチ型ゲートはこれに関連したか.....?


キリキリの丘からラパスとイリマニ山(Illimani:6,462m)を望む

ラパスとイリマニ山を望む

キリキリの丘に立つとラパスの底から鉢の上縁,そしてその向こうにレアル山群のイリマニ山(Illimani:6,462m)が望める.

ラパス底部の高層ビル群は中心部セントロエリアのようだ.前述のようにガイドPさんの話では住民はあまり集合住宅には住まわないということだからオフィスや商用ビルであろうか.

イリマニ山はアイマラ語で『黄金のコンドル』ということだが,ここからはちょっとコンドルの姿は思い浮かべ難い.多分違う位置から眺めたときにコンドルのようであり,しかも朝または夕に陽で黄金色に燃えるのであろう.独写真家ハンスエルツという方はイリマニ山を南米大陸で最も美しい山と称えたそうだが,願わくはそうした黄金色のイリマニを見てみたいものだが.


キリキリの丘で反対側の眺め

キリキリの丘で反対側の眺め

こちら側も底部は大きな建物が,すり鉢斜面はレンガ住宅で埋め尽くされている.


ムリリョ広場Plaza Murillo

ムリリョ広場全景

ムリリョ広場全景

ムリリョ広場は鳩がいっぱいだ.ムリリョ(Pedro Domingo Murillo:1757年~1810年)はスペイン移住者資産家の二世で,反スペイン独立運動で戦い,後に『ボリビア独立の先駆者』と讃えられるに至ったそうだ.

この広場は独立前は他のスペインコロニアルの街同様アルマス広場(Plaza de Armas)と呼ばれていたが,独立とともに独立の先駆者ムリリョの名を冠するように改名したそうだ.


ペドロドミンゴムリーリョの像

ペドロドミンゴムリーリョの像

ムリリョ広場中央に据えられたペドロドミンゴムリーリョのブロンズ像.ラパスの街ではいまも毎年7月16日に,彼の1809年の愛国運動を記念した催しが執り行われているということだ.

なおボリビアがスペインから独立を果たしたのはムリリョが没してから四半世紀後の1824年のことだそうだ.独立戦争はかの有名なベネゼエラ生まれのシモンボリバル (Simon Bolivar:1783年~1830年)等が主導し,成し遂げた訳で,それが国名ボリビアや通貨ボリビアーノの元になったということだ.なおシモンボリバルは初代ボリビア大統領にも就いたそうだ.


ボリビア国会議事堂

国会議事堂

ムリリョ広場正面に位置しているのがボリビア国会議事堂.議会は上院,下院の二院制で,任期は各5年という.現在の与党は社会主義運動党で,近年先住民の権利拡大や大統領(現在先住民系エボモラレス氏)の再選を可能とする新憲法を採択したそうである.


ラパス大聖堂(カテドラル)

ラパス大聖堂(カテドラル)

大聖堂(カテドラル)は普通一つの街に一つとされるそうなので,ここがラパス教会の総本山なのであろう.1830年代に建設が始まったそうで,ネオクラシック様式とバロック様式が融合した作りだそうだ.鐘楼,礼拝堂本体ともになかなかドッシリ力強いデザインだ.

内部には元大統領の墓所も設けられているそうで,首都の大聖堂に相応しかろう.


ボリビア大統領府

ボリビア大統領府

ボリビア史上初めての先住民アイマラ族出身の現大統領はエボモラレス(Juan Evo Morales Aima:1959年~)氏.ネズエラの故チャベス政権,キューバカストロ政権と並び強硬な反米主義できたが,キューバが融和に向け始めた今,さて今度どう行くか.多国籍企業に奪われている天然資源の権利をボリビアに取り戻すべきだとしている主張はある意味当然のようには思うが....


大統領府の衛兵

大統領府の衛兵

赤白のユニフォームは如何にも衛兵の装束(19世紀からの伝統を受け継いでいるそうな)であるが,大変リラックスした勤務態度だ.ある意味権力的でなく,親しみ易い政府をアピールしているであろう.


下は,ムリリョ広場での写真

ムリリョ広場での写真
ムリリョ広場での写真 ムリリョ広場での写真 ムリリョ広場での写真 ムリリョ広場での写真 ムリリョ広場での写真 ムリリョ広場での写真 ムリリョ広場での写真

民族博物館Museo Litoral Boliviano

民族博物館入り口

民族博物館入り口

この民族博物館(Museo Litoral Boliviano)は1978年チリに対する太平洋戦争(日本のそれと全然違いますが)を記念して開設されたという小規模な館.太平洋戦争で負けた結果広い領土が奪われ,何よりも太平洋に出るルートがなくなり,大きなダメージを受けたそうだ.現在国連に働きかけ何とか太平洋へのルートが回復できないか運動中らしい.

そして展示は当時の領土を記した歴史的マップ,旗,戦いに関連した人々のポートレート,武器,軍服,....等々に加え,生活用品や祭り用具などいわゆる民族学的品々が並べられている.


お祭りのダンス用マスク

お祭りのダンス用マスク

この博物館は残念ながら入り口付近を除いて撮影禁止だ.写真は近くにあったマスクダンス用のマスクの一つである.これが何とチベット仏教のマスクとイメージが良く似ている.つまり口を開け目を見開いた恐ろしげな様相,周りにドクロを配している,などそっくりと言うしかない.ボリビア先住民の土着信仰に基づくマスクであろうが,遥か離れたチベットとは何ら繋がりがあろう筈はなく,不思議だ.ただ悪霊を振り払うとかの所作に必然的に共通性が具現化したのであろうか.

ハエン通りJaen Street

ハエン通り

ハエン通り

ハエン通りは上記民族博物館辺りの小径だ.石畳や両側の建物,ペイント,ランプ...などがコロニアル風だ.旧宗主国スペインはコルドバの花の小径を偲ばせる.


ハエン通りは続く

ハエン通りは続く

ハエン通りは小径故小さなショップが連なっている.看板に工夫か凝らされたり,気の利いたデザインで目を引く.


サガルナガ通りCalle Sagarnaga

石畳のサガルナガ通りに店舗が並ぶ

石畳のサガルナガ通りに店舗が並ぶ

石畳のサガルナガ通り両側には民芸品やお土産など揃いた店舗が並んでいる.有名な通りで観光客にとっても定番のショッピング街であるようだ.多くの店主は写真のような伝統的装束を纏っているのも観光客の客寄せとして作用するだろう.


リャマの剥製

リャマの剥製

多分観光客は見るだけであるが,リャマの剥製,リャマ胎児やアルマジロのミイラなども売られている.どのように扱うのか判らないが土着信仰の祭事,呪術に用いられるとか.見ていると地元のお客さんがいろいろミイラを実際手にとって品定めしている.やはりカトリックより,昔からの信仰が強力なのかな~?と感じられる一幕だ.


サガルナガ通りの露店

サガルナガ通りの露店

サガルナガ通りには普通の店舗がいっぱい並んでいるのだが,それでもその前の歩道に露店が出店している.露店は僅かばかりの日用品やジュースなどを扱っているのが多いようだ.


サガルナガ通りでアクセサリーの製造販売

アクセサリーの製造販売

ここのお店ではネックレスなど作りながら販売しているようだ.ボリビアは銀の産地なので銀をかなり多く扱っている.生産者が多いので客を多く集めないと商売にならないが,大丈夫かな~?


買い物したら撮影快諾してくれた

買い物したら撮影快諾してくれた

この人の露店で買い物したら撮影快諾してくれた.きっとアイマラ族の方であろうか.後日ガイドCさんに聞いた話だが,アイマラ族の山高帽はピンで固定とかせず,単に載っけているだけだそうだ.Cさんもよく落っこちないで安定して被るものだと感心していた.

それとこうした山高帽の歴史を話してくれた.コロニー時代,イタリアから男性用山高帽を間違いで大量に発注し,輸入した.何とか売りさばかなくてはいけないと,婦人向けにアレンジ加工して並べてみたら大ヒットし,それが今日まで続いているということだ.なお当時アイマラ族婦人が帽子そのものを被る習慣自体は既にあったそうである.

なお帽子の下の黒い髪の毛は長く,概ね三つ編みであるが,これもCさんによると,先ず一生切らないということだ.シャンプーは大変そうだ.

サンフランシスコ教会Catedral de San Francisco

サガルナガ通りを下る

サガルナガ通りを下る

サガルナガ通りを下ると前方にサンフランシスコ教会の鐘楼が見えてきた.それに石畳の坂道にくすんだ壁の建物,赤茶けた屋根....を加え,ヨーロッパの古い街の趣きと似ている.

混み合う道路にはトヨタ,ホンダ,ニッサン....といった日本ブランドが目立つように思う.これまでの反米ポリシーのためか米車は少ない.街道に出るとボルボのトラックが多い.


露店で編み物

露店で編み物

コークに駄菓子を商う露店のおばさんは暇だ.何しろ同業の露店が短い間隔であるし,露店での買い物客は通行人の中では必ずしも多くない.そんな訳で編み物に精を出さざるを得ない.ところで夜の店仕舞いの後はどうするのだろう?例の風呂敷で家に持ち帰るのでしょうか?それにはちょっと量が多過ぎるな.....


サンフランシスコ教会全景

サンフランシスコ教会全景

坂を下りきるとサンフランシスコ教会の広場に出る.そして広場前には教会に対峙して大きな通りがありバスなど行き交っている.

サンフランシスコ教会はあいにくの逆光だが石造りの堂々たる風情で建っている.最初の建設はラパスの街の始まりと同時の1548年ということだ.既に450年も前のことだ.ただその後一旦暴風などで倒壊し,18世紀になり現在の姿,バロックとメスティソのミックス様式再建されたそうである.


サンフランシスコ教会メスティソ様式の例

メスティソ様式の例

教会のデザインはメスティソ様式(mestizo style)がミックスされたバロック様式ということが, そもそもメスティソ様式は何かをガイドPさんが話した.それは要するにスペインとアイマラなど先住民の伝統文化要素が融合した様式ということだ.

例えば左柱上や壁のレリーフはアイマラのデザインで,鐘楼や礼拝堂全体はバロックということだ.左柱下部レリーフはライオンの顔ということだが,ライオンは南米にいなかったし....これはスペインのデザインかな....アルハンブラのライオンなど有名だし.....


サンフランシスコ教会の主礼拝堂

サンフランシスコ教会の主礼拝堂

入り口ドアから主礼拝堂をそっと覗かせてもらった.礼拝中の人が点在し,(迷惑な)観光客が歩いている.重厚な構造にふんだんに金があしらわれた祭壇や柱,いかにもカトリックの教会らしい雰囲気を醸している.


ロープウェイRope Way(Mi Teleferico)

ロープウェイQhana Pata駅から乗る

Qhana Pata駅から乗る

5/30夕刻コンドリリ峰ハイクの後,エルアルトまで戻ってからミテレフェリコ(Mi Teleferico:私のロープウエー)と称するロープウェイでホテルのあるカラコト地区まで下ることになった.ミテレフェリコの路線は現在レッド,イエロー,グリーンの3路線で,イエローラインとグリーンラインは途中で繋がっており,乗り換え可能だ.運行距離は3路線合わせて10kmで,つい昨年度開業したそうだ.

私たち乗り込んだエルアルトの始発駅はQhana Pataのようで,乗車ホームには客が列を作るくらい繁盛している様子だ.


ロープウェイ高スピードで下る

高スピードで下る

駅ではロープから切り離され極めて低速でホームを進み,客が乗ると巡回するロープに連結し,高速で下降し始めた.この手の乗り物としては速いと思うが快適だ.それと何よりも遊園地でもなく,またスキー場や山岳リゾートでもない大都会に堂々とロープウェイがあるのが面白く楽しい.

このシステムは混み合う道路の渋滞を緩和するため建設されたそうで,オーストリアの会社が請け負ったそうだ.またさらに別の路線と現路線の延長も計画され,推進されているそうだ.


ロープウェイ途中2箇所の駅あり

途中2箇所の駅あり

イエローラインには途中2箇所に駅があった.始発駅や終点に較べて乗降客は少ないが,市民の足としては途中駅は大事であろう.


ロープウェイはセントロエリアに近づく

セントロエリアに近づく

高層建築が眼に入るようになった.セントロエリアに近づいたようだ.夕方のこの時間セントロからエルアルトに向かうのは仕事から帰宅する人が主であろうが,私たちと同じ反対方向に下る人々ははて?そうした人は上述のようにかなり多い.


イエローからグリーンへの乗り継ぎ駅

イエローからグリーンへの乗り継ぎ駅

それぞれ色分けされたゴンドラが運行されるイエローからグリーンへの乗り継ぎ駅に来た.ここでは添乗Hさんに貰った別の切符で改札を通り,グリーンラインに乗り換える.今ぐぐってみると各ラインは3ボリバル(50セント弱くらい)のようである.日本の高いバス代に比べればかなり安いと思う.


ロープウェイ地元のご夫妻と乗り合わせ

地元のご夫妻と乗り合わせ

ゴンドラは6~8人程度乗りであろうが,地元のご夫妻と乗り合わせた.殆ど解らないスペイン語で,ようやくハポネスです,ラパスはいい街ですねと何とかごまかしながら口にしてみた.


ロープウェイはカラコトに近づく

カラコトに近づく

ホテルのあるカラコト地区が近くになってきた.大きな家と豊かな緑が低く貼り付いている.


ロープウェイカラコト駅で降りると既に陽は落ちていた

カラコト駅で降りると既に陽は落ちていた

グリーンライン終点カラコト駅に到着した.底にあるため駅の外は既に陽が落ちていた.カンカン照りの日中と夜の寒暖差は大きく,どんどん寒くなっていくであろう.

新市街ソポカチSopocachi

ラパス都心に戻る

ラパス都心に戻る

6月6日(土)午後私たちのバスはラパスに戻り,都心のホテルユーロパに向かった.この辺りは新市街と呼ばれ,コロニアル風味は少なく,ありふれた普通の高層建築が多い.

都心は一方通行が多いようで,同じ所を通過するのだが,私の鈍い方向感覚では3回曲がるともうトレースできなくなる.


新市街ソポカチのホテルユーロパに到着

ホテルユーロパに到着

バスは新市街ソポカチのホテルユーロパに到着した.ロビーは広々し,水の流れる小さな庭なども目に優しい.

部屋に入ると,十分な広さで,またバスタブを備えていた.久しぶりで,早速一風呂浴びた.


ホテルユーロパの窓風景

ホテルユーロパの窓風景

ホテルユーロパの窓を覗くと新市街と言われるだけあってありふれたデザインの高層建築が多い.

この辺りは大学が多いそうで,土曜日のこの日,ホテル向かい大学のホール前には夜のコンサート開演を待つ学生がどんどん集ってきた.気が早いですね~ また集まった人達相手の出店も増えてきた.ガイドCさんによるとアンティクーチョと呼ばれる牛のハツ(内臓の)料理,(ヤキトリのようなものか?)が絶品だそうだ.身体には悪いかな~?との一言も添えて.


新市街ソポカチのマリアアウキシアドラ教会

マリアアウキシアドラ教会

ホテルユーロパの横の階段を上がると,ラパスでも大きな繁華街に出る.大まかにはソポカチ地区と呼ばれるエリアの一部となろう.

そしてこの階段の脇に写真の教会が建っている.マリアアウキシアドラ(Maria Auxiliadora)教会だそうだ.メアリーヘルプの大聖堂と称され,何でも聖母マリアの擁護者としてキリスト教の信仰に関わるらしいが,生半可解釈では.....

外側のデザインは直線だけで構成され,アールデコ風だという.1946年という近年の建築であるが,2000年には大聖堂のランクに昇格しているそうだ.


新市街ソポカチの目抜き通り

ソポカチの目抜き通り

両側の車道に挟まれた広い分離帯は公園となっており,緑地にベンチが配されている.夕方で陽が陰ってきたが,ここで憩う市民の姿が多い.

道の両側にはショップやレストラン,銀行など並ぶが,土曜日のため銀行など閉店中のお店が目立つ.そして閉店で閉めたシャッターには例外なく落書きが塗られている.まあ世界共通ということか.


新市街ソポカチの学生広場

学生広場

上記目抜き通りの終わりには『学生広場(Plaza del Estudiante)』と呼ばれるラウンドアバウトのようなものがある.広場と言うには狭いが,謂れがあるのであろう.

それはさて置き,学生広場中央にはボリビアの英雄スクレ将軍(Antonio Jose de Sucre:1795年~1830年)の騎馬像がある.氏はシモンボリバルの片腕としてボリビア独立に貢献し,事実上の初代ボリビア大統領(シモンボリバルが名目的な立場)に就任したそうだ.またスクレの名は独立宣言が読み上げられた街,憲法上の首都(今は最高裁があるだけという)に冠されたそうだ.


下は,都心と新市街ソポカチでの写真

都心と新市街ソポカチでの写真
都心と新市街ソポカチでの写真 都心と新市街ソポカチでの写真 都心と新市街ソポカチでの写真 都心と新市街ソポカチでの写真 都心と新市街ソポカチでの写真 都心と新市街ソポカチでの写真 都心と新市街ソポカチでの写真
都心と新市街ソポカチでの写真 都心と新市街ソポカチでの写真 都心と新市街ソポカチでの写真 都心と新市街ソポカチでの写真 都心と新市街ソポカチでの写真 都心と新市街ソポカチでの写真 都心と新市街ソポカチでの写真

フォークローレfolclore

夜のラパスに繰り出す

夜のラパスに繰り出す

私たちはボリビア最後の夜をフォークローレディナーショーを楽しむため夜のラパスに繰り出した.ラパスの人たちは週末の夜に集い結構どんちゃん騒ぎするのが好きだそうだ.

ホテルから然程遠くない繁華街のレストランに行った.繁華街であるがちょっと暗めである.そしてすり鉢斜面には無数の明かりが灯っている.色温度の低いタングステンランプの輝きが温かく映る.


PAN DE OROレストランに入る

PAN DE OROレストランに入る

このPAN DE OROレストランに入った.PAN DE OROとは金箔か何からしいが......ナショナルそしてインターナショナルフード,と記されている.まあ何でもできますということか.楽しみだ.


リャマの料理も

リャマの料理も

料理はバフェスタイルで自分でよそった.具沢山のスープはボリビア風,そして純ボリビア料理リャマ肉のソテーなど装い,ビールにした.リャマ肉を味わうのは生涯でこれが最後になるかな....などとふと思ったりもした.

そう言えばパンが無かったように思う.ボリビアではパンが出てもとても小さい,極端に小さい(他国比)と思った.不思議だ.


フォークローレ始まる

フォークローレ始まる

食事を始めると間もなくミュージシャンが現れ,そしてダンサーも加わって音楽,ダンスが披露された.どちらもアイマラ族の皆さんのようであるが,ラパス周辺を中心に,アマゾンエリアの音楽,パラグアイ近くの踊り,といった具合に各地の民謡を披露してくれた.


フォークローレのマスクダンス

マスクダンス

特にマスクダンスは地方によって大きな違いがあり,興味深い.写真のようにマスクらしく誇張された人相はそれだけで大した迫力だ.多くは宗教的儀式を結びつけた舞のようであるが,あまり良く理解できていないのは我ながらちょっと寂しく,演者にはいささか失礼かもしれない.すみません.

まあこんな風にしてボリビアの旅は終わりに近づいた.そして楽しかった.



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