【新市街】
ここはフェズの新市街,通学の子供たちが学校に向かう.通勤の人々はそれそれ職場に向かう.どこの国でも見られる光景と変わりないであろう.
アラビア語の表示がいかにもモロッコを感じさせる.ここはフェズシェラトンの前の通り.赤い矢印の元の側はオフィスやアパートが多く,黒い矢印の先は同様にオフィスやホテルが見える.また絵文字入りの案内板なんかもあって,なかなか気が利いていよう.
通勤時間帯でも道路も空いているし,バスも混んではいないように見えた.バスもタンデムで輸送効率も高いのであろう.
この通りはフランス統治時代に作られたそうで,中央に緑地帯が設けられ実に広々としている.迷路状の旧市街の道とは対照的である.
フェズの町のはずれに陶器工場がいくつもあるようだ.ろくろ工程,1回目の900℃素焼き焼成,絵付け工程を経て,2回目の1300℃仕上げ焼成で完成するそうである.真っ黒な煙を巻き上げており,そのために市街地から郊外に引っ越したそうである.それでもなお本来なら真っ青な空を大きく汚しているのはちと,いや相当に残念である.
12月13日フェズシェラトンホテルに着き,部屋に入りテレビを点けると,CNNがサダムフセイン元大統領が捕えられた臨時ニュースを報じていた.この日は足を痛めてそのままベッドでず~っと眺めていたら,このニュースとその直後に起こったというバグダッドでの自爆テロ事件のみを報道していた.ブッシュ大統領,ブレア首相,他の欧州首脳のコメントがあったが,小泉首相の談話はこの時点ではまだ報道されてはいなかった.
下は,フェズ新市街の写真あれこれ
【主に旧市街】
左側は旧市街,右側の一部は新市街.ここに登ると,フェズの街は周りが山で囲まれた盆地に位置している様がわかる.
上の一部を見ると,土色の城壁で囲われ,建物が密集した区域,旧市街地/メディナの様子がよく見える.メディナは緑が殆ど見られず,茶色,茶色.....の連続である.さらに道を見つけ出すことも不可能,若干の予備知識から,狭い迷路だけなのだろうな~,と想像を掻き立てる.
こちらの砦もやはり丘に建ち,メディナが一望できるロケーションにある.こうして外敵の侵入を早期に発見し,防御したのであろう.
う~んやはり密集している.城壁が丘の尾根に沿って建っているのはよく見られる城壁の手法だと思う.
全体が茶色い中でやはりグリーンのモスクの屋根が映える.このシーン全体は実にシックで,安堵感をもたらす配色だ.すばらしい!
下は,南の砦,北の砦およびそこから眺めたフェズの街
旧市街メディナはフェズエルバリと呼ばれ,その中でこの辺の区域はアンダルシア地区と区分されているようである.やはりレコンキスタのころ,スペインから逃れてきたムーア人が多かったのであろうか.坂道があったり, ロバが通ったりする路地に,所々天井が開放された空間に出会う.
この後方には,生きた鶏の足を縛って量りにかけている鶏屋さんとか, 卵屋さんとか, バナナ屋さんとか,......とか,要するに市場(スーク)でよく見られる商売は皆そろっているようだ.
メディナの中でこの辺はカラウィーン区域になるそうである.不慣れな私にはアンダルシア地区との違いがよく判らない.この婦人は日向ぼっこだろうか?この前を,顔をベールで覆ったモロッコスタイルの婦人や, 伝統的モロッコファッション,ジュラバを着た男が通り,荷車,ラバやロバが行き交う.なんと言ってもこれが狭い道を通るときは大変,何しろロバは両脇に荷物を背負わされ,それが狭い通路を通るので,荷物やロバの身体と簡単にぶつかってしまうのである.尤もロバさんの方も大変であろうが.ロバ引きは東洋人が通りに居ると”ロババラク!!”と叫びながら通り過ぎて行く.バラクはアラビア語で「危い」とかの意らしいが,たとえそれを知らなくとも,ロバという前半の日本語と全体の口調で”危ないよ!”と言わんとしていることはよく判る.
モロッコ最古のイスラム王朝創始者のムーレイイドリス1世は,8世紀末にバグダッドでの反乱に失敗し,モロッコに亡命.ここで先住民ベルベル人の信頼を得てイスラム王朝を興したのが始まり.イドリス2世(若しくはムーレイイドリス)は,その第2代目の支配者でフェズを建設した人,と云うことである.しかしてフェズの守護聖者として崇拝され,聖者をたたえる祭が年1回盛大に繰り広げられるそうである.メディナ(カラウィーン地区だったかな?)にあるこのお堂は18世紀に再建され,後も改修が加えられているそうである.
ここもカラウィーン地区で,繊維(多分カーペット用)の染色をやっていた.壁に色見本を貼っていたことに興味を覚えた.日本だとこれに限界見本も加わるかも知れないが,まあ似たような手法で色合わせをしていくのであろう.
落ち着いた色彩のジュラバがこの空間にマッチする.存在感を感じさせますね~
下は,メディナの写真あれこれ
下は,イスラム圏ツアー定番=カーペット店の様子など,さらにメディナの写真.
1323~25年アブサド王朝時代に建てられたそうで,ここも緑の屋根が美しい.噴水や馬蹄形アーチも典型的なイスラム様式であろう.やっぱりこの屋根の濃い緑と白い壁は強烈な太陽光の下でこそ輝くと思った.
細かいアラベスク模様の壁,装飾アラビア文字などはアルハンブラとよく似ていると思う.ただ上部の庇部分や窓サッシが木材,確かアトラス杉かレバノン杉,を用いるのはここ独自の形式か?
金属板で補強された木製ドアなんかもなかなか力強く迫るものがある.
重厚さとエレガンス,両方感じ入りながら,ガイドのシャキフさんの説明を皆で聴き入る.
シャキフさんが,「イタリア商人と,等量(重量)の砂糖と交換した大理石」と説明があった.確かにこの辺は赤い岩だけが目立ち,白い大理石はあまり産出するようには見えない.それにしても運ぶのは相当大変だったであろうね~.
下は,アッタリン神学校の写真
これがタンネリー,染色場.染料容器は連続して配置され,レンガを粘土でシールしたように見える(実際の構造は不明)が漏れないのだろうか?この絵では上部の容器群は明るい色,下部の容器群はいわゆる皮色っていうか,茶系統の染料のようだ.家々の小さ目の窓が暑い地域の家の特徴をよく表していると思う.また屋根の黄色は多分着色剤の原料ではなかろうか.
これを見ると皮だけでなく,毛糸の染色も行っているのが分かる.染料容器に脚を入れたり,染料に浸された材料を漱いだり.....いずれにしてもかなりの重労働だ.
衛星放送が頼りなのであろう,このタンネリーを望むメディナの皮製品店のバルコニーから見るとパラボラアンテナが,それと多素子バーアンテナも密集している.世界遺産に指定されるとオリジナルの景観を維持する義務が生じるため大変らしいが,まあそれも生活に支障を来たすようではかなわないであろうから仕方ないであろう.
このタンネリー辺りもやはり迷路のようになっていることに変わりない.そんな小路に,この方もまた日向ぼっこであろうか....男性用ジュラバのフードに最もよく見られるフード,先の尖ったフードと異なり,頬を包み込むようなタイプだ.
下は,革染め職人地区の写真いろいろ
メディナの中ほどにあるこのカラウィーンモスクは,現在のチュニジア,カイラワーン地方出身の富豪亡命者の娘ファティマによって857年に建造されたそうである.現存するのかどうか?見なかったのではっきり判らないが955~956年にミナレットができて全体が完成したという.当初は普通のモスクとして使用されていたが,後にコーランの大学として使われ,世界最古の大学の1つであるそうだ.現在の形になったのはアルモハッド朝(1147-1269)時代で,2万人を収容でき,北アフリカでは最大の規模であったそうだ.現在もそんなに巨大な収容能力があるのかぜひ見てみたいものだが,非イスラム教徒の入場は禁止されており,叶えられないのが残念だ.
アーチを貫く横棒もまた典型的イスラム様式の1つであろうが,これに関しては何もコルドバ様式に限定されずイスラム建築共通様式だと思う.これは美的観点ではなく純構造力学的要素ではなかろうか.モスク内部をよく見ると何人かの方が座っておられるようである.もうすぐお祈りの時間だったかな?
この由緒あるモスクの周辺もまた狭い通りしかないことに変わりはない.ただ近くにモスクの存在を示すマークとモスクに立ち寄れない人のために路端簡易礼拝所が設けてあった.
モロッコ国王は数多くの王宮をお持ちだ.ここフェズの王宮も広い王宮前広場を備え,陽に輝いていた.
フェズの王宮に隣接してユダヤ人街(メラー)があった.元々イベリア半島などから逃れたユダヤ人はこの地で塩の取引等で一定の地位を得ていたそうだ.現在はここに多くは残っていないがここ出身のユダヤ人はモロッコとイスラエル両方の国籍を得ている人が多いそうである.この街の統一的な住宅のバルコニーがユダヤ人住宅の特徴と聞いた.
下は,王宮とユダヤ人街の写真あれこれ
旧市街フェズエルバリ入り口の1つ.表側(城壁の外側)タイルがこのように青紫で,撮り忘れたが反対側はグリーン系タイルだったようだ.入り口すぐ近く,見晴らしのよい3階建て喫茶店が繁盛し,少し先にミナレットが見える.
左から2枚目の看板は”Samourais+刀マーク”で「侍の刀」か?絵のしぐさは香港映画風である.いろいろな国の映画が入っているようである.
メディナ/フェズエルバリには商店や町工場だけでなく住宅もある.例の狭い道に面して住宅のドアは1つだけある.ただしドア1つだけでも中がお店のこともあるので,ドアだけでうかつには判断できないであろう.私たちはブージュルード門近くでハミットさんの居宅を訪問し,見学させてもらった.
3階建て(かな?)で,中央は写真のように高い吹き抜けの間になっており,前後に客間2部屋があり,そこでミントティーの入れ方を教わった.お茶は紅茶ではなく緑茶,それにミントの葉を入れ,湯を注ぎ,砂糖を加え出来上がり.標準レシピに依れば,尋常な範囲を大きく逸脱する量の砂糖を加えるので,甘すぎて飲めない.しかして,「砂糖を少なく!」といつもお願いするはめとなる.それとて甘すぎるのであるが....右側は2階寝室と居間への階段部屋,左側には奥さんの案内で見せてもらったキッチンがあった.キッチンは若干狭いため大きな冷蔵庫が入りきらず,先述の広い吹き抜けの間に置いてあった.客間には多分コーランの1節か何かであろうかアラビア語の額縁,ハミットさんの結婚写真,子供の写真とかが掲げてあった.構造とか広さとか,フェズでは一般的な家庭の住宅,と云うことであった.
ハミットさん宅でお茶を戴いたあと,そこで用いられていた急須やお盆を製造販売するご近所のお店に案内された.さ~すが!お盆は黄銅(真ちゅう),急須は錫/銀合金が多い.後者は銀含有量40%~80%に応じて値段が高くなるのは当然.
下は,ブージュルード門の写真あれこれ