このベニハマッド遺跡編では,2018年11月8日アルジェで朝を迎え,朝食後バスに乗り,高速道を南東に,アシェル(リアシェル)を通り,ムシーラに来てランチ,食後ベニハマッド遺跡に至り見物,次いでベニハマッド村のカフェでコーヒー頂いたときの写真を載せました.
この日前半はアルジェ3からベニハマッド遺跡6に行く.
この日を含めて暫くアトラス山脈が高原の標高の高いところを進む.
11月8日ハニホテルで朝を迎え,レストランに行く.この日は長い行程となるので早い時間に食べ,早い時間に出発だ.窓の外はまだ真っ暗だ.
バスに荷物を積み,7時にアルジェハニホテルを出発した.徐々に陽が射し,既に朝のお祈りは終えたであろうモスクのドームとミナレットが,微かな赤みを背景にシルエットで浮かび上がってきた.
バスは高速道に入り,すっかり明るくなった.位置的にはテルアトラス(Tell Atlas range/北アトラス山脈)に入っていった.
この高速道路は中国政府や日本の協力の下,アルジェリア政府の肝入で進められ概ね全区間開通しているようだ.日本からは鹿島などのJVが請負い,この日走行する中では,午後セティフに向かう区間など担当したそうだ.この区間は平面性に関する耐久性がなかなか優れているとのことだ.ただし鹿島JVはチュニジアまでの400kmの契約で進めていたが,テロや追加工事,アルジェリア政府の支払い滞り,結局鹿島は多大な損失を被り,途中で契約解除になったそうだ.なおトールゲートは一度も通過しなかったので,全て通行無料のようである.
まあこうした工事代金未払いなど一例であろうが,アルジェリアの対外債務は大きく,多大な返済努力をしており,最大時と比べれば半分程度にはなったそうだ.
そのうち小さな街を通過した.礼拝堂のドームに比べて著しく立派な2本ミナレットのモスク(のように感じられる)があった.アザーンを流す以外に他の機能も備えているのでしょうか.
やがて通りはテルアトラスの緩やかな丘陵地帯に入った.野菜か麦か,或いはその双方か,が生えてきて,またオレンジなどの木で囲まれた村がとても美しい.
アルジェリアはアフリカ最大の国土があり,日本の約6倍,その90%余りはサハラ砂漠だが,上記マップのように地中海側はテルアトラス山脈,アトラス高原,サハラアトラス山脈があり,沿岸部は温暖な地中海性気候,アトラス高原はステップ気候となり農業に適しているそうだ.そしてジャガイモ,小麦,大麦,オート麦(アフリカ最大輸出高),玉ねぎ,イチジク,デーツ(世界シェア7位),スイカ,オレンジ,オリーブ,ぶどう(とワイン→仏へ輸出),タバコ,綿....といった農産物を産するという.
山の上に住宅街が広がっている.坂が多いのは難点だが陽当たりや眺めは良さそうだ.
まだアルジェ郊外の範囲であろうか,3両編成の列車がアルジェ方面に進んで行く.通勤列車かも知れない.でもそれにしては編成が短く,本数も少ないかな?
添乗Nさんの説明によるとアルジェリア第2の高峰ジェルシラ山2,325mということだ.テルアトラス支脈の一部である.なお最高峰は2,328mで殆ど違いはないそうだ.
も少しして雪を抱けばもっと美しく聳えるであろう.
なおも進みガソリンスタンドに立ち寄った.アルジェリアは石油(世界14位)と天然ガス(世界5位)を埋蔵/産出し,それら化石燃料がGDPの1/4,総輸出額の98%,つまり殆どを占めているそうだ.そのため国内のガソリン価格も低く,1リットル30円程度らしい.ただ採取し過ぎたためか産出量が徐々に減少しているそうだ.なおアルジェリア最大(推定可採埋蔵量90~100億バーレル)のハシメサウド油田(Hassi Messaoud oil field)はアルジェリア中北部サハラ砂漠内に位置し,パイプラインでアルジェ等に送られるそうだ.
なおアルジェリアは亜鉛,リン鉱石,鉄などの鉱物資源も豊かで,輸出されているそうだ.
GS併設カフェでコーヒー(エスプレッソ)を頂き,お手洗いを使わせてもらう.カフェではミントティーがどちらかと言うと多いようだが,私はエスプレッソが好みで,殆どの場所でこちらを選択した.予めちょっと多めに砂糖が入っている場合もあるが.
バスは進みアシェル(El Achir)の街に入ってきた(ほんとにアシェルと読むのか?不確かだが)
集合住宅にはパラボラアンテナがたくさん付けられている.広い国土なので地上波で全土カバーするのが大変なので,衛星を主にしているのであろう.(なおトルクメニスタンのようにもっと別の意図でパラボラアンテナが盛大に使用されている国もあるが)
アシェルは羊肉の街だそうで,軒先に羊丸ごとの枝肉を吊り下げた肉屋さんが並んでいる.
マトンはここアシェルでは900~1000DA/1kg(≒円)だが,首都アルジェでは1400DA/1kg(≒円)で,まあざっと1.5倍程度するという.
こちらは小さな精肉店だがやはり羊肉専門店だ.もちろん住民のためにビーフやターキーなど扱うお店もあろうが,表通りに目立つのは羊肉専門店だ.
仕事や休暇でここを通過するとき,大量に仕入れていき,帰宅すると冷凍庫に保存するのが良かろうかと思う.
バスからアシェルの通りから眺めていると,フレンドリーな皆さんが盛大に手を振って声を掛けてくれた.ありがとうございます.
アシェルを超えるとアトラス高原になるのであろうか,広い畑が展開され,穀倉地帯の趣だ.そして畑の真ん中に大きな多連サイロが見えている.上述の小麦,大麦,オート麦何れかの貯蔵用でしょうか.
道端で野菜の露店があった.まあどこの国,村でも見られる光景だが,果物は置かず根菜類を主に扱っているようだ.
カーブの多い道を進むときれいな湖が見えた.結構広く,山に囲まれているせいか湖水はきれいだ.その囲む山から水が注がれるのであろう.
道路に面し,アーチの連続する回廊で,その中央に礼拝堂入り口が見えている.主ドームもミナレットも一般的な比率で,この村のモスクであろう.
単線であるが鉄道線路を越えた.残念ながら走行列車は見えない.Googleマップを開いてもあまり交通に関係ないのか載っていない.
ムシーラ(M'Sila)の街に到着した.かなり建物が並んでいるので結構大きそうな街だ.調べてみると,ムシーラ県県都で,人口は約13.3万人,ムシーラ大学などあるそうだ.
アルジェリア政府が遊牧民を定住させるプログラムで,地元産品を用いて作られた最初の村で,住宅,商取引場,モスクで構成されたそうだ.現在は多くの企業,事業所,宗教施設,学校などとても多くなったということだ.
遊牧民の定住化はアラブの他国,中央アジアの国などでもよく聞く国家政策ですね.
路端でケバブを焼いている.煙もうもうだ.私たちはこのお店2階のレストランでこの焼きたてのケバブを頂くのだ.
2階のダイニングルームに入った.いや~煙いよ~.路端で焼いている煙が窓から入ってくるのだ.
そして最初に豆のスープ,次いで食べてしまったが3本のケバブにピラフかな~それにしても食べる前に写せばいいものを....
ケバブは確かマトンやビーフの小さ目の肉片(日本のヤキトリの片より小さい)で,食いしん坊の私は驚いてしまった.
2階のダイニングルームから覗くとムシーラ(M'Sila)の街がよく見える.白い路線バスが列を成している.多分この辺りは街の中心なのであろう.
写真左が私たちのバス,右が先導パトカー.上下合わせて4車線の道路の向こう側がケバブレストラン.私たちの先導パトカーのお巡りさんが,車の通行を遮断して,私たちを横断させてくれた.こんなことまでさせて申し訳ありません.
ムシーラの街を出ると,管轄警察が変わり,交代のパトカーが来るのを待つ.これまでのパトカーとバスを路肩に停めて暫く待つ.もちろん事前に電話連絡で時間を取り決めてあるのだが,なかなかその通りにはいかないようだ.
この辺りは上述のアトラス高原に位置し,標高は1,000m程度である.
先導警察が交代し,進行再開.そして少ししてベニハマッド遺跡(Beni Hammad)に到着した.カシオで見ると920mを指していた.看板にはベニハマッド要塞と記されている.
ベニハマッド(ハマッド朝)は,11世紀北アフリカの強大なイスマーイール派ファティマ朝(909年~1171年)に唯一楯突き,ここにアラブ世界の隊商交易中心とする首都として打ち立てたスンニ派王朝だそうだ.
本城塞は,アルジェの建市者の息子ハンマードイブンブルッギン (Hammad ibn Buluggin) が建造計画を立て1007年に建造したそうだ.そしてそのハンマードが正にハンマード朝の始祖であり,この城塞都市が首都となったというわけだ.以降ここはハンマード朝の繁栄を象徴する北アフリカで最も栄えた都市のひとつになったそうである.
しかし1090年,前記目の敵ファティマ朝派遣のアラブ系遊牧民(ベドウィン)バヌーヒラル族(Banu Hilal)などの襲撃,侵入に遭い,僅か80年ほどで廃れ,やがて放棄されるに至ったそうだ.
なおバヌーヒラル族はファーティマ朝からシーア派(イスマーイール派の元の派)を捨てた連中を懲罰すべく送り込まれ,やがて住み着き,当時主産業の農業から遊牧に変換される要因にもなったようだ.これはアダムとイヴの子,農耕に携わった長男カインは神より冷遇され,羊飼いの次男アベルが優遇されたあのストーリーがベースにあるのかな~
ただ上述のように,それからミレニアム経た近年,アルジェリア政府が遊牧から定住への変換政策を推し進めていることは甚だ興味深いことだ.
写真手前は13の本堂を備えていたという巨大礼拝堂跡で,柱が残されている.また背後は高さ20mのミナレットだ.
ミナレットはレンガの積み分けで装飾が施されているが,これは当時としては初めての試みで,後の例えばモロッコのハッサン塔,クトゥピアの塔,スペインのヒラルダ塔などのモデルになったということだ.
それと背景の山であるが,褶曲した地形が,それ以前(褶曲前)の等高線的模様を描いているような様子が何とも面白い.
モスクの横に石積みの部屋があった.食料保管庫だったようだ.こぼれ落ちていたものから判ったのでしょう.
石とレンガを漆喰で固めたミナレットの屋上までへの階段入口だ.装飾的レンガ積みや,表面にレリーフの施されたレンガが見える.
階段内部は一部暗いところがあり,屋上には柵がないので注意要だ.
ミナレット屋上からモスク跡を見下ろすとマトリクス状に配置された柱跡,それに奥側壁に設けた∩形ミフラーブが良く見える.つまりこの方向にメッカが在るのであろう.
ミフラーブ右側の四角い窪みはミンバル(Minbar/説教壇)であろうか.
標識には湖の宮殿(Palace of lake)と記されている.
草の生えた大きな四角は壁に囲まれ凹んでいる.とても大きい,多分50mプールより大きい.スイミングプールだったのか,用水池兼用だったのかよくわからない.この大きさからすると用水池だったような....
先に見える石積み壁は城壁の一部で,全長7kmに渡る長大な城壁で囲まれていたようだ.
プールサイドには石柱や石の舗装跡が残されている.一部グリーンやブルーで彩色されたタイルの欠片などもあった.1,000年前ではなかなかの技術だったのではなかろうか.
殆ど崩れ落ちているが,こうして一部残っている.ローマ遺跡などと比べると,概してあまり大きな石はなく,少サイズの石が多用されていると思う.
丘の城塞から,谷を挟んだ現在の村を眺めると,比較的広い耕作地がゆるい傾斜地に展開されている.
1,000年前もこの辺りは城塞の食料補給基地として活用されていたのであろう.
城塞からベニハマッド村方向に歩くとロバがいた.そう言えばお隣のモロッコ辺りではロバをよく見かけたが,ここアルジェリアではあまり見かけない.車に換わったからであろうか.
遺跡の後,現代のベニハマッド村に立ち寄った.ドライバーさん,ガイドさん,警護の警察官は休憩,私たちは喉の癒やしでコーヒーを頂く.あ~美味しい.
警護のお巡りさんとちょっと話してみた.話した相手は31歳,男の子が一人いて,サージャント(sergeant)だそうだ.軍隊で言えば軍曹,警察では巡査部長辺りに相当するらしい.彼は後者であろう.
そして彼らは私たちのリストを持っていて,名前に生年月日などのデータが記されている.そして私はこれで....などと喋り,うん,なるほど.....などと交わす.親切な人達だった.なお車体に記されたURL ppgn.mdn.dzはもちろんアクセスできるが,アラビア語以外の表記は一切なくお手上げだ.でもパトカーに署のURLが記してあるなんて,なんて親切なのか......わからないが......
お巡りさんと話した後小さな街を歩いてみた.平日だが若者たちが屯しているお店,オープンカフェかな,があった.私を見かけると写せ写せとカッコつけてくれた.昔ならともかく現代はどんな国,山でもスマホがあるので,写真そのものに関心があるのではなく,『見せる』ことに興味があるのだ.日本とか他国でインスタでどう見せるかというのと同じでしょう.
そしてスマホの1画面を私に見せて,お前もやってみないか?と誘ってくれた.私にはゲームは到底わからないし.....でもなかなか暖かな人々です.
さてこの後はセティフの街に向かい,そこで宿泊することになる.